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 ここのところ、日がな一日咳が出て仕方がない。職場である工場の空気が悪いことはわかっているが、それにしても頻度が尋常じゃない。時折胸に鋭い痛みが走ることもあるし、心なしか熱っぽい日も多い気がする。
 同居しているあのひと——きっともう、恋人と呼んで然るべきあのひとには隠しておきたいのに、段々とそれが難しくなってきている。この間はせっかく向こうから甘えてきてくれたのに、途中で咳が止まらなくなり行為を中断せざるを得なくなってしまった。
「大丈夫か、アルフォンス……?」
 咳を繰り返す僕の背中をさすりながら、あのひとは心から心配そうに声をかけてきた。大丈夫だと返したかったのに、僕はその言葉すら紡ぐことができず、ただ止まない咳を吐き出し続けることしかできなかった。
 これ以上、情けない姿は見せたくない。僕はやっと、欲しくて欲しくてたまらなかったものを、手に入れたのだから。

 僕が買ってきた女性用の服を身に付けた日から、あのひとはどこか変わった。
 乱暴な言葉遣いは同じだけれど、表情や所作がすこしずつ女性らしくなって、変な意地も張らなくなった。夜にベッドの中で抱き締めれば大人しく胸に頭を預けてくれるし、愛してると言えば蚊の鳴くような声ではあるが、自分もだと返してくれる。
 愛しいひとと共に目覚め、共に眠りにつく。夢見ていた日々が現実になり、体調のことだけに目をつぶれば、すべてが完璧なように思われた。あのひとがあれだけの才能を持ちながら研究を捨ててしまったのは惜しかったけれど、代わりに僕だけのものになってくれたのだから、文句は言えなかった。
「グレイシアさんがさ、オレが店を手伝う代わりに、家賃を下げてくれるって!」
 ある日仕事から帰ると、そのひとは夕飯を作りながら嬉しそうに言った。あまり料理をした経験がなかったようで、最初は実験の成れの果てのようなものをよく食べさせられたが、最近は幾分かマシになっていた。
「え、エドワードさん、花屋さんで働くんですか?」
「なんだよ。オレには似合わないってか?」
 むしろ、似合いすぎるから困るのだ。今日もひとつに結わった三つ編みの先に祖母の赤いリボンを着け、身体には袖が膨らんだクリーム色のワンピースをまとっている。口の悪ささえ封じ込めれば、その姿はどこからどう見ても可憐な少女でしかない。こんなひとが花屋の軒先に立っていたら、一体どれだけの男が群がってくるだろうか。
 僕の買ってきた服を時折着てくれるようになったあとも、そのまま外出することは頑なに拒んでいたこのひとが、あるときふと「今日はこれで外出てみっかな」とつぶやいたとき、僕は内心、雄叫びを上げんばかりに喜んだ。僕も男だ。雄としての本能かなにか知らないが、可愛い恋人と外を歩いて他の男に羨ましがられたい。そんな愚かなことを言えば怒られるとわかっていたから、僕は平気なふりをして「いいじゃないですか、気分転換に」とほほえみ、なんでもない風を装いながらこのひとの髪を結い、コートを着せた。
 そしてこのひとの手を握りアパートの地階へ降りて行ったとき、覚悟していた最初の難関にぶつかった。大家である花屋の女性と鉢合わせ、僕らはしっかりと姿を見られてしまったのだ。
「あらぁ……。えっと……ふたりでお出かけ?」
 彼女の対応は素晴らしかった。もしそこで彼女がこのひとの服装に言及し、かわいいだのなんだのと言って騒ぎ立てれば、このひとはすぐに部屋に駆け戻って服を脱ぎ捨て、二度とそれを着ようとはしなかっただろう。しかし大家さんは、まるでなにもおかしなことはないというように、「いってらっしゃい」と手を振ってくれたのだ。
 そもそも彼女には、このひとが男だとも女だとも告げていなかった。僕らの距離感でどういう関係なのかは薄々勘付いていたかもしれないが、このひとが女性だとはっきりわかると同時に、男性の名前で男性の格好をしていたこのひとの複雑な事情を、なにかしら察してくれたのだろう。
 しかしそれは表面的な部分だけで、内心は違ったらしい。翌日僕が仕事から戻ると、「これエドにどうかしら」と言って、自分がもう着なくなった服を山ほど渡してきたのだ。一度では抱えきれないほどの服を持って帰ってきた僕を、このひとは「だから無駄遣いはやめろって……!」と怒鳴りつけたが、これは大家さんからだと伝えれば、振り上げた拳を下ろすしかなかった。
 これにはもうひとつ、大きな特典があった。このひとはぶっきらぼうに見えて、本当はかなり義理堅い。根がやさしくて押しにも弱いから、僕が何気ない様子を装い「あげた服をエドワードさんが着ているのを見たら、グレイシアさんも喜ぶだろうなあ」とつぶやけば、そのあとの結果は決まったようなものだった。
 翌日、もらった服の中から一番地味なベージュのセーターと茶色のスカートを身にまとったこのひとは、僕が仕事に出るときに一緒に下まで降りてきた。
「えっと……おはよう、グレイシアさん……」
 このひとが僕の背後に隠れながら恐る恐る声を掛けると、大家さんは僕らに気付き、すぐさま目を輝かせた。
「早速着てくれたのね!とっても素敵!でもちょっと大きいかしら……」
 夜に帰宅すると、このひとはシュミーズ一枚の姿でベッドに寝転がりふてくされていた。事情を訊けば、今日一日大家さんに身体中のサイズを測られ、服を直しては着せられを繰り返し、着せ替え人形のようにされたようだった。
 このひとは疲れたと言ってやさぐれていたが、それはこのひとが僕以外の人間とも関わるいいきっかけになった。それ以来、服の礼だとかなんとか理由をつけて、このひとは花屋を手伝うため表に出るようになったのだ。そして今日、大家さんから正式に仕事の依頼をされたようだった。
「働くのはいいですし家賃のことも助かりますけど、気を付けてくださいね。お客さんの中には、変な人もいるだろうし……」
「ああ?だからオレが必要なんだろ?変な奴が来たらオレがぶちのめしてやるんだよ!」
 どうやら本人は看板娘ではなく用心棒のつもりらしいが、いくら自分がそのつもりでも周りはそう見ないことを、僕はすでに知っていた。

「なあハイデリヒ。お前恋人いるだろ」
 先週月曜日の仕事終わり、排気ガスで汚れたシャツを着替えているときに、仲間のドルチェットがニヤつきながらそんなことを尋ねてきた。
「土曜日にさ、マーケットでお前を見掛けたんだよ。人が多すぎて話しかけられなかったけど、お前、女の子と手つないで歩いてたよな」
「え、嘘だろ!?詳しく聞かせろ!」
 ドルチェットの言葉を聞き、他の仲間が話に顔を突っ込んで来る。同じ街に住んでいる限りいつかは起こり得るだろうと思っていたことだったが、僕の心に芽生えたのは焦りではなかった。
「おい、どんな子だよ!?かわいかったか!?」
「遠目だったから顔はよく見えなかったが、相当小柄だったぞ。頭も身体も小さくて、長い金髪だった。あれだ!背丈も雰囲気も、ちょっとエドワードに似てたな」
「嘘だろ!?お前、あいつのこと忘れられなくて、似た子を……」
 誤解した仲間たちが囃し立てるような雰囲気になったのを感じ、ぼんやりとした苛立ちを覚えた僕は、後先考えずに口を開いた。
「エドワードさんですよ」
「は……?」
「エドワードさんに似てる、じゃなくて、エドワードさん本人です」
 僕の言葉を聞き、普段この手の話には入ってこないロアですら「はぁ!?」と声を上げる。
「おい、どういうことだ!?あいつと再会できたのか!?」
「いや、そもそもおかしいだろ!オレが見たのは女だったぞ!白いワンピースを着てたし、髪にリボンなんか巻いて……」
「エドワードさんは女性です」
 当たり前のことだと言わんばかりに言い放つと、その場にいた全員が凍り付いた。
「今は僕と一緒に暮らしてます。アパートの、同じ部屋で」
 それがどういう意味を持つのかわからないほど、ここにいるみんなは子供ではない。目を丸くし、心なしか頬を赤くしている様子を見て、僕は平静を装いながら内心ガッツポーズを取る。言ってやった。ついに仲間たちに、僕があのひとを手に入れたのだと宣言してやった。
「……ってめぇ!オレがあいつのこと聞いたとき、あいつは男だって言ってオレのこと殴ったくせに!」
 かつて研究所で小競り合いになった仲間が、そう言って僕に殴りかかろうとする。それを難なくかわすと、「エドワードさんが待ってるから」と言い、僕は職場を後にした。

 もちろんこのことを、あのひとには言っていない。このことを知ればあのひとはカンカンになって怒るだろうし、下手したら機械の右手で殴られてしまう。
 しかし恋というものは、ことごとく人間を愚かにしてしまうらしい。かつては自分の持ち物をひけらかし優越感に浸るような人種が大嫌いだったのに、今は僕自身がそうなってしまっているのだから。叶うならば、あのひとの手を引いて新市庁舎に上り、このひとが僕の愛しいひとだと、広場に向けて叫びたいと思うくらいの浮かれっぷりだったが、そんなことを考えれば考えるほど、影のような不安が胸をかすめた。
 いつかこの幸福が終わる日が来たりするのだろうか。あのひとの手を離し、さよならを言わなければならない日が、いつか。


「おいハイデリヒ。お前、病院行ってこい」
 その日は特別調子が悪く、会議中も咳ばかりしていた僕を廊下に呼び出し、ロアは言った。
「病院って……。そんな大げさな。ちょっとまだミュンヘンの空気に身体が慣れてないだけで……」
「それだけ咳が出るのは異常だ。お前はもともと身体があまり丈夫じゃないだろ?万が一ってこともあるんだから、ちゃんと診てもらってこい」
 僕たちの中で実質リーダー役を務めてくれているロアは、みんなのことをよく見ている。だからこそ、僕がしょっちゅう咳をしていることに気付いたのだろう。
「なにもなければそれでいいじゃないか。金がないなら貸してやるし、仕事を早めに抜けたっていい。お前になにかあったら、あいつだって困るだろう」
 ロアはやはり、僕らひとりひとりのことをよく知っている。あいつ、というのが誰かわかってしまった以上、僕は素直に従うしかなかった。
 もともとミュンヘン出身でこの街に知り合いが多いロアは、呼吸器系の疾患を専門にしている医者の所在を教えてくれた。口の堅い彼は、他の仲間に余計なことを知られないようにと、住所を書いた紙を黙って渡してきた。
 翌日の夕方、用事があるからと言って仕事を早く上がった僕は、その紙が示す場所へと足を向けた。暗雲のような不安が胸に湧きあがっていたが、それを押し込めるために何度も自分に言い聞かせた。——ロアの言うとおりだ。なにもなければそれでいい。

「胸からすこしおかしな音がしている」
 しかし、すでに髪の毛が白くなり始めている初老の医師は、聴診器を僕の胸に当てたあと、眉を寄せながら言った。
「おかしなって……。子供のころから喘息があるんですが、そのせいですか?」
「いや、それとは違う。胸水が溜まっているのかもしれんな。大きい病院に紹介状を書いてあげるから、診てもらいなさい。その病院にはX線という最新の機械があるから、それで写真を撮れば色々わかるだろう」
 判決を先延ばしにされたような気分で紹介状をもらい、その日は家に帰った。翌日ロアにそのことを告げると、「そうか」と渋い顔をしつつも、「仕事のことは心配するな」と言ってくれた。

「今日はちょっと遅くなるよ」
 翌週の水曜日の朝、身支度をしている恋人に向けそう告げると、彼女は訝し気な顔で僕を見た。
「仕事、忙しいのか?」
「え、ああ……。そうなんだ。だから心配しないで」
 そう言って抱きしめると、「あんまり無理すんなよ」といい、僕の身体を抱き締め返してくれる。
「大丈夫だよ」
 ふいに胸をつくような愛おしさが込み上げて、小さな身体を抱きしめる腕に力を込める。おかしな様子を見せれば、聡いこのひとはなにかに気付いてしまうかもしれないのに、今はどうしてもそうしていたかった。
「心配いらないよ、なにも」

 その日の午後、足を運んだ大学病院でさまざまな検査を執り行った医師は、検査後に僕を部屋に呼び、告げた。
 診断は、肺癌。
 胸水も併発しており、周囲の組織への浸潤範囲もかなり広いから、手術をしても取り切れるかどうかわからない。このまま進行すれば、余命は——……。
「もって一年……と言ったところですね」
 告げられた言葉を、僕はどこか他人事のように聞いていた。
 つい半年ほど前、臨終の床で眠るように逝った祖母の姿をぼんやりと思い出し、自分ももうすぐああなるのかと思うと、からかわれているような気持ちだった。
「そう、ですか」
 僕は死ぬのだろうか。あのひとをひとり残して。

 病院から家へ帰る道のりのことは、よく覚えていない。
 同じ場所を何度も通った気もするし、意外と早く家に辿り着いた気もする。
 アパートの玄関扉を開け、暗い階段を上り一階へ辿り着くと、扉の隙間から明かりが漏れているのが見えた。
「おかえり、アルフォンス!よかった、思ったより早く上がれたんだな」
 明るく声を掛けてきたそのひとは、大家さんにもらったアイボリーのブラウスにボルドーのスカートを合わせ、その上に紅葉を思わせるあたたかなオレンジのエプロンをかけていた。朝編んであげた髪はすこし緩んではいるが、今も背中に向かって垂れ、先端には赤いリボンが付いている。
「グレイシアさんがさ、田舎の実家から送られてきた野菜を分けてくれたんだ。だから今夜はシチューにしたぜ!仕事忙しいみたいだしさ、いっぱい食べて元気ださねぇと」
 そう言いながらレードルで鍋の中身を掻き回し、少年のような笑顔を向けてくる。いつもなら幸福が満ちるはずの光景に胸が鋭く痛み、頭の奥がぐらりと揺れた。

 僕はこのひとと離れるのだ。あと一年も経たないうちに。

 先ほどまでは夢物語のようだったその事実が突如として全身に圧し掛かり、胃を握りつぶされるような感覚に吐き気を覚える。——いやだ。頭に浮かんだその言葉が、全身の細胞を侵食するように広がってゆく。いやだ、いやだ。僕はこのひとと——離れたくない。
「アルフォンス?——っん!」
 料理をしているそのひとの左肩を掴むと、力任せに身体を壁に押しつける。そのまま無理やり唇を奪うと、片手だけでエプロンをずり下ろし、ブラウスのボタンを引き千切る。
「ん……っ!アルフォンス……ッ!や……おまえ、一体なにして……んんっ!」
 なんとか顔を背けくちづけから逃れた唇は、咄嗟に抗議の言葉を紡いだが、もう一度唇を押し付けてそれを封じた。呼吸ができず鼻から苦し気な声を漏らすそのひとを慮ることもせず口の中を蹂躙し、片手で肌着と下着をずり上げる。義手のベルトに押し上げられた膨らみを今度は両手で掴み、握りつぶさんばかりに揉みしだけば、そのひとは痛みと快楽に鼻を鳴らす。
 鍋がコトコトと音を立て始めている。それを気にして、金色の瞳が何度も調理用の薪ストーブのほうを向く。
「——っはぁ!……おま……馬鹿っ!火……料理、してるから……っ!」
 唇を解放してやると、真っ先に鍋のほうへと手を伸ばす。他の物に気を取られている様子が気に食わず、右胸の先端を思い切り舐め上げてやれば、そのひとは身も世もなく声を上げる。
「やぁっ……!なん、で……っ!やめ……あぅっ!」
 突然このような責めを受ける意味がわからないのだろう。快感で火照った顔を歪め、目には涙を溜めている。舌でさらに胸の先をこねくりまわし、もう片方の先端を指でひっかいてやれば、鼻から切なげな声を漏らす。今この瞬間、自分がこのひとを支配している。その事実に熱が上がり、脳がふつふつと沸騰する。
——離したくない。
 口に含んでいたものを解放し、今度は白い首筋へ向けて思い切り歯を立てた。先ほどまでとは違う、快楽を伴わない悲鳴が部屋を満たす。
——絶対に離さない。これは僕のものだ。僕が手に入れた、僕だけがふれることを許された、僕だけの——……。たとえ命が尽きるとしても、誰にも渡さない。誰かに渡すくらいなら、僕がこのひとを——連れてゆく。
 口の中に鉄の味がひろがってゆく。歯の刺さった傷口へ舌を這わせば、壁に縫い付けた身体が面白いほど跳ねる。ゴトゴトと、鍋の立てる音が大きくなっている。——このままでは火事になる。わずかに残った理性を糧に胸から手を放し、鍋を薪ストーブの上から、まだ包丁とまな板が置かれたままの調理台へと移動させる。
 振り返ると、床にずり落ちたそのひとは、茫然とした表情のまま目から涙をこぼしていた。エプロンはまだ辛うじて腰に引っかかっているが、ブラウスは開いて両胸は曝け出され、首についた歯形はすでに痛々しく変色している。まるで臨終を迎える獲物のような姿を見下ろしながら、僕は自分の猛ったものを取り出した。
「ゃ……なん、で……こんな……」
 膝をついてそのひとのスカートを捲り上げると、現れた白い下着をずり下げる。すでに抵抗する気力を失ったのか恐怖のせいなのか、そのひとは震える言葉だけを僕に向け、すこしも逃げようとしない。それをいいことに、すでにぬめりを帯びている割れ目に向け、自分のものを思い切り突き立てる。
「ひぅ……っ!や……そんな……ッいきなり……っ!」
 いつもはしつこいくらいにほぐし、痛みがないことを確認してから挿入しているのに、突然そのような攻めを受けたのがショックなのか、そのひとは目尻からポロポロと涙をこぼす。しかし日頃の交わりですっかり慣れたその箇所は、最初のときとは異なり、喜んで僕のものを受け入れてゆく。
 避妊具なしでその場所を味わうのは初めてのとき以来で、直に肉が絡みついてくる感覚に、視界がチカチカと点滅する。——まだだ。もっと深く結び合いたい。もう二度と、ふたつの身体が離れられなくなるくらい。そのような思いで細い両脚を持ち上げ、それを引き寄せるようにして腰を穿つと、小さな身体は陸に打ち上げられた魚のように跳ねる。その痙攣を感じながらも、壁に打ち付けるようにして力任せの律動を繰り返すと、最奥へ向け精を吐き出した。
「ぁ……おく……あつ、い……」
 ほとんど放心状態で、まるで知能が低い幼子のようにそんな言葉を漏らす。まだそのひとの中に自分のものを収めたままで、ひくひくと痙攣するひだの感覚を味わいながら呼吸を整える。しかしそれを遮り、喉から咳が何度か飛び出した。——ふざけるな。湧きあがった怒りが熱となり、再び猛りを帯びてゆく。
「やだ、アル……フォンス……抜いて……」
 とり憑かれたような思いでエプロンの結び目を解き、ブラウスや肌着を脱がせ始めると、この行為に続きがあるのだと悟ったそのひとは、力のない声で懇願し始める。それでも力で抗おうとしないのは、恐怖のせいだろうか。それはあってはならないことなのに、このひとが僕に臆しているのだと考えると、もっともっと支配してしまいたくなる。
「たのむ、から……今日はもう、これ以上は、むり……んぐっ」
 義手を外し軽くなった身体を持ち上げると、身体が結合した状態のままその身を裏返す。後ろから圧し掛かるようにして、ほとんど肉のついていない腰を抱き締めると、再び律動を開始する。まるで盛りのついた犬のようだと頭の片隅で思いながらも、腰を振るのを止められない。いつもは愛しいひとの顔が見たいからと正面から愛し合うばかりで、こんな扱いをしたことなど一度もなかった。
 また咳が出る。ほんとうに、忌々しくて仕方がない。怒りに任せて腰を打ち付ければ、苦しそうな泣き声とは裏腹に中の締め付けが強くなる。前から薄々気付いてはいたが、このひとは本来、酷くされるのが好きらしい。それはあまりにも強い自責思考のせいかもしれないし、このひとの生まれ持った性癖のせいかもしれなかった。普段は愛しいひとをどろどろに甘やかしたいから、いくらそのひとの身体が悦ぶからといって乱暴なことをするなど考えられなかったのに、今はこんなにも猟奇的な気持ちになり、このひとを食い殺そうとしている。その状況がおかしくて、場違いな笑い声と、それに続いてまた咳が出る。
「ア……フォン、ス……や、め……」
「やめない」

 死にたくない。

 そばにいたい。

 そう強く思えば思うほど、どんな残酷なことですら、できるような気がしてくる。
「渡さない、誰にも……あなたを絶対、はなさない」
 そうつぶやいて今度は右肩の薄くなっている皮膚に噛みつけば、絶望の色を含んだ嗚咽と共に膣がぎゅうと締まる。口内に広がる命の味を舌で感じながら、片腕のない身体を力の限りに抱きしめ、もう一度奥へ精を注ぎ込んだ。


 全身に途方のないだるさを感じ、もうどうしたって使い物にならない性器をそのひとの身体から引きずり出したとき、すでにストーブの火は消え果てていた。
 先ほどまであれほど昂っていた頭が、今は憑きものが落ちたように静かで、自分は一体なにをしていたのだろうと、ぼうっと考える。
 突発的に咳が出る。中々止まってくれないそれをなんとかすべて出し切り、ふと床に視線を落とすと、そこに横たわる身体はまるで命を使い果たしたように脱力している。
「……ぁ」
 とっくの昔に気をやったのだろう。わずかに見開かれたままの瞼から覗く金色に生気はなく、涙も乾いてしまっている。身体中の至る所に唇で肌をきつく吸い上げた痕が散っているが、いちばん痛々しいのはそれではない。首筋にも、肩にも、腿にも、さらには胸の先にまでも噛み痕がつき、むごたらしい赤紫へと変色している。
「エド……ワード……さん……」
 僕が、やったのだ。
 死に対する怒りと恐怖を愛しいひとへ理不尽にぶつけ、このような姿になるまで貪り尽したのだ。
「ごめん……なさい……ごめんなさい……エドワードさん……」
 恐怖と後悔に駆られながら、死体のように横たわる身体を抱き上げると、自分が散々放ったものが膣から垂れて床へとこぼれる。あまりにも、惨い。自分には泣く権利などないはずなのに、目に涙が込み上げて、神に懺悔するような思いでごめんなさいと繰り返す。僕はただ、このひとと離れたくなかった。死によってこのひとと離れなければならないことに加え、そうすればこのひとは別の者と恋に落ち、僕のことなどすっかり忘れてしまうのではないかと考えると、怖くて仕方がなかった。
 だから、刻み込みたかったのだ。僕が生きている証を。このひとを誰よりも深く愛しているのは自分だという証を、この肌に。そして、だからこそ——僕はこのひとを、傷つけた。
「ア……フォン……ス……」
 自分のすすり泣きを縫って、ほとんど声にならない声がした。顔を見ると、そのひとは先ほどと同じ覇気のない表情でありながら、瞼をわずかに押し開いて僕を見ている。
「エド、ワード……さん……ごめん……僕……なんてこと」
「だいじょうぶ、だから……」
 もう身体を動かす力はないはずなのに、そのひとは震える左腕を持ち上げて、僕の背中へと回す。
「なにも……こわくない、から……もう……安心、しろ……」
 まるで幼い弟をあやすように、そう言って僕の背をなでる。
 病のことも余命のこともまるで知らないはずなのに、まるですべてを見透かしたように僕のことを慰めてくれる。
 そのやさしさゆえに罪悪感が増幅され、僕のすすり泣きは嗚咽へと変わる。ごめんなさい、ごめんなさいと、ただひたすらに泣き続ける僕の背中をなでながら、そのひとは掠れ切った声で、だいじょうぶだ、と繰り返した。


 そのひとは、その晩僕がしたことを、なかったことにすると決めたらしかった。
 翌朝はさすがにベッドから起き上がれなかったが、夜に僕が帰宅すると、僕の所業を責めるどころかあんなことをした理由も訊かず、いつもどおりに話しかけてきた。
 しかしそれに反し、身体中についた痕はなかなか消えず、特に首のものが目立ってしまうから、しばらく髪はおろしたままだったし、できるだけ首が隠れる服を着ていた。
 さすがにそれからしばらくは、僕もそのひとと身体を重ねる気にはなれなかった。罪悪感でいっぱいだったし、また酷いことをしてしまうのではと恐ろしかった。
 そのひとはそんな僕の気持ちに気付いているようで、平然を装ってベッドの中で柄にもなく甘えてきたりもしたが、その裏にある気遣いが胸に刺さるのと、身体中にまだ残っているであろう痣を見たくなくて、応じることができなかった。
 僕の体調は悪化の一途を辿っていた。熱が出て仕事にならない日もあったし、ちょっとのことで胸が苦しくなり、重い物を運ぶのも一苦労だった。病院には何度か行ったが、医者の表情からも言葉からも、手の施しようがない状態であることを暗に告げられるばかりだったから、行くのを止めてしまった。
 あれだけ心配してくれていたロアにも、病気のことは言えなかった。診断結果はどうだったかと尋ねてきたが、僕は「喘息をこじらせてるみたいなんだ。薬をもらったから、じきによくなるよ」と嘘をついた。彼がそれを信じているのかどうかは、僕にはわからなかった。
 死んだら自分は一体どこへ行くのだろうといった恐怖は、不思議となかった。それよりも、あのひとをひとりで置いていかなければならないことを考えると、目の前が暗くなるような絶望感に襲われた。
 弟も父親も失ったあのひとを、僕はずっと守っていこうと決めていた。今でもよく、アル、アル、と弟を呼び、悪夢にうなされているあのひとを。もしも彼女が妄想の世界に生きるなら、あのひとが息を引き取る瞬間まで、とことんそれに付き合ってやる覚悟すらあった。
 それなのに僕は、あと一年ほどしかそばにいられない。
 あのひとを守りたいのに、僕にはもう、それが許されない。

 しかしその日、体調を崩したのは彼女のほうだった。身体は不自由だけれどそれ以外は丈夫で、風邪を引いている姿すら見たことのなかった彼女が、「だるくて起き上がれない」と言うものだから、僕は酷くあせった。
「大丈夫ですか!?お医者さんを呼ばないと……」
「大袈裟だよ、寝てりゃ治る……。それよりお前、早く仕事行け。今日は実験があるんだろ?」
 ベッドに横たわったまま、いつもより力のない声でそう言って、僕の手を離す。そのひとの言うとおり、その日は僕が主導する大切な実験が予定されていて、どうしても休むことはできなかった。苦渋の決断だったが、僕は言われたとおりに家を出て、すでに店の準備を始めていた大家さんに、今日はあのひとは働けないことと、体調を崩しているからよければ時折様子を見てやってほしいということを告げて仕事へ向かった。

 実験は上手く行ったが、一日中あのひとのことが気がかりで、意識が乱されてばかりだった。成功を祝して飲みに行こうと言う仲間たちに、「エドワードさんの調子が悪いから」と断り、足早に工場を去った。帰り路にある店で林檎をいくつか買い、早く帰って食べさせてあげようと、走るようにして家へ向かった。
「ただいま、エドワードさん!調子はどう?」
 アパートへ帰りつき寝室の扉を開けると、予想外にそのひとはベッドで身を起こしていた。しかし僕が声を掛けてもこちらを向かず、すでに暗くなった窓の外を見続けている。なんだか様子がおかしい。
「エドワードさん……?大丈夫ですか?やっぱりまだ調子が……」
「アルフォンス」
 窓のほうを向いたまま、僕の名を呼ぶ。直感的に、なにか大切なことを告げられるのだと理解し、身が強張った。
「今日さ、グレイシアさんが病院に連れてってくれたんだ。それでさ……」
 悲しみも喜びも宿さない、淡々とした声。それに乗せられる言葉に意識を集中させるにつれ、額に冷たい汗が滲んでゆく。
「オレ……子供ができたみたいなんだ」
 ささやくようにそう告げて、そのひとはやっとこちらへ顔を向けると、どこか困ったようにはにかんで見せた。
「お前の……オレたちの子だよ、アルフォンス」

 まるで世界から、すべての音が消え失せたような、気がした。

 しばらくして、どくり、どくり、心臓の音が甦ってくると同時に、今告げられた言葉の意味が、形を持ち始める。子供ができた、僕と、このひとの——こどもが。
 全身から一気に力が抜けて、膝から床へ崩れ落ちる。手に持っていた鞄の蓋がちゃんと閉まっていなかったらしく、中から書類や先ほど買った林檎が飛び出して床に散らばる。
「アルフォンス!?」
 そのひとは驚いた声を上げ、ベッドから脚を引きずり出す。義足はつけていないから、ベッドサイドにいつも置いてある松葉杖を掴み、片脚だけで僕のもとへやってくる。
「ごめんな、びっくりさせたか……?それとも……ガッカリしたか?」
 狼狽えた様子で左手を僕の頬に当て、顔を覗き込んでくる。金色の大きな瞳が僕を捉えたとき、僕はたまらずその手を上から握りしめた。
「そんなわけ、ない」
 すこしだけ体温の低い指先を、手のひらの中に握りしめる。この肌に、いとしい身体の中に、僕たちの——……。
「がっかりなんて……するわけない」
 目から剥がれるようにして大粒の涙がこぼれ落ちたのが、自分で分かった。その雫が頬につけた轍が渇く前に、次々と熱いものがこぼれ落ち、どうにも止まってくれそうにはなかった。
 アルフォンス、とそのひとはどこか安心したように僕を呼ぶ。嬉しいのだと、感謝しているのだと、ちゃんと伝えなければならないのに、情けないほど激しい嗚咽が溢れ出しまともな言葉を紡ぎだせない。だから代わりに、握りしめた指先にくちづけを降らし続けながら、思った。
 どうか、このひとを守ってやってほしい。
 僕の愛しいこのひとを、あらゆる苦難から守ってやってほしい。
 本来ならば親が子供を守るべきなのに、我が子にこんなことを願う自分は酷く勝手だとわかっている。それでも僕の代わりに——このひとを置いてゆくことしかできない僕の代わりに、このひとを守ってやってほしいと、僕らの血を宿した命に向けて、祈る。

 きみがこのひとのそばにいてくれるのなら——僕はきっと、安心して、逝ける。



続く