なにもない
暗闇の底で、ぴちゃり、ぴちゃりと、水滴の落ちる音がする。
頭上を走る無数のパイプ。その継ぎ目に生じた小さな亀裂からすこしずつ水が染み出し、やがて雫となって地面へ落ちる。その色は透明だろうか。それとも、命をとかしたような紅だろうか。
じとりと湿った染みだらけの壁。鼻をつく黴のにおい。地下に開いた空間には暗闇だけが落ち、他にはなにもない。ここにはもうなにもない。オレとお前以外には、なにも——。
先ほどの水滴によく似た水音が耳をくすぐり、続いて視界がほうっと霞む。目の縁に熱が滲んで、ああオレは泣いているのかと間抜けなことを考える。しかし、どうしてオレは泣いているのだろう。お前がここにいて、オレのもとへ戻ってきてくれて、悲しいことなどひとつもないはずなのに。
「……姉さん?どうしたの?苦しい?」
誰よりもやさしい声でそう問うて、オレの耳孔へねっとりと舌を這わせる。くすぐったいような心地よいようなその感覚に、背骨へ電流にも似た痺れが走る。もうなにも考えられないほどにぐずぐずになったオレの身体を背後から抱きかかえ、耳へわざと吐息を吐きかけると、「姉さん」とお前はささやく。
「だいじょうぶ、力を抜いて。それとも、ボクのことが怖い?」
怖くない。怖いはずなんてない。お前はオレの弟で、オレの命の一部みたいなものだ。オレがお前を恐れることなんて、ありはしない。
じとりと湿った染みだらけの壁。鼻をつく黴のにおい。地下に開いた空間には暗闇だけが落ち、他にはなにもない。オレとお前。ここにはもう、オレとお前だけ。
濡れた壁にオレの身体を押し付けて、腰の締め付けを強めると、お前は鼻先でオレの後頭部をくすぐる。まだ小さかったころ、ベッドの中でまだ眠りたくないのだと甘えてきたときのことを思い出し呼気だけで笑うと、お前は後ろからオレの顔を覗き込もうとする。
「おかしな姉さん。なにを笑っているの?それとも、もう完全におかしくなってしまった?」
呆れた、とでも言うように鼻から息を吐くと、オレを戒めるように今度は右の耳朶へ舌を這わせてくる。そしてそれを引き寄せるようにして唇の合間に挟むと、感触を確かめながらそっと圧を与えてくる。あまりにもじれったい快感でオレの視界はすでにくらくら揺れているのに、さらに舌を耳の中へ捻じ込まれ、姉さん、と熱い吐息で呼びかけられると、もう理性は限界だった。お前の呼びかけがどういう意味なのかわかっているから、いいよ、と伝えるために左腕をなんとか持ち上げて、腰に絡みつくお前の腕を握りしめる。
次の瞬間、脳をつんざいたのは鋭い衝撃。目の奥に星が散って、あまりのことに息を詰まらせているのに、さらに攻めを与えようと今度は指が口へ侵入してくる。
先ほどより遠のいた水音に混ざり、ごりごりとなにかをすり潰す音が聞こえる。いや、違う。これはなにかを噛み砕く音だ。お前は口の中のものを噛み砕いて、やがて喉の奥へゴクリと送り込む。お前が今呑み込んだもの。ああ、わかっている。それは——。
「ねえ姉さん。反対側も、ちょうだい」
ね、と甘えた声に続き、再び走る衝撃。今度は最初から口に指を入れられていることもあり、情けない呻き声だけが外へ漏れる。頬を滴り落ちてくる生あたたかい水滴が、顎から地面へぽとりと落ちる。涙で滲んだ視線を落とせば、足元に広がるのは紅。まるで命をとかしたような、禍々しい色の水たまり。
「ああ、おいしい。姉さんの耳は小さいけど、弾力があっておいしいんだ。ねえ次は、こっちをちょうだい?」
返事をする間もなく左肩へ噛みつかれ、関節を容赦なく噛み砕かれる。鎖骨の上端も上腕骨頭も粉々に砕け散って、残った腕が床へ落ち、ぼとりと鈍い音を立てる。
「ああ、もったいない」
そう言ってお前はオレの腰と口を放り投げるように解放すると、地面へ落ちた腕を拾い上げる。血だまりに倒れ込んだオレは、目に入った血液と涙が混ざり合う視界の中、お前を見る。お前は膝立ちになったままオレの腕を見つめると、それを愛おしそうに舐めて、むしゃむしゃと喰らい始める。貪る、という表現がぴったり合うほどの勢いなのに、腕を掴む指がきっちりと揃えられているせいか、うっとりするほど上品な雰囲気が漂っているのが不思議だった。
「……姉さんにもう一本ずつ手脚があればよかったのに。でも確か、右腕はボクのために失ったんだっけ?愚かなんだから、ほんとうに」
指先までを食べ終えると、口周りについた血を腕で拭いながらそんなことを言って、笑う。よく食べるくせに細い身体。その癖ちゃんと筋肉はついていて、黒い布地の合間から覗く腹は綺麗に割れている。お前はもう、オレが最後に見た十歳の子供ではない。お前はオレが望んだ姿。寸分違わず、オレが思い描いたとおりの姿で、そこにいる。
「中途半端だから、こっちも食べちゃおうか。そうしたらバランスが取れるもんね」
そう言ってオレの足首を掴むと、ロープかなにかのように乱暴に引き寄せて、自分の口元へオレの爪先を寄せる。腕の切断面を地面に擦られ、痛みで全身が破裂しそうなのに、さらに半分宙に吊り上げられるような姿勢になり、とても息ができない。そんなオレに構いもせず、お前はオレの右脚の親指を口に含むと、葉から苺をもぎ取るように、他愛なく噛み切ってしまう。再び全身を貫く、壮絶な痛み。悲鳴を上げたいのにそれすらも叶わず、ただただ身をよじるオレに憐れむような目を向けて、次は人差し指、中指と、ひとつずつ順番に指を噛み切ってゆく。やがて指をすべて失ったオレの情けない爪先からひっきりなしに血があふれ、持ち上げられたままの脚をすべり、鼠径部へと流れ落ちてくる。肌に線を引く紅いそれは、まるで糸を垂らしたよう。いつか母さんが暖炉のそばで編んでいた、赤い毛糸を垂らしたよう。
「おいしい。やっぱり姉弟だったから、かな。姉さんがね、いちばんおいしいんだ」
だからもっとちょうだいと、お前はオレの足の甲へと喰らいつく。狼みたいなお前の歯が、肌を破り、筋肉を貫き、骨を砕き散る。何度経験しても慣れない感覚。何度経験しても耐えがたい痛み。それなのに、オレはきっと喜んでいる。お前に痛めつけられ、その血肉となることを、オレは。
「もう、姉さんったら。こんなのが気持ちいいの?」
足の甲から足首へと至り、ふくらはぎを喰らっていたお前は、すでに濡れそぼるオレの割れ目へ目を留めて、眉を下げて笑う。そうやって困ったような顔をすると、お前はほんとうに母さんそっくりだ。いつかお前が父さんはいつ帰ってくるんだと言って泣いたときの、困り果てた母さんの顔そっくりだ。
仕方ないなあと笑いながらオレの脚を解放すると、今度はオレの割れ目へ思い切り指を突き立てる。愛液をかき混ぜるみたいに指で中を抉られるたび、内側から引き裂かれるような痛みと快感が背骨を走る。それから逃れようとのたうち回れば回るほど、中途半端に齧られて露出したふくらはぎの肉が、地面に当たってヒリヒリ疼く。全身が心臓になったように激しく脈打って、きっとこのままだと出血多量で死んでしまうだろう。それなのにお前は平穏を具現化したような笑みを浮かべて、オレを見る。
「もっと奥をさわってほしい?」
キャンディのような甘い声。天使のようなやさしい笑顔。短い金色の髪に覆われた頭をちょこんと傾けて、どこまでもかわいらしくそんなことを問う。その純粋さと残酷さに心を暴かれたような思いで、なんとか首を縦に振ると、お前はまた呆れたように眉を下げる。そして中に挿し入れたままの指をわずかにずらすと、今度は残りの四本の指を、力任せにねじ込んでくる。先ほどまでとは段違いの痛みに意識が点滅し、理性を持たない獣のような呻き声が出る。そんなオレを見ながら満足げにほほえむと、手全体で引き続き膣を探りながら、じんじんと疼く胸の先を口に含んでくる。じゅ、じゅ、と音を立てながら唇で弄ばれ、甘く噛まれるたび、先端がどれほど硬くなっているのかがが自分でもわかる。下腹部から快楽が這い上がり、もうすぐ頂点に達する。しかしその瞬間を狙ったようにお前は胸の先端から口を離し、口角を引き上げて、笑う。
「ねえ姉さん。そんなに血まみれで、痛くて痛くてたまらないだろうに、まだ気持ちいいって思うの?やっぱり姉さんはもう、おかしくなってしまったんだね。きっとボクを錬成したときに、頭のどこか大切な部分も持って行かれてしまったんだ。だからこんなことをされても、こんな風に悦んでしまうんだね」
違う、と言いたいのに、声が出ない。ちがう。きっとオレは、ずっと前から壊れていた。お前がまだ鎧の姿をしていたころ、力の象徴のようなお前の身体にオレがどれほど焦がれたか、お前は知らない。あのなめし革の指に喉を握りつぶされたいと、あの脚に背骨を踏み砕かれたいと、オレがどれだけ願っていたか、お前は知らない。
オレはきっと、ずっと前からお前にこうされたかった。お前に嬲られ、罰せられ、なんの力も持たない肉の塊のように、なりたかった。オレがお前に課した苦しみや悲しみを、怒りという形でこの身に受け止め、許された気に、なりたかった。
そんなことも知らないまま、お前は再び胸の突起を口へと含む。そのまま舌でこね回し、身をよじるオレの姿を嘲笑うように目を細めると——割れ目へ埋めていた手を力ずくで奥へ捻じ込み、その先にある器官を掴んで、ぶちぶちと音を立てて引き千切った。
人体の許容範囲を遥かに超えた痛みに、視界が白く一転する。無くなったはずの耳の奥で酷い耳鳴りがし、全身から冷たい汗が噴き出す。顎から首へと垂れるのが涙なのか涎なのかも、もうわからない。ただ、引き千切ったオレの子宮を噛み砕く、ごりごりという咀嚼音だけが、響く。
「はぁ、おいしい。知ってる?姉さんの子宮ってね、とっても甘いんだ。どうしてだろうね」
そう言ってふたたび胎内へ指をねじ込まれ、ぐりぐりと中を掻き混ぜられると、オレはもう生きているのか死んでいるのかもわからなくなる。お前はオレの傷口を玩具みたいに弄んで、「もうお母さんにはなれないね」と呑気に笑う。
「ねえ姉さん。ボクね、どれだけ食べてもお腹が満たされないの。大好きな姉さんの身体を食べても、ずっとずっとお腹が空いてるんだ。なんでだろうってずっと考えていたんだけど、やっとわかったよ。ボクは姉さんの、ここがほしいんだ」
その言葉とともに、お前はオレの左胸を引き千切らんばかりに握りしめる。先ほどから、あり得ないほどの速度で脈打ち、今にも壊れそうになっているオレの心臓を。
「ねえ姉さん。叶うことなら、ボクはあなたを殺したい。あなたの心臓を喰らって、その感触と味をこの舌で味わいたい。誰よりも愛しくて、誰よりも憎らしい姉さん。ボクをこんな化け物にしたあなたを、ボクは絶対に、許さない」
ああ、そうだ。お前は許せないはずだ。お前をオレの罪へと引き込み、金属の身体にしたオレを。挙句の果てにお前を死なせ、なんとかお前を取り戻そうと、また同じ過ちを犯したオレを。だから当然だ。お前がオレを殺したいと思うのは当然だ。オレはずっと待っていた。お前がオレを憎んでくれるのを。お前がオレを罰してくれるのを。だから——……。
「おい、グラトニー!仕事だ!」
扉が開け放たれる音に続き暗闇を鋭い光が貫き、黴臭い部屋へ外の空気が流れ込む。ふたりだけの地下室。オレたちだけの暗闇。そこへ突如として現れた侵入者に、お前は柄にもなく品のない舌打ちをする。
「……エンヴィー、ボクの食事を邪魔しないでって言ったよね。それももう、何度も」
「仕方ないじゃん、あのひとが呼んでんだから。ははっ、今回も派手に食ったねぇ。血まみれじゃん、鋼のおチビさん。生きてんの、ソレ?」
「生きてるよ。当たり前だ。死なれちゃ困る」
お前はオレの左胸から手を離すと、両手でオレのこめかみを包み、指を這わす。その動きはまるで愛情を与えようとするかのようにたおやかで、昔母さんになでてもらったときの指先の感触を思い出す。
「ごめんね、姉さん。ちょっと待ってて。仕事が終わったら、またここへ戻ってくるから」
「おい、さっさとしろ、グラトニー。くだらないことしてないでさ。あのひとが待ってるんだ」
「……その名前で呼ばないでとも言ったよね?ボクはアルフォンスだ」
「ははっ、いっちょまえに人間気取り?たかがホムンクルスが?お前はもうアルフォンスじゃない、グラトニーだ。お前の大好きな姉さんが喪失に耐えかねて作った、ただの半端な怪物さ。お前はそいつの弟であって、弟じゃない」
「このひとはボクの姉さんだし、ボクは姉さんの弟だ。それ以上言ったら、今度は君の手足を噛みちぎるよ」
お前の言葉を聞き、侵入者は憎々し気に顔をしかめる。そんな相手を睨みつけると、お前はなにかを要求するように腕を伸ばす。
「〈あれ〉を」
「〈あれ〉?また?」
「当然だ。このまま放っておいたら、このひとは死ぬ」
侵入者はいかにも面倒そうにため息を吐くと、どこからともなくある物体を取り出す。手のひらに散らばるのは、不穏な光を放つ紅い石。万能の賢者の石には至らずとも、同じく人の命を代価に作られた、歪な生命の欠片。
お前はそれをふんだくると、血だまりからオレの頭を持ち上げて、この口へと石を押し入れてくる。喉の奥まで指と異物を入れられて嘔吐きそうになるオレに、やさしく「飲んで」と言うと、指だけを抜いて強制的にオレの口を閉じる。今にも意識が途切れそうななか、なんとか喉を動かしてそれを嚥下すると、お前は母が子供へ向けるような穏やかな笑みを落としてくる。そして「ほら、もっと」と言うと、手の平に乗せた紅い石を、ひとつずつオレの喉へと挿し入れる。
それを五回ほど繰り返したとき、全身がどくりと大きく脈打ち、背中を突き上げられるような衝撃にオレはのたうち回った。全身を巡る血が沸騰し、脳みそが破裂しそうな感覚の中、先ほどまで痛みで疼いていた場所に肉が盛り上がり、皮膚が再生してゆく。張り裂けそうなほど激しい鼓動を感じながら荒い呼吸を繰り返すと、お前はオレの頬へとふれてくる。その指先が、先ほど食いちぎられたはずのオレの耳へとふれて、オレは身体が〈もとに戻った〉ことを知る。
「……まったく。紅い石は貴重なんだからさぁ、毎回こんなことに使われてたらたまんないよ」
「その報酬に見合った仕事はしてるつもりだ。ボクが仲間たちの中でもとびきり優秀なのは知ってるよね?」
侵入者へ向けてそう吐き捨てると、お前は惜しむような視線をもう一度オレに落とす。そして、いってくるね、とささやいて、オレの額へやさしいくちづけを、ひとつ。そのやわらかい感触にふれ、まるで鎮痛剤を打たれたように、全身で脈打つ痛みが和らいでゆく。
「できるだけ早く戻るからね。そしたらまた、〈続き〉をしよう」
愛してるよ、と笑って、お前はオレの左手首へ金属の手枷をかける。立ち去ってゆくお前に、オレも愛してる、と返したいのに、言葉が出ない。どうしてだろうと考えて、ああ、そうかと思い至る。オレはとっくの昔に、舌を食い千切られたのだ。お前に愛を伝えるのに必要な、舌を。中途半端に石を与えられたせいで、もともと失っていた右腕と左脚を欠いたまま、さらに言葉さえも失ったオレは、力のない肉塊としてこの地下室で囚われ、血だまりの中へ横たわりつづける。
お前と侵入者が姿を消すと、扉が閉じる音とともに、差し込んでいた光が萎み、消え失せる。再び一面の闇に染まった地下室に響くのは、どこか遠くの水音と、ひゅうひゅうと情けないオレの呼吸音だけ。ここがオレの牢獄。お前を取り戻すことを望んだ咎人のオレは、血と黴のにおいが混ざり合うこの地下室で、一生お前に食われつづける。
それなのに幸福だと感じてしまうのは、やはりオレが壊れている証なのだろうか。だって、オレの人生にはもうなにもない。オレにあるのはお前だけ。お前が与えてくれる愛情と、痛みだけ。
だからオレはここでお前を待ちつづける。生あたたかい血だまりに身を浸し、お前がここに戻ってきて、再びオレにふれてくれるその瞬間を、オレはここでただ、待ちつづける。なにもないこの場所で、オレとお前だけのこの暗闇で、オレはただ、お前だけを、ずっと——……。