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煙草の煙と人々のざわめきに満ちた店内で、ラジオから流れ出した音楽に気付き、男は珈琲を飲む手を止めた。
昼時のカフェは食事を求める客で混雑しており、席はほとんど空いていないほどだった。男自身もたった今昼食を終え、食後の珈琲を飲んでいるところだった。
ウェイトレスたちが早足で動き回るカウンターへ目をやれば、その隣の壁に備え付けられた棚にラジオが見えた。顔を傾け音源のほうへ耳を澄ましてみると、深く豊かな歌声で紡がれる言葉が、確かに聞き取れた。
「お待たせ、兄さん。混んできたし、そろそろ行こうか」
男の連れと思われるもうひとりの男は、席に戻るとそう声を掛けた。男の弟と思われるその者は背が高く、兄とは対照的に温和な顔つきをしていたが、それでもふたり並べば確かに兄弟だと思わせるなにかがあった。
「ちょっと待ってくれ、アル。この曲だけ、最後まで聴きたい」
兄はそう言い、意識を集中させるために目を閉じる。兄の扱いに慣れている様子の弟は、困ったように眉根を寄せながらも、兄の邪魔にならぬようにと唇を結ぶ。
曲が終わり再び目を開けた兄は、しばらく真顔でテーブルを見つめたあと、突然大声で笑い始めた。面食らった弟が目をしばたたかせていると、そんな弟に「ほら、行くぞ」と勝手なことを言い、兄は席を立ってゆく。
「珍しいね。兄さんが音楽に関心を持つなんて」
会計を済ませ、カフェを後にした兄に追いつき、弟はそう声を掛けた。石畳の路地に靴音を響かせながら、ふたり並んで歩いてゆく。やがて道が開け、ふたりの前に陽射しを跳ね返してきらめく大河と、その川沿いの並木通りが姿を現す。
「ねえ、なんで笑ったの?教えてよ」
「いや、同じ人間がいるなら、同じ曲が存在することもあるんだなって」
「なに?どういうこと?」
弟の問いに、兄は答えない。代わりに快活な笑顔を見せると、年齢に似合わぬ俊敏さで、大河と並木通りを隔てる壁へと飛び乗った。
「ちょっと兄さん!いい歳して恥ずかしいよ」
「知ってる曲だったんだよ!昔、ムカつく奴に教えてもらった!」
「ムカつく奴って……。ミュンヘンでお世話になった人?ミュンヘンに、兄さんがそんなに嫌ってる人、いたっけ?」
弟の言葉に、兄はまた笑い声を上げる。川上から吹く風に、一つに括った長い金色の髪をそよがせて、目の前の大河へ顔を向ける。
「嫌いじゃなかったよ」
皺の刻まれ始めた金色の瞳を細めて、男は言う。かつて少年だったころからすこしも変わらぬきらめきを、その目に宿しながら。
「嫌いじゃなかったさ、全然」
そして思い浮かべるのは、とうの昔に別れた男の姿。あのころは、自分が男と同じ種類の人間なのだと自覚するたび、くすぐったくてじれったかった。男が自分に向ける期待の宿る眼差しを前に、足が竦んで逃げ出したくなったときもあった。それでもあの熱い手が導いてくれなければ、自分は今ここに立ってはいないだろう。
「だから……元気にしてくれてりゃいいな、って」
いつまでも心から消えない、忘れ得ぬ人。上官だとか恩人だとか、そんな単純な言葉では描き切れない、この人生を構成するかけがえのない一部。この身体に宿る、血肉のような存在。
どれだけ距離が離れても、同じ世界に生きられなくても——……あの男が分けてくれた焔はまだ、この胸に灯っている。
そう心の中でうなずいて、雲ひとつない空を見上げると、かつての少年はどこまでも自由に笑い声を上げた。
『Unforgettable』