アルカロイド
左手首に銀色のナイフを押し当てて、ひと思いに滑らせれば、頭の奥につんとした痛みが走る。やがてゆっくりと湧き出した赤い血は、手首の側面を流れて床へと落ちる。
深く刻まれた傷に唇を寄せ、熱っぽく疼く痛みを感じながら、舌先で自らの血を味わってみる。しばらくそれをつづけると、自分の姿がなんだか酷く滑稽に思えてきたものだから、声もなく笑った。
灰色にけむった部屋に身を横たえて、オレはまた夢を見る。ぼんやりと靄がかった意識を辿って、たどって、めぐりあうのはいつも同じ顔。金色を纏った、悲しいくらいにやさしい、お前の顔。お前はオレに覆い被さって、体温を取り戻した手でこの頬を包む。
お前はいつから、そのような笑みを見せるようになったのだろう。幼いころはまるでたんぽぽの花みたいにふわりと笑っていたのに、お前はいつしか大人になって、こんなにも凛々しく笑っている。お前はオレを見下ろして、オレだけを見て、ここが世界の中心だというように、しなやかな筋肉をまとった身体をこの身に重ねる。
「アル」
オレはお前のくちづけがほしい。お前の愛撫がほしい。その熱が、心が、琥珀を封じ込めたようなその瞳が――すべて、すべてほしい。
「会いたかった、ずっと」
そうすればもう、いのちだっていらないのに。
白いしろい、サルビア・ディビノラム。花が見せてくれる夢は、いつもとても幸せで、ほんのすこしだけ胸を刺す。オレは縋るように、なんどもそこへ飛び込んでは、甘い毒で心を炙る。ほう、と思わず漏れた恍惚のため息が、お前に届くことなど決してないのに。
「なあ、アル……」
くらり、くらり、ゆれる意識のなかで両手をのばすと、ふいに横から現れた手が、それをしっかりと掴み取る。
「……人違いですよ」
ふわりと目をやると、夢とは別の金色の男が困ったように笑っている。空色の瞳を呆れた風に細めて、それでいて何処か余裕のない様子で、オレを見下ろして。
「ごめんね」
そうつぶやくと、男はオレの隣に膝をつき、覆いかぶさるようにしてこの身を抱きしめた。
「もうやらないって言いましたよね?」
男によって解放された窓から風が滑り込んで、部屋をさ迷っていた空気が外へと逃げ出してゆく。彼は時々咳をしては、まとわりつくような煙たさを手で振り払い、そしてオレが床に散らかした植物の燃えかすを集めると、手際よく袋へ流し込んでゆく。オレはただ横たわりながら、ぼんやりとその様子を眺めつづけている。
「今日はどれだけの濃度で試したんですか」
子供の悪戯に困り果てた母のような口調で、彼は問う。オレは重たい口をわずかに開いて、わからないと答える。その声が嫌にかすれていて、今さら喉の渇きに気が付いた。
「一歩間違ったら死んでますよ」
男はそうぼやきながら、テーブルの上の水差しからグラスへ水を注ぎ入れると、再びこちらへやってきて膝をつく。そしてオレの後頭部を支えて傾斜をつけると、この口元へとグラスを寄せてくる。
さあ、という声に促されて、オレはグラスに口をつける。こくりこくり、喉を通る水が心地いい。こくり、こくり、渇きが癒えるのを感じながら、じっくりと水を飲み干した。
「もうすこし飲みますか?」
霞んだままの頭を振ってみせると、男は丁寧にこの身を床に下ろし、テーブルの上へとグラスを置き直す。そして背中を震わせて、仰々しくため息をつく。
「身体に悪いって知ってますよね?」
「――しってる」
オレが先ほどよりも明瞭な声で答えると、男はこちらに顔を向けて、じゃあ、とつづける。けれど、すぐにその先の言葉を見失い、翳った顔を下へ向ける。
風がさわさわと、沈黙の中を吹き抜けてゆく。心地よい寒さの中で、オレは珍しく背中に汗を掻いていることに気付いていた。水を浴びたいと頭の片隅で思いながらも、自ら腕に刻んだ傷痕が嫌に重くて、朽ち果てたようにその場へ横たわりつづけることしかできない。
男は再びこちらへやって来て隣に膝をつくと、すこしなにかを考えたあと、右手でオレの髪へふれた。目もとにかかる髪をそっと掻き分けて、そのまま指を頬へと滑らせる。肌を軽くこするように親指を動かして感触を確かめると、憐れむように目を細める。
「つめたい」
そうつぶやいて身を低くすると、静かに顔を寄せて、オレの唇へくちづけた。
白いサルビア・ディビノラム。そこから千切った葉といくつかの幻覚アルカロイドを化合して、その煙を肺へと吸い込めば、この世のすべてが渦の中へと融け込んでゆく。
それは破綻したこの国に蔓延る、現実に疲れ果てた者たちが編み出した方法で、与太者たちが寄り集まっている一画を訪れたとき、死臭がするような男から教わったものだった。初めて体感したそれは、この頭をわずかにぴりぴりと痺れさせる程度だったが、オレはその感覚が気に入って、いくつかの苗を買って帰った。そして自室で栽培し、男が言っていた方法に錬金術の知識に基づいた自分なりの改良を加えて、濃度を数倍にしたものを一度に摂取した。
それは愉快な旅だった。足元が崩れ落ちるような、頭の中をぐるぐると掻き回されるような快感が、脳を支配した。身体は重みを忘れ、ふわふわと、そのまま飛んでゆけるような感覚に襲われて、オレは訳もわからず大声で笑った。机に腕をぶつけて、その上のグラスが倒れても、オレは笑いつづけていた。身体が軽かった。心が軽かった。オレを支配していた絶望や焦燥が、すべてどうでもいいことのように思えた。
救われるような――気がした。
それからオレは、頻繁にその薬草を化合しては体内へと摂りこみ、多いときは一日に何度も夢を見た。なんどもなんども、あるはずのないものを見て、もくもくと揺れる世界のなかで手をのばした。そこには会いたい奴がいた。オレがあれだけ求めても手に入れられなかった、いとしい弟の姿があった。けれど、いちどもその手が届くことはなく、オレはいつも笑いながら果てるのだった。
そんな日々がつづいたあと、楽しみの最中に同居人が帰ってきてしまい、オレの秘密がついに知られてしまった。彼は驚きながらも、現実と幻の境がわからなくなっているオレの頬を張って、必死に名前を呼びつづけた。意識の遠く沈んだところから男のやわらかな顔を見て、ああやはりこの男は弟によく似ている、と思った。
その一件で、男は今まで目にしたことがないほどに取り乱しながら、オレを酷く叱りつけた。化合するための材料や器具も全て取り上げて、無残に袋へ放り込んでしまうと、二度としないと誓わせるまで、この腕を決して離さなかった。
――もう二度とやらないよ。
ぼんやりとした頭でそう言いながら、自分の声がおかしそうに笑っているのに気付いていた。男は泣き出しそうな顔でなにかを言おうとして、そのまま唇を噛みしめた。
男は知っていた。オレがどうしようもなく破綻していて――どうしようもなく嘘つきだということを。
長いくちづけを終えると、オレのこめかみへと頬を押し付けて、男は深い呼吸を繰り返した。そのまま手をすべらせて、片手でオレの首筋へふれながら、もう片方でこの頬を撫でる。
こいつの手からは、鉄と油のにおいがする。毎日毎日、工場で機械を組み立てているものだから、肌ににおいが染み込んで、どれだけ洗っても取れないのだ。こいつはそれを気にしているのか、オレにふれる前はいつも念入りに手を洗っていた。のどかな草原を思わせる、やさしい石鹸の香り。しかしオレはその清廉な香りよりも、こいつの肌に染み込んだ鉄と油のにおいが好きだった。
「……どうしたらやめてくれる?」
どこか媚びを売るような口調で、男はふいに尋ねてきた。
「どうしたら僕の願いを聞いてくれますか?」
「お前が一度、オレと一緒にやってくれたら」
そう返すと、男は「馬鹿言わないでください」と声を荒げる。子供のような反応がおかしくて思わず笑い声を漏らすと、男は傷ついたような表情を作った。
「いいじゃないか、アルフォンス。一緒にトリップするんだ。そしたらさ、お前もオレの世界を覗き見られるかもしれないぜ。オレが錬金術で、ロケットでもなんでも作ってやるよ」
「錬金術なんてあり得ません」
きっぱりと言い切りながら、男は片方の手をオレの首筋から胸へとすべらせる。シャツの上からくすぐってくるようなその手つきがこそばゆく、笑いながら身をよじると、その姿を見て男もまた青い瞳をゆるませる。しばらくそうしてじゃれあったあと、男は再び悲しみを顔に浮かべる。
「僕はあなたと、ずっと一緒にいたいのに」
そして、すこしだけ寂しそうにつぶやいて、オレの首元へ吸い付いた。
まるで蛇が互いの身体を絡め合うように、オレたちはそのまま床で交わった。男は慣れた手つきでオレの義肢を外し、背後から覆いかぶさると、体内をゆっくりと掻き混ぜるようにしてこの身を味わった。痛みと快楽、そして先ほどのトリップによる恍惚状態に溺れながら、オレは床に降り積もった埃を眺め、弟は今どうしているだろうと考えた。
まだふたりで旅をしていたころ、あいつもたびたび、こんな風にオレの体内を掻き混ぜてくれた。もうあたたかな肉体を失くし、鉄の身体へ魂を宿したあとのことだった。あいつの指はなめし革でできていたから、ざらついた部分が粘膜をこするたびヒリヒリとした痛みが走ったけれど、それでもあいつがこの身にふれてくれていることが嬉しくてたまらなかったから、もっともっとと強請りすぎて、翌日も下着に血が滲むほど中が傷ついてしまったこともあった。
そうだ。あいつの身体からも、鉄と油のにおいがしていた。大切な魂を繋ぎとめる器である、鉄の身体のにおい。大切な入れ物が錆びないようにと、オレが塗ってやるオイルのにおい。やっぱり、あいつとこの男はよく似ている。魂の種類が同じなのだから当然と言えば当然だが、オレの身体を穿つ力加減すら、同じであるように思えてしまう。
「ねえ、約束してよ……もういちど」
あたたかい手が、声が、頬をすべる。ゆっくりとした呼吸に合わせて身体が上下し、衣擦れの音がする。穏やかなはずのその空気のなか、男は荒い呼吸を掻き分けて、言葉を紡ぐ。
「せめて、自傷行為だけでも、二度とやらないって」
オレは男の言葉をわざと聞かない振りをして、この身に圧し掛かる男のほうを振り返る。憎らしいほどに透き通る青い瞳へ向けて笑いかけると、男が腹に絡みつけた手を取り、自らの胸へと導いてゆく。
「なあ……アルフォンス」
大きな円を描くようにオレの貧しい乳房を辿らせると、その動作を男に預けて、手を離す。
「姉さんって呼んでよ。オレのこと」
その願いを口にした途端、男は不快そうに目を細め、一際強く腰を打ち付けた。
いつか、男は言った。僕は薬にしかなれないんですよ、と。
あれは確か、今日のように床へ横たわるオレを、こいつが見つけた日。そしてそのあと、戒めるみたいにオレの身体を抱いた日。オレは快楽に頭を揺さぶられながら、遠い意識の向こうで、その言葉を聞いていた。
あのときのこいつはいつもよりすこし乱暴で、力任せに何度もこの身を貫いた。気が狂いそうなほどの欲望を体内に吐き出され、オレは泣いて許しを乞うたが、男は決してオレの身体を離さず、そして言った。
――僕は薬にしかなれない、僕はあなたの希望にはなれない。
痣が残るほど強く、オレの肩を床に押しつけながら、男は何度も繰り返した。
――僕は、あなたの本当に欲しい人にはなれないんだ。
ごめんなさい、と。
彼が動くたびにこの喉から漏れる嬌声は甘く、自分で自分のだらしなさがおかしくて、オレはまたすこしわらった。とろとろと融けだした熱が汗となって身体にまとわりつくと、男はオレの身体を裏返し、肌の表面を舐め取った。
金色の頭に手を伸ばしてくしゃくしゃと髪を撫でれば、男は応えるように顔を上げる。そして誘われるようにオレの身体を持ち上げると、鼻と鼻が触れ合うほどに、顔を近づけてくる。
こいつは、いつもオレが欲するものを与えてくれる。欠落でぐちゃぐちゃになったオレの心を労わって、叱って、必要であれば熱で満たしてくれる。まろくやさしい、オレの幻覚。オレがこの世界でただひとつ手に入れた、心の痛みを和らげてくれるもの。
「お前は……いっしょだよ」
しかしどれだけ心地よくても、本物ではない。オレが本当にほしいものによく似た、かりそめの希望。求めれば求めるほど、この身を蝕む、甘い毒。
「お前はいっしょだ。あの花と」
そしていつか、オレはその幻想に心を侵され、二度と現実へは戻れなくなる。
白いしろい、サルビア・ディビノラム。そこから千切った葉と、いくつかの幻覚アルカロイドを化合して、その煙を灰へと吸い込めば、この世のすべてが渦の中へと融け込んでゆく。
それはオレの秘密の楽しみで、惨めな現実から逃避するための儀式のひとつ。そしてオレは今、その秘密を知るただひとりの男と、とろけるように熱い身体を重ねている。
それは思い通りにならない現実に疲弊した心を癒すため。生きるために必要な光へ手を伸ばしながらも、決してそれに届かないと知っているから。
男の手を自分の首へといざなうと、自らの右手を重ねて力を込めた。彼はすこし困惑したような表情を見せたが、オレがほほえみかけると、青い瞳に暗い翳をたたえながら、笑い返した。
「来て」
命じたとおり、男の指に力がこもる。ぎゅっと気管をしめつけられて、オレは思わず口を開ける。本能的に酸素を求めて喉を開くと、それを阻むかのように男が舌をオレの口内へと差し入れ、唇を塞ぐ。
ぼんやりと閉じていく意識のなかで、オレは金色の頭を掻きむしる。両手に力を入れて、こちらのほうへと引き寄せると、オレの口内で舌がうねる。
いとしい――オレのいとしいアルカロイド。自分は非力だと嘆きながら、この身体をつかんで離さない。その残酷さに気づかないふりをしながら、オレに内なる怒りをぶつけて、いっそのこと壊してくれればいい。身勝手で弱いオレのことなど、ぼろぼろにしてくれればいい。
まるでその願いが届いたかのように、男は安らいだ様子で息を吐いた。そしてすべてから解き放たれたように穏やかな笑みを浮かべながら、もういちど、その指先に力を込めた。
遠のく意識のなかで、オレは頭上の金色に手をのばす。空を切りながらも、指先がやっと届いた気がして、そして――……。
『アルカロイド』