不熟のマリア
地面から伝わる冷たさが体内へと染み渡り、芯からわきあがる震えに意識を呼び起こされ、目を開いた。
目の前に広がるのは、瞼を開く前とほとんど同じ、闇。天井近くに辛うじて蝋燭が一本灯してあるが、それだけでこの空間の隅々までを照らすには、あまりにも頼りない。
この地下室は、いつだって寒い。空気が凍てていて、石造りの壁や床はいつも水に濡れているから、肌にふれれば貼りつきそうなほどに冷たい。おまけにこの身体は衣服を身に付けていないから、ただひとつ与えられた毛布の中でぎゅっと身を丸めて、なんとか苦痛をやりすごすしかない。
ふと肌にのしかかる重みを感じ毛布の中を覗くと、弟がこの身に寄り添って眠っていた。いつ潜り込んできたのだろう。そういえば、眠りに落ちる前、泣いているこいつの顔を見た気がする。あれが夢でなかったのだとしたら、こいつは一体どうして泣いていたのだっただろうか。
ここへ来てからあらゆる記憶や感覚が曖昧で、自分が本当にまだ生きているのかもわからなくなる。窓もなく、電灯もないのだから当然と言えば当然だが、それ以上に頭の中に霧がかかったような感覚がどうしても抜けない。以前はあれだけ難解な錬金術のことを理解していただなんて、嘘みたいだ。そういえばいつか、こいつの大嫌いな嫉妬のホムンクルスが言っていた。オレは弟を取り戻そうとして、脳みその一部を失ったのだと。それが具体的にどういうことかよくわからないけれど、オレを白痴だと呼び殴りつけるあのホムンクルスはいつも嬉しそうだ。
弟はあいつが嫌いだとしょっちゅう言っているけれど、オレもあいつが好きではないから、できればこの地下室に入ってきてほしくない。弟に身体を貪り喰われるのは、どれだけ痛くてもつらくなんてないのに、あのホムンクルスに目玉が潰れるほど殴られつづけたときは、怖くて失禁しながら泣いてしまった。その様子を見て、あいつは声を上げて笑っていた。あいつは弟が長い任務に出ているとき、そうして時折オレをいたぶりに来る。オレが父親に似ているから、というのが理由らしいけれど、オレにはよくわからない。
そういえば、先ほど泣いていた弟も、あいつの名前を口にしていた気がする。扉を開けてこの部屋に駆け込んできた弟は、オレの身体に抱きついて、なにかを早口で訴えていた。確か、あいつに、エンヴィーに酷い話を聞かされたと。あの人、と呼ばれるこいつらの主人が、オレを妊娠させ、賢者の石の苗床にしようとしているらしいのだと。オレにはその意味がよくわからなかったけれど、子供のように声を上げて泣く弟がかわいそうで、ひとつだけ残った腕をのばして、後頭部を何度もなでてやった。そしてそのまま、泣き疲れた弟とともに、オレも眠りについたのだろう。
弟の体温はあまり高くない。肌も異様に白くて、ちゃんと血が通っているのか心配になることもある。そっと腕にふれてみると、やはりとても冷えているものだから、すこしでも体温を分け与えてやりたくて抱きしめると、弟はもぞもぞと身動ぎした。
「……ねえさん?」
寝ぼけた眼でオレを見て、弟はつぶやく。そして自らもぎゅっとこの身に抱きついてきたものだから、そのかわいらしさに思わず頬がほころんでしまう。
「アル、寒くないか?〈食事〉にするか?」
前の〈食事〉からどれだけ経ったかわからないけれど、腹が減っているのではないかと思いそう問うと、弟はふるふると首を振り、オレの胸へ顔を押し付けてくる。また、泣いているのだろうか。ぐずぐずと鼻をすする音が聞こえたものだから、眠りに落ちる前と同じく頭をなでてやる。短く刈られたやわらかな髪の感触は、小さなころからすこしも変わらない。
「……またエンヴィーにいじめられたのか?」
「いじめられたんじゃない。でも、あいつが酷いことを言うから」
鼻の先をオレの胸へわずかにこすりつけながら、弟は言う。そういえば、昔もこんなことがあった。あれは、母さんが死んでしまって、半年ほどが経ったころだったろうか。ある晩突然、弟が「母さんがいなくてさびしい」と言って膝を抱えて泣き出したのだ。
母さんの葬式の日、確かにこいつは泣いていたけれど、それ以来涙を見せることはなかった。オレはそれを、母さんを取り戻すことに決めたから泣く必要がなくなったのだと思っていたけれど、本当のところは違った。こいつは、オレもまた母さんがいなくてさびしいだろうからと、気丈に振る舞い泣かないようにしていたのだ。
オレよりも幼く、ずっとさびしくて仕方がなかっただろうに、そのことに気付けなかった申し訳なさで、オレには言葉で慰めることなんてできなかった。だから代わりに、自分の胸に弟の頭を抱え込んだ。それは昔、母さんがよくしてくれたことだった。オレが怒ったり弟が泣いたりすると、だいじょうぶよと言って、母さんは胸の中へオレたちの頭を抱き込んでくれた。
オレの胸は、今でも母さんのものに比べたら無いに等しいほどに貧しいけれど、そのときは二次性徴が始まる前だったから、少年とすこしも変わらないような、平らな胸をしていたと思う。それでも弟の泣き声は小さくなり、ぐずぐずと鳴らす鼻をオレの胸にこすりつけてきた。その赤子みたいな様子は、オレの頭に遠い記憶を呼び起こした。まだ弟が生まれたばかりのころ、母さんが重そうな胸を服の中から取り出して、弟の口にその先端を含ませてやっていた記憶。まだ乳児の弟は本能だけでその乳房に吸い付き、懸命に喉を鳴らして母乳を飲んでいた。オレもまだ子供だったけれど、弟のその様子を見たとき、胸の中になにか熱いものが芽生えたのを、はっきりと覚えていた。
だからオレは同じことをした。着ていた服をめくり、自らの平らな胸に辛うじて起ちあがる先端を、弟の口に含ませた。弟は一瞬戸惑う素振りを見せたけれど、言葉もなくそれを口に含み、じゅっと音を立てて吸い上げた。
それはオレたちにとって、誰にも言ってはいけない秘密の儀式になった。どちらが提案するでも、ねだるでもなく、ただふたりの間にぼんやりとしたさびしさが漂い始めると、オレは言葉もなく服をめくり、弟は現れた乳房を口に含んだ。オレたちの面倒は幼馴染の祖母が見てくれていたけれど、夜になれば自分たちの家に帰っていたから、その行為を咎める大人はいなかった。それなのに、それがやましい行為だと本能的に理解していたオレたちは、灯りを消し、隠れるようにしてその慰め合いを続けた。
ふと思い立ち、弟の後頭部から手を離すと、あのときからはいくらか膨らんだ自分の左胸を、かき集めるようにして手に収めた。そしてぴんと張り始めた先端を弟の口元へ寄せると、あのときの記憶がないはずの弟もまた、要領を得たようにそれを口へと含んだ。
弟はあのときみたいに、じゅっじゅと音を立てて先端に吸い付き、どんどん硬くなってゆくそれを飴玉みたいに舌で転がしてくる。刺激を受けるたびに下半身が疼き、湿りを帯びてゆくのを感じたけれど、そういう趣旨の行為ではないのだと自分自身に言い聞かせ、再び弟の頭を抱き寄せた。どれだけ吸っても母乳など出るはずがないのに、本物の乳児のように、こくこくと喉を鳴らすかわいい弟。ほんとうに、こいつがオレの子供だったらいいのに。こいつがオレの胎内に宿って、オレの身体から栄養を摂取し大きくなってくれればいいのに。そしていつか、オレは弟を産むのだ。痛みに叫び声を上げ、肉の裂け目から血を垂れ流し、なによりも愛しい命を産み落とすのだ。その血まみれの身体を抱きしめたら、顔をしわくちゃにして泣きじゃくる弟にほほえみかけて、熱く張りつめた乳房を吸わせてやる。弟はふにゃふにゃとぐずりながらも、その先端に吸い付き、懸命に母乳を飲み始めるだろう。叶うならば、臍の緒も切り落とさないままがいい。オレはいつまでも弟と一緒にいたい。いつまでも、弟の命の一部でありたい。
ねえさん、と、先端から口を離して、弟が呼ぶ。どうした、と尋ねると、弟は再びオレの胸へ頬をうずめてくる。
「ボクは、姉さんが他のひとのものになるのは嫌だ。姉さんが消えてしまうのも、いやだ」
子どもじみた口調でそう言って、形を確かめるように、指先で胸の表面をなでてくる。伸びた爪の先にじんじんと疼く先端を引っ掻かれれば、下腹部までもが熱を持って、まるでそこに本当に命が宿っているかのような錯覚に襲われる。
「だからね、もしも姉さんが苗床にされるようなことがあれば……その前にボクが姉さんをすっかり食べてあげる」
そうすれば姉さんはボクの中にいられるよね、と言って、弟は笑う。そのさびしそうな笑顔を見て、ああオレたち姉弟は本当にどうしようもないなと、オレもまた破願するしかなかった。