ほんの一年前の僕に、一年後の今ごろ、自分はどうしていると思うかと問えば、なんと答えるだろうと考えるときがある。
きっと〈彼〉は、修士論文を無事に受理されて、博士課程への切符を手に入れている、と言うのだろう。自信なさげに、だからこそそうあってほしいとか、そうしたいというのではなく、その未来は間違いなくやってくるのだと、まじないのように断定形を使って。
ならば、勉学のこと以外ではどうかと問えば、きっと〈彼〉はすぐに意味を理解せず、きょとんととぼけた反応を見せるだろう。だって一年前の僕の頭には、ロケットのこと以外はなにもなかった。宇宙物理学で博士号を取り、世界的な研究機関で宇宙まで届くロケットを作ってみせる。それだけを望み、そのために昼も夜も研究室に籠ってきた。
それなのに、今の心のほとんどは、別の存在が占めている。そんなことを知れば、きっと一年前の僕は激昂し、僕のことを拳で殴りつけるだろう。僕はその怒りに抗うつもりはない。自分でもわかっているのだ。今の自分がどれだけ愚かで、どれだけおかしな状態になっているのか。
修士論文の進捗報告会が終わり、仲間たちと学食で三時間も議論を交わした後、僕はやっと帰路についた。十一月の風はプラットフォームで電車を待つ人々の合間をすり抜け、刃のような冷たさで身を切りつけていった。僕もまた寒さに肩をすくませながら、あと十分もやって来ない電車を待つ間、なんとかこの苦痛を紛らわせようと考えていた。
以前の僕なら、そこで迷わず研究ノートや本を鞄から取り出し、復習や新しい知識の獲得のために時間を費やしていただろう。しかし、今の僕は操られるようにイヤフォンを取り出してしまう。以前は音楽なんて集中を妨げるものでしかないと思い、まったく興味なんてなかった。そんな僕が性能のいいイヤフォンを耳に入れているのを見たクラスメイトは、一体なにを聴いているのだと問うてきたが、耳栓変わりだと誤魔化すことしかできなかった。
だってこれは、とっておきの秘密。誰にも言えない、罪悪感と甘い幸福感をボウルの中で混ぜ合わせたような、とびきりの秘めごと。
プラスチックの感触を耳孔に感じながらスマートフォンを取り出すと、動画サイトにアクセスし、おすすめの一番上に表示された動画をタップする。短い広告が終わると、画面いっぱいの白い光の中、浮かび上がるようにしてひとつの姿が現れる。フリルのたくさんついた赤い衣装に身を包み、淡い色の花や羽が散らばるシーツの中で目を閉じて眠っている、小柄な少女。投げ出された華奢な手脚はすらりと長く、そして、子供かと思うほど小さな頭から流れる長い髪は、目もくらむほど艶やかな金色。そのまばゆさに目を奪われていると、少女はゆっくりと目を開く。
これまで一体、何度観たかわからないその映像。それなのに少女が目を覚ます瞬間、僕の心臓は、決まって動きを止める。その美しさに息を呑むように、その神々しさを畏怖するように。
少女は透き通るような金色の瞳をぱちりと開いてこちらを見上げる。決してやさしげではなく、きつく怜悧な印象を与える顔立ちは、不用意に笑いはしないからこそ余計に人間ではないなにかに見える。僕は呼吸を止めたまま、その瞳を見つめつづける。まるで天使に恋慕を抱いてしまった、愚かな人間のような気持ちで。
きっと、生まれ変わっても
彼女の姿を初めて目にしたのは、友人と共に訪れた都市部にある巨大スクリーンだった。たまには息抜きにおいしいものでも食べようと、友人イチオシのラーメン屋へ向かおうとしていたとき、彼女が突然、頭上の巨大スクリーンで金色の瞳を押し開いたのだ。
僕はわけもわからないまま、その金色に魅入られた。あれだけうるさかった雑踏が遠のいて、彼女の桃色の唇から漏れる息づかいが、耳をかすめたような気すらした。
――あれは、一体なんという美しい生き物なのだろう。
「おい、ハイデリヒ!あぶねえぞっ!」
友人が叫んだのと、車がクラクションを鳴らしたのが同時だった。我に返った僕は、自分が巨大な交差点の真ん中に茫然と立ち尽くしていることと、信号がとっくの昔に赤に変わっていることに気が付いた。友人が必死に手招きするほうへと急いで走ると、背後を車が痺れを切らしたようにハイスピードで駆け抜けていった。なにしてんだよと真っ青になって叫ぶ友人に謝りながら、僕は先ほど目にした金色の姿を頭の中で思い出していた。
どこか夢見心地のまま友人と食事を済ませ、適当に街をぶらついたあと、明日までに読まなければならない本があるからと嘘を吐いて友人に別れを告げた。いつもは人に嘘を吐くなどという不誠実なことは決してしないのに、罪悪感すら覚えないまま電車に乗り、ひとり暮らしのアパートへ着くと手も洗わずにノートパソコンへ飛びついた。
どう検索していいのか見当もつかないまま、検索語を入れ替え、削り、足し、やっと辿り着いたのは、ある女性アイドルグループの公式サイトだった。胸焼けしそうなほど甘いピンク色で飾り付けられたトップページには、十名の少女の写真が掲載されていた。それぞれがフリルやリボンをひらめかせてとびきりの笑顔を向けるなか、たったひとり、氷のように冷たい眼差しでカメラを見つめる少女がいた。
――見つけた。そう思いながら彼女のプロフィールをクリックしたときにはもう、僕の頭の中はすでにそのひとのことでいっぱいになっていた。
その晩僕は、彼女のことがすこしでも知りたくて、寝る間も惜しんでインターネットで記事や動画を検索し、情報を頭へ詰め込んだ。年齢は二十一歳。六年前にメジャーデビューを果たしたアイドルグループの、唯一の追加メンバー。初期から変わらないメンバー六人で構成されていたグループに三年前に加入し、いきなりセンターへ抜擢。新人ながらパフォーマンス力は群を抜き、その美貌も相まって、瞬く間にエースへと上り詰めた。最初はもともとのファンたちからの風当たりも強かったようだが、実際に彼女のパフォーマンスを観た者は口を噤み納得するしかなく、さらに彼女の加入によりグループの知名度が飛躍的に上がったらしく、最近のコメントでは彼女の存在を称賛するものがほとんどになっていた。
「本名なんすよ、これ。エドワードって。女なのに変でしょ?」
もっとも驚いたのは、パフォーマンス中にはすべてを拒絶するような凛々しい姿を見せる彼女が、素に戻ると気さくで、まるで少年のような喋り方をすることだった。インタビュー動画やメンバーでの対談では自らを「オレ」と呼び、小さな口を恥ずかしげもなく開けて笑う。最初は見た目と所作のギャップにショックを受けたが、段々とその飾らない人柄に引きずり込まれるような魅力を覚え、気付けば僕は、エドワードというその少女の虜になっていた。
そして僕は、これまでの人生でずっと留まってきた安全地帯から、驚くべき速度ではみ出していった。帰宅後の時間や週末など、以前なら意地になって勉強に使っていた時間を、スクリーン越しに彼女の姿を見つめるために使うようになり、恥ずかしさで死にそうになりながらも彼女が載っている女性向けファッション誌を買った。週刊誌の付録だった彼女のポスターをベッドの隣の壁に貼ったときには、自分は一体どうしてしまったのだろうと、思わず渇いた笑い声を漏らしてしまったほどだった。基本的に平和主義で常識人だと自負していたのに、舌に乗せれば乗せるほどこの身を蝕んでゆく甘い毒を自ら進んで摂取しているような感覚に、内心呆れている自分がいることもわかっていた。それでも、どうしてもやめることはできなかった。ただ僕は、彼女の姿を視界に入れていたかった。それが決して手の届かぬものだとわかっていても、その美しいものを崇拝し、縋りついていたかった。
そしてついに、僕はこの目で直に彼女の姿を拝む機会を得た。彼女たちのグループがホールで行うライブのチケットが手に入ったのだ。
これまでの人生で、アイドルのコンサートはもちろん、観劇にすら足を運んだことのなかった僕は、子供のように緊張しながら電車に乗って会場へ向かった。格好はおかしくないだろうか。周りのファンとの温度差で、会場でひとりだけ浮かないだろうか。もしも知り合いに会ったらなんと言い訳しようか。そうした不安を頭でこね回しながら物販でペンライトというものと、彼女の載ったグッズを一通り購入した。学生には決して安い買い物ではなく、これで当分モヤシ生活だと思いながらも心は浮足立ち、早く家で開封したいという気持ちでいっぱいだった。
開場時間になり、長い列の前方がゆっくりと進みはじめる様子を見ながら、なにかしらの手違いで入場できなかったらどうしようという不安を抱いていたが、スタッフにチケットを見せると、あっさりと中へ通された。拍子抜けしながらも手洗いを済ませ、チケットに書かれた席へと向かうと、それはこともあろうかステージから数えて三列目のほぼ中央だったものだから、思わず腰を抜かしそうになった。ファンクラブには入りたてだから、どうせいい席は当たらないだろうと思っていたし、アリーナという言葉の意味もよくわかっておらず、自分がそんな幸運に恵まれていたことを知りもしなかったのだ。
応援するメンバー固有の色のTシャツを身に纏ったファンが周りに増えていくなか、僕は至極凡庸なシャツとズボンという格好のまま、汗ばんだ手でペンライトを握りしめていた。自分も物販で買った彼女のメンバーカラーのTシャツに着替えようかとも思ったが、恥ずかしさが勝ってどうしても無理だった。それに、もうすぐ生身の彼女を目にできるのだと思えば思うほど、着替えのために今席を立てば、恐ろしさが勝って二度と席に戻ってこられない気がした。
やがて開演間近を知らせるブザーが鳴り、続いてリーダーを務めるメンバーのアナウンスが入ると、ファンたちの熱は一気に高まった。緊張で今にも吐きそうな僕は、口から心臓や吐瀉物が飛び出さないように手で覆い、じっと息を殺していた。
そしてついに、最後のブザーに続いて会場の灯りが落ち、爆音で音楽が響き始めた。暗闇に落ちたステージにまずは黄色のスポットライトが差し、次に青が差す。緑、ピンク、と続き、これはメンバーカラーなのだと理解する。紫、オレンジと来たところで、それらの色が差し示す場所に、ステージの背後からそれぞれの色を司るメンバーの影が現れ、会場から絶叫が上がる。そして最後、ステージの中央に真紅のライトが差したとき、周りの空気が一気に緊張したのが肌で分かった。張りつめたそれを破るように、ひとつの影がライトの中を歩いてくる。胸を張り、自信に満ちあふれた足取りで。そして中央まで来るとぴたりと静止し――真紅の中でも負けじと光る金色の瞳を開いた。
割れんばかりの声援と拍手。それを受け止めるように、そのひとは自信ありげに顎を持ち上げると、天上へ向けて右拳を突き上げた。
これまで画面越しに散々観てきた憧れの姿は、ステージの上でさらに何十倍も輝いて見えた。それはライトや弾ける汗のせいだけではなく、このひとはやはり特別な存在なのだと思わせるなにかをまとっているせいだった。一番背の高いメンバーと並ぶと頭ひとつぶんほど小さいのに、誰よりも大きく見える不思議なひと。キレのあるダンスも、芯のある歌声も、自信に満ちた表情も、このひとこそ主役だと思わせるには十分で、彼女が中央へ躍り出るたび、会場のボルテージが一気に上がった。
隣のファンの男性が赤色のライトを振り回し、彼女の名前を絶叫する横で、僕はただ茫然と立ち尽くしていた。せっかく買ったペンライトに光を灯すこともできず、スクリーン越しに焦がれつづけたその存在にただ見入っていた。本当は名前を呼びたかった。赤のペンライトを振り回したかった。それなのに彼女があまりにもまぶしくて、自分の存在を示すことすらおこがましいように思えた。
ライブも後半に差し掛かり、怒涛のメドレーが終わると、今度は会場になめらかなピアノの前奏が響き渡った。僕はすぐに気付いた。これは彼女の加入後、最初にリリースされた、いわば彼女のデビュー曲。そしてあの日、僕が巨大スクリーンで彼女に魅入られるきっかけとなった曲。
白いピンスポットの中で、ミュージックビデオを再現するみたいに、彼女は目を閉じていた。流れるような金色の髪が光を反射して、目を開けているのがつらいほどにきらめいていた。それなのに、やがて開かれた金の瞳は、どんなにまぶしいライトでも突き破るほどの、鮮烈な光を放っていた。
どうして突然、そんなことをする気になったのかはわからない。
まるで本能に命じられたみたいに、僕はペンライトに赤の光を灯し、頭上へ向けて突き上げた。女王への忠誠を示す家臣のような想いで。そして、あなたに出会ってから、僕の人生はすっかり変わってしまったのだと、叫ぶような気持ちで。
彼女はその光に目を向けた。そんな風に見えた。そしてわずかに視線を落とすと一瞬戸惑ったように目を見開き、それからいつもはステージで決して見せない、どこかやわらかな笑みを浮かべた。
目が合ったような、気がした。
夢心地のまま家へ帰ると、しばらく脱力して床に座り込んだ。先ほど自分が目にしたものが信じられず、ステージを舞っていたのは幻だったのではないかと何度も記憶を反芻した。やがて引き寄せられるようにして鞄の中から購入したグッズを取り出し、ランダムで五枚封入されているトレカの黒い袋を開封すると、三枚目に望んでいた姿が現れてくれたものだから、喜びと安堵で思わず頬がゆるんだ。
決して手が届かず、言葉を交わすこともないであろう、夢の世界に住まうひと。
それでも今ここに来てくれたあなたは僕だけのものだと、小さなトレカを天井に掲げながら、幸福で胸を膨らませた。
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