出発の日の夕方、お世話になりましたと挨拶する僕に対し、シュナイダーさんは「元気出してね。あなたはまだ若いんだから、きっといい子が見つかるわ」と声を掛けてきた。どうやら僕が失恋の傷に耐えられずベルリンを去ると思い込んでいるらしい。あながち間違いでもないなと思い、ありがとうございます、と返すと、約五か月間世話になった下宿を後にした。
 アメリカ行きの船が出るロンドンへの列車は夜行だったから、一日の終わりが近づき、段々と夜の顔へと転じ始めたベルリンの姿を眺めながらトラムに揺られた。失意と熱狂が共存する、矛盾を孕んだ街、ベルリン。ここへ来たのはそう遠くない昔のはずなのに、ずっとここで暮らしていたような気もするのだから不思議だった。
 駅に着き、窓口でロンドン行きの切符を買い求めると、販売員の男が「ご旅行ですか?」と尋ねてきた。「アメリカへ移るんです」と答えると、男は「それはそれは」と顔をにやつかせる。そのおもてが、あのキャバレーのホストにやたら似ている気がして、背中に薄ら寒いものが走る。
「いかがでしたか、ベルリンは?」
「はぁ……。どうでしょう。僕にはちょっと、刺激が強すぎて……」
「おや、お気に召さなかったと?」
 どこか非難するような口調に焦り、「いや、そんなことは!」と言い、ここ数か月の記憶を辿ってみる。
「興味深い街でしたよ、ベルリンは。きらびやかなようで翳があって、喧騒の中に静けさがあって……。そう、友人に連れられてね、あるキャバレーに行ったんです。そこではホストがショーを取り仕切っていて、ダンサーたちや、オーケストラや、そして……」
 そして——あのひと。人形のようでありながら、誰よりも感情豊かで、繊細で、少年のように笑う、あのひと。奇妙な因果で始まった僕たちの関係は、ショーの幕が降りるように終わりを迎える。夢のように幸せで、癒えない傷を舐め合い、同時に傷つけ合いもした、この五か月。それでも僕たちは、前に進んでいくしかない。僕はもうステージを降り、あのひとはこの街で、これからも——……。
「ベルリンは他のどの街とも違う。ここではすべてが美しく光り輝いています。人生も、女性たちも、そしてオーケストラが奏でる音楽すらも、ね」
 販売員の男が、窓口越しにさりげなく語り始める。その言葉に聞き覚えがある気がして、僕は眉根を寄せる。これは、あの日あのキャバレーで、ホストが言っていた言葉ではないか。今宵は浮世のいざこざなど頭の片隅に追いやってしまいましょう、と。皆さまを一夜の夢にお連れいたします、と。
——ああ、きっと、ショーはまだ終わっていない。僕はまだステージの上に——このベルリンの街にいる。
「すみません!」
 地面に置いていたトランクを引っ掴むと、販売員の男にそう告げて走り出した。駅の構内を抜け、すでに走り出しているトラムの後ろへ飛び乗ると、乱れた息を整えながら左腕にはめた腕時計を見る。
 あのひとがホテルへやってくるのは、大体いつも夜七時ごろ。今は六時四十五分。トラムで最寄りの停車駅まで行き、そこから走れば間に合うかもしれない。
 のろのろと走るトラムに焦れながらもなんとか最寄りの停車場まで辿り着くと、車体が完全に停止する前に飛び降りる。反動ですこしつんのめりながらもなんとか体勢を立て直し、大聖堂の屋根が見えるほうへと走り出す。石畳に足を取られて転びそうになっても、胸が張り裂けそうに痛んでも、ただひたすらに地面を蹴った。
 大聖堂の角を曲がり、目的地へ続く通りへ飛び出すと、ホテルの前に見覚えのある車がすでに停まっていた。運転手が中から姿を現し、いつもどおり後部のドアを開けようとしている。ためらいや恐怖が心に浮かび上がる間も与えず再び地面を蹴ると、車までの道をただひたすらに走る。
「エドワードさんっ!」
 今にも発火しそうなほど熱い喉から愛しい名前を絞り出すと、後部座席から出ようとしているひとが、こちらを向く。赤いドレスに、ひとつに結わえた長い三つ編み。やはりあなたは綺麗だ。そんな呑気なことを考えながら、運転手に向けて体当たりすると、そのひとを後部座席に押し込める。
「ア、アルフォンス!?なんで!?」
「いいからちゃんと座って!出しますよ!」
 運転席に飛び乗ると、キーを回してエンジンをかける。トランシルヴァニアで仲間に運転を習い、それから八年ほど運転していないものだから心許なかったが、そんなことを言っている暇はない。
 ホテルから姿を現した親衛隊の男が、なにをしている、と叫び声を上げる。それを合図とするように、僕は思い切りアクセルを踏み込んだ。
「アルフォンスっ!」
 発進の反動でぎゃっと悲鳴を上げた後、そのひとはまた僕の名を呼ばる。ミラー越しに顔を見ると、いつも僕をからかってばかりだった顔からは一切の余裕が消え去っていて、どこかしてやったりという気分になる。
「おいアルフォンス!車停めろ!お前、自分がなにしてんのかわかってんのか!?」
「どうでしょう。僕も相当ベルリンの毒気にあてられましたから、正気ではないでしょうね」
「馬鹿言ってないで車停めろ!それにお前、アメリカは!?」
「行くんですよ、今から!」
 へ、と間の抜けた声を出したひとは、僕がブレーキもかけずにカーブを曲がった反動で吹っ飛ばされる。どうやら頭を打ったらしく、またぎゃっと色気のない声を上げる。
「このまま国を突っ切って、オランダまで抜けましょう!そこから船でロンドンに渡れば、アメリカに行ける!」
「そんなの無理に決まってんだろ!車が持つはずないし、捕まっちまう!あいつはナチだぞ!捕まったらお前、嬲り殺されるぞ!」
「やってみなくちゃわからない!それにあなたが言ったんだ!人生はキャバレーみたいなものだって!真剣に生きれば生きるほど、深みにはまっていく、だから頭を空にして、快楽に身を委ねて、いつか楽になれる日まで、夢の中で生きるんだって!」
 僕の言葉に、そのひとは困惑の色を浮かべる。せっかく編まれた髪が乱れてしまい、ドレスも乱れて胸元が見えそうになっていたが、そのだらしなさが一緒に暮らした日々を思い起こさせ、胸に熱いものが満ちる。
「僕は夢を見てる。あなたとともに生き、あなたとともに幸せを掴む夢。だから頭を空にして、奪ってでもあなたを連れて行くことに決めた。エドワードさん、夢っていうのはね、諦めた果てに見るものじゃない。生きていくために見るものなんですよ!」
 赤信号を突っ切り、周囲からクラクションが鳴り響いても、僕はアクセルから足を外さなかった。その様子を見て、そのひとの顔に、段々と笑いがせり上がってくる。まるで自分も頭がおかしくなったかのように大きな声で笑うと、腹を括ったらしく背もたれに身体を預ける。
「いいぜ、アルフォンス。気に入ったよ、お前の理論。いいさ、オレにもその夢、見せてくれよ。連れてけ!ロンドンでも、アメリカでも、世界の果てでも!」
 これまで見せたことのないほどのきらめきを瞳に宿し、そのひとは言う。その顔へミラー越しに笑い返し、僕はさらにアクセルを踏み込む。
 周囲に輝くのは、色とりどりのネオンサイン。目も眩むほどの欲望がうずまくこの街を抜け出し、僕らは行く。誰も僕らを捕まえられない場所へ。僕たちが本当の夢を描ける場所へ。
「行きましょう、世界の果て!」
 心が洗い流されたように清々しく、このまま空さえも飛んでゆけるような気がした。そんな幻想を抱きながら背後に座る愛しいひとへ声を掛けると、そのひともまた、この世のいざこざなどすべて忘れ去ったようなまぶしさを瞳に輝かせ、ああ、と笑った。


Willkommen am Ende der Welt 完