月夜のまぼろし
その晩はあまりにも月が青く、まるで妖術にでもかけられたように、心がふわふわと浮足立っていたのを覚えている。
久しぶりに再会したかつての研究仲間たちと挨拶を交わし、そのまま近場のビアホールへと流れ込んで酒を飲んだ。もちろんそこにはあいつも居て、当然のようにオレの隣に座り、やたらに酒を飲ませようと絡んでくる仲間たちに、困ったような笑みを向けていた。
「おい、エドワード!あの話聞かせてくれよ。ほら、お前の『もと居た世界』の話!」
仲間のひとりがそう声を上げたのは、そこにいるほとんどが酒に呑まれ、顔を赤らめ始めたころだった。かく言うオレも、かつては志を同じくした奴らと騒ぎながら酒を喉に注ぎ込んだせいで、随分と大胆な気持ちになっていたのを覚えている。
だからオレは、ひとつ返事で了承すると、本当はいつでも話したくてたまらない故郷の話を始めた。この世界と似ていてもまるで異なる、オレが焦がれて仕方がないあの世界のことを。
オレが「錬金術」という単語を発するたびに、仲間の多くは弾けるような笑い声を上げた。前は笑われると酷く腹が立ったのに、その晩は酒のせいか、それとも先ほど目にした妖しい月の光のせいか、自分が皆を笑わせているのだという事実に喜びすら覚えていた。
「そしてオレは最年少で国家錬金術師の資格を得たってわけ!」
そこまで話し終え、周りが拍手や指笛でオレを囃し立てていたとき、隣の身体が突然ガクリと体勢を崩した。
「おい、ハイデリヒ!大丈夫か?」
リーダー格の男がそう声を掛けると、オレの隣に座っていた男は机に突っ伏しながら口を押さえ、気分が悪い、と言った。どうやら酒を飲ませ過ぎたらしいと気付いた仲間たちは、最年少の彼に無理をさせたことを反省したのか、一斉に真面目な表情を取り戻し、口々に彼を案ずる言葉を掛けた。
「もう遅い。今日は解散だ。エドワード、ひとりでハイデリヒを支えられるか?」
暗に頼りないと言われたようで腹が立ったが、隣で男が「だいじょうぶ、歩けます」と言ったことで、オレたちはふたりで帰ることになった。ふたり、と言っても帰路の途中までは家が同じ方向にある数人の仲間も一緒だったが、アパートまであと十分ほどのところで、最後のひとりとも手を振って別れを告げた。
その背中が闇の中で見えなくなったとき、隣の男が突然オレの左腕を掴んできた。見上げると、男は先ほどまでの苦しそうな様子とは打って変わって、どこまでも冷ややかな眼差しでオレを見つめていた。
行きましょう、と言い、男はオレの手を引いた。思いのほか力が強く、オレはほとんど引きずられるようにして男の後ろを歩いた。ふと視線を上げると、目の前を歩く男の高い頭上の向こうにある月が、先ほどよりもさらに青白い光を放っており、まるで命を欠いた者の皮膚の色みたいだと思った。
家について玄関扉を開錠すると、男はなにも言わずにオレの背中を押した。入れ、ということだと思い敷居を跨ぎ、なんとなく振り返った瞬間、すさまじい衝撃に全身を弾き飛ばされ、オレは床へと倒れ込んだ。
「……錬金術の話はするなって言いましたよね」
灯りも点けていない部屋の中、男は言った。その声は、先ほど仲間たちと談笑していたのと同じ人物が発したとは思えないほど、低く冷たいものだった。
ふいに鼻の奥からなにかが流れ落ちてくる感触を覚え、手で押さえると、いつも嵌めている白い手袋が真紅に染まった。鼻からさらさらと淀みなく流れ出してくるそれを受け止めきれず、口の中に鉄の味が広がってゆくのを感じながら、ああオレは叩かれたのか、と考えた。
「それとも、わざとやっているんですか?僕を怒らせるために」
オーク材の古い床にコツコツと足音が響き、それに続いて頭皮に鋭い痛みが走った。思わず声を上げたが、それにも構わず男はオレの頭頂部の髪を掴み、この身体を片手だけでいとも簡単につるし上げた。
「あなたはいつもそうだ。僕のことを甘く見て、この心を弄ぶようなことばかりする。僕はこんなにも真剣に、あなたのことを心配しているのに!」
ねえ、とどこか泣き出しそうな声で詰め寄られ、火照る瞼を押し開けると、やはり男は先ほどまでの冷静さを欠いた、余裕のない表情でこちらを見つめていた。
「僕に心配をかけて楽しいですか?」
僕のことを苦しめて楽しいのかと、男は問うた。オレは何も答えなかった。鼻から流れる生温かい血が、顎を伝って床へ落ちてゆくのを感じながら、まだ幼さを残した顔を見つめていた。
「錬金術だなんて、まともな人間の考えることじゃない。あなたの頭がおかしいのだと誰かに知れたら、あなたは一体どうなるか……。知ってるでしょう?最近人気を高めているナチスという政党。あの人たちは優生思想を提唱し、身体や精神に障害のある人間は排除すべきだと主張している。あなたはただでさえ手脚が悪いのに、その上気までふれているのだと知れたら……」
ちがう。オレは気がふれてなんていない。そう言いたいのに、吊り上げられた頭皮が痛くてうまく声が出ない。代わりに意地のようなもので男を睨み返すと、男は不快そうに顔を歪め、オレの髪をさらに高くまで吊り上げた。
「あなたはわかっていない。あなたの軽率な言動が、どれだけの危険を呼び寄せるか。そして僕が、どれだけあなたのことを案じ、あなたのことを愛しているか」
頭皮が剥がれるのではと思えるほどの痛みに、意図せず涙がこぼれ落ちた。それを合図とするみたいに、男が髪を解放したものだから、オレは穀物の詰まった麻袋みたいに、鈍い音を立てて床へと落ちた。
落下の際に肩を打ち、痺れるような痛みに顔をしかめていると、男はオレに馬乗りになり、コートを脱がせてきた。抵抗する気も起こらず、されるがままになっていると、そのままベストを脱がされ、次にベルトとズボン、そして下着を剥ぎ取られた。上半身にシャツを纏っただけの姿にされ、ああこのまま犯されるのだなと思っていると、予想とは裏腹に、男はオレの身体を抱え上げると、上半身だけをダイニングテーブルへうつ伏せに寝かせ、腹から下がぶらさがるような体勢を取らせてきた。
「……十回です」
男に向かって尻を突き出すような無様な姿勢を取るオレに向け、男は冷たく言い放った。一体なにが、という思いで振り返ると、そこには先ほど抜き取ったオレのベルトを手に持ち、こちらを見つめる姿があった。
「このベルトで、十回あなたを打ちます」
こいつはなにを言っているのだろうと思い、机から降りようと身動ぎすると、突然鋭い熱が下半身を切り裂いた。
「……一回」
肌が焼けるように痛み、それがどこから発生しているのかがわかってくるにつれて、自分は今、ベルトで尻を打たれたのだと理解した。奥歯を噛みしめ悶えていると、先ほどと同じ痛みが再び臀部を裂いた。
「二回」
痛みに耐えきれず、オレは自分でも気付かないうちに目から涙をこぼし、喉をひくつかせていた。そんなオレに同情したような様子で、男はベルトを持つ手を下ろすと、テーブルに横たわるオレの顔を覗き込んだ。
「……これはあなたのためなんですよ、エドワードさん」
子供をあやすような、どこまでもやさしい声。涙を拭う手にも慈愛が満ち、この手がオレの頬を叩き、髪を掴み、そして鞭打っただなんて、到底信じられないほどだった。
「あなたはわかってないんだ。自分の価値も、僕の気持ちも。あなたにもしものことがあったらと、僕がいつも心配しているのがわからない?」
わかっている。お前がどれだけオレを気にかけてくれているか。この世界で、お前がオレを愛してくれる唯一の存在だということも、ちゃんと。
「あなたになにかあったら、僕はもう生きていけないのに」
じとりと濡れた愛の言葉を耳に注ぎ込まれ、痛みとこそばゆさで眩暈がする。そういえば、かつてあいつも同じことを言わなかっただろうか。姉さん、ねえ姉さん、あなたになにかあったら、ボクはもう生きていけないよ、と。
そんな記憶を瞼の裏に描いていると、先ほどと同じく皮膚を裂くような痛みが走った。それに続けて暗い声が、三回、とつぶやく。
四回、五回、と懲罰は続き、六回目を数えるころになると、皮膚の表面にあふれだした血が、太ももを伝って床へと落ちるのが、感覚でわかった。
「綺麗な肌が台無しです」
男は、まるでそれが本当に悲しくて仕方のないことだというようにつぶやき、指先で労わるみたいに傷口をなぞると、そこへくちづけを落とした。肌の裂け目に舌をねじ込まれ、わずかに顔を覗かせた肉に舌先を当てられると、焼けるような痛みに腹の底が引きつった。
「こんなことしたくないんだ、本当は。ボクはあなたの身体を痛めつけたいんじゃない。愛したいんです」
唇はなだらかな丘をゆっくりと下ってゆき、やがて露わになっているであろう秘部に押し当てられる。敏感な部分に唇と熱い息が当たり、それだけで下腹部がじんと疼いた。
「あなたを初めて愛した日のこと、僕はずっと覚えているよ。あなたは自分の身体を傷だらけで汚いだなんて言ったけれど、僕にとってはどんな芸術品よりも美しく見えたんです」
言葉の合間に、ぐずぐずと濡れ始めたところを悪戯にすすり上げられ、ひゃあっと、先ほどとは違う種類の悲鳴が上がる。それを楽しむように、舌でじっとりと愛液を舐め取ると、再び火照った息を吐きかける。
「だからこの身体に傷をつけるたび、まるで自分の心臓に皹が入っていくような心地になるんです。……でもね、僕はこれをしなきゃいけない。あなたのことが大切だから。それに……」
ふいに言葉を切ると、男は立ち上がり、先ほどよりも容赦ない力でオレの尻を打った。ベルトが肌の裂け目に命中し、露わになった肉を抉る。
「僕以外の者があなたを傷つけるだなんて、耐えられないから」
七回、というささやきに続き、男は沈黙する。部屋に響くのは、オレの惨めなすすり泣きだけ。まるで酷い感染症にでもかかったみたいに、頭が割れるような痛みを響かせ、思考がおかしくなってゆく。
「こんな目に遭うのは嫌?」
まるで自分も同じ痛みを感じているのだと言うように、苦痛の滲んだ声で男は言う。
「それとも、お仕置きがほしくて、わざとやってるんですか?」
その言葉を耳にした途端、腹の底からじわじわと悦びが込み上げて、オレは意図せず顔をゆるませた。
こういうことは初めてではなかった。これまで何度も、男はオレの行動を咎めると、仕置きだと言って制裁を加えた。さすがに今回のように鞭打たれたことはなかったが、縛られたことは何度かあった。オレがビアホールで柄の悪い酔っ払いに髪を触らせたあと、ひとりで家を抜け出して夜の散歩へ行ったあと、碌でもない者たちがたむろする地区で手に入れた草を吸い込んで幻を見ていたあとも、男は酷く厳しい顔で、オレのことを咎めた。
最初はただ言葉で注意を与え、時々この両手首を掴み、壁に押さえつけながら言い聞かせてくる程度だった。しかしオレはこの男の言葉を聞かなかった。こいつのことは好きだったし、恩情も感じていたが、それでもオレはやめられなかった。オレが言いつけを破ったのだと気付き、こいつの顔に亀裂が走るのを見るたび、胸をぎゅっと締め付ける快感を手放したくはなかったから。
だって、それは証のように見えたのだ。オレのことを案じ、大切に思ってくれているのだという証。オレはそれが欲しかった。ひとりぼっちのこの世界で他の誰も与えてくれない、愛されている証が欲しかった。
男の行動もまた、常軌を逸していた。こいつはオレを裸に剥き、両手両足を縛り上げると、寝台に転がしてそのまま仕事へ行ってしまい、一日中放置した。またあるときは、背後から圧し掛かるようにしてオレの胸を鷲掴んだたまま、義手の接合部付近の薄くなった皮膚へ歯を立て、血が出るまで放してくれなかった。
男は言った。これは制裁なのだと。本当はこんなことをしたくはない、あなたを苦しめることなどしたくないと。
それでもその身は、声は、熱く火照っていた。オレの身体に触れるその手は、この身を見つめる瞳は、ずぶりと暗い欲に濡れていた。
その浅ましさがたまらなく好きだった。誰よりも穏やかで、決して誰かを傷つけるようには思えないこの男が、オレだけに見せる怒りと苦しみと、狂気的な独占欲。それだけが、憎くてたまらないこの世界で、オレがまだ自らの存在を捨てずにいられる、唯一の理由だと思った。
やめろ、アルフォンス、やめてくれ。オレがそう懇願するたび、男は悲しげな表情のまま首を横に振った。こうでもしないとあなたはわからない、仕方ないんですと、まるでこれから痛めつけられるのが己の身だとでもいうかのように苦しげな声でそう告げ、ベルトを振り下ろした。オレはもう、ひゃんひゃんと憐れな悲鳴を上げて泣きつづけることしかできなかった。オレが嗚咽で喉を震わせ、だらしなく涎を垂らしながら身体を震わせるたび、男の身が熱を帯びてゆくさまを想像しながら。
「八回」
何度も鞭打たれたその場所は、もう自分の肌としての感覚がなく、ただただ火がついたように熱かった。度を越した痛みに目の前がチカチカとゆらぎ、意識を手放しそうになると、男はそれを阻むようにオレの後頭部の髪を掴み、揺り動かした。
「……時々思うんです。僕はもうあなたを閉じ込めてしまうべきなんじゃないかって」
脳をぐらぐらと揺さぶられながら、ねえと問われても、オレはもうなにも言葉を発することなどできない。顔は涙と鼻血と涎でぐちゃぐちゃになり、身体は瘧にかかったように痙攣していた。
「あなたが目の届かないところに行ってしまわないように、この部屋に繋ぎ止めておくんです。それでもあなたはきっと、なんとかして抜け出そうとする。だからあなたの身体に残った生身の手脚も、そっくり捥いでしまうんだ」
これを、と腕をさすりながら囁かれれば、かつて真理によって腕が千切り取られたときの痛みが脳裏に蘇り、全身から冷たい汗が噴き出す。
「胴体だけになったあなたは、怨めしげに僕を見るでしょうね。何処にも行けず、食事も、排泄すらも自分でできない。もちろんもう、悪いことだってできない。ベッドの上に転がりながら、毎日僕の帰りだけをただひたすら待つんです」
おぞましい話を語りながら後頭部の髪をやさしく梳かれると、胸がぎゅっと締め付けられ、臀部を覆う痛みとの差異にもう訳がわからなくなる。すべてが嘘のようで、自分はきっと幻を見ているのだと思った。そんなオレを現実に引き戻そうとするかのように、男は身を起こし、再び腕を振り上げた。
「九回」
空気を切り裂く鋭い音が、耳に刺さって恐怖を煽る。何度も悲鳴を上げたせいで、喉がすっかり枯れている。すでに傷ついている所を何度も打たれて、肉が少しずつ剥き出しになり、回数を重ねるごとに痛みが増していく。
「けれど、僕だっていつもあなたの面倒を見られるわけじゃない。出張だってあるし、作業場へ泊まる日もあるからね。だからあなたを保存液に浸けて、ガラスの中に沈めてしまうのはどうでしょう。あなたはまだ生きている。四肢を失い、ただの肉塊のような状態になって、黄緑色の液体の中を浮遊しつづけるんです」
再び覆いかぶさってきた身体は重く、肺に穴でも開いたかのごとく呼吸がままならなくなる。その大きな手はシャツ越しにオレの腹を撫で、胸をなで、顎を固定するように首筋を包み込む。
「ああでも、この瞳は抉り出して小瓶に入れてしまおうかな。僕が最も愛する、綺羅星のようなあなたの美しい瞳を、僕はいつでもそばに置いておきたいからね。それに、そうすればあなたも、僕と同じ景色を見ていられますよね。僕らは常に同じものを見て、ひとつの意識を共有し、分かち難いものになるんです」
ねえと、瞼に触れられて、抗うようにぎゅっと目を閉じると、男は目尻から溢れた雫を、親指の腹で拭う。
「僕は毎日、ガラス越しにあなたの身体と眼球へくちづけます。なんて幸せだろうと、そう思いながら。もう心配しなくていい。あなたが誰かに傷つけられるんじゃないかと、汚されてしまうんじゃないかと、もうそんな心配はしなくていいんだ」
ねえわかるでしょう。そう言いながら指で眼球を圧迫され、痛みで喉が詰まる。しかし続けて胸の先端の柔い部分を、もう片方の手の指が辿ると、今度はもどかしさに身体が震え始める。自分が与える刺激でいちいち反応を変えるオレを見て、男は嬉しそうにクスクス笑う。
「ねえ、エドワードさん」
そして、穏やかな風のような声で、オレの名を呼ぶ。
「僕はあなたを守りたいんです。あなたを守れるなら、僕はどんなことだってします」
ねえ、エドワードさんと、ぐらぐら揺れる意識の向こうで、何度もなんども繰り返す。
「僕はあなたに会うために生まれてきたんだもの」
それは手足を拘束する縄よりも強く、オレの心を縛って離さない言葉。この意識を掻き乱し、夢と現の境目を曖昧にする、毒のように甘美な言葉。
「僕はあなたのために生きてるんです」
ねえわかって。そうつぶやくと、獣が獲物に印をつけるように、男はオレの項に歯を立てる。身体が密着したことで、鞭打たれてぐずぐずになった肌に硬いものが擦り付けられているのを感じ、やはりこいつも猛りを覚えているのだということを知ると、胸の中に悦びが爆ぜる。その熱いものがどうしても欲しいと思い、だらしない声を漏らしながらしきりに自ら腰を押しつけても、男は決してオレの欲しがるものを与えようとはしない。自分ではどうにもできない状況に涙がぼろぼろとあふれ出て、もう我慢ができないと視界が点滅しだしたころ、男はすっと手を放し、この身体を解放した。
「どう……して……?」
震えながら振り返り、縋るように見つめると、男はやさしげに笑っていた。
「痛いですよ、とっても」
それは、いつも男が浮かべている、穏やかな笑顔だった。
勢いよく振り下ろされたなめし革は、今までで一番深く肌へと食い込み、オレは甲高い悲鳴をあげた。痛みに脳味噌が痺れ背中を仰け反らすと、同時に全身が激しく痙攣し、自分が絶頂に達したのだと気が付いた。
「十回」
ひんやりと冷たい声が、刑の終わりを告げる。ひくひくと引きつる自分の泣き声を聞きながら、背後の穏やかな顔を振り返り、思った。
こちらの世界に飛ばされてから、すこしずつ希望を失い、ほころんでいったオレの心。
けれど、ほころんでいたのはオレのものだけじゃない。もう取り返しがつかないほど、大きく穴が開いてしまっていたのは――……。
男はオレの身体を抱き上げると、そっと床へとおろした。涙や鼻血といったあらゆる液体でぐちゃぐちゃになったこの顔を見て、我が子を慈しむ母のようにほほえみ、瞼にくちづけた。
「愛しています」
そしてぬるま湯に浸した柔らかな布を用意すると、オレの顔や身体を、努めて丁寧に清めた。表面を綺麗にすると、今度は身体を裏返し、血とリンパ液でぐちゃぐちゃになっているであろう部分を見つめ、そっと拭った。じくじくと肉が露わになった場所にふれられるたび激痛が走り、オレが悲鳴をあげると、その都度そいつはオレの背中を撫で、大丈夫だとささやいた。
「愛してるんだ、エドワードさん」
誰よりも、何よりも。それを証明するように、その手つきは何処までもやさしい。
「だからもう二度と、危ないことはしないで」
ねえお願い、と背骨にくちづけられ、反射的に身体が震える。
「約束できますか?」
顔を覗き込まれ、揺らぐ視界の向こうにある瞳を見つめ返すと、そこには冷たい青が漂っていた。先ほど空に浮かんでいた月と、不気味なほどに同じ色。なんだ、妖術の源はここにあったのだと考えながら頷くと、男は瞳を甘くゆるませて、うそつき、とつぶやいた。
『月夜のまぼろし』