ヴィオレッタ
ボクの姉さんは、とても不幸なひとでした。
こんなことを言ったら、自尊心の高いあのひとは烈火のごとく否定するでしょうが、ボクはずっと、心の中であのひとに憐れみを覚えていました。
まだ十五歳でありながら軍属の身であること、女性の中でも小柄な部類に入る身体に金属の手脚をぶらさげていること、過去に犯した過ちを償うべく、同世代の少年少女たちが当たり前に享受できるはずの日常をすべて捨て去っていること――。ボクたちの〈事情〉を知る人たちは、決して言葉に出すことはなくても、そのような身の上のあのひとを明らかに気の毒がっていました。
けれど、ボクが不幸だと言うのは、決してそれらのことだけが理由ではないのです。あのひとは小さなころから――いえ、生を受けたその瞬間から、とても不幸なひとだったのです。
エドワード、という男性の名前を姉さんに与えたのは父だったそうです。
高名な錬金術師であった父は、同時にかなりの変わり者であったらしく、生まれた子どもが娘だと知ると酷く落胆し、その事実を打ち消そうとするかのように、男の名を与えたそうです。もちろん周囲は反対したそうですが、父に心酔していた母さんが異を唱えなかったために、その名前に決まってしまったそうです。このように、ある種歪な両親のもとに生を受けた姉さんは、自分の意志とは関係なく、普通の女の子として生きる運命を手放さざるをえなかったのです。
ここからすでに姉さんの不幸が始まっていたのだと、ボクは思わずにはいられません。
それでもボクにとって、あのひとはいつでも<姉さん>でした。幼いボクには性別の概念などなく、ただ周りが「エドワードはお姉ちゃんなんだから」と言うのを聞いて、このひとは自分の<姉さん>なのだと認識したのです。
そのときすでに、父は家にいませんでした。だからでしょうか。母さんは姉さんのことを息子として扱っておらず、村の人たちも、むしろ積極的に姉さんを女の子扱いしようとしていたように思います。それは、可哀想な女の子をおかしな父親の呪いから解放してあげたいという、周囲の思いやりだったのでしょう。
けれどそれを拒絶したのは、他ならぬ姉さん自身だったのです。感受性が豊かで記憶力もよかった姉さんは、幼いころから父に繰り返し言い聞かされた言葉をしっかりと覚えていたのです。――俺がいなくなったら、お前がこの家を、母さんを、弟を守るんだ。お前はうちの〈長男〉なんだから。
父はその予言を守るように、家を出ていきました。そして姉さんは、父の言いつけ通り母さんやボクを守らなければと思ったのでしょう。髪を伸ばすことも、ワンピースやスカートを身につけることも拒み、わざと乱暴な言葉づかいをして、自らを「オレ」と呼称しました。
ボクにとっては、物心ついたころからそれがあのひとでしたから、なんの疑問も抱きませんでした。幼馴染が女の子であるように、姉さんも女の子なのだと分かっていましたが、ふたりが違うのは人それぞれ性格や見た目が違うのと同じことなのだと思っていました。なにせ田舎の村で、子どもの数も少なかったものですから、比較対象がそのふたりしかいなかったのです。
幼馴染の祖母も、決して子どもに無理強いするような人ではありませんでしたから、女らしさの欠片もない姉さんの言動を咎めるようなことはしませんでした。ただ、心の中にはなにか思うところがあったのでしょう。そのころのボクには、彼女が姉さんを見つめるとき、どこか悲しそうに目を細めることが多い理由を、理解することはできなかったのですが。
このように、ボクの中で姉さんは姉さんであり、男でも女でもなく、ただ強くて、まぶしくて、憧れてやまない存在でしかありませんでした。ボクは姉さんが大好きでした。母さんのことも大好きでしたが、もしもこれから、ふたりのうちどちらかにしか会えないと言われたら、ボクは姉さんを選んでいたように思います。
しかし、そうした純粋な憧れを、別の感情に変えてしまった出来事がありました。
それは幼馴染の女の子の、七歳の誕生日のときでした。その子の両親は医師として遠方に出かけることが多く、滅多に家にいなかったのですが、その代わりにと娘の誕生日にプレゼントを入れた小包を送って来たのです。
いくつかの贈り物のうち、その子がいちばん気に入ったのは、リボンのついた純白のカチューシャでした。台の部分にもレースが施され、右のこめかみのあたりにリボンが垂れ下がるように設計されたそれは、いかにも<女の子>が喜びそうな代物でした。
とっておきの宝物を見せびらかしたくて仕方がなかった彼女は、そのカチューシャをつけて家へやってきました。誕生日でしたから、ワンピースもいつもより上等で、ドレスみたいに裾がふんわりと広がったものを身につけていたように思います。「見て見て!」と言いながら、彼女がくるりと回って見せると、その動きに合わせてカチューシャのリボンも尾を引くように風になびきました。彼女の薄い金色の髪がさらに輝きを増したようで、その姿はお姫さまみたいにかわいらしく、胸がドキドキしたのを覚えています。
けれど姉さんは、そんな彼女の頭を指さすと、「リボンがでかくてバカみたいだ」と大笑いしたのです。姉さんの崇拝者であったボクもさすがにギョッとし、そんなことを言うべきではないと思いました。けれどボクがそう口にする前に、姉さんに負けないほど勝ち気な幼馴染はカンカンに怒り、姉さんに言い返しました。ふたりは激しい口喧嘩を始め、最終的に幼馴染は大声で泣きながら、カチューシャを置いて帰ってしまいました。
ちょうどそのとき買い物から帰ってきた母さんは、走って丘を下ってゆく幼馴染の背中と、地面に落ちた見覚えのないカチューシャに目を留めて、なにがあったのかと問いただしました。姉さんが気まずそうに、ぽつりぽつりと事の顛末を話すと、母さんは今までに見たことがないほどの剣幕で、姉さんを叱りつけました。姉さんは泣いていました。声には出していませんでしたが、唇をぎゅっと噛みしめ、目から涙をこぼすまいとしながらも、鼻をすすりあげて泣いていました。
それから母さんは、カチューシャを幼馴染のもとへ届け、きちんと謝ってくることを姉さんに命じました。姉さんは口答えすることなく、カチューシャを持って丘を下っていきました。ボクもついて行こうと足を踏み出すと、姉さんは涙にうるんだ瞳でボクを睨みつけ、言葉もなく拒絶しました。
それでも姉さんが心配で仕方がなかったボクは、しばらくしてから姉さんを追いかけました。すでに夕陽が射し始めた丘を下り、羊たちのたむろする草原を抜けると、幼馴染の家への近道となる林がありました。そこに足を踏み入れた途端、ボクは姉さんの姿を見つけました。
姉さんはもう泣いてはいないようでした。その代わり、林の中を流れる小川の横に膝をつき、水面をじっと見つめていました。木陰に身を隠しながら、姉さんは一体なにをしているのだろうと覗き込んだボクは、姉さんの頭に幼馴染のカチューシャがつけられていることに気が付きました。
姉さんは先ほど自分が散々馬鹿にしていたカチューシャを頭につけ、その姿を水鏡に映し、とり憑かれたように覗き込んでいました。夕暮れ時の湿っぽい風が滑り込み、カチューシャのリボンと姉さんの髪がふわりと揺れたとき、姉さんの横顔がはっきりと見えました。
それはボクの知る、明るく無敵な姉さんの表情とはまるで違っていました。水面に映る自分の姿を覗き込む姉さんは、叶わぬ夢を見るような、妖しい幻に心を囚われたような、遠い瞳をしていたのです。まだほんの六歳だったにもかかわらず、そのときボクは何故だかはっきりと理解しました。
このひとは<女>なんだ。このひとの中にあるのは、紛れもない<少女>としての心なんだ、と。
そしてそう知った瞬間、身体の芯に今まで感じたことのない熱が灯るのを感じたのです。
それ以降、ボクの世界は決定的に変わりました。姉さんがどれだけ粗雑な言動をしようと、学校で喧嘩して男の級友たちにひとりで勝ってしまおうと、ボクの中で姉さんはひとりの少女となりました。憧憬の念は形を変え、キラキラとまぶしいものから、ぎゅっと胸が締め付けられるような、心の均衡を揺るがすようななにかへと変化したのです。
ボクにはそれが、どういった種類の感情なのかまだ分かりませんでした。けれどいつしか、自分が姉さんを守りたいと思っていることには気付いていました。ボクよりも姉さんのほうがずっと負けん気も強いのに、そのように思うのはおかしいことだと分かっていました。それでもボクは、姉さんを守りたかったのです。いつでも姉さんのそばに居て、姉さんが弱ったときは、ボクが支えてあげたいと思っていたのです。
だから、だったのでしょう。
母さんが亡くなった後、母さんを取り戻すと言って聞かない姉さんを、ボクが止められなかったのは。
もちろんボクにも、また母さんに会えたらという気持ちはありました。けれどそれ以上に、ボクは姉さんの心を守りたかったのだと思います。とり憑かれたように禁忌の理論を組み立てていく姉さんを見ていると、今このひとを止めたら、このひとの心はきっと壊れてしまうと感じたのです。
姉さんはまだ、あれだけ嫌っているはずの父との約束を果たそうとしていたのでしょう。姉さんにとって母さんは母親でありながら、守るべき女王のような存在だったのです。騎士のように母さんの傍に立ち、自分がこの家を守っているのだと信じることで、あのひとは自分が<男>であることを肯定しようとしていました。母さんが病で亡くなったとき、姉さんが失ったのは母親だけでなく、己が<男>として生きてこなければならなかった理由もだったのです。
だから姉さんは取り戻そうとしたのです。大好きな母さんを。そして、自分の今までの人生が間違っていなかったのだという、証を。
そしてボクたちは失敗しました。禁忌を犯した代償に手脚や身体を失くし、平穏な日常を失いました。
姉さんが次に取り戻すと決めたのは、ボクの身体でした。そのために、華奢な身体に仰々しい鋼の手脚を取りつけ、国家資格を取るべく、生まれ育った村を出ると言いました。
ボクはそれについて行くと言いました。姉さんは反対しましたが、姉さんと一緒にいたいのだと訴えれば納得してくれました。もちろんその気持ちに嘘はありませんでしたが、それ以上に、ボクは姉さんを守りたかったのです。二メートルを超す鎧の身体から見下ろす姉さんは、どこからどう見ても、小柄なひとりの少女でしかありませんでした。本人がどれだけ否定しようが、顔立ちは女らしさを増し、ほんのわずかに胸も膨らんできているようでした。そんな姉さんが軍に入れば、どんな問題を呼び寄せることになるかを、ボクは漠然と理解していました。
姉さんの名前が男のものであったことが、将来こんな形で役立つだろうとは、さすがに父も予期していなかったでしょう。姉さんの身元引受人を買って出た男――そのころ軍で中佐を務めていたその男は、姉さんに男として軍に入ることを命じました。もともと男として生きてきた姉さんに異存はありませんでしたし、もちろんボクも賛成しました。たとえ見た目が少女そのものであっても、公式の登録が男であるだけで、多くの厄介ごとを回避できると胸をなでおろしたのです。
けれど同時に、ボクの中には屈折した気持ちがありました。身体的特徴が段々と男のものから乖離していく姉さんに、どこかで昂りを覚えていたのです。
髪を切ろうとする姉さんを止めたのもボクです。手脚を失ってから手術を受けリハビリを終えるまでの間に、姉さんの髪は肩下までの長さになっていました。男として軍に入るなら髪も短いほうがいいと言い、鋏を握りしめた姉さんの手に自らの手を重ね、ボクは言いました。
――せっかくの綺麗な髪なんだから、切ってしまったらもったいないよ。姉さんの右手がちゃんと動くようになるまで、ボクが毎日梳いて、大切に労わってきた髪なのに。お願い、どうか切らないで。これからもボクがずっと、姉さんの髪を結ってあげるから。
姉さんはすこしためらったあと、そうか、と笑って鋏を置きました。その頬がかすかに赤らんでいるのを見て、ボクは姉さんが、ボクの最後の言葉に喜びを覚えてくれたのだと知りました。
これからも、ボクが、ずっと――。心の中でそう繰り返したとき、ボクは空洞の身体が貫かれるような激しい感情を覚えました。そして衝動的に、姉さんの頬へと手を当てました。上を向かされた姉さんは、「アル?」と困惑したようにボクを呼びました。薄い薔薇色に染まる頬も、ボクを見上げる金色の瞳にかかる睫毛も、記憶にある少年のような姉さんのものとは違っていて、ボクはその細い首を折ってしまいたいような衝動に駆られました。
ボクは知っていました。姉さんに対する自分の感情が、常軌を逸してきていることに。それは強すぎる家族愛であり、憧憬であり、依存心であり――憎しみでした。ボクは姉さんの女の部分を愛し焦がれながら、鎧の身体のボクを置いてひとりだけ大人になってゆく彼女を妬み、憎んでいたのです。愛しているからこそ、姉さんと一緒に成長し、姉さんを自分だけのものにしたかったのです。
その想いが確固たる形を持ったのは、姉さんが十三歳になったばかりのころでした。長旅を終えたボクらは、その成果を報告するべく、東にある軍の司令部を訪ねました。あくまでも部外者であるボクは庭で待っていたのですが、しばらくしてから顔見知りの曹長が真っ青な顔でボクを呼びに来て、告げたのです。姉さんが倒れた、と。
大佐である例の男とその直属の部下たちが使用している一室に行くと、姉さんがソファに寝かされているのが目に入りました。その真っ青な顔を見て、ボクはたまらず姉さんに駆け寄ると、一体どうしたのだと問いかけました。姉さんはボクに握られた手を震わせながら、か細い声で、ごめん、ごめんアル、と繰り返しました。
しばらくしてから、その隊で唯一の女性である中尉が、ボクを別室に呼び出しました。ためらいながらも彼女が告げたのは、姉さんに月経が来たという事実でした。どうやら姉さんは初めての月経でなにが起こっているのかも分からず、痛みと貧血で倒れてしまったということなのです。母さんをもとに戻そうとしたとき人体についてよく調べたので、もちろん女性にそういった特徴があることは知っていましたが、ボクたちはふたりとも、それがいつか姉さんにも起こるのだという事実を失念していたのでした。
彼女は淡々と、今晩は姉さんを自分の家に泊め、明日は非番だから一日様子を見ようと思うと言いました。口には出しませんでしたが、ボクたちが母さんを早くに亡くしていることを鑑みて、姉さんに適切な処置方法や注意点を教えてあげる必要があると考えてくれたのでしょう。彼女の意図を悟ったボクは、お願いしますと告げて、その晩はひとりで宿に泊まりました。
翌日、姉さんは日が暮れた後、宿に帰ってきました。昨日とは別人のように顔色も良くなり、ほどいた髪はいつもより艶やかであるように思えました。姉さんはまず心配をかけたことをボクに詫び、もう大丈夫だと笑いました。それから、泊めてくれた中尉と夜まで大佐の悪口を言い合ったこと、朝は中尉がパンケーキの朝食を作ってくれたこと、そして昼は変装してお洒落なカフェにランチに行ったことを、早口でまくし立てるように報告しました。
姉さんは楽しそうでした。頬を赤らめ、目を輝かせ、その姿はなんの重荷も背負っていない年ごろの少女そのものでした。それはボクの知らない姉さんでした。中尉は、姉さんに必要な知識を与えると同時に、たった一日でいいから普通の少女としての生活を体験させてあげたいと思い、姉さんを連れ出してくれたのでしょう。〈女〉としての自分を押し殺してきた姉さんは、自分がそのような願望を持っていたとも知らずに、大いにその時間を楽しんだのです。
いつでも自分を追いつめ、ギリギリのところで理性を保っている姉さんに、ボクは何度「無理をしないでほしい」と告げたか知れません。たまには息抜きをしてほしいと言い、無理やり本を取り上げたことすらありました。
はしゃぐ姉さんを見て、ボクはその願いが達成されたのだと知りました。――それなのに、ボクの心を覆ったのは安堵ではなく、酷くどす黒いなにかでした。ボクの手を取り、じゃれるようにして楽しい出来事を報告してくる姉さんは愛らしいはずなのに、ボクはその手を容赦ない力で握り返すと、言いました。
「よかったね、姉さん。姉さんは大人になったんだね。これからその身体はどんどん成長していくんだ。ボクのことを置いて」
高揚していた姉さんの顔が一気に青ざめ、金色の瞳からすっと光が消え去りました。姉さんは唇を震わせると、なにか言葉を探そうと口を開き、見つけられずにそのまま呼吸さえも失ってしまったようでした。ボクは姉さんの手をさらに強く握りしめました。肌や筋肉の感覚がないので、それが姉さんにとってどれだけの苦痛なのかは分かりませんでしたが、だからこそ力いっぱい姉さんの手を握りしめました。姉さんの生身の左手は、圧迫されるに従い指を解いていき、そのまま引きつったように硬直しました。
「疲れたでしょ。シャワーを浴びておいでよ」
ボクはそう言い、姉さんの手を離しました。姉さんは茫然としたままダラリと腕を落とし、ボクの言葉の意味を図りかねて目を泳がせていました。しかしそれ以上ボクがなにも言わないと分かると、操り人形のようにコクリと頷き、バスルームへと向かいました。
バスルームから鈍い金属音が聞こえたのは、それから五分ほど経ったときでした。ボクはゆっくりと腰を上げると、バスルームまで歩いて行き扉を開けました。視界が一気に湯気で曇りましたが、それでもその向うにへたり込む姉さんの姿は見えました。
「どうしたの、姉さん」
ボクはできる限りやさしい声で問いかけました。熱いシャワーがざぁざぁと降り注いでいるのにもかかわらず、姉さんは震えているようでした。ボクは歩いていって、自分の身体が濡れないように気を付けながらシャワーを止めると、タイルの上でびしょ濡れになっている姉さんの背中をなでました。
「姉さん。だいじょうぶ?」
そのまま金色の髪の毛が貼り付くうなじへと手を滑らせ、首の前側に指をかけると、強制的に姉さんの顔をボクのほうへと向かせました。こちらを向いた姉さんは目の縁を真っ赤にし、荒い呼吸を繰り返すと、今度は自ら飛びつくようにしてボクの金属の身体にすがりつきました。そして、狂ったようにこう繰り返しました。――ごめん、アル、ごめん、そんな身体にしてごめん、裏切って、オレだけ大人になってごめん、ごめん、アル。
泣きながら叫びつづける姉さんの眼は血走り、呼吸はぜいぜいと過呼吸のようになっていて、どう見てもまともな状態ではありませんでした。ボクはそんな姉さんの頬に手を当てながらも言葉は掛けず、ただひたすら懺悔を繰り返す姉さんを見下ろしていました。姉さんは惨めでした。ぐしょ濡れの髪も、冷え始めて震える身体も、虚勢ばかり張っている普段の姿からは想像できないほど弱々しく憐れでした。ボクは膝立ちになっている姉さんの内腿に赤い滴が滑り落ち、白い肌に朱の線を引くのを見ました。膝まで落ちたそれはタイルの上の水たまりに滲み、それを追うようにして、また幾筋かの血が流れ落ちました。
「血が出ると、痛むの?」
硬直する姉さんを見下ろしながら、ボクは頬に当てていた親指を動かし、姉さんの唇へと触れました。
「どんな風に痛むの?苦しいの?」
硬い革の指で唇をなでられ、姉さんは我に返ったようにボクに焦点を合わせました。その瞳に、今までとは違うギラリとした光が宿ったのを、ボクは見逃しませんでした。
「教えてよ、ねえさん。痛みも、心地よさも……ボク、もうすっかり忘れてしまったんだ」
姉さんはこの身に縋りついていた腕をゆっくりとほどくと、左手をボクの右手へ控えめに絡ませてきました。ボクらの間に距離が空いたせいで、姉さんの身体の前側はすっかり露わになっていました。考えてみると、身体を失ってからは幼馴染の家で暮らしていましたし、旅に出てからもさすがに女性である姉さんの裸を見ることは避けていたので、その身体をまじまじと見るのは数年ぶりでした。以前はボクのものとあまり変わらなかったはずのその身体は、なめらかな曲線と、以前よりずっと膨らんでいる胸のせいで、誰か別のひとのもののようでした。右肩に鉄の塊をぶらさげているせいなのか、右胸のほうが左胸よりかすかに小さいようで、その歪さを可哀想に思っていると、姉さんは握りしめていたボクの手を左胸へと誘い、その膨らみへそっと押し付けました。
言葉がなくても、姉さんの意図は明らかでした。望まれるまま、指をそのやわらかい部分に食い込ませると、姉さんはかすかに甘い声を上げ、太ももを捩じり合わせました。それがかわいらしくて、今度はつんと張った先端を引っ張ってあげると、姉さんは目から涙をこぼしました。
「立って、ボクのほうを向いて」
ボクがやさしく命じると、姉さんは震える足でよろよろ立ち上がりました。もともと小さいひとなので、立ち上がってもしゃがんだボクのすこし上に来る程度でした。そうして真正面から見ると、姉さんがどれだけ華奢で、そこに食い込む鋼の腕がどれだけの負担になっているのかが分かるようでした。首の側面に手を当てて、そこから指を滑らし金属と肌の境界線をなぞると、姉さんは堪えきれずにボクの肩に手を掛け、身体を痙攣させました。
「胸よりこっちのほうが気持ちいいの?」
好奇心から尋ねる子供のような声色で問うと、姉さんはふるふると頭を振ります。恥ずかしいのでしょう。頬だけでなく首まで真っ赤になっている姿に加虐心を煽られ、境界線から傷で肌の薄くなっているところにかけてを執拗に擦ると、姉さんは泣きながらガクガクと膝を震わせました。
「ちゃんと立ってて、ね。ボクに見えるように」
諭すように告げると、姉さんは従順な子どものようにコクリとうなずきました。その拍子にまた、内腿に血が伝い、すらりとした足をすべってゆくのが見えました。
その朱に誘われたような気がして、ボクは姉さんの足の付け根へと手を動かすと、そこにある割れ目へと容赦なく人差し指を差し込みました。
姉さんは高く短い悲鳴を上げ、バランスを崩しました。空いているほうの左手で姉さんの機械の腕を掴みなんとか立たせると、引き続き窪みを指で掻き混ぜました。すると、ぐちゅぐちゅという水音と一緒に、どろりとした血の塊が床に落ちました。
「こんなに血が出てるのに、死んでしまわないなんて不思議だね」
落ち着いた声色で話しかけても、姉さんはそれに対して返事をしませんでした。痛いのか気持ちいいのかわかりませんが、虚ろな瞳から涙を流し、許しを乞うようにボクの名を繰り返していました。
「こんな鉄の塊にさわられるのは、いや?」
顔を覗き込みボクが問うと、姉さんはぶんぶんと首を横に振りました。そして再び左手でボクの肩に縋りつくと、いやじゃない、さわってほしい、と言い、涙に濡れた瞳を歪めて、苦しそうに笑みを浮かべました。乞われるままに、窪みの上にある突起を指で何度か刺激してあげると、姉さんはたまらないのだというように声を上げました。
「顔を見せて」
窪みから指を抜くと、最早ボクの声など聞こえていないそのひとの身体を引き剥がし、掲げるようにして前に立たせました。ダラリと垂れた細い左腕も、やわらかく膨らんだ胸も、薄い腹筋も、そのどれもが姉さんが女性であることを残酷なまでに主張しているようでした。
ボクはその身体を上から下まで観察したあと、先ほどまで窪みに入れていた右手を、姉さんの頬へと添えました。染みひとつない白い肌と、そこに貼りつく金糸のような髪に血がついて、花が咲いたように綺麗でした。
「ねえさん」
ボクの呼びかけに応え、姉さんは涙でとろけた金色の瞳を、こちらに向けました。
「ねえさんは女の子なんだ」
それを聞いた姉さんは、張りつめていた息をゆっくりと吐き出すと、あらゆるものから解き放たれたように、ほほえんだのでした。
それから毎月、姉さんに月経が来るたび、ボクらはそのような行為に及んでいます。
月経が来ると、姉さんはそれがまるで罪であるかのように、ボクに縋りついて泣いて謝るのです。ボクは姉さんに、許してあげるなどとは決して言いません。ただ、大人になった身体を見せてほしいと言います。姉さんは、わざと怯えたような様子を見せながら、自ら服や下着をずり下ろして裸になり、それから、さわってほしい、と強請るのです。
ボクはもちろんさわってあげます。どこがいいの、と問えば、姉さんはボクの手を握り、さわってほしいところへ導いてくれます。「恥ずかしい?」と尋ねると、頬を赤らめながらこくりと頷きますが、その顔に羞恥ゆえの悦びが滲んでいるのは明らかです。たまに意地悪でさわってあげないと、すすり泣きながら自分で自分を慰め始め、ボクを誘惑しようとするので、ボクは姉さんの変態性に呆れてしまうときだってあります。酷いですよね。最初にこのような行為を姉さんに促したのは、ボクのほうなのに。
けれど、責任逃れだと言われても、これが姉さんのためでもあるということを、ボクは言い添えておきたいのです。姉としての責任感が強い上に、ボクへの罪悪感に押し潰されているあのひとは、定期的に罰せられることで己を保っているのです。外では頼れる<兄>を演じ、自分が弟を守るのだと肩肘を張っているあのひとには、時折そうしたすべてのしがらみを粉々にし、崩壊の果てにある解放を垣間見せてあげることが必要なのです。
もう三年もそんなことを繰り返しているものですから、なめし革でできたボクの指先も、姉さんの血のせいで一段とどす黒くなってきてしまった気がします。そんなものがこびりついているだなんて、汚いと思われるでしょうか?ボクはまったくそう思いません。だって、ボクの命をこの鉄の塊に繋ぎ止めているのだって、姉さんの血なのですから。言ってしまえば、それはボクにとって、命の源と同じなのです。
ボクの姉さんは、とても不幸なひとなのです。
自分自身に嘘を吐きつづけ、罰せられることでしか自分を解放できない、可哀想なひとなのです。
いつか、母さんが病床でつぶやいたことがありました。「エドワード、あなたは一体、どんな人と恋に落ちるのかしら」。
病がかなり進行し、ぼんやりとすることが多くなっていた母さんは、姉さんとふたりきりだと勘違いして、そうつぶやいたようでした。その言葉をかけられた姉さんはきょとんとし、なんのこと、と戸惑ったように笑っていました。
結局そのまま眠ってしまった母さんが、それ以上の問いを投げかけることはありませんでした。姉さんはきっともう、そんなことを忘れてしまっているでしょうが、ボクは今でも鮮明に憶えているのです。そして、心の中でずっと問うています。姉さん、あなたは一体、どんな人と恋に落ちるつもりなのか。そう問うたび、心の中にごうごうとした黒い炎が立ちのぼるのを感じながら。
姉さんの身体を、最後まで暴いたことはまだありません。あのひとはまだ、純潔を保ったままです。たまに〈懲罰〉が行きすぎて、姉さんが理性をなくしたどろどろの状態にまで至ってしまったとき、あのひとは呂律の回らない口で、もっと奥をさわってほしい、腹の奥まで貫いてほしいと繰り返すことがあります。いつもは姉さんに従順なボクですが、それだけは聞いてあげません。姉さんがどれだけ泣いて懇願しようが、ただ静かに拒絶を繰り返し、そして真っ赤に染まった姉さんの耳にやさしくささやくのです。
「いつか身体を取り戻したら、ボクが姉さんを、ほんとうの女の子にしてあげる」
そうすると姉さんは、まるで罪からの解放を約束された囚人のように、金色の瞳をほころばして笑うのです。
その姿は愛らしく、綺麗で――ああ、このひとはなんて不幸なのだろうと、ボクはがらんどうの胸をいっぱいにし、いつか味わう姉さんの唇の甘さを想うのです。