よいこのおはなし



 一日の喧騒が終わり、世界を漆黒の闇が満たせば、物言わぬ無機物たちのための時間が訪れる。
 その一員であるボクは、真っ暗がりに身をうずめ、今日も本を読んでいる。カーテンの隙間からすべり込む月明りを灯火にして、古ぼけた紙面を踊る文字や数式を読んでいる。今日は雲が多くて月明りが弱いからすこし読みづらいけれど、それでも灯りをつけようとは思わない。人間の器官を持たないこの身体では視力が落ちる心配はしなくていいし、眠れないボクにとっては夜に身を沈めているほうが気が楽なのだ。
 やがてギィと音を立てて、扉が開く。わざと市街地から外れたところに取った宿は、とびきり安いぶん古めかしく、なにを動かすにも悲鳴のような軋みを伴う。ボクに嗅覚はないけれど、きっと酷く黴臭いであろう部屋をヨタヨタと杖をついて進み、そのひとはベッドに腰かけたボクに向かい合う。
「おかえり、姉さん」
 おぼろげな月明りのなか、そのひとはほほえむ。ほどいたままの髪は肩の上でもつれ、くいっと持ち上げた口の端は切れて血を滲ませている。白い首には巻き付くようにして赤い痣が生じ、浮浪児を思わせる粗末なシャツとスカートには土埃がこびりついている。
「今日はまた一段とひどいね」
「なんてことないよ。ちょっとさ、おかしな奴だったんだ」
 そう答えながら、姉さんは杖を床へ捨てボクへ両手を伸ばす。中途半端な丈のスカートから覗くまがいものの左脚はいつもの精密な機械ではなく、間に合わせで取り付けたただの棒と化しているから、支えてあげないとどこか危なっかしい。右腕は左脚と同じくほとんどただの木でしかないけれど、手のひらで包み込んであげると、姉さんは嬉しそうに瞳をほころばす。
「なにがあったの?」
 姉さんに向け、ボクは問う。姉さんの首に浮かぶのが、誰かの手形だと認識しながら。
「聞かせて、姉さん。今日はどんなことがあったの?」
 ボクに促され、どこか恍惚とした表情を浮かべると、姉さんは口を開く。ボクのその言葉を、待っていたように。
「……今日はさ、倉庫のほうへ行ったんだ。ほら、来る途中にあったろ。造船所の隣に立ち並ぶ、いくつもの倉庫が。そこに行ってさ、探したんだよ。今日の〈相手〉を」
「うん。それから?」
 相槌を打たれることで、さも嬉しそうに笑いながら、姉さんはつづける。
「そいつはさ、倉庫の番をしてた警備員だったよ。五十代くらいかな。歳のわりにガタイがよくてさ。煙草をくゆらせて、つまらなそうに新聞なんか読んで。あまりに退屈そうだから、近寄ってこう言ったんだ。ねえおじさん、オレのことを買ってよ、って」
「……」
「男はさ、最初は嫌そうな顔をしてたよ。オレの貧相なナリが気に入らなかったんだろうな。だからさ、オレはわざとよろけたふりをしながらもうすこし近付いて、言った。家族が病気なんだ。オレが金を稼がないと、病気の弟が死んじまうんだって。そう言いながら目に涙を浮かべて、どんなことでもしていいから、って言ったら、男は言ったんだ。本当にどんなことでもか、って」
 とくり、ボクの中にあるはずのない心臓がひとつ、脈を打つ。
「ああ、ってオレが言ったらさ、そいついきなりオレの腹に蹴りを入れやがった。さすがに予想してなかったからまともに喰らっちまってさ、オレはそのまま地面に倒れたよ。そのあとまた一発、腹に蹴りを入れやがった。目の前がチカチカして、吐くんじゃないかって思った」
 痛みに関する話をするとき、姉さんはいつもうっとりとした表情をする。あたかもそれが、やさしい愛撫だったとでも言うかのように。
「そしたら今度は、オレの前髪を引っ掴んで、そのままぶら下げてきやがんの。あんまり痛いから涙が出て、そしたらオレの頬にねっとりと舌を這わせて、涙を舐め取ってきたよ。まるでアイスクリームでも舐めるみたいに、嬉しそうに」
「変態だね」
 まったくだよなぁと、まるでおかしな隣人の噂話でもするように、姉さんは笑う。
「それからそいつはオレを地面にうつぶせにして、ろくに解しもせずにぶち込んできやがった。ガタイのわりに大したサイズじゃなかったけど、力任せに抜き差しされるもんで、オレも段々、わけがわからなくなっちまって」
「……」
「きもちいい、って言ったら、笑ってたよ。こんなことで喜ぶ変態のガキって。変態はお前だろって思ったけど、あまりに揺らされるもんだから、それ以上なんも言えなくなっちまった。そのうちあいつ、オレの腹のいちばん深いところを突いて、思いっきり中に出しやがった。それからそれをあと二回。どんだけたまってたんだよ、って話」
 吸い寄せられるような思いで、ボクは左手で姉さんのお腹をなでる。そこにたまるものを確かめてみたいけれど、服と皮膚越しではわからない。
「一回抜いたあと、また挿れようとするから、さすがにオレもだるくてさ……もうやだって言って逃げようとしたら、そいつまたオレの髪を掴んで仰向けにして、思いっきり首を絞めてきやがった。多分ほんとうは、それがやりたかったんだろ。目が血走っててさ、嬉しそうだった。この世の至上の喜びって顔してたよ」
「……」
「でもそれでおしまい。疲れてたしさ、錬金術でぶっ飛ばしてやった。下半身丸出しにしたまま泡吹いてるからさ、最後にもう一度力任せに踏みつけてやったら、キャインッて犬みたいな声上げてたよ。あれ、もう使いものにならないかもな」
 あはは、と無邪気な少女の声で笑い、その反動でふらりとよろける。本人が言うとおり、相当疲れているらしい。その身体を支え起こして、ボクは問う。
「ねえ姉さん」
 虚ろな目のまま、姉さんはボクを見る。小さな顔はどことなく腫れていて、明日になれば青黒んだ色の痣が浮かび上がるのだろう。
「きもちよかった?」
 傷の滲んだ口を歪めて、姉さんは笑う。
「……きもちよかったよ」
 どんなふうに、と問えば、姉さんはぼんやりととろけた瞳で、ボクを見る。
「脳みそを素手で掴まれて、ゆさぶられてるみたいだった。目の前がゆらいで、腹の奥が疼いて……身体のなかが沸騰してるんじゃないかってくらい、あつかった」
 ボクは想像する。姉さんが小さな割れ目にグロテスクなものをあてがわれ、一気に貫かれるときの衝撃を。とても飲み込めきれない質量のそれがもたらす痛みに耐えながら、涙を流す姉さんの苦しみを。腹の奥をごりごりと抉られながら、姉さんは呂律の回らない口で、意味を持たない嬌声だけを繰り返す。
「首は?痛かったの?」
「痛くて、苦しかった。すこしも息が吸えなくて、このまま骨を折られるんじゃないかって、おもった」
 ボクは、想像する。大きな男に組み敷かれている、姉さんの小さな身体を。この細い首が、無骨な手の中で今にも折れそうにしなっているところを。姉さんは瞳の縁から涙をこぼし、桃色の薄い唇は苦しみに喘ぐ。それにもかかわらず、男は姉さんの首を力いっぱい握りしめる。
「アル」
 姉さんが、ボクを呼ぶ。たくさん泣いて、喘いで、掠れた声で。
「おまえも、きもちいい?」
 お腹にふれていた左手を持ち上げて、姉さんの頬へふれる。人一倍ちいさな姉さんの顔は、ボクの手のひらにすっぽりと収まってしまう。
「きもちいいよ」
 そこにあるはずの体温を想像しながら、命のない指を、姉さんの頬にすべらせる。

 姉さんはまがいものの手脚だけを外すと、シャワーも浴びずに疲れ果てて眠ってしまった。どうせ安宿だし、明日にはここを去るのだから、シーツが汚れると咎める必要もなかった。
 ぎゅっと丸まって眠る姉さんは、まだほんの子どものように小さく見える。もともと人より発育が遅れているこのひとが、先ほどまで見知らぬ男と交わっていたなどとは、きっと誰も思わないだろう。さらにはいつも強気で利発な姉さんが、こんな愚かな行為を繰り返していることを、ボクたちしか知らない。ボクたちを見守り支えてくれる大人たちも、幼馴染も、誰も知らない。


 きっかけは確かに、思春期という年代が当たり前に持つ、性欲だったのだろうと思う。
 旅を初めてすこし経ったころから、ボクは自分の中にふつふつと湧き上がる、鬱屈した感情があることに気付いていた。なんとも名状しがたいそれが、姉さんの身体が丸みを帯びていくほどに強くなると気付いたボクは、それが性欲と呼ばれるものであることと、自分が実の姉に情欲を覚えていることを知った。
 姉さんも同じだったようで、特に月経の前になると胸が張って仕方がないのだと言い、ボクに身体をすりよせて、さわってほしいとねだってきた。姉さんの胸はすこし丸みを帯びている程度で、子供のころから大きく違ってはいなかったけれど、言われたとおりに揉んであげると、鼻をくんと甘く鳴らして、きもちいいと繰り返した。
 やがて姉さんは、他の部分にもふれてほしいと言うようになった。首も、鎖骨も、ふとももも。そして本来守らなければならない秘所へとボクの手を導き、そこを貫いてほしいと懇願した。
 乞われるままに、ボクはその奥へと指を差し入れた。姉さんは痛みに悲鳴を上げ、ひきつった声でボクの名を繰り返しながらも、決して逃げようとはしなかった。すこしもぬめりを帯びてこない粘膜はボクの指を拒みつづけたけれど、ゆっくりとこじ開けてゆくことで、最終的に最奥まで辿り着くことができた。
 ずるりと指を引き抜くと、白みを帯びた分泌物の中に朱が混じっているのが見えて、ボクは姉さんがもう処女ではなくなったことを知った。姉さんは痛みでまだ身体を引きつらせながらもボクを見上げ、涙に溺れた目を歪めると、きもちよかった、とつぶやいた。
 けれど、そのときボクの心には、すこしの感動も生じてはいなかった。愛する姉さんに身体を預けてもらえたことも、純潔を捧げられたことも、本当は嬉しいことであるはずなのに、この心を覆っていたのはどこまでも冷え切った劣等感だった。
 ボクはすこしも、きもちよさなど感じなかった。ほんのりと色づいた白い身体をひくつかせ、痛みに喘ぐ姉さんはあれほど煽情的だったのに、それを心に焼き付けようとすればするほど、命の宿らないこの身体と姉さんのやわらかな身体の間には、どうしようもない隔たりがあることに気が付いた。姉さんだってそうだ。口ではきもちいいと言っているけれど、どうしたって痛みに耐えているようにしか見えなかった。そのあと何度同じ交わりを繰り返しても、その違和感は拭い去れなかった。

 誰よりもボクの心の機微に敏感な姉さんは、そんなボクの葛藤に気付いているようだった。だからこそ行為に及ぶときは、わざとらしいほどに繰り返した。きもちいい、きもちいいよアル、お前の手がいちばんきもちいいんだ、お前じゃなきゃ駄目なんだ、アル。
 そんな姉さんに向け、ボクは言った。もう嫌なのだと。
 どれだけこんなことを繰り返したところで、ボクらは結局交われはしない。姉さんは人間で、ボクは人間ではないのだから。ボクは姉さんに熱も与えてあげられないし、姉さんを本当にきもちよくもしてあげられない。
 それを聞いた姉さんは取り乱し、言った。そんなことない。オレは本当にお前じゃなきゃ駄目なんだ。熱なんて関係ない。お前を愛しているからお前がいいし、お前にさわられると、本当にきもちよくて仕方がないんだ。
 ボクの身体に縋り付く姉さんの頭をなで、ボクはつづけた。
 姉さんは勘違いをしているだけなんだよ。
 初めて交わったのがボクで、ボクの指の感覚しか知らないから、与えられる苦痛を快感と勘違いしているだけなんだ。
 姉さんはおかしくなってきているんだよ。ボクに申し訳ないと思うばかりに、この冷たい指が与える刺激を、いっしょうけんめい快楽に変換しようとしているんだ。姉さん、このままじゃいけないよ。このままだと本当に姉さんがおかしくなってしまう。いっそ誰かほんものの人間と交わってみたらどう?そしたらボクとの行為が、どれだけ歪で間違ったものなのか、きっとわかるよ。

 最後の提案は、ボクから姉さんへのほんの当てつけのようなものであり、やさしさのつもりでもあった。ボクはあなたがボクを置いて行っても構わないのだと。卑屈な気持ちを覚えながらも、なんだかんだ姉さんのことを愛していたボクは、姉さんがこのまま苦痛と快感をはき違え、無機物による痛みでしか快楽を覚えられない変態になってしまったらどうしようと、半ば本気で憂いていた。
 だから、突き放した。もうボクのことなんて放っておいて、恋人でも見つければいいんだよと、心にもない嘘をついて。

 しかし結局、姉さんはボクが姉さんを愛するよりもずっと深く、ボクのことを愛してくれていた。
 それからしばらく経ち、ボクたちが南部の田舎町を訪れたとき、姉さんは夜にふらりと宿を出ていこうとした。どこへ行くの、と問うと、ちょっと、と誤魔化すように笑い、部屋を出ていった。
 二時間ほどが経っても、姉さんは帰ってこなかった。もう日付が変わるころだったし、なにかあったのではないかと心配していると、部屋の鍵が開く音がした。
 そこには、姉さんが立っていた。結んでいたはずの髪はほどけ、身にまとう黒いシャツはよれて、ズボンの外に出たままになっていた。驚いたボクが、一体なにがあったのと慌てて問うと、姉さんはふらりとよろけたあと、ボクの腕にすがりつき、言った。
「なあアル。オレさ、他の男と寝てきたんだよ」
 いつもとは違う、喉の底を擦るかすれた声で、姉さんは言った。
「知らない奴だったけどさ、ちょっとオレと寝てくれって自分から声掛けて……近くにあった汚い宿で、寝てきたんだ」
 部屋に響く秒針の音が、空っぽの身体の中にこだましていた。そのリズムに合わせて乖離してゆくボクの意識を引き戻すように、ボクの腕を掴む機械の指が、カチャリと音を立てた。
「なあアル。ぜんぜん、きもちよくなんてなかったよ。お前とやるときに比べたら、気持ち悪くて、痛いだけだった。なあアル。オレはやっぱり、お前じゃなきゃ駄目なんだよ。お前がしてくれないと、オレ、きもちよくなんて……」
「なにをされたの」
 静謐の底に落とした問いが、まるで自分の中から発せられたものではないように聞こえた。
「一体なにをされたの、あなたは」
 自分でも何故、こんなことを問うているのだろうと思った。ボクは怒っているはずだった。大切な姉さんが誰か知らない奴に乱された事実に、姉さんが知りもしない奴に身体を預けた事実に、怒りを覚えるべきだった。
 それなのにボクは、その先を聞きたいと、確かに思っていた。
 ボクに促され、姉さんは震える声で語り始めた。相手は二十代くらいの男だったこと。連れていかれた安宿で、まずは唇を重ね、耳や首筋を舐め取られながら、シャツのボタンを開けられたこと。男が機械の腕を嘲笑うように見ながら、力任せに胸を揉んで、先端に舌を這わせてきたこと。
「どんな、感じだったの?」
 え、と声を引きつらせる姉さんに向け、ボクはつづけた。
「胸の先を舐められて、どんな感じがしたの?」
 罪を咎めれていると思ったのだろうか。姉さんはボクから目を逸らし、青ざめた唇を震わせ、言った。まるで背中から爪先まで電流が走るように、ピリピリと痺れるような感覚がしたと。
「それから?」
 ボクに促され、段々と口調に熱をほとばしらせながら、姉さんはつづけた。そのあと男はズボンと下着をずり下ろし、陰核を舌で転がしてきた。脳みそを貫くような強い衝撃が走って、全身をなにかが廻り、それを追いやりたいのに追いやれず、苦しくて仕方がなかった。
「こわかったんだ。じれったさで気が狂いそうで、このまま死ぬんじゃないかって思った。でもそのとき、爪先から頭まで稲妻みたいなものがつきぬけて……気付いたら、身体から力が抜けてた。腕や脚だけじゃなくて、指にも力が入らなくて……恐ろしかった」
 姉さんはわかっていない。それは達したということだ。ボクとの交わりでは一度も得られなかった絶頂へ、姉さんは導かれたのだ。
「それからそいつは、ズボンから自分のものを取り出して、生でいいのかって聞いてきた。オレが薬飲んでるから平気って言ったら、遠慮もせずにそれをオレの中に挿れてきた。痛くて、でも熱くて、身体の内側で内臓がとけていくみたいだった。そいつ、もっとガツガツしてるかと思ったのに、意外とゆっくり腰を動かして、オレの中を掻き回すみたいにしてきた。しばらくそれをつづけてさ、なんか苦しそうに顔を歪めたと思ったら……出してきたんだ、ここに」
 姉さんはそう言って、左手で自分のお腹をなでた。そこに刻まれた罪の証を、ボクだけに隠し見せるように。
「それだけだよ。本当に、きもちよくなんてなかったんだ。汗ばんだ肌も、顔に当たる息も、ぜんぶベトベトして気持ち悪くて、終わってすぐにシャワーを浴びた。そいつはまた会おうぜなんて言ってたけど、冗談じゃないって言ってすぐ帰って来たんだ。なあアル。わかるだろう?オレはやっぱり、お前がいいんだ。あんなの全然、きもちよくなんてなかったんだ」
 そう言いながら、姉さんの瞳を囲む粘膜は、段々と赤い潤みを帯び始めていた。息も上がり、薄い肩が震えるように上下していた。
 ボクもまた、姉さんの話を聞きながら、これまでこの身体に生じたことのないなにかが生まれつつあるのを感じていた。空っぽのはずの鉄の身体の奥で、計り知れない熱のようなものが、ぐるりと蜷局を巻き始めていた。ボクは想像していた。裸に剥かれた姉さんがベッドで男に組み敷かれ、胸の先端や性器を舐められ、快感に身をよじっている姿を。知らない男と唇を合わせ、口の端からだらしなく唾液を滴らせながら、舌を絡ませ合う姿を。
「ねえ、姉さん」
 それはこの無機物の身体が、どうしたって与えてあげられない快楽ばかりだった。姉さんは今日それを知ったのだ。そして姉さんの話を通じて、ボクも確かに、悦びを感じたのだ。
「いいんだよ……それで」
 ボクの言葉に、姉さんははっと息を詰まらせた。その頬にかかる髪を指で掬いながら、ボクは姉さんに語りかけた。
「きもちいいって思って、いいんだよ」
 姉さんの透き通るような瞳に、ゆっくりと涙がせり上がった。金色の虹彩が水底に沈んだお星さまの欠片みたいで、とても美しく見えた。
「それにね、ボクわかったんだ。姉さんがきもちいいって感じると、ボクもきもちいいんだってこと。姉さんの話を聞きながら、ここの、このお腹の辺りで、なにか熱いものが疼いた気がしたんだ。今までこの身体で感じたことのない、なにかが」
 ああ、おかしい。ボクはなにか、とてもおかしなことを言っている。大切な姉さんが他の誰かと交わるなんて嫌でたまらないはずなのに、それ以上に、ボクはこのひとと同じ熱をどうにか感じたいと思っている。このひとの肌にふれて、粘膜を擦り合わせて、その感触で全身を満たしたいと思っている。
「きっとボクたち、つながっているんだね。だから姉さんがきもちいいと、ボクもきもちいいんだ。ボクたち、ふたりでひとつなんだよ」
 姉さんの目尻からこぼれた涙が、白い頬をすべってゆく。先ほどまで知らない男にくちづけられ、その熱で火照らせていた頬を。
「それなら……」
 そして笑う。途方もない苦しみを背負ったようでありながら、同時にずっと自分を縛り付けていた鎖から解き放たれたように、顔を歪めて。
「オレはこれから、もっときもちよくなるから」
 お前のために。
 まるで愛の告白だとでも言うようにつぶやいて、ボクの手のひらに頬をうずめる。ああ、やっぱりおかしい。ボクもおかしいけれど、このひとも相当おかしい。笑いだしたいような幸福が久しぶりに全身を満たすのを感じながら、ボクはそう思った。

 それから姉さんは、地方の寂れた町を訪れるたび、知らない男と身体を結びにゆく。
 セントラルではボクらの名も姿も知られすぎているし、あそこにはボクらが懇意にしている大人たちもいるから、万が一見つかったときのことを考えると厄介だった。ボクたちは愚かだけれど馬鹿ではないから、そんなリスクは冒さず、ボクらのことを誰も知らないような田舎だけで事に及ぶ。
 それでもやはり名声というのは厄介なもので、ある西部の町を訪れたときに関係を持った男が、姉さんの機械の手脚を見て「お前もしかして鋼の錬金術師?」と言ったということで、それ以来姉さんは機械の腕を外して、適当に錬成した粗末な義手を着けて宿を出てゆく。姉さんは世間では男として名が通っているから、それに加えて女物の服を身に付ければ、まずバレる心配はない。
 ほとんどの相手は性行為だけで満足するけれど、中には今日のように暴力じみた行為を好む者もいて、そんなとき姉さんは痣をつくって帰ってきた。どうしようもないのは、そんなときのほうが姉さんは嬉しそうに頬をほころばせていることだった。痛々しい痣を肌に咲かせながら自虐的に笑い、姉さんは言うのだ。ねえアル、今日の奴は最低だったよ。オレのことを殴ってきて、痛くて痛くてかなわなかったんだ。
 ボク自身は痛みに欲情する趣味はないけれど、痛みへの執着は姉さんなりのボクへの贖罪なのだとわかっているから、咎めることなく聞いてあげる。それに姉さんが本当はそこらの男など簡単に倒してしまえるほど強いとわかっているから、姉さんがわざとそんなことをさせていることも知っている。だからボクは落ち着いた心で話を聞き、傷を消毒しながら言うのだ。きもちよかったんだね、姉さん。
 そうすれば姉さんは、まるでボクに褒められたとでも言うように瞳をゆるめて、言う。きもちよかったよ。とってもきもちよかったよ、アル。

 あれはまだ、ボクたちが小さかったころ。
 母さんはよく、寝る前にお話を聞かせてくれた。
 ボクらの家にはあまりお金がなくて、たった三冊の絵本しか持っていなかったから、母さんが話せるお話はたったの三つだけだった。日向ぼっこが好きなネコさんのお話と、森で暮らすクマさんのお話と、ドラゴンを倒す勇者のお話。
 ボクのお気に入りはネコさんのお話だったから、ボクはそれを何度も母さんにねだった。姉さんは勇者のお話が好きなようだったけれど、ボクがネコさんのお話がいいと言うと、一緒になって母さんにネコさんのお話が聞きたいと言ってくれた。
 やがてボクたちがすこし大きくなると、姉さんは空想のお話への興味を失い、代わりに父さんが残した錬金術の本を読むようになった。それらの本はボクにとってもおもしろいものだったけれど、同時にボクはまだ空想のお話も聞きたかった。
 幼く甘えん坊だったボクは、ある晩姉さんに言った。お話を聞かせて。ねえお姉ちゃん、なにかお話を聞かせてよ。
 姉さんはすこし困っていたけれど、隣で眠るボクの頭をゴシゴシとなでると、いいよ、と笑ってくれた。そしてなにかを絞り出そうとするかのように目を瞑ったあと、お話を始めてくれた。日向ぼっこの好きなネコさんが、森で暮らすクマさんと出会って、一緒にドラゴンを倒すお話。それはボクらの絵本を混ぜ合わせただけのめちゃくちゃなお話だったけれど、ボクは今まででいちばん心をときめかせて耳を傾けた。大袈裟な効果音を付けたり手を振り上げたりする姉さんの語り方は、穏やかな母さんのものとは違っていておかしかったし、大好きな姉さんの声で語られる物語は、それがどれだけ荒唐無稽であっても、ボクの頭の中で鮮明に色づいてみせた。
 だからボクは何度も姉さんにお話をねだった。風がとても強い夜や、雷が鳴りやまない夜には特に、お話を聞かせて、と姉さんに言った。そのたび姉さんはちょっと照れくさそうな顔をしながらも、ボクのためにいっしょうけんめいお話を考えて聞かせてくれた。そうすることで、ボクたちは同じ物語を共有し、同じ気持ちに浸ることができた。まるでひとつの身体で、同じ景色を見ているかのように。

 そしてボクは今でも、姉さんにお話をねだる。もうお話がないと眠れないような歳ではないけれど、姉さんの声を通じて、姉さんの見たもの感じたものを、この身体に呼び起こすために。そして姉さんにその快楽を与えてあげたのがボク自身であると、錯覚するために。
 ある日、よろよろとよろけながら宿へと戻ってきて、ボクにひとしきり話を語り終えた姉さんは、じっとボクの瞳を見た。まるで褒めてと言わんばかりの様子に愛おしさを覚え、乱れた髪をなでながら、ボクは言った。
「ありがとう姉さん。またお話、聞かせてね」
 すると姉さんは、無事に勤めを果たせた安堵に表情を安らがせながら、答えた。
「アルが喜ぶならオレ、なんだってするよ」
 そう言ってほほえんだ無垢な顔を見て、ああきっとボクたちが失ってしまったのは身体だけではなかったんだろうなと、ボクは思った。





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