***
あの晩、男のベッドでひとしきり泣きじゃくった少女は、部屋へ入ったときと同じく錬金術で壁に穴を開け、そこから自分の部屋へと戻った。そのまま倒れるように眠りにつき、目を覚ましたときにはすっかり夜が明けていた。
男は言葉どおり先に帰ったようで、少女が部屋を出るときには、もう隣の部屋にメイドが入って清掃を始めていた。
長旅を終え、弟の待つ宿へ帰った少女は、明日ここを発つと弟に告げた。弟は驚き、せめて司令部の人たちに挨拶をしてから出発すべきだと主張したが、姉は決して意思を曲げなかった。
「どうしたの姉さん。大佐となにかあった?」
そう問われた姉は、一瞬瞳を見開いたあと、じっとなにかを堪えるように拳を握りしめ、別に、とつぶやいた。
それから三か月間、姉弟は男のいる司令部へは帰らなかった。これまでとは打って変わって、頑なに司令部から遠ざかろうとする姉に困惑しながらも、弟は姉に付いて行くしかなかった。ふたりの旅が四か月目に入ろうとしたころ、ついに男から帰ってくるようにという命が下り、否が応でも帰らなくてはならなくなった。
「今回は随分と長旅だったな。収穫はあったのかね」
少女がひとり執務室に入ると、男は平然とそんなことを言った。まるで本当になにもなかったかのような振る舞いに、少女は安堵すると同時に、身を裂くようなさびしさを覚えた。
ぽつりぽつりと、歯切れの悪い口調で旅の成果を報告し、それを書面にまとめるようにという命令にうなずいてから、少女は意を決して再び口を開いた。
「あのさ……大佐」
まるで次につづく少女の言葉を予期したかのごとく、男はどこまでも冷ややかな声で、なんだね、とだけ言葉を返した。
「この間のこと……悪かった。どうかしてたんだ、オレ」
少女の謝罪に、男はなにも言わなかった。それまでと同じように、少女に背中を向けながら、窓の外を眺めていた。
「もしもさ、大佐がオレのこと、もう嫌んなって……気持ち悪いから近寄ってほしくないって言うなら……オレ、他の後見人を探すから……」
震える声を必死に押さえつけ、できるだけ平静を装いながら少女はつづけた。それなのに、男はやはりこちらを見ようともしない。
「だから……無理してオレのこと、面倒見ようと思わなくていいから。大佐はオレたちの親でも、家族でも、ないから……だから……」
「後見人をやめたりはしない」
突然放たれた言葉を聞き、少女は跳ねるように顔を上げた。目の前の男は先ほどと同じく窓の外へ目をやったままだったが、それは確かにその男から発せられた言葉だった。
「君を別の誰かに託したりはしない。君が目標を果たすまで、私が君を保護し、管理する。たとえ君が望んだとしても、他の者に付くことは断じて許さない」
感情の宿らない口調で告げられた命に、少女は言葉を失った。すでに心底自分を嫌っているだろうと思っていた男から発せられたその言葉は、少女にとって希望であり、また絶望でもあった。自分は決して、この男のもとから離れられない。この想いが届かないと知りながら、その姿を目にしつづけなければならない。その現実がどれだけつらくても、男がこちらを振り返ってくれる瞬間をただひたすら夢見ることしか、できない。
ふと思い出し、少女は棚へ目をやった。しかしそこにあったはずの金魚鉢は消え、まるでもともとなにもなかったかのように、さっぱりとしていた。
「……数週間前に死んでしまってね。もともと病気があったようで、最期は美しかった鱗が剥がれ落ちてしまい、実に憐れだった」
窓の反射で少女が鉢を探しているのが目に入ったのか、男は突然そう言った。少女は金色の目を丸くし、やがて悲しみに耐えるように、外套を握りしめた。
「……大佐が埋めてやったの?」
「ああ。あくまでも、私の魚だったからね」
そっか、ともう一度つぶやいて、少女は唇をつぐむ。今は土の中で眠っているであろう、赤い金魚。最期は男の手のひらに乗り、初めてその熱を感じたのだろうか。
「そういえば……金魚ってさ、人間に素手でふれられると、肌を火傷して死んじゃうんだって」
知ってた?という少女の問いかけに、男は短く、いや、とだけ答えた。少女もまた、そっか、と短い相槌を打つと、相変わらず背を向けたままの姿へ目をやった。
ひらひら尾ひれをなびかせる、真っ赤な金魚。身体に貼りつけた宝石みたいな鱗をきらめかせ、今日もまた鉢の中を泳いでいる。
なんの変哲もないその鉢はかわいそうなほどに窮屈で、いくらその身が小さくとも、全世界には狭すぎた。それでも健気に水中を舞いつづけるのは、自分に目を向けてくれるひとのため。硝子越しに自分を見つめ、餌をまいてくれる唯一のひとのため。
いつかその手に抱かれることを夢見つつも、金魚は知っている。そんな日が決して訪れはしないことを。それに、あのひとの手でふれられれば、自分はきっと傷ついてしまう。この肌は無残に焼かれ、呼吸すらも止まってしまう。
それでも——と、金魚は思う。それでも、その熱を与えてくれるのなら、自分はどうなってもいい。冷たくさびしい水の中から掬い出してくれるならば、全身が焼け爛れてもかまわない。
だってあの日ふれられた肌が、今でもヒリヒリ痛んで仕方がない。あの接触にはひとかけらの愛も宿っていなかったはずなのに、一度この身に生じた熱は、いつまでも消えることがない。
なんて残酷なのだろうと、金魚は嗤う。土の中で眠るもうひとりの自分に思いを馳せながら、涙を流して嗤いつづける。
決して愛を返してはくれない、いとしいひとよ。
中途半端に火を灯すくらいなら、いっそこの身を焼き捨てて——胸に宿る想いごと、灰にしてくれればよかったのに。
『金魚の初恋』