幸福の家
西の空に滲む今日の残り火へ向けて、幾羽かの鳥が飛び去ってゆく。
その姿はすぐに教会や市庁舎の影に重なって見えなくなり、後を追うように冷たい風が駆け抜ける。骨まで染み入る寒さから身を守るべくジャケットの前を掻き合わせると、石畳の道を蹴りながら家への道を急ぐ。今日は作業が長引いて、すっかり遅くなってしまった。早く帰ってあげなければと早足で角を曲がると、そこに倒れていた身体を踏みそうになり、慌てて車道へ身を避けた。
終わりの見えないインフレと厳しい冬の到来により、ここのところ行き倒れている人間を毎日のように目にする。最初のうちは声を掛け、まだ息のある者には食べ物を分け与えていたけれど、もうきりがないから止めてしまった。今のこの国に、救えない命は数えきれないほどある。そのすべてに憐れみと涙を注いでいられるほど、僕自身にも余裕があるわけじゃない。
それでも、絶望が蔓延るこの世界で、自分はとても恵まれていると思う。決して裕福ではないし先行きも見えないけれど、僕には仕事と夢がある。そしてなにより、幸福だけが満ちる、あの場所がある。
まだ日が完全に落ちぬうちから飲み始め、すでに出来上がった酔っ払いたちのたむろする通りを抜けると、アパートが見えてくる。大家さんの営む花屋はすでに店仕舞いをし、エントランスに入ると、奥の居住区に明かりが灯っているのが見える。ふと先日、大家さんにあのひとの行方を尋ねられたことを思い出す。すこし緊張したけれど、予め用意しておいた「ついに行方のわかったお父さんの後を追い、ベルリンへ越していったんです」という嘘を吐くと、「そうなの、寂しいわね」と彼女は眉を下げた。
それが真実ではないと自分がいちばんわかっているのに、その嘘は僕の心へ容易に翳を落とした。あのひとがもし、僕を置いてどこかへ去って行ってしまったら。そんなもしもの話を考えるだけで、胸が締め付けられるように苦しくなり、絶望で目の前が暗くなる。けれど、恐れる必要はない。だってそんな未来はやってこない。僕が、僕自身の手で、その可能性を潰えさせたのだから。
一階へと上がり、扉に鍵を差し込むと、音が響くようにわざと勢いよく回して開錠する。軋む扉を開いて中へ入り、今度は内側から鍵を差し込んで錠を閉めると、すでに暗くなった室内に沈黙が落ちる。しかし耳を澄ませば、そこが無人ではないことがすぐにわかる。リビングの奥、僕のベッドが置かれている部屋から、かすかな気配が伝わってくる。——目を覚ましている。ときめきにも似た熱が心に湧き上がるのを感じながら、真っ直ぐにその部屋へと向かい、ドアノブへ手を掛ける。
「……エドワードさん?」
部屋の扉を開けながら、できるだけやさしく聞こえるよう名を呼ぶと、暗闇の中から床の軋む音と金属の擦れる音が返ってくる。壁を探り電気のスイッチを上げると、そこには予想どおり、床に転がる姿があった。
「ただいま、エドワードさん」
僕の声に反応し、子供のように細く小さな身体が、びくりと動く。僕が用意したクリーム色のネグリジェとガウンを身にまとい、ベッドから片脚が吊り上げられた状態で横たわっている。片側だけ残った脚。折れそうなほど華奢な足首にはめられた枷と、そこからベッドへと繋がる鎖が、そのひとがそれ以上遠くへ行くことを許そうとしない。そんなことはわかっているはずなのに、何度も同じことを試みようとするのだから、つくづく困ったひとだと思う。
「エドワードさん、遅くなってごめんなさい。お腹すきました?」
返ってきたのは、呻き声だけ。当然だ。その唇も、瞼も、布によって自由を奪われているのだから。白い布に唾液が滲むほど激しく呻く姿に憐れみを覚え、後頭部の結び目を解いてやると、布から唇が解放された瞬間、そのひとは引きつるように深く息を吸った。
「エドワードさん、大丈夫?頭は打ってない?」
「あ、アルフォンス!脚、外して……!頼む、から……っ!」
「どうしたんです、そんなに慌てて。あ、お手洗いに行きたいの?」
どうやら図星らしく、そのひとはガクガクと頭を振る。普段は見せない切羽詰まった様子が可愛くて、加虐心がせり上がる。
「待って、今外してあげる。でも、ここでしてもいいんですよ。僕が綺麗にしてあげますから」
「ばかっ!そんなこと、できるわけ……」
「どうして?今さらでしょう。僕はあなたの恥ずかしいところなんて、もう隅々まで見てるのに」
ね、ここも、と言いながら下腹部を指で押してやると、そのひとは引きつるような悲鳴を上げる。
「やっ……!アルフォンス、頼むから……!」
羞恥と緊張で、白い頬がどんどん赤らんでゆく。泣いているのだろうか。確かめたくて、視界を奪う布も解いてやれば、現れた金色の瞳は予想どおりに濡れていた。縋るように見つめてくるその双眸にほほえみかけ、さらに下腹部を押してやれば、そのひとはヒッと声を上げる。
「アルフォンス!アルフォンスっ!やだぁ……!お願い、だから……」
「ここでして。あなたの恥ずかしいところ、僕だけに見せて」
やだ、やだぁ、と子供のように頭を横に振る姿に、身体の熱が上がってゆく。どれだけ嫌だと繰り返しても、このひとは僕から逃れる術を持たない。その事実が嬉しくて、昂った気持ちのまま限界まで下腹部を押してやると、あぁ、と絶望的な声とともに、ナイトドレスの裾からゆっくりと水たまりが広がり始める。
「……我慢できなかったの?」
返事はない。そのひとは力なく項垂れ、ひくひくと泣きながら肩を震わせている。
「憐れなエドワードさん。でも、大丈夫。僕が綺麗にしてあげる。床を拭いて、あなたをお風呂に入れて、新しい寝間着を着せてあげる。それからご飯を食べさせて、あなたを抱いて一緒に眠ってあげる」
やはり、返事はない。聞いているのかも定かではなく、小さな顎を持ち上げてやれば、とろけたように涙をこぼすふたつの瞳が、ぼんやりと僕を映す。
「なにも心配いらないよ。僕があなたのそばにいる」
朱を帯びた額へ、瞼へ、順番にくちづけを落とし、最後は細かな震えを繰り返す薄い唇へ、自らの唇を重ねる。その甘さを十分に味わったあと唇を離し、額を合わせて再び瞳を覗き込む。
「僕があなたを、いつまでも守ってあげる」
きっとこの想いが伝わるように、あなたがわかってくれるようにと、愛しい瞳へひとつひとつ言葉を滲ませるつもりで語りかける。あなたはひとりではないのだと、僕たちが離れることはもう決してないのだと、愛しいひとの意識に焼き付けるために、何度もなんども。
このひとは最初から、他の誰とも違っていた。
どう見ても男性には見えない顔つきや、小柄な体格のことだけではない。火花を散らすように生まれる数々の閃きも、目的のためになりふり構わず突き進む意志の強さも、そして、情熱の象徴のごとくきらめく金の瞳も、そのひとが特別な存在であることを示していた。彗星のごとく現れた眩い才能に、誰もが惹かれ、誰もが畏怖の念を抱いていた。
それでもきっと、僕ほど強い想いをあのひとに抱いた者は、他にいなかっただろう。
それは運命めいた予感であり、天啓だった。だってあのひとは言ったのだ。初めて顔を合わせたとき、僕が自分の名を告げる前に、あの金色の瞳を見開いて、「アル」と。
あとから知ったところによると、僕はあのひとの弟によく似ていて、名前も同じだということだった。信じられないような偶然だったけれど、そのお陰かあのひとも僕に対しては特別な親愛を抱いていてくれているようで、皆といるときも僕のそばに寄ってきてくれることが多かった。弟の代わりというのは、二番手のようで不満だったけれど、それを理由に僕を特別視してくれるなら、それでもいいと思えた。
思い返せば、僕はあのころからあのひとに恋をしていたのだ。あのときの僕には恋心などというものはよくわからず、ただあのひとに話しかけられたり笑いかけられたりすると嬉しくて、ずっとそばにいられたらと思うばかりだった。
「オレさ、どうしても会いたい奴がいるんだ」
あれはいつか、ふたりきりで外を散歩したときだった。研究所に籠ってばかりのあのひとを、たまには外の空気を吸ったほうがいいと説得し、半ば無理やり連れ出したときだ。夏の暑さが抜け、枯れ草の香りが混ざり始めた秋の夕暮れ、ふたりで歩いた川べり。土手の上にそびえる正教会の丸屋根から鐘の音が響き、川面はその日最後の光を照り返し、切な気にきらめいていた。
「会いたい人、ですか……?」
エドワードさんは、どうしてロケットの研究に興味を持ったんですか――?僕が何気なく投げかけたその問いに、あのひとは思いもかけない答えを返してきた。それはありきたりな質問なはずで、その答えも、宇宙に行ってみたいとか、そんなありきたりなものであるはずだった。
それなのにそのひとは、川上にかかる橋のさらに向こうのどこか遠くへ視線を据えながら、会いたい奴がいるんだ、と言った。
「会いたいって……。ロケットじゃないと会えないなんて、宇宙人でもあるまいし」
「上手く説明できないんだけどさ、そいつに会うには、どうしてもロケットが必要なんだ。だからオレはこの研究をしてる」
もしかして頭がおかしいのだろうか、と思った。考えてみれば、そのひとはどこか不可解なところばかりだった。生まれのことを訊いてもはぐらかすばかりだし、普通に生きていれば身に付けようのない知識をたくさん有していた。なにより折に触れて垣間見せる底深い翳の正体が、僕にはどうしてもわからなかった。
「……エドワードさんは、ロケットができたらその人に会いに行ってしまうんですか?」
僕がそう問いかけると、ああそうだな、と言葉を返した。僕のほうを振り向きもせず、不安定な義足を支えるための杖を一歩ずつ地面に突きながら。
「行ってしまったら、もう戻ってこないんですか?」
まるで去りゆく母親に、置いてゆかないでと泣き縋る子供のような声だと、自分でも思った。同じことを感じたのだろうか。そのひとは杖を止めて振り返ると、贖罪を滲ませたように眉を下げ、ああそうだな、ともういちどつぶやいた。
ルーマニアの研究所が閉鎖になり、しばらく故郷に帰っていたが、ミュンヘンで職を見つけた仲間の収集を受けて、僕はミュンヘンへと引っ越した。
そのひとと再会したのは、それから数か月後のことだった。ある雨の日、突然アパートのドアをノックする者があり、扉を開けてみたら、びしょ濡れの姿でそこに立っていたのだ。
そのひとがミュンヘンに住む父親のもとへ戻ったことは知っていたから、ミュンヘンに来てから一番に訪ねたが、何度訪れても返事がなかったので、引っ越してしまったのだろうと落胆していた。代わりに、最後の望みを懸けるように手紙で自分の住所を報せ、いつでも訪ねて来てほしいと書き記した。あの手紙はちゃんと届いていたのだろう。しかしそのひとはただ友人の家を尋ねに来た風ではなく、憔悴しきった青白い顔で、濡れた身体を震わせていた。
「親父が、いなくなったんだ」
そして言った。以前のように自信に満ちあふれた口調ではなく、迷子の子供を思わせる弱々しい声で。
「アパートも追い出されちまったし、行く場所がなくてさ……。お前以外、知り合いもいないし、オレ……」
そこまで言うと、そのひとは感極まったように僕の身体へ抱きついてきた。声こそ上げていなかったが、背中が小刻みに震えていて、泣いているのだとわかった。僕は身を強張らせながらも、細い身体を抱きしめ返すべく、その背中へ手を当てた。そしてぎゅっと引き寄せると、鳩尾の辺りに当たったそのひとの胸が、決して男性にはないやわらかさを帯びていることに気付き、これまで抱いていた推測が真実であったことを知った。
きっとそのとき、僕はそのひとに愛を伝えるべきだったのだろう。
泣かなくていいのだと、僕がそばにいると、そう言ってそのひとにくちづけて、肌を暴いてしまえばよかったのだ。
しかしそうするには、僕はあまりにも臆病だった。だからこそ、父親を失い途方に暮れるそのひとに手を出すことは、まるで弱みに付け込むようで公正さにかけるなどという、それらしい言い訳で自分の情欲を覆い隠してしまった。
だから僕は、くちづける代わりに、そのひとが泣き止むまで背中をなでつづけ、落ち着いてくるとシャワーを浴びるように勧め、着替えを貸してやり、そのあとあたたかい紅茶を淹れてやった。
僕の大きすぎるシャツをワンピースのようにして羽織り、暖炉の前で無防備に曝け出した脚を抱えながら、そのひとは訥々と語り始めた。自分はもともとこの世界の人間ではないこと、もとの世界では錬金術師だったこと、そして、弟を蘇らせるためにこの世界へ来てしまったこと。とても信じられるような話ではなかったけれど、同時にそれはこれまでそのひとが見せた不可解さのすべてに答えをくれるものでもあった。
「オレはさ、帰りたいんだ。弟のいる世界に。弟にもう一度会って、あいつが生きていることを確かめたい。そして、あいつと一緒に生きていきたい」
そこまで言って、そのひとはまた声を詰まらせた。先ほどのような取り乱し方はしなかったけれど、暖炉の火を照り返し橙に染まった頬には、涙が一筋落ちていた。
「帰りたいんだ。会いたいんだ、あいつに。……でも方法が、わからない」
そのひとはもう、ロケットでは目標を達成できないと結論付けてしまったようで、僕たちの研究には参加しないと言った。代わりにどうするのかと問うても、わからないと首を振るばかりで、毎日抜け殻のように過ごしていた。心配ではあったけれど、そのひとがどんどんと覇気を失ってゆく様子を、僕は心のどこかで喜んでいたように思う。だってそのひとはもう、僕がいないと生きてゆけないはずだった。金銭的にも、精神的にも、そのひとが僕に依存しているのは誰が見ても明らかな事実だった。もしも僕がそのひとを放り出したら、きっとどこかの路地で野垂れ死んでしまうだろう。そんな残酷な妄想を抱きながらも、僕はそのひとに想いを伝えられないまま、部屋で自分を慰めた。隣の部屋で眠る愛しいひとのことを想い、そのひとがいつか僕に縋りつき、お前がいないと生きていけないと涙を流し、その身を預けてくれる日のことを思い描きながら、己の熱を慰めた。
しかしそのひとが、そんな風に僕を求めてきてくれることは決してなかった。あくまでも同居人として僕に接し、平気で無防備な姿をさらし、さらには僕の一挙手一投足をほほえましげに見つめ、「弟もそんなことしてたな」と悲し気に目を細めるばかりだった。
そのひとの様子に変化が訪れたのは、僕がある日の夕飯の席で、やっと見つけたパトロンについて話して聞かせたことがきっかけだった。興奮して話す僕を尻目に、いかにも興味がないといった様子でうなずいていたそのひとは、僕が発したパトロンのひとりの名前を耳にした途端、顔を上げた。
「ハウスホーファー?お前いまそう言ったか?」
突然の変化に戸惑いながらも肯定し、そのパトロンがミュンヘン大学で教鞭をとっている地政学の権威であり、トゥーレ協会という秘密結社の幹部でもあることを話すと、そのひとは考え込むようにして押し黙った。
結局、どうしてその人物に特別な興味を持ったのかは、訊いても教えてくれなかった。しかしそれ以来、たびたび朝早くから外出するようになり、時には夜遅くまで帰ってこないことも増えた。心配してなにをしているのかと問うても、はぐらかすばかりで決して答えはしなかった。
そして十月末のある晩、そのひとは顔に切り傷を作り、右手の義手の指を数本欠いた姿で帰宅してきた。
まさか夜道で暴行でも受けたのだろうかと慌てて駆け寄ると、そのひとはボロボロになった姿に反し、きらめきを灯した瞳で僕を見上げた。
「信じられないだろうけどさ、アルに会ったんだ。弟のアルに」
そう言って、そのひとは高揚で赤らんだ頬をゆるめて笑った。まるで救いが訪れたかのように。自らの住まう地獄に、一条の光が射し込んだとでもいうように。
「もしかしたらオレ、帰れるかもしれない」
そのあとのことを、僕はあまり鮮明に覚えていない。
気付けばそのひとを床に押し倒し、細い首に指をかけ、力任せに手折ろうとしている自分がいた。苦しそうに歪められた顔にハッとし指をゆるめると、そのひとはケホケホと咳を繰り返し、潤んだ瞳から涙をこぼした。
「アル……フォンス……なん、で……?」
自分は一体、なにをしているのだろう、と思った。
今すぐこの身体の上からどいて、地面に頭をこすりつけて暴挙を詫びなければと思った。
しかし同時に、どこまでも冷ややかな心で状況を俯瞰している自分がいることに、僕は気付いた。そいつは言った。どうして謝らなければいけない。どうして止めなければいけない。だって、このひとは言った。もとの世界に帰るのだと。僕を置いてゆくのだと。
「あなたの……せいだ」
そんなことが許されるはずはない。そんなことが起こっていいはずがない。だって、このひとを誰よりも愛しているのは僕なのだ。ここまでこのひとを支えてきたのも僕だ。相手が弟だろうが、父親だろうが、この想いが負けるはずなんて、ない。
「あなたが帰るなんて……僕を置いていくなんて、言うから。あなたは知らないんだ。誰があなたのことをいちばん愛しているか……。あなたに誰がいちばん必要なのか……!」
窒息寸前で赤らんだ顔を見下ろすと、無我夢中でその唇へくちづけた。そのひとは呻き、逃れようともがいたけれど、手首と肩を抑えてしまえば簡単に動きを封じることができた。初めて味わう唇は熱く、やわらかく、吸い上げればそのままとろけ出してしまいそうだった。夢中になって唇の隙間へ舌を差し入れ、火傷しそうなほどに熱い口内を掻き混ぜれば、そのひとは苦しそうな声を漏らした。それがもっと聞きたくて、さらに奥まで侵入すると、制止しようと背中を何度も叩かれた。
「っはぁ……!アル、フォンス……やめ……!やめろっ!」
唇を離した途端、絶望的な声でそのひとは叫んだ。きっと、僕にこんなことができるだなんて、すこしも思っていなかったのだろう。このひとにとって僕は所詮、弟の代わりの愚鈍で意気地のない男でしかなかったのだから。なんと愚かで、なんと残酷なひとなのか。そう思えば思うほど胸に怒りが満ち、衝動に身を任せ、そのひとのベストとシャツの前を力任せに引き裂いた。いやだ、とそのひとが叫んだときにはもう遅かった。シャツの下に身に付けたキャミソール、その布を突き上げるように存在する丸みを帯びた女性の象徴と、ぴんと張った先端を、僕は目にしてしまった。
そのひとが性別を偽っていることは知っていたけれど、知識と実際に目にすることにこれほどの隔たりがあるとは思わなかった。雄としての衝動に突き動かされ、腹部の布を掴み一気に引き上げると、ささやかな左胸が姿を現した。先端が鮮やかな桃に色づいて、じっとりと熱を帯びたような姿は眩暈がするほど蠱惑的で、理性が擦り切れてゆくようだった。しかし右胸は、義手を固定するためのプレートに押し潰されよく見えなかった。邪魔だと思いベルトに手をかけ、抵抗するそのひとを膝で押さえつけながらプレートごと義手を外してしまうと、その下から同じく白くやわらかそうな膨らみが顔を出した。
「や……やだぁ……っ!こんなの……。アル……!アルっ……」
目から涙をこぼし、そのひとは怯えた様子でしきりに許しを乞うた。暴かれた身体を小刻みに震わせる姿は、僕の胸に手遅れの罪悪感を呼び起こした。
「……ごめんなさい、エドワードさん」
僕が悔い改め、願いを受け入れたと思ったのだろうか。そのひとはきつく結んでいた瞼を解いて、恐る恐る僕のほうを見た。その隙を狙い右胸の先端に吸い付けば、甘い悲鳴が部屋に響いた。そのまま先端を舌でつつきながら、ズボンを留めているベルトをゆるめ下着の中へ手を差し入れれば、そこはすでに蒸れたように熱を孕んでいた。
「ぁあっ!やだ……やだぁ……っ」
「ごめん、エドワードさん……。エドワードさん……!」
身体が熱くて仕方がない。涙をこぼす瞳も、涎を垂らす唇も、本当はすべて情欲のままに食いちぎってしまいたかった。僕はそのひとがほしかった。ずっと前から、ほしくてたまらなかった。
「酷いことをしてるのは知ってる。でも、僕はあなたが好きだった。トランシルヴァニアで会ったときからずっと……。なのにあなたは、僕を弟の代わりとしか見てくれない。僕はあなたの弟じゃない。あなたを愛するひとりの男なのに……!」
ズボンと下着を共に掴んで引きずり下ろし、現れたすべやかな恥部に吸い付くと、そのひとは一際高い悲鳴を上げた。このままでは近所の人に聞かれてしまうと、片手で小さな口を抑えながら、じとりと濡れた割れ目や、その上にそそり立つ陰核へ舌を這わした。刺激すればするほどあふれだしてくる蜜は不思議と甘く、媚薬のように意識がおぼろになっていった。一方、そのひとは手のひらの下でしきりに呻き声を漏らし身をよじった。背中を蹴ってくる義足の金属部分が痛く、一度起き上がって今度は義足を掴んでやると、そのひとは僕の意図を察し、焦った様子で逃げようとした。それを許さず腹部を力任せに押さえつけ、片手で留め金を外して脚を地面へ落としてしまうと、暴れる身体が先ほどよりもずっと押さえつけやすくなった。
「それにね、エドワードさん……。これは、あなたのためでもあるんだ」
きっと、最初からこうしてしまえばよかったのだ、と思った。
小鳥が空へ飛んでゆけないよう羽を切ってしまうのと同じように、とっととこの脚を取り外してしまえばよかったのだ。そうすればこのひとは、僕のところから去ってゆけない。ここで、僕のそばで、いつまでも――……。
「あなたはきっと、頭がおかしいんだ。もとの世界だなんて、錬金術だなんて、あり得ない。あなたはきっと、この手脚を失ったとき、なにかとても酷いものを見て、そして頭がおかしくなってしまったんだ。そうでしょう?」
「ち、違う!オレはおかしくなんてない!オレは本当に……!」
「いいんだ。わかってる。あなたが悪いんじゃない。でも、そんな風におかしなあなたを、社会は受け入れない。よそでそんなことを言ったら、きっとあなたは精神病院に一生閉じ込められる。だから僕があなたを守ってあげるんだ。大丈夫。僕はあなたを愛しているから、あなたを苦しめることなんてしない」
「アルフォンス!どうしちまったんだよ……!変だよ、お前……」
「おかしいのは僕じゃない、あなただ。僕があなたを守ってあげる。あなたをどこへも連れて行かせたりなんてしない」
右膝を掴み身体をこちらへ引き寄せると、今度は割れ目へと指を差し入れた。再び上がった高い悲鳴を封じ込めるべく、床に落ちた下着を口の中へ捻じ込めば、その人は苦しそうに涙を流す。膣内からどんどんと溢れてくる粘液を掻き混ぜ、酷く硬い割れ目を指で抉じ開けると、肉壁がひくひくと痙攣する。その動きに誘われるように自分のベルトを解き、前開きから硬くなったものを取り出すと、事態を察したそのひとの顔が一気に青ざめた。
「ごめんね、エドワードさん。痛いかもしれないけど、我慢して」
入口に先端を合わせゆっくりと押し入れると、口に詰まった下着の奥でくぐもった悲鳴が上がった。そこはあまりにも狭くて、とても容易には奥へ入ってゆけない。食いちぎられそうな締め付けで視界に火花が散り、息が上がってゆく。それでも負けじと押し入ってゆけば、そのひとは真っ赤に染まった顔を歪め、目尻から涙をあふれさせる。
「あい、してる、エドワードさん」
すこしずつ、すこしずつと奥へと入り込んでいくたび、そのひとは苦しそうに瞼を結んでゆく。きっと酷く痛むのだろう。本当はやめてやらないといけないのに、今離したら二度と手に入らない気がして、必死に印を刻み込もうと中を穿つ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……。愛してるんだ、あなたを……」
聞こえているのかはわからない。それでも、繰り返さずにはいられない。ごめんなさい、ごめんなさい、あなたを愛してる、愛してる――……。
「行かないで。どこにも行かないで……。僕がいるから。あなたをひとりには、しないから、だから……」
置いてゆかないで。
そうこぼした瞬間、だんだんとせり上がって来ていたものが溢れ、そのひとの最奥で欲望が爆ぜた。必死に身をよじっていたそのひとはついぞ動きを止め、絶望を宿した目で虚空を見る。その瞳を捉える視界が段々とゆらぎを帯びて、僕は自分もまた泣いていたことを知り、情けない笑い声を上げた。
その晩、僕はそのひとの身体の中に幾度も熱を放った。そのつややかな肌に吸い付いて、歯を立てて、身体のありとあらゆるところに印をつけた。そのひとは意識があるのかないのかもわからないような状態で、何度も身体を痙攣させ、苦しそうに歪めた瞳からひっきりなしに涙を落とした。
風の強い夜だった。窓の外の鎧戸がガタガタ揺れて、今にも吹き飛ばされてしまいそうな厳しい夜だった。
猛る自然の音と呼応するように、水音と呼吸音が響く部屋の中、そのひとは声も上げずに、いつまでも、いつまでも泣いていた。
こうして僕は、そのひとをこの部屋に閉じ込めてしまうことを決めた。どこへも行ってしまえないよう。僕のことを置いていってしまえないよう。
取り外した手脚も、部屋にあった予備の手脚も、近日中にはすべて捨ててしまった。たとえ脱走されたとしても、あの手脚では遠くには行けない。そう思っていたけれど、意志の強いあのひとが簡単に諦めるはずはなく、最初のころは逃げ出そうと必死だった。鍵がないと玄関扉が開かないと知っているから、片腕片脚だけの身体で椅子を引きずってきて窓を割ろうとしたり、大声で助けを呼ぼうとしたり――。だから仕方なく、仕事へ行くために家を空けるときは、そのひとの目と口を布で覆って、視界も言葉も奪ってしまうことにした。そしてもう絶対に逃げ出せないよう、足首に枷を装着し、ベッドに繋ぎとめてしまった。
それでも諦めないそのひとは、ある日僕に甘えるふりをして鍵を奪おうとした。僕の首へ左腕を回し、自らくちづけあからさまに胸を擦り付け、僕が抱き締め返したときに、ポケットから鍵を盗ろうとしたのだ。
僕にはそれが許せなかった。僕の気持ちを知りながら、それを利用しようとしたことが、どうしても許せなかった。だから僕は、そのひとの指の骨を折ってしまうことにした。僕が工具箱から取り出したハンマーを持って部屋へ戻ると、殺されると思ったのか、そのひとは色を失い許しを請うた。オレが悪かった、オレが浅はかだった、だから戻って、もとのやさしいお前にもどって。
「もう遅いんだよ、エドワードさん」
そう言って暴れる身体を押さえつけ布で口を覆うと、手首を掴んでナイトテーブルの上に固定した。
「あなたは僕を弄び過ぎたんだ。ぜんぶ、あなたが悪いんだ」
そして中指の上に思い切りハンマーを叩きつけると、布でも覆い隠せないほどの悲鳴が上がった。つづいて薬指、小指、人差し指を砕き、最後に親指を叩き潰して腕を解放してやると、そのひとは床に転がり、身も世もなく泣き始めた。
「……ごめんなさい、エドワードさん。痛かったね」
まるで手先に重しをつけられたとでも言うように、だらりと腕を伸ばしてひくひくと泣きつづける身体を抱き起すと、その旋毛へ何度もキスを落とした。
「愛してる。あなたを愛してる。だからどうか、僕を悲しませるようなことはしないで」
それ以来、そのひとはまるで妄想症を患った者みたいに、しきりにつぶやくようになった。アルが来る。アルが迎えに来る。行かないと。こちらから門を開かないと。
そして僕が帰宅し足枷を外してやると、青黒く腫れあがった指で無理に床を手繰り、よろよろと玄関のほうへ向かおうとするので、そのたびに髪を掴んで引きずり戻して「玄関のほうへ行ってはいけない」と言い聞かせた。他にも、泣きわめいたり、言うことを聞いてくれなかったりするときは、頬を叩いたり、わざと失禁させたりして、自尊心を削いでいった。
時間はかかったが、僕の努力はすこしずつ結実していった。そのひとの動きが大人しくなるのと同じくして、その瞳からも光が消えていった。そのひとは段々ともとの世界へ帰らなければというおかしなことを口にしなくなり、代わりにただ、アル、アル、と、その名前だけをつぶやくようになった。
あれから何度も、僕はあのひとの身体にふれた。
あのひともすっかり行為に慣れ、絶頂に達してくれることも多くなった。足枷を外し、ナイトドレスの上からマッサージを施すようにやんわりと胸を揉んでやると、あのひとは頬を赤らめ、甘える仔犬みたいにくんくんと鼻を鳴らす。そのまま首や、接合部の周辺の皮膚の薄くなった部分へ吸い付いてやれば、それだけで達してしまうこともあるくらいだった。
「きもちいいの?」
できるだけやさしい声でそう問えば、そのひとは素直にこくりとうなずき、形がおかしくなった指を痙攣させながら、自らナイトドレスの裾をたくし上げ、脚を開く。そのはしたなさには呆れてしまうけれど、すでに熟して汁をこぼす陰部を望むままに吸い上げてやれば、甘い声を上げて身をよじる。
「ふぁっ……ん、アル!もっと、もっとぉ……!アル……!」
アル、アル――。今までとは違う名前で僕を呼び、虚ろな瞳で笑う愛しいひと。そこにはもう、かつてこのひとがまとっていた翳は存在しない。父親に捨てられここへやってきた日、もとの世界へ帰りたいのに方法がわからないと泣いていた姿も、希望を欠いた日々を漂う投げやりな姿も、ここにはない。
僕たちはここで、世界にふたりきり。この部屋の中でなら、時間も、未来も、他人もすべてなげうって、穏やかに笑っていられる。
ここにいる限り、このひとが悲しむことはない。傷つくことはない。あり得ぬ夢に自暴自棄になり、自らを粗末にすることもない。
ここは幸せな場所だった。決して壊してしまうわけにはいかない、幸福だけが満ちる場所だった。
それなのに、毎晩おかしな夢を見る。
暗闇の中、不鮮明に浮かび上がる、金色の髪をした子供の夢。赤い長衣を身にまとい、濃霧の中から恨めし気な瞳をぎらつかせ、僕を見る。
声は聞こえない。しかし僕には、不思議とその子がなにを言っているのか理解できる。返して、かえして、僕のたいせつなものを、返して――……。
その子供が一体なにを欲しているのか、僕にはわからない。
ただ、彼のかけた呪いのせいなのか、最近やたらと咳が出て仕方がない。先日は激しく咳込んだ果てに手のひらへ血を吐いてしまったから、この身体はなにかしらの病に蝕まれているのかもしれない。
もしも僕が病に倒れ、この世を去るようなことになったら、と考える。そのときは、きっとあのひとも連れてゆこうと思う。だってあのひとには、もう僕しかいない。僕がいなければ生きてゆけないあのひとを置き去りにするなどという残酷なことを、僕は決してしない。
ゆっくりと空が白み始めれば、部屋を支配していた暗闇が、すこしずつ存在を薄めてゆく。
そんな幻のような薄明りのなか、僕たちは世界にふたりきり。かなしいものすべてから切り離されたこの部屋で、ふたりきり、なによりも深く、愛を交わして、わらい合う。
何度もなんども繰り返す、しつこいほどのくちづけのあと、そのひとは目からひとすじの涙をこぼす。
そして、甘えるように鼻先を擦りつけながら、アル、と僕のことを呼び、二度と夢から醒めることのない瞳を細めて、わらう。
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