彼女が〈弟〉であるはずの僕にくちづけた事実は、この胸にしこりを残した。彼女の生まれた国では、家族への親愛の証として唇にキスをするのだろうかとも考えたが、それにしてはあまりにも、唇に宿る想いの粘度が高かったように思えた。
 彼女はそれからも、僕に弟であることを望みつづけた。他の人間もいるビアホールなどでは、これまでのように快活に笑い、「なあアルフォンス」と僕を呼ぶのにもかかわらず、家へと帰りつき重い玄関扉が閉まった途端、僕の腰に抱きついて「アル」と甘くささやき、くちづけを与えてきた。
 僕は決して拒まなかった。僕から言い出したことだったし、どんな形であれ、愛しいひとが僕に向ける執着を手放したくはなかった。
「ほら、アル。こっち来い」
 突然の雨に降られて帰ってきた日、シャワーを浴びてバスルームを出ると、先に湯浴みを終えて寝室で待っていたそのひとが、僕へ向けてそう呼びかけた。言われるがままに歩み寄り、そのひとが座るベッドの縁へ腰かけると、すでに義手を外している彼女はいつものように、片手だけで僕の頭を拭き始めた。
「ほんと、変わらないな、お前の髪は。酷い猫っ毛で、赤ん坊のころと同じ」
 楽しそうに笑いながら、労わるように髪を拭いてゆく。最初は気恥ずかしさを覚えたこの儀式は今やすっかり日常と化し、いつしか僕も心地よさを覚え始めていた。やさしい手つきにまどろみを誘われていると、それを見抜いたように突然手が止まった。
「アル……おいで」
 振り返ると、そのひとは膝立ちしていた身体を、ベッドへと横たえているところだった。一本の腕を差し向けながら、ほら、ともういちど僕を促してくる。操られるような想いでベッドへ上り、恐る恐る小さな身体へ覆いかぶされば、満足気なくすくす笑いが部屋に響く。
 頭を乗せた腹には肋骨がありありと浮かび上がっていて、組み敷いた身体がどれだけ華奢なのかを思い知らされるようだった。貧相とも言える身体つきに憐れみを向けられていることなど露知らず、そのひとは機嫌よく僕の髪をいじり、くすぐるように襟足をさわってくる。仔猫に毛づくろいをする母猫を思わせるやさしさが染み渡り、仕事で疲れた身体をとかしてゆく。ぼんやり霞む視界の向こう、慈愛に満ちた笑顔を浮かべたままのそのひとは、自らが羽織る寝間着のボタンを、片手で器用に外し始める。
 全身が麻痺する魔法にかけられたような思いでその様子を見つめていると、そのひとはためらうことなく寝間着をはだけさせ、白い胸を露わにした。小ぶりではあるがやわらかな曲線を帯びる膨らみと、その先端に起ち上がる桃色に目を奪われ、呼吸を忘れるほどに見入っていると、そのひとは左の乳房を自らの手で持ち上げた。
「……アル」
 ほら、とささやく彼女が、なにを促しているかは明白だった。全身がドクドクと脈打ち始めるのを感じながら、恥じらうように色づく先端をおずおずと唇で食めば、そのひとは鼻から、ん、と呻き漏らす。その声の甘ったるさにまた熱を煽られ、やわらかくも芯のある部分へしゃぶりつき、舌の先で感触を確かめたあと、じゅっと音を立てて吸い上げた。
 はあ、と恍惚の息を漏らしながら、そのひとは目の縁を赤らめてゆく。先ほどよりも切実さのこもった手つきで僕の髪をなで、己の胸へ僕の顔を押し付けるように力を込める。
「いい子……いい子だ……アル」
 何度もなんども繰り返される子守歌めいた声が、現実と幻の境を曖昧にしてゆく。これはとても恥ずかしい行為であるはずなのに、同時に惨たらしいほど心地よくて、すっかり硬くなった先端を夢中で吸い上げ、舌でこね回す。先日も月経がつらいと寝込んでいたから妊娠はしていないだろうし、ましてや母乳など出るはずがないのに、小さな粒をきつく吸い上げれば吸い上げるほど、口内に不思議と甘さが広がってゆくような錯覚を覚える。それは懐かしい甘さだった。記憶などないはずなのに、かつて確かにふれたことのある、命の根源を思わせる味だった。
「……母さんに、なりたかったんだ……オレ」
 僕が好きなように乳房と戯れるのを許しながら、そのひとは熱い息を震わせ、つぶやいた。
「赤ん坊のお前が腹を空かせて泣くと……母さんがお前を抱き上げて、服から取り出した胸の先を、お前の口に咥えさせてやってた。するとお前は、さっきまで泣いてたのが嘘みたいに、懸命に母さんの胸に吸い付いて……小さな喉をこくこくと鳴らして母乳を飲んでた」
 やさしい指が、後頭部を何度も通り過ぎてゆく。春が来たばかりで夜はまだ寒いはずなのに、不思議と身体があたたかくて、ぬくもりの海を漂っているようだった。上も下もない、無重力の世界。きっと僕が憧れて止まない宇宙は、このような場所なのだろう。
「懸命に母乳を飲むお前がかわいくて……オレも母さんみたいに、お前に命を分け与えられたら、って思ったんだ。だから母さんが庭で洗濯物を干してるときを見計らって……オレ、お前に胸を吸わせようとしたんだ。ベッドで眠るお前の隣に横になって……服をめくって……」
 まるで内緒話をするように声をひそめて語られる記憶は、そのあどけなさに反し酷く異常なもののはずだった。だからこそ、今ここで行われている行為すらも許してくれる気がして、耳にやさしく馴染んでゆく。
「でも、お前はオレの胸を吸ってくれなかった。それが悔しくて、無理やり顔をこちらに向かせようとしたら、大声で泣き出して……。そのとき、思ったんだ。どうしてお前を産んだのが、オレじゃないんだろうって」
 髪を繰り返し撫でていた指を止め、僕の旋毛へ唇を押し当てる。もう決して離さないと言うように。そのための印を刻みつけようとするかのように。
「でも……なんでだろうな。今ではさ、お前が昔、この腹の中にいた気がするんだ。身体の中にお前がいて……オレたちの命がひとつだったことが、確かにあった気がするんだ」
 口内に滲む幻覚の甘さに、現実と虚構の間を掻き混ぜられながら、思う。僕も同じだ。僕もあなたとひとつだったときを、覚えている。薄い膜に覆われた歪な姿であなたの胎内を泳ぎ、あなたの羊水のあたたかさにまどろんでいたときを、僕は。
 ふと目を開けると、ふれられぬままの右胸が酷くさびしそうに見えたものだから、今度はそちらへ移り、唇で乳輪のふっくらとしたスフレのような感触を味わった。ふくらみをかき集めるようにして指で揉むと、そのひとはたまらないといった様子で甘い声を上げ、身体を仰け反らせる。その拍子に、途中で断ち切られた彼女の左脚が僕の局部に当たり、自分のものが弾けそうなほどに張りつめていることに初めて気が付いた。
「ん……ほら、アル」
 それはそのひとも同じだったようで、先ほどの快楽により赤らんだ頬をゆるめ、手で僕の肩を押し、横になるように促してきた。口に含んだばかりの右胸に名残惜しさを覚えながら、指示されたままに身体を転がし仰向けに横たわれば、上下を入れ替えるようにして、今度は小さな身体が覆いかぶさってくる。片腕だけで身を起こすと、寝そべる僕の身体の隣に座り、右胸が僕の口元へ来るよう上半身を低くする。指示されるまでもなく再び先端を口に含むと、頭上で金色の瞳が満足そうにほほえんだ。
 そして彼女は、左腕を下へ伸ばし、僕の下半身の膨らみをそろりと撫ぜた。かすかだからこその拷問めいた快感に僕が思わず呻きを漏らしても、小さな指はためらうことなくズボンの前を開き、下着をまさぐり中のものを掴み上げた。
 快感に膨れ上がり、痛みを覚えて仕方がない性器の外皮を、愛しいひとは上下に摩擦する。いつか夢想した光景が現実になり、自分でもコントロールできない興奮で、すぐにでも達してしまいそうなのを必死にこらえているのに、片腕がないそのひとは自らの身体を支える術を持たず、乳房を僕の口元へ容赦なく押し付けてくる。眩暈を覚えるほどのやわらかさに口を塞がれ、満足に息を吐くこともできないまま、夢中になって胸の先端を吸いつづけていると、そんな僕に向け、そのひとはゆったりとほほえんで見せる。
「大丈夫。いい子……いい子だ、アル」
 僕の性器をしごきながら繰り返し発せられる、母性にあふれたやさしい声が、本来は性的なものであるはずの行為を、歪なごっこ遊びへすり替えてゆく。これではまるで、おしめを替えてもらっている赤ん坊みたいだ。そう考えながら、愛しいひとが惜しみなく与えてくる愛情に溺れ、僕は戻ってゆく。まだ母親の身体に性的な欲望など抱くはずのなかった子供のころへ。言葉も話せぬ赤ん坊だったころへ。そして、生まれる前の、まだ形すら持っていなかったころへ。母の――このひとの胎内を泳ぎ、このひとの命を全身で感じていたあのころ。意識も自我もないからこそ、このひととただひとつだったあのころへ、戻ることができたら。そうだ。だからきっと、僕はどうしようもなく宇宙に憧れるのだ。重力もなく、酸素もなく、ただふわふわと浮かびつづけていた無の世界に――このひとの胎内に――還りたくて仕方がないから。
 ぎこちなく動く指先は段々と早くなり、暴力的なまでの快感に意図せず涙が込み上げる。そんな僕をシーっと吐息だけで慰めて、愛しいひとは愛撫を与えつづけてくる。姉さん。そう呼びたいのに、僕の口を覆うやわらかな肉の枷が、それを許してくれない。代わりに先端を甘噛みすれば、あぁっと艶やかな声が上がる。その拍子に手を強く握り込まれ、痛みで熱が跳ね上がり、ついに僕は絶頂を迎えてしまった。
 自分の吐き出した精がそこかしこに飛び散り、自分の衣服やたいせつなひとの指を汚してしまったことを悟り、まるで粗相をしたような羞恥で目頭が熱くなる。抑えきれず涙をこぼすと、そのひとは精にまみれた手で僕の頬をなで、落ち着かせようと額に何度もキスを落としてくる。
「……姉、さん……ねえさん……っごめんなさい……」
 自分でもわけがわからないまま、すぐそばの細腰に抱きつき、そのまま寝台へと押し倒す。濡れる瞼を再び胸のふくらみへ押し当てれば、そのひとは僕の頭をなでてくれる。
「ごめんなさい……姉さん……僕……」
「アル……だいじょうぶだ。泣かなくていい。お前はなにも悪くない」
 先ほどと同じく、合間でシーっとやさしく息を吐きながら、何度もなんども繰り返す。だいじょうぶ。大丈夫。いい子だ。お前はとってもいい子だ。
「アル。オレのアル。かわいい子……オレのたいせつな、かわいい子……」
 白くやわらかな肌が纏う甘い香り。遠い昔、僕に命を与えてくれた、なつかしい香り。かつて僕らはひとつだったはずなのに、ふたつに分かれてしまったことが悲しくて、乳房へ熱い瞼を押し当て続ける。今ならわかる。狂おしいほどこのひとに惹かれていたのは、このひとがただ美しく聡明だからではなく、僕がかつてこの命の一部だったからだ。命の根源であるこのひとを、ずっと探していたからだ。
「姉さん……あのね」
 自分でもおかしくなるほどに甘えた声でそう話しかければ、眼下の人は、なんだ、とほほえんでくれる。僕は今でも、このひとがほしい。しかし望む所有の形が変化してきている事実を、もう無視することはできない。
「僕、姉さんとまたひとつになりたい。もういちど、姉さんの中に戻りたいんだ」
 かつて僕が漂っていた、なつかしい宇宙。愛され、守られ、すべての均衡が保たれていたあの完全な場所へ、もういちど還ることができれば。
「だから姉さん……もういちど、僕を妊娠してくれる?」
 僕の問いにすこしも動揺を見せることなく、そのひとはゆったりと笑ってみせる。白濁の粘液で汚れた指を僕の頬に這わせ、どこまでも慈愛に満ちた眼差しで僕を見る。
「いいよ」
 我儘を聞き届けられた途端、逸る鼓動に突き動かされ、僕は眼下の唇へ食らいついた。先ほどとはまた違うやわらかさを味わいながら、手を下へとすべらせ、すでにとろとろと愛液を滴らせる割れ目を、指でなぞる。これは儀式だ。散り散りになってしまった魂を、ひとつに戻すため、僕らはいま繋がり合う。あなたの中に還るため。僕の宇宙へ、帰還するため。
 夢心地のまま、再び硬さを帯び始めた自分のものを握りしめると、金の瞳へ視線を落とす。すべてを赦す聖母のごときほほえみへ自らも笑みを返すと、濡れそぼる割れ目へと、力いっぱい己のものを突き立てた。




『なつかしい宇宙』