僕が警察署に駆け込むと、事務所の椅子に座らされたあのひとは、こちらの姿を認めた途端、怯えたように顔を強張らせた。咄嗟に立ち上がろうとしたが、例の警官は素早くその肩を掴み椅子へ押し戻すと、早かったな、と僕に話しかけた。ええ、と答えながら彼女のほうを盗み見ると、小さな身体はまるで雨に打たれたあとのように震えていた。髪も結んでおらず、適当に身に着けた服に外套を羽織って外へ飛び出したような出で立ちだったが、その胸にあの手袋がしっかりと抱かれていることに、否が応でも気付かない訳にはいかなかった。

 お世話になりましたと告げて警察署を出て、彼女の手をしっかりと掴みながら歩いた。彼女は抗いこそしなかったけれど、何度か足をもつれさせ、そのたびに転びそうになるものだから気が気ではなかった。
 秋の香りをまとい始めた夜風がゆるやかに吹き、空には下弦の月がくっきりと浮かび上がる穏やかな晩だった。それに反し僕の内情は不安と疑問で烈しく波立っていた。ひとつも言葉を思い付けぬまま、近道をするべく川べりの公園へと足を踏み入れると、ろくな街灯もないその場所は闇に沈んでいた。光の差さない水底を泳ぐような気持ちで歩きながら、そういえば彼女と契りを交わしたのはこの場所だったと思い至った。初めてふたりで手を繋いで歩いた、川沿いの小路。薄紫の花を摘み取った、春の香りが彩る野原。想いを告げたときの、あのひとの戸惑ったような面持ち。
「……どうして、出ていこうとしたんですか」
 あのとき感じた胸の高鳴りの記憶が、いまは却って切なさを呼び起こし、気付けばそんな言葉を吐いていた。右手を見やれば、対岸に立ち並ぶ街灯を映した川面が、跳ねるようにきらめいているのが目に入る。あちら側はあんなにも明るいのに、僕らが歩く晦冥はあまりにも深い。
「頬を叩いたことは心から謝ります。避妊もせずに中へ出したことも……なにかあれば、ちゃんと責任を取るつもりです。昨日はどうかしてたんだ。僕も、あなたも。あれでもし、僕のことが恐ろしくなったというなら……」
「ちがう。そうじゃない」
 放たれた声は酷くかすれていて、風が吹けば立ち消えてしまいそうなほどだった。立ち止まって振り返ると、そのひとは相も変わらず手袋を胸へ押しつけながらうなだれていた。長い髪が垂れ下がり、その表情はすこしも見えない。
「なら……どうして命を捨てようなんて思ったんですか?」
 決してどこへも行ってしまえないよう、細い手首を握りしめながら問いかける。樹々のざわめきを縫って、すすり泣くような声が聞こえる。このひとは泣いているのだろうか。それとも、泣いているのは僕のほうだっただろうか。
「……オレにはもう、行くところがないから」
 やがて落とされた声は、彼女が胸へ大切に抱く手袋と同じく、無残にひび割れ擦り切れていた。
「お前以外に、この世界でオレを必要としてくれる奴なんて、いない。でもお前はもう、オレのことなんて要らないだろうから……」
 それはあまりにも勝手な言い分で、どう言葉を返せばいいのかすぐには思いつかなかった。考えあぐねた挙句、「どうしてそう思うんですか?」と問えば、そのひとは跳ねるように顔を上げた。
「オレは……まともじゃない、から…!お前にやさしくされればされるほど不安になって、痛みが、罰が欲しくなる。こんなのは卑怯だと分かっているのに、オレの罪を、お前に清算してもらいたくなる。でも、やさしいお前に、そんなこと……」
「……」
「オレはさ、お前が思うような人間じゃないんだ!無垢でかわいいお姫さまなんかじゃない。欲にまみれて、自制がきかない、とんだ壊れものだ……。だからお前が望むような御伽噺めいた幸せは、叶えてやれない」
 暗闇であっても仄光る瞳はくしゃりと歪み、口元は嘲るように歪んでいた。それはきっと、僕ではなく自らへ向けた嘲弄なのだろう。そう理解した瞬間、疑問が吹き荒れていた胸の中が、一気に晴れ渡った。
「……そうですね。あなたはとんだ変態です」
 僕の発した言葉を耳にした途端、そのひとは驚きのままに目を見開き、やがて、わかっていたとでも言うように、顔全体に波紋のごとく諦念を広げた。
「それでも僕は、あなたに出て行けとも、ましてや死ねとも言っていない」
「……ああ。でも、もうオレのほうが苦しいんだ。オレはまた、お前を失望させるから。お前のやさしさを台無しにして、お前にふさわしい幸せなんて……。だから……」
「苦しくたって知りません。あなたは僕と居るんです」
 抜身の言葉をぶつけながら腕を引き寄せると、小さな身体はよろめき、なんとか踏みとどまりながら僕を見上げた。呆気に取られたような表情に、何故だか無性に腹が立ち、怒りのまま腕をさらに引き上げる。
「約束したでしょう?僕と結婚するって。命が潰えるその日まで、ずっと僕のそばにいるって。あなた、了承したでしょう?」
 そのひとは明らかに困惑した様子で、怯えるように僕を見上げていた。かつては研究所で誰よりも輝きを放ち、僕をからかっては大きな口を開けて笑っていた憧れのひとは、いつのまにかこんなにも侘しい存在に成り果ててしまった。しかしだからといって、このひとへの想いが尽き果てたかといえば、むしろ逆だった。
「約束を破るなんて許さない。あなたが苦しかろうが悲しかろうが、僕はあなたを連れて帰る。あなたがどれだけ嫌だと言っても、あなたは僕から逃げる権利を持たない。僕だって、あなたの頭がどれだけおかしかろうが、あなたのそばから離れない。どちらかの命が尽きるその日まで、僕たちは共に居るんです」
 こんな暴論はどうかしていると、頭の中でもうひとりの自分が言う。その存在を引き千切るように掻き消して、手袋を握りしめる左手へ視線を落とす。あの日、薬指に結わいつけた小さな花。すぐに萎びて切れてしまったけど、あのとき契った約束は、今でも僕らを結び付けている。
「……ほんとうに、ずっとオレと居てくれるのか?」
 しばらくの沈黙のあと、戸惑いの浮かぶ瞳を震わせながら、そのひとは問うた。
「ええ」
 そして僕の返答を聞くと、深い息を吐きながら身体を弛緩させ――心の底から安堵したように、ほほえんだ。


 それ以来、僕たちは互いに自らを偽ることをやめ、どこまでも赤裸々に欲をぶつけ合うようになった。
 隠しごとがないといえば聞こえはいいだろうが、実際はそんなに綺麗なものではなく、相手を慮ることなく自らの願望を優先するようになったと言うほうが、きっと正しいだろう。
 僕は今でも彼女と交わるとき、必ずあの手袋をはめる。愛しいひとの身体へ火を灯すため、死んだ獣の革でできたあの手袋で肌や粘膜へふれる。
 愛しいひとは、僕が革の手袋で胸の先端や陰核を思い切り摘まむたび、ひんひんと子供のように泣きじゃくり、いとも簡単に達してしまう。時には快楽が過ぎて失禁さえしてしまうその姿に、かつての高潔さは微塵もない。
 それでも僕は、決して彼女を手放そうとは思わない。だから彼女の望むままに快楽を与えてあげる。革手袋をはめた手で秘部を抉じ開け、子宮まで指を捻じ込めば、内臓を掻き出すようにしてそこを刺激してあげる。そしてひとたび彼女が達せば、今度は僕の番がくる。彼女は弱いところを革手袋で擦られながら、僕のものを慰めてくれる。あるときは小さな口でぎこちなく奉仕し、あるときは痛みに頬を火照らせながら、懸命に膣で包み込んでくれる。
 歪な慰め合いをつづけながら、僕らは互いを縛り合う。あの日結んだ約束で。そして、もうそこにはないはずの花の鎖で。


 ある日帰宅すると、愛しいひとはまた義肢も着けずにシャツ一枚で寝台へ横たわり、手袋をはめた左手で、いつかのように自らを慰めていた。それはもう珍しい光景ではなかったから、指が届かずもどかしそうに身をよじる姿に憐れみと呆れを覚えながら、しばらくその姿を眺めていた。
「……エドワードさん。勝手に僕のシャツを着るのは止めてって言いましたよね。そんな風に着たまま横になられると、皺になるんですよ」
 努めて冷めた口調でそう告げると、恥ずかしげもなく喘ぎ声を上げつづけていたそのひとは、涙で赤らんだ瞳で僕を見た。身体に対して大きすぎる僕のシャツは膝まで届いているのに、ボタンを留めていないものだから、身体の前面が惜しげもなく露わになっている。ほら脱いで、と空の右袖を引くと、いやだ、と子供みたいに寝返りを打ち、こちらへ背を向ける。
「だってお前のにおいがして……お前とアル、両方に抱かれてるみたいだから……」
 肩越しに僕を見やり、残酷なのかかわいらしいのかわからないことを言って、濡れた金の瞳をへらりとゆるめてみせる。
 その笑みを見ながら、改めて思う。このひとを繋ぎとめるために結んだはずの花の鎖。しかし結局、どうしようもなく縛りつけられてしまったのは、きっと僕のほうだったのだろう、と。



『花の鎖』