かけがえのないもの



 姉さんはいつだって、ぼくにやさしい。
 朝目覚めるといちばんにぼくの身体を抱きしめて、愛しているよとささやいてくれるし、眠りに落ちる前は必ず額にひとつ、くちづけをくれる。
 姉さんの右腕と左脚は機械でできているけれど、それ以外の箇所はやわらかな肌に覆われているから、鼻を寄せると、なんだかとても懐かしい香りがする。
 ぼくは姉さんが大好きだ。姉さんのやさしいところも、大きな口を開けて豪快に笑うところも、とても頭がいいところも、ぜんぶ。
 それに、姉さんはとても綺麗だと、ぼくは思う。
 本人は近ごろ、肌のハリがなくなってきたような気がするだなんて言ってよく鏡を覗いているけれど、ぼくには全然そんな風に見えないし、姉さんの白い肌も、流れるような金色の髪も、夜空の星によく似た瞳も、どれもとても美しいと思う。
 だからぼくは、姉さんがお姫さまみたいな恰好をしているところを、よく想像する。実際の姉さんは、いつも髪をひとつに縛って、シャツとスラックスばかり身に着けているけれど、本当はもっと女の人らしい恰好をしてほしいとぼくは思う。けれど姉さんが気に入っている洋服を悪く言うのは失礼だから、ぼくは自分の頭の中だけで、姉さんをお姫さまにしてしまう。
 百年の眠りについた姉さんは、真紅のドレスを身に着けて、荒れ果てた城に置かれた寝台でひっそりと呼吸を繰り返している。勇ましい王子のぼくは、城に巣食った悪しき魔物を剣で倒し、姉さんの寝台へとたどりつく。百年経っても不思議と桃色に色づく唇へぼくの唇を重ねれば、姉さんは金色のまつ毛に縁取られた瞼をそっと開き、花が咲くようにほほえんでくれるのだ。
 そんな想像をするとき、ぼくの身体の奥はじんと熱を帯びる。それはなんだかとても恥ずかしいことであるような気がして、その熱について姉さんに話したことは、一度もない。

 この家にはあまりたくさんの物がないから、ぼくはいつも同じ本ばかり読んでいる。小さなころから読んでいる本は、よく表紙が取れてしまったり、ページが破れてしまったりするけれど、そうすると姉さんが錬金術で直してくれる。
 姉さんは錬金術がとても上手で、昼間は書斎にこもって、錬金術の研究をしている。危険な薬品があるからと、ぼくはそこに入ることを許されていない。だから姉さんがお仕事をしている間、ぼくは本を読んでいるか、お庭で遊んでいる。お庭はとても高い塀で囲われているから、外の様子はわからない。たまに人間の声のようなものが聞こえることがあるけれど、ぼくは誰かと話すことを許されていないから、声を掛けることはできない。
 姉さんによると、ぼくは重い病気にかかっているのだという。それは人と話すときに吐き出される息や唾を媒介し、相手に感染させてしまう恐ろしい病気で、ぼくは生まれつきそのウイルスを持っているのだという。家族である姉さんは免疫があるから大丈夫だけれど、他の人と話すと染してしまうから、ぼくは外に出ることができない。だから記憶に残る最初の日からずっと、ぼくはこの家で姉さんとふたり、暮らしている。
 姉さんによると、父さんと母さんは、ぼくが生まれたあと、すぐに亡くなってしまったらしい。ぼくと同じ病気を持っていた母さんが熱を出し、父さんがなんとかしようとお医者さんのところまで連れて行ったとき、たくさんの人を感染させてしまったから、怒ったみんなに殺されてしまったのだ。
 だから外に出てはいけないよ、と姉さんは言う。オレはお前に生きていてほしいんだ、だから絶対に外には出ないでくれ、と。
「わかったか、アル?」
 姉さんにそう問われると、ぼくはいつでも力強くうなずいてみせる。ぼくは姉さんを悲しませることは絶対にしないし、そうやって問いかけてくる姉さんは、いつもとても辛そうな顔をしているからだ。

 そんな理由で友達も作れないぼくは、昼間はいつもひとりで遊んでいる。本当はさびしいけれど、文句を言ってはいけない。だって姉さんは、ぼくの病気を治すための薬を作ろうと、毎日研究をがんばってくれているのだから。
 この間も、姉さんは試作品の薬をぼくに飲ませてくれた。けれどそれは失敗作で、飲んだ瞬間、両目に火がついたみたいに熱くなって、涙がポロポロとこぼれ出してしまった。その様子を見た姉さんは、大慌てでぼくを洗面所へ連れて行き、目をゆすいだあと、氷枕で両眼を冷やしてくれた。
 熱が引くまでぼくには姉さんの顔が見えなかったけれど、姉さんは泣いているような声で何度も、ごめん、と謝っていた。ごめん、オレのせいだ、ごめん、アル、と。
 ぼくは姉さんの手を握り返しながら、言った。謝らないで、と。姉さんはぼくのために毎日がんばってくれているのだから、ぼくはとても感謝しているのだ、と。
 けれど姉さんは、まるでぼくの言葉が聞こえなかったかのように、もう一度、ごめん、とつぶやいて、ぼくの指にくちづけた。

 そんな風に失敗してしまうこともあるけれど、ぼくはやはり姉さんにとても感謝している。だから日中ひとりきりでさびしくても、決して文句は言わない。
 それに姉さんは、陽が落ちたあと、ぼくとずっと一緒にいてくれる。ふたりで晩ご飯を食べて、お風呂に入って、暖炉の前で髪を乾かし合う。そしてぼくたちは、同じベッドへ横たわる。まとっていたバスローブを脱ぎ去って、裸の身体を重ね合う。
 姉さんはいつもぼくに覆いかぶさって、何度もなんどもくちづけを落としてくれる。そんな姉さんの身体へ手を伸ばし、やわらかく膨らんだお乳にさわってあげると、姉さんは熱く湿った息を吐く。そして言う。いい子だ、アル、お前はほんとうにいい子だ。
 褒めてもらえるのが嬉しくて、今度はお乳の先を舐めてあげる。まるで赤ちゃんのような気持ちで硬い先端に吸い付けば、姉さんはとろけた声で、アル、アル、とぼくの名前を繰り返す。そしてぼくの身体を抱き起こすと、今度は姉さんが、ぼくの気持ちいいところへさわってくれる。近ごろぼくのそれは、姉さんにふれられるとすぐに硬くなり、そのまま擦られ続けると、白いものを吐き出すようになった。最初は怖かったけれど、姉さんがだいじょうぶだと言ってくれるし、目の前がくらくらするほどに気持ちがいいから、ぼくは姉さんを信じて身を任せるようにしている。
 その代わり、ぼくも一生懸命に、姉さんのお乳を吸う。姉さんが気持ちよくなってくれるように、お乳をやさしく揉んであげて、機械の右腕の接合部周辺にある肌が薄くなったところもさわってあげる。白いはずの肌をほんのりと赤らめる姉さんはとても綺麗で、涙にうるんだ瞳は、またぼくの中に熱を呼び起こす。
 そうして姉さんとふれあうたび、ぼくはまるであたたかな水の中を泳いでいるような心地になる。姉さんという大海に身を任せて、それぞれの形がなくなるまで、ぼくらは互いをとろかし合う。
 姉さんが与えてくれる心地よさに身を委ねながら、ぼくはいつも、自分はなんて幸運なのだろうと思う。確かに父さんと母さんの記憶はないけれど、小さなころからずっとこうして姉さんがぼくを慰めてくれるから、さびしかったことなんて一度もない。姉さんがそばにいてくれて、愛してくれて――そんな日々が、この上なく幸せだと、思う。


 ある朝、目が覚めると喉が痛くて、ぼくは声が出せなくなっていた。
 いつもどおりぼくの身体を抱きしめた姉さんは、ぼくがおはようの言葉を返さないことに気付き、顔を強張らせた。
 額や身体に熱はなく、風邪を引いたわけではなさそうだった。それでも心配性の姉さんは仕事を休み、ぼくをベッドに横たわらせると、つきっきりで看病してくれた。声を発することはできなかったけれど、姉さんがずっとそばにいてくれて、ぼくの心は浮き立っていた。迷惑をかけているのだから本当はそんな風に思ったらいけないとわかっているのに、それでも昼間から姉さんが隣にいて、ずっとぼくを見て名前を呼んでくれることが、嬉しくて仕方がなかった。
 翌朝、ぼくの喉の痛みはすっかり引き、また声も出るようになっていた。
 しかしその声は、以前のぼくのものとはすっかり変わってしまっていた。一昨日までは、姉さんのものよりも高くまろやかだった声は、太く低い声に変わっていた。
 驚いて姉さんを見上げると、姉さんもまた金色の瞳を丸く開いて、ぼくを見つめていた。ぼくは低くなった声で、姉さん、と呼んだ。いつものように、そんなのは心配ないと、大丈夫だと言ってほしかった。
 しかし姉さんは、傷ついたような瞳をそらすと、そのままなにも言わずに、部屋から駆け出していった。

 お昼になっても、夕方になっても、姉さんは書斎から出てこなかった。
 お仕事をしているのかと思ったけれど、コーヒーを取りにキッチンへ出てくることすらないものだから、すっかり心配になってしまったぼくは、恐る恐る書斎の扉をノックした。
 姉さん、と呼び掛けても返事はなかった。しかし中から金属が軋むような音がしたものだから、姉さんが中にいるのは確かだった。もしかしたら、体調が悪くなって動けなくなっているのかもしれない。焦ったぼくは、一思いに扉を押し開いた。

 鎧戸が閉め切られ、真っ暗闇に呑まれた部屋の中、確かに姉さんはいた。倒れているのかと思ったけれど、よく見ると壁にもたれかかせるように置かれたなにかにすがりつき、その表面へ顔をうずめていた。
 姉さん、と呼ぶと、声の代わりに金属が軋む音がした。闇に慣れてきた目でよく見ると、姉さんがすがりついているものは、古めかしい巨大な鎧だった。腹の部分が開き、手脚がもげている上に、全身皹だらけになったそれは、もう使い物にはならない、ただのガラクタに見えた。鬼を思わせる形のそれは、まるで暗黒の洞の中へ姉さんを掻き抱くようにして、そこにあった。
「姉さん、大丈夫……?」
 返事はなかった。姉さんは朝と同じ裸のまま、物言わぬ鎧にしっかりとしがみ付いていた。
「姉さん?」
「……髪の色は、完璧だったんだ」
 もう一度呼びかけると、ぼくの声に重ねるようにして、闇の中からかすれた声がささやいた。
「今度はちゃんと、あいつと同じ髪色をした男を、選んだから。だからお前が成長して、髪が生え始めたとき……ああ同じ色だと、今度こそ成功したんだと、安心したんだ」
 姉さんの声は、いつものやさしい声とも、冗談を言うときの堂々とした声とも違っていた。それは細かく震えていて、まるでなにかを酷く恐れているようだった。
「でも、瞳の色が……最初は蜂蜜色だった瞳が、成長するたび鳶色に近づいていって……。それじゃ違うんだ。そんなのじゃ、あいつの瞳とは、まったく……」
 ぼくには、姉さんの言っていることがよくわからなかった。ただ姉さんの細い身体が小刻みに震えていて、呼吸も荒いものだから、ここから連れ出さなければいけないと思った。しかしぼくが一歩踏み出すと、姉さんはそれを制止するように、「違うんだ!」と叫び声を上げた。
「違う……!お前は、やっぱり違ったんだ……。せっかく取り戻せたと思ったのに。また会えたと、この腕に抱きしめられたと思ったのに、お前は……」
 なにを、言っているのだろう。わけがわからないのに、なんだかとても悪い予感がして、足が竦む。あの鎧のせいだろうか。どうしてあんなに不気味なものを、ここに置いているのだろうか。
「でも、修正できると思ったんだ。薬を作って、目の色を変えてしまえば、元通りになるって……。失明するリスクはあるけど、瞳の色はきっとなんとかなる。でもその声は……違う」
 魂を欠いた獣のような声でそうささやくと、姉さんはぼくを見た。暗闇の中でも不思議と仄炯る金の瞳に、いつものようなやさしさは、かけらもない。
「あいつは十歳になっても、声変りなんてしないままだった。鎧の姿になっても、あのやさしい声で、姉さん、とオレを呼んでくれた。それに顔つきも、どんどんあいつから遠ざかっていって……。お前はちがう。お前はやっぱり、オレのアルじゃ……ない」
 まばたきひとつしないまま、姉さんはゆっくりと床を這いずってくる。寝台から出たままの裸の身体で、蛇のように四肢をぬめらせながら。
「でも……大丈夫だ。また産めば、いいんだ。今度はちゃんと、アルと同じ瞳の色をした男を捕まえて……。そして、生まれた瞬間に、骨格ごと作り変えてしまえばいい。そうすればアルは戻ってくる。オレの大切なアルは、戻ってきてくれる」
 姉さんは手を伸ばす。いつもどおり、ぼくを抱きしめるときのように、手を伸ばす。しかしその手は、ぼくの背中ではなく、首へと絡みつく。
「ごめん……アル。もう失敗、しないから。今度こそ、お前を、ちゃんと……」
 向けられた瞳はとめどなく涙をこぼし、いつも変わらず宿っていた愛情は、もうそこにはなかった。傷ついた少女のような様子が酷く可哀想で、ぼくは姉さんを慰めてあげたいと思った。姉さんがまた笑ってくれるなら、どんなことでもしたいと思った。
「ごめん」
 けれど、光を失った瞳が酷く歪み、首に指の冷たさが食い込んだ瞬間――……自分が姉さんにしてあげられることなど、もうなにもないのだと、ぼくは知った。





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