それから何度も、コンサートへ足を運んだ。最初は大きなツアーの一公演にだけ行ければ満足だったのに、ツアーで行ける範囲の都市で行われる公演にはすべて行くようになり、リリースイベントやフェスなどにも通い詰めた。
ある日、ライブハウスで行われた他のグループとのいわゆる対バンに足を運んだとき、隣のファンたちが握手会について話しているのを耳にし、雷に打たれたような衝撃を受けた。黄色を担当するメンバーを応援しているらしいそのファンは、その子にライブの感想を伝えたら、その日別の色のペンライトも振っていたことを指摘され怒られてしまったと、まるで惚気話のように語っていたのだ。
家に帰ってから、僕はとり憑かれたように握手会について検索した。そういうイベントがあることは知っていたけれど、あのひとの手を握るなどと考えるだけで全身の空気が抜けるような畏怖に襲われてしまうものだから、自分には縁のないものだと言い聞かせていたのだ。しかし今日あのファンの話を聞き、本当は自分がどれだけ行ってみたかったか気付いてしまったのだ。
次の握手会は翌週末で、驚くべきことにまだ参加券が販売されていた。なにかの間違いだろうと思いながら彼女の券をカートに入れ決済に進むと、あっさりと購入できてしまったものだから、僕はそのまま床へ崩れ落ちた。
手と足の先が冷たくて、まるで死体になってしまったみたいだった。あのひとに会える。それも至近距離で、彼女の手にふれることさえできる。それがほんの十秒ほどだとしても、あれだけの人間に愛されている彼女の時間を僕が独占できるのだ。
心を占めていたのは、喜びよりも濃い畏れだった。あのひとはどんな風に迎え入れてくれるのだろう。もしも言葉を交わせるなら、なによりも感謝を伝えたい。さびしさを誤魔化すように研究に縋りついていた僕の人生に、あなたが彩りを与えてくれたのだと。あなたを知ってから毎朝目覚めるのが楽しみで、どんなに疲れていてもあなたの姿を見れば不思議とがんばれるのだと。
たとえそれが今まで散々ファンたちから言われてきた、擦り切れた布のように陳腐な言葉だとしても、僕は自分の言葉で、その想いを伝えたかった。
握手会当日、この日のために新しく買った服に袖を通し、鏡の前でいつもよりずっと入念に髪を整える僕の心中は、思ったよりも静かだった。この調子なら、何度も頭の中で繰り返し、すっかり暗唱してしまった言葉をすんなりと伝えられるのではないかと余裕すらも覚えていた。
しかしいざ会場に到着し、それぞれの名前の書かれたレーンを目にした途端、今すぐ逃げ帰りたいような恐怖に襲われた。買ったばかりの服に冷や汗が滲み、奥歯すらも噛み合わず、ガチガチと震えているような気がした。
彼女の列はやはり群を抜いて長かった。列の果てには白いテントが張られていて、本当にそこに彼女がいるのか定かではなかった。全身が冷たく、このような状態では醜態を晒すだけだろうからいっそ帰ろうかとも思ったが、このまま帰ればきっと後悔すると、地面に足を踏ん張るようにして列に並びつづけた。
ひとりずつの持ち時間が少ないからだろう。列は残酷なほどに早く進み、テントへの距離が縮まるたびに、処刑を待つ罪人のような感覚が強くなった。どれだけズボンで手を拭いても汗は止まってくれず、こんな手であのひとの手を握るのは許されるはずがないと、泣き出したいような気持ちだった。それなのに目前に迫ったテントはついに僕の前に並ぶ人を飲み込んだ。
――次は僕の番だ。
そう思った瞬間、テントの中のスタッフが入り口に垂れるシートを押し上げ、次の方どうぞ、と声を掛けてきた。
テントに入った瞬間、感じたのはやけに澄んだ空気だった。すぐに空気清浄機を使っているのだと気付いたが、視界がぱっと開けるような清涼感を生み出しているのは、それだけではなかった。
そこに、そのひとはいた。白いノースリーブのワンピースに身を包み、長い髪をポニーテールにして。僕のほうを見ると、一瞬あの金色の目を大きく開いて、そして、花がはらりと開くようにほほえんだ。その周りだけが淡い光に包まれているような錯覚に、思わず目を瞬かせる。
硬直した僕を促すためか、スタッフがわざと大きな声で「券一枚、十秒でーす」と叫ぶ。その声に押され、全身が機械になったようなぎこちなさのまま、彼女の待つテーブルへと近づいてゆく。また手に汗をかいている。拭いたいが、彼女の前でそんなことをしたらみっともないと思われるだろうか。ズボンで拭くなんて、余計に汚いと思われるだろうか。どうして想いを告げられるなどと思い上がったのだろう。言葉を発するどころか、呼吸すらもままならないのに。ほとんどパニックに陥りながらなんとか手を持ち上げようとしたとき、そのひとは大きく身を乗り出し、自ら僕の手を掴んできた。
「いつもライブ来てくれてるよな!?赤いペンライト持って」
――告げられた言葉の意味がわからず、僕はただ、へ、と間抜けな声を出した。
そんな僕に対し、そのひとは銀河を封じ込めたようにまばゆい瞳を向けてくる。あの日スクリーンで見たときより、さらにはステージにいるときよりも、間近で見るそれはずっと輝いて見える。さらに顔は僕の掌ひとつで覆えそうなほどに小さく、体格も、ステージであれほど大きく見えることが信じられないほどに小柄で、頭頂部が僕の胸にやっと届くほどしかない。
な、そうだよな、と再び声を掛けられ、僕はやっと我に返り、質問の意味を理解する。そして震える声で、はい、と言葉を返すと、そのひとはいつもとは違うあどけない笑みを顔いっぱいに浮かべる。
「ありがとな、いつも会いに来てくれて」
そう言うと同時に、小さな指がぎゅっと僕の指先を締め付けてくる。ああ、なんということだろう。こんなことがあるのだろうかと思っていると、後ろから「時間でーす」と無情な声が飛ぶ。
「なあ、名前、なんて言うんだ!?」
手を離そうとする気配もなく質問を続けるそのひとに対し、背後のスタッフが僕の肩を掴み、テーブルの前から引き剥がそうとする。そのひとはそれに抗おうとせんばかりに僕の手をさらに握りしめ、テーブルへほとんど覆いかぶさるように身を乗り出してくる。
「名前っ!教えてくれよ、名前!」
「あ……アルフォンス、です……!」
もう持ち時間は終わっているのにいいのだろうかと思いながら、なんとか言葉を絞り出すと、そのひとは顔をぱあっと輝かせた。
「またな、アルフォンス!また来いよ、絶対な!」
握手会の会場を出ると、何かに追われるような気持ちで階段を駆け下りた。最後の数段は飛び降り、そのまま会場の外へと走り出す。
自分が一体どこへ向かっているのかはわからなかった。それでも、走っていなければ今すぐ叫び出してしまいそうで、無我夢中で足を動かした。まだ指に、感覚が残っている。彼女の小さくやわらかな指が、この肌に食い込んだ感覚。きめ細やかな白い肌に、桃色のリップで縁取られた瑞々しい唇。レースに縁取られたワンピースから伸びる華奢な首と腕、折れそうなほどに細い腰。
そしてなによりも、あの瞳。初めて見たあの日から、ずっと僕の心を捉えて離してくれない、金色の瞳。
さすがに息が切れて、アパートの隣に立つ自動販売機の横にしゃがみ込んだ。肩を揺らしながらぜいぜいと呼吸を繰り返すと、胃がぎゅっと掴まれるような感覚に視界が揺れる。僕は、どうしてしまったのだろう。これまで勉強一辺倒の人生を送ってきた僕が、たったひとりの少女にどうしようもなく心を乱されている。
「エド……ワード……」
思えば、彼女を追っていることを友人たちにひた隠しにしている僕にとって、その名前を口にするのは初めてだった。心の中では何度も叫んできたはずのその名を唇に乗せると、胸にあふれる想いが決して勘違いではないことが、残酷なほど浮き彫りになってしまう。途方に暮れながら両手で顔を覆うと、長く深い息を吐いた。
「好きだ……。エドワード……」
本当に、どうかしている。あのひとに手が届くことなんて、決してないのに。
それなのに僕は、もうどうしたって誤魔化せないほどに――彼女に恋を、してしまった。
続く