不完全なけものたち
うら寂しい冬の空気を切り裂いて、夜汽車が闇をすべってゆく。
じゅうぶんに速度は出ているはずなのに、車内に響くリズムはことことと安穏で、乗客たちは揃いも揃ってまどろみの中へ落ちかけている。石炭ストーブのぬくもりも手伝って、車両の中は寝台車のようにしんと静まり返っている。
そのなかで、眠りに囚われていない子供がひとり。十歳くらいだろうか。やわらかな金色の髪を少年らしく刈り上げ、白いシャツの上から水色のジャケットを羽織り、ベージュのズボンを合わせている。結露した窓の外を見ようとして座ったまま背を伸ばし、なにも見えないとわかると諦めた様子で席へ腰を落として、退屈そうにため息をひとつ。ことことと走りつづける汽車の音に耳を澄ましながら、蜂蜜色の瞳で前の座席の剥げかかったシートを見つめている。
「……アル?いま、どのあたりだ?」
ふいに目を覚まし、ふやけた声でつぶやいたのは、その隣に座る少女だった。少年よりも年上に見えるその少女は、明るい金の長髪を茶色のロングコートに包まれた肩に垂らして、夢うつつの眼差しで少年を見る。その瞳は、夜空にひときわ輝く金星の色を宿している。
「あと一時間くらい。ボクが起きてるから、姉さんは寝てていいよ」
「ん……。いや、起きてる。だいじょうぶか?疲れてないか?」
「大丈夫。姉さんこそ、首痛くなってない?」
案ずるように互いを見やりながら、ふたりは労わりの言葉を投げかけ合う。少女は小さな少年を守るように、少年は少女のやわらかさに身を預けるように、身体をぴたりと隙間なくくっつけて、固く指を絡ませ合っている。
ことことと、汽車は夜の中をすべってゆく。ふたりは他の乗客を起こさないよう、ぽつりぽつりとささやくように言葉を交わしながら、時折くすくす笑いを漏らす。頭を互いに預けて内緒話に興じる姿は、ただ仲睦まじい姉弟というよりも、より切実ななにかを印象付ける。まるでどちらかの心臓が鼓動をやめれば、もう片方も死んでしまうのではないかと思わせるほどのなにかを。
「ねえ姉さん」
汽車がそのまま三十分ほど走ったころ、弟は幼子のように姉の肩に頬をこすりつけると、甘えた声で姉を呼んだ。
「どうした?眠くなったか?」
「ううん。そうじゃないの」
駄々をこねるように首を振り、空いているほうの手で姉の腕にしがみつくと、耳もとへ唇を寄せる。
「おなかがね、すいたの」
弟の言葉にはっとした姉は、反射的に周囲を見渡す。周りの乗客たちは、皆まだ眠りの底に沈んでいる。
「なあアル、あとちょっとで着くから。そしたら宿で、好きなだけ食わしてやるから。もうすこしだけ、我慢できるよな?」
いい子だから、と諭すように言った姉に、弟はふるふると首を振る。
「でも姉さん、ボクとってもお腹が空いたんだ。頭がくらくらして、汽車から降りてもきっと歩けないよ。だから今、食べたいんだ」
弟の言葉に、姉は強張った唇を結びあわせる。ことことと、汽車は我関せずといった様子で、変わらず安穏な音を響かせつづける。
じっと見開かれた蜂蜜色の瞳は、ろくに瞬きもしないまま姉を見る。その丸く幼い瞳に射抜かれた姉は、迷うように目を泳がせたあと、隣に置いた鞄を振り返り、その留め金を開けてゆく。
すでに表面が剥げかかったトラベルトランクから取り出されたのは、瓶のようなものだった。中身を隠すためか表面に白い布が巻かれているが、それを透かして中からうっすらと光が漏れ出している。それは鮮やかな色を持つ光だった。白い布に吸収されて桃色になった光が、じとりと熱を放つように隙間から漏れ出ていた。
「アル、ほら。手、出せ」
姉はコルクの蓋を慎重に外すと、瓶を軽く振ってその中身をいくつか弟の手へ落とした。途端、先ほどまで布に隠されていた光の正体が露わになる。
一瞬ドロップのようにも見えたそれは、紅い輝きを放つなにかの欠片だった。大小不揃いなそれらは、弟のやわらかな手の上で烈しい紅を放っている。それは貴重な鉱物のように美しくもありながら、血液を凝固させたような禍々しさもまとっていた。
姉は他の乗客が光に気付くことを恐れているのか、弟ごとコートで覆うと、ほら、と弟を促した。弟はにこりと笑うと、手の平に乗った紅い欠片へと齧りついた。食べる、よりも、貪る、という表現が似つかわしいほどに荒々しくそれを喰らう姿に、先ほどまでのやわらかな雰囲気はまるでない。姉から与えられたぶんをすぐに喰らい終えてしまうと、もっと、とねだるように姉を見る。姉はもう一度瓶を振り、紅い欠片を弟の手へ落とす。
それが何度か繰り返されたあと、弟は満足したように姉へほほえんで見せた。姉はほっとしたようにコルクの蓋をもとに戻すと、瓶を再びトランクへしまい留め金をかける。
「もう、大丈夫か?」
どこか探るように弟にそう問うと、やさしく弟の頭をなでる。短く刈り込まれた髪の感触を確かめるように指をすべらせると、今度は弟がぎゅっと姉の身体に抱きついた。
「うん。だいじょうぶだよ、もう」
まるで母に甘える幼児のように姉の胸に顔を押し付けると、そのやわらかな感触をひとしきり楽しんだあと、鼻先を首へとすべらせる。そして姉の髪をかきわけると、そこに現れた白い首へ、狂犬のごとく噛みついた。
「……−−っ!」
苦痛に顔を歪め、姉は唇をはくはくと震わせる。そんな姉に構いもせず、弟はさらに柔肌へ歯をうずめ、姉の身体を折らんばかりに抱き締める。姉は痛みをやりすごそうと長く深い呼吸を繰り返しながら、生理的な涙で目の縁を濡らしてゆく。
長い間走りつづけていた汽車が、ゆっくりと減速し始める。身体を揺らすリズムが変わったせいか、乗客たちがすこしずつ目を覚まし、そろそろかと方々で言葉を漏らし始める。
ざわめき始めた空気に促されるように、弟は姉を解放する。何事もなかったかのようにもとの位置へぽすりと座ると、先ほどと同じく姉の肩へ頭を預ける。
「ねえ姉さん」
とろりとこぼれる蜜のような声で、弟は言う。姉はうつむきながら胸を上下させ、荒い呼吸を整える。
「忘れないでね。ボクがあなたを、どれだけ憎んでいるか」
やさしく落とされた怨嗟の言葉。それを受け止め、姉はこくりと確かに頷く。その間もふたりは、強く絡ませた指を、決して離しはしない。
汽車はほどなく小さな町へ停車し、中から幾人かの乗客を吐き出した。
その中に、あの姉弟の姿もあった。ふたりは変わらず手をつないだまま、寒さに怯えるように身を寄せ合い、駅からつづく石畳の道を歩いてゆく。等間隔に存在する街灯の火は心もとなく、ふたりはほとんど闇を泳いでいるようだった。
座っているときはわからなかったが、姉は歩き方がぎこちなく、さらには痛みが走るのか、時折苦しそうに下腹部へ手を当てている。弟は姉の身体を支えながら、不器用な歩みに自らの歩調を合わせている。
「星が、よく見えるね」
ふいに、弟が夜空を見上げ、言う。その言葉のとおり、天には金色の光がちらちらと瞬いている。ふふふ、と弟は楽し気に笑い、大きく一歩を踏み出すと、くるりと姉のほうへ向き直る。
「ねえ姉さん、あの歌をうたって」
「ここでか?もう遅いし、迷惑だよ」
「小さな声なら大丈夫だよ。ねえ、お願い」
弟に小首をかしげて懇願され、諦めたように姉は笑う。そして夜風にとかすように小さな声で、歌をうたい始める。それは幼い子供を寝かしつけるときに母親が歌う、子守歌のようなやさしい響きを持つ歌だった。姉がところどころつかえながらも紡ぎ出す旋律に耳を澄まし、弟は懐かしむように目を細め、そっと自分の声を重ねてゆく。重い橙の灯に照らされた道を歩きながら、ふたりの子供はひとつの歌をうたい、やがて曲が終わると、目を合わせてくすりと笑い合う。
「ボク、ちゃんと覚えてるよ。この曲」
ほんとか、と笑う姉に、弟は、ほんとだよ、と拗ねたように言葉を返す。
「姉さんが、ボクを寝かしつけるときに歌ってくれたんだ。これだけは、絶対忘れないよ」
弟の言葉に、姉ははっとする。そんな姉の様子に、弟は首をかしげる。
「……オレじゃないよ」
「え?」
「オレじゃなくて、母さんが歌ってくれたんだ」
弟は不可解だとでもいうように眉根を寄せる。そしてしばらく考えると、わずかばかり上にある姉の目を覗き込む。
「母さん、って誰だっけ?」
その言葉を聞き、姉ははたりと足を止める。突然歩みを止めた姉を弟は不可思議な顔で見つめ、どうしたの、と問いかける。
「いや……なんでもない」
なんでもないよ。自分自身に言い聞かせるようにしてそうつぶやくと、姉は再びよたよたと歩み始める。
しばらくしてふたりは宿の看板を見つけ、共に泊まれる部屋があることを確認すると、今夜はそこに宿泊することを決めた。案内された部屋はすこし古めかしく、歩くたびに床は軋んだが、暖炉のお陰であたたかく、ベッドもふかふかとして心地よさそうだった。
弟は自分のトランクを置きジャケットを脱ぐと、はしゃいで肘掛け椅子へ飛び乗った。そんな弟に苦笑しながら、姉も荷物を置きコートを脱ぐ。
「ねえ姉さん。ボクもっと食べたいな」
「……さっき食べたばかりだろ。あれは貴重なんだから、そんなペースで食べてたらすぐなくなっちまう」
「そしたら姉さんが作ってくれるでしょう?〈代価〉なら、ボクが集めてきてあげる」
姉は答えない。じっと視線を床に落としたまま、なにか言葉を探そうとしている。
「姉さん」
そんな姉に、弟は呼びかける。やわらかくも、どこか圧を持った声で。
「ちょうだい、あれを」
早く。そう言って、手を差し伸べる。姉はその姿を見て、濁った瞳を諦めたように弛緩させる。
瓶の中から手に振り落とされた紅い欠片を、弟は亡者のように貪り喰う。ひとかけひとかけを口に含むたび、幼いはずの身体に筋肉が盛り上がり、脈打つようにしてまたしぼんでゆく。その様子を、姉はベッドに腰かけながらぼんやりと見つめている。その表情は絶望しているようでありながら、慈しみを湛えているようでもあった。
やがて〈食事〉を終えた弟は、先ほどまでとは違う鋭い瞳で姉を見る。草むらから獲物を狙う肉食獣のようにじっと息を殺していたと思ったら、突然姉に飛びかかりそのままベッドへ押し倒す。ボタンを引きちぎるようにしてシャツの前を開くと、露わになった左肩へ容赦なく歯を食い込ませる。左手はキャミソールの中へ侵入し、姉の胸をまさぐると、今度は右肩のほうへ伸びてゆく。柔肌に食い込んだ異物、身体に接続された金属の存在を確かめると、薄くなった皮膚へ力の限りに爪を立てる。痛みと快楽で、姉は瞳を涙で濡らしてゆく。
「姉さん、覚えてる?あなたがボクを作ったとき……。ボクがまだ、不完全な化け物だったときのこと」
弟の言葉に、姉は答えない。弟の手の感触に身体を震わせ、熱い息を吐いている。
「あなたは、まだぐちゃぐちゃで生き物の形すら成していないボクを抱きしめ、泣きながら言ったんだ。アル、戻ってきてくれた、オレの愛しいアル、って」
姉は目尻から涙をこぼし、弟に視線を向ける。その眼差しを受け、弟はほほえむ。
「ボクにはそれが誰のことかわからなかった。でも、あなたに紅い石を与えられ、だんだんと人の形を得ていくにつれ、思い出したんだ。あなたと過ごした記憶。旅した記憶。そして、愛し合った記憶」
御伽噺を紡ぐように、うっとりとした声で弟は語る。その左手は姉の腰をなで、右手は長い髪を梳く。
「でもね、あれはボクじゃない。あの記憶の中にいるのはボクじゃない。どれだけ姿形が同じでも、ボクはあなたの〈アル〉じゃないんだ」
パチパチと、暖炉の音が空気に弾ける。薄暗がりの部屋の中で、弟は組み敷いた姉を見下ろしている。
「ボクはあなたが作ったお人形にすぎない。まがいものの、魂のないお人形。人造人間、ホムンクルス。この身体にあなたの愛した命は宿ってない」
姉は言葉を返さない。呼吸を忘れたように、虚ろな瞳で弟を見上げている。
「あなたは愚かだよ、本当に。こんなできそこないを作ったって、誰も救われないのに。おまけに子供を生めない身体になって、お尋ね者になって。死んだ弟のことなんかとっとと忘れて、誰かと子供でも作ってその欠落を埋めればよかったのに」
乾いた声を上げると、弟は姉のスカートを捲り上げ、下着の隙間から脚の付け根にある割れ目へと指を挿し入れる。すこしも湿りを帯びていないそこをこじ開けられ、姉は苦痛にくぐもった声を上げる。そんな姉の反応に構うことなく、弟はさらにもう一本指を入れると、力任せに中を掻き混ぜる。それをしばらくつづけると指を引きずり出し、姉を見下ろすように直立する。
「でもね……ボクらは逃れられないんだ。術者が甦らせようとした〈もとの自分〉の存在から。だからボクはあなたが欲しい。こんなにもあなたを殺してやりたいのに、あなたが欲しくてたまらない」
弟はそう言いながらベルトを解くと、ズボンの前開きから性器を探り出す。見た目はまだほんの幼い少年でしかないはずなのに、そこは硬くそそり立っている。それを見てひくりと身体を震わせた姉にかすかな笑みを向けると、姉の機械の左脚を持ち上げて、先ほどまで指でほぐしていた肉壁の狭間へ、己のものをねじ入れる。
「っぁ……!アルっ!」
痛みで首を仰け反らせ、そこにいるはずのない者の名を呼ぶ姉に、弟はどこまでも冷ややかな視線を落とす。すこしも呼吸を乱すことなく、頬を火照らせることもなく。生殖能力を持たない身体を、ただ記憶にこびりついた欲望だけを道しるべに、力任せに動かしてゆく。
「っ、アル……!いいから……オレを憎んで、いいから……」
痛みを受け止めながら、姉は途切れ途切れの懇願を繰り返す。抵抗もせず、罪の証である機械の手脚を軋ませて、弟の小さな背中にしがみつく。
「オレを殺して、いいから……だから……!」
そばにいて。
その言葉に応えるように、弟は姉の内側へ体液を吐き出す。命の種子などまるで持たない、ほとんど無色透明の液体を。
姉は冷えた身体を震わせて、弟の欲を受け止める。肉のついていない華奢な身体は、それでも確かに女性のものであるはずなのに、そこにはもう、新たな命を宿す力はない。
あの日、脚の付け根に血だまりを作りながら、少女はすすり泣いた。戻ってきてくれたと。愛しい弟が、自分のもとへ帰ってきてくれたと。
禁忌の果てに手脚を失った姉と、鎧の姿と化した弟。その身体をもとに戻すべく、ふたりは数年のときを研究に費やした。しかし、結局すべては徒労だった。失った肉体を取り戻す術はなく、さらには戦いで受けた傷が原因で弟の魂をつなぎ止めていた血印にひびが入り、弟は物言わぬ鉄の塊と化した。
残された姉は気が狂わんばかりに泣きじゃくり、がらんどうの鎧にすがりついて、もうそこにはいない弟の名を繰り返した。幾日も幾晩も泣きつづけ、やがて自らの心までもががらんどうとなったとき、ふと思い出した。
いつか対峙した、人造人間ホムンクルス。錬金術師が人体錬成という禁忌を犯したときに生まれる出来損ない。しかし人の命を糧に作られた紅い石を食べさせれば、知能を持ち、人間と同じ姿を得ることができる。錬金術師が甦らせようとした、対象の姿を。
少女は軍の研究施設から大量の紅い石を盗み出し、逃亡先の田舎の村で、再び禁忌を犯した。そして子を成すための器官を失い、代わりに人の形も持たず呼吸を繰り返すだけの化け物を生みだした。
陰部から血を垂れ流しつつ、少女はその化け物に紅い石を喰わせた。吸い寄せられるようにガツガツと紅い石を喰らう化け物に、少女は、アル、と呼びかけた。
少女は化け物に、紅い石を喰わせつづけた。自分の身体には錬金術で応急処置を施し、やがてなんとか再び動けるようになるころ、その目の前にはひとりの少年の姿があった。十歳ほどの、金色の髪と瞳を持つ少年の姿が。無垢な瞳でこちらを見つめる少年を力いっぱい抱きしめて、少女はまた、アル、とつぶやいた。
少年は教えられたとおり少女を「姉さん」と呼び、全身全霊で少女を慕った。少女は少年を目に入れても痛くないというほどにかわいがり、その手を引いて旅に出た。逃亡者の身である上に、適切な治療を施していない身体は鋭く痛んだけれど、心はどこまでも幸福だった。
しかしそのうち少年の顔色が悪くなり、しきりに空腹を訴えるようになった。人間の食べ物は与えていたが、それでは力が出ないようで、段々と憔悴していってしまった。焦った少女は再び紅い石を与えた。すると少年は理性のない獣のようにそれに飛びつき、ガツガツと貪り喰った。そしてそのあと、血色を取り戻した顔で姉を見つめ、言った。
「姉さん。思い出したよ。どうしてボクが生まれたのか。誰がボクを〈作った〉のか」
少年は少女に飛びかかり、見た目からは想像できないほどの力でその首を絞めながら、あなたが憎い、と言った。できそこないの命しか与えてくれなかった、あなたを殺したい、と。少女は死を覚悟し、そして思った。この〈罪〉に殺されるのなら、それは当然の報いだろうと。
しかし結局、少年に少女を殺すことはできなかった。たとえ紛い物であっても、そこには少女が甦らせようとした弟の記憶の残滓があった。少年はそれがなにかもわからないまま涙を流し、少女の首から手を離すと、代わりにその唇へくちづけた。
それ以来、ふたりは身を寄せ合って生きている。姉として、弟として。小さな手をぎゅっと結び合い、軍の追手から逃れるべく宛てのない旅をつづけながら。
普段はあどけない子供である弟は、命の源である紅い石を口にするたび自らの存在理由を思い出し、凶暴な獣と化した。弟は姉を烈しく愛し、そして憎んだ。姉が本当に愛しているのは自分ではないという事実に胸を砕かれ激昂しながら、脳裏にこびりついた姉への劣情の記憶だけでその身体を求めた。
子を成せないふたりの交わりは、ただ虚しさだけを孕んだごっこあそびだった。それでもふたりは交わりをつづけた。弟は憎しみをぶつけるように、姉は裁きに耐えるように。はたから見ると痛みの交換でしかない行為は、ふたりにとって、ほんものに限りなく近い場所へ至るための唯一の手段だった。欠落した魂を埋めるための、唯一の方法だった。
姉が目を覚ましたとき、暖炉の火はすでに消え去り、部屋には冷気がしんと張りつめていた。
隣に横たわる弟は、本来睡眠など必要ないはずなのに、人間のように眠りながら姉の胸に顔をうずめている。幼いころ、同じように自分に寄り添って眠っていた弟の姿を思い出し、姉はふっと瞳をほころばせる。
「……お前がいてくれたら、いいんだ」
弟を起こさないように、ほとんど音にならない声で、姉はつぶやく。かつて鎧だったころ、師から受け継いだ紋章が刻まれていた左肩。そこには今、人ならざるものの証である蛇の印が浮かび上がっている。
「お前さえそばにいてくれたら、オレはもうなにもいらないんだ」
アル、となによりも愛しい名前を、唇にひとつ。やさしげにほほえむ金色の瞳に、かつて灯っていた燃えるような光は、ない。
白んだ空が段々と色彩を増してゆくなか、ふたりは宿を出立した。本当はもっとゆっくり休みたかったが、多くの人々に姿を見られる前に、町から山のほうへ抜けてしまいたかった。
朝の空気は寒いだろうと、姉は弟にマフラーを巻いてやった。嬉しそうに頬をほころばせる弟を愛おし気に見つめながら、自らの首にもマフラーを巻き、赤黒く変色した傷を隠してしまった。
朝靄の立ち込める町を歩くふたりは、今日もまた手をつないでいる。きっと遠くない未来に訪れる、この旅の終わりの日まで。それは軍に捕まる日のことかもしれないし、傷を抱えた姉の身体が限界を迎える日のことかもしれない。それとも、弟が姉への憎しみに心を呑まれ、その細い首を手折る日が、それより先に来るかもしれない。
それでもふたりはいま、手をつないでいる。
この旅路が決して明るい場所へはつづいていないと知りながら、今ここにあるぬくもりだけを供として、ふたりはただ宛てもなく、歩いてゆく。
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