ゆびきりげんまん



 家に帰ると、暗闇の中で同居人がうずくまって泣いていた。
 自分のベッドではなく、僕のベッドの上で。自分のシャツではなく、わざわざサイズの合わない僕のシャツを素肌に羽織って。
 またか、と思いながら灯りを点け、どうしたんですか、と問えば、同居人は惨めったらしく泣き腫らした瞳で僕を見上げる。シャツが大きすぎるせいで肩からずり落ち、胸が先端まで露わになってしまっているが、本人はそんなことを気にも留めていない。
 そのひとは言った。昼寝をしていたら、恐ろしい夢を見たのだと。自分はひとり家にいて、父親の帰りをずっと待っている。父親は夜には帰ってくると言ったのに、陽が沈んでも、そのまま夜が明けても帰ってこない。それでも自分は部屋の中で独り、ただただ父親の帰りを待ちつづける。もう一度夜が降りて、もう一度朝が巡ってきても、帰ってこない人のことを待ちつづける。
 ふと見ると、地面に下ろした生身の爪先から床に向けて根が張っていて、慌てて持ち上げようとしてもぴくりとも動かない。助けを呼ぼうと声を上げても、玄関扉の向こうからは物音ひとつしない。ふいに恐ろしくなって、涙をこぼしながら叫び声を上げる。父さん、父さん。その名で父親を呼ぶことは二度とないと思っていたのに、まるで子供に戻ってしまったように、声の限りに叫びつづける。父さん、帰ってきて、父さん、オレを置いて行かないで、父さん――……。
 そこまで話して、そのひとは再び鼻をすすり始めた。ともに研究に励んでいたときは、父親のことを邪険に扱うような物言いばかりしていたのに、その父親が失踪したと言って僕の家に転がり込んで来てからは、心細そうな顔でしょっちゅう泣いている。
 どうしてこうなってしまったのだろうと、このような姿を見るたびに、思う。
 初めて出会ったとき、このひとは誰よりも利発で、燃え上がるような情熱を瞳に灯しながら研究にのめり込んでいた。その姿には気高さすらあり、僕はその存在にただひたすら心酔していた。このひとが女性であると気付いてからその想いは恋慕に変わり、ともに暮らし始めて想い打ち明け、それを受け入れられてからは、世界に花が咲き乱れたように幸福だった。初めて肌を合わせたとき、そのやわらかな身体にくちづけて、体内の熱を味わったとき、僕はただ信じていた。僕らはきっと、このまま互いを慈しみ合いながら、あたたかなものを育んでゆけるだろうと。
 それなのに、しばらく経ってから時折このひとが不安定な様子を見せることに気が付いた。いつもは自尊心が高く弱みを見せたがらないのに、時々酷く心細そうにこの身へ縋り付いてきた。最初のうちはそれが嬉しかった。僕に心を許し甘えてくれているのだと思っていたから、その小さな身体を抱きしめて、僕は言った。僕があなたを守ってみせると。あなたが心細いときは僕が必ずそばにいて、あなたの痛みを癒すために、どんなことでもしてみせると。
「本当か、アルフォンス?オレのためなら、本当にどんなことでもしてくれるのか……?」
 その問いに対し、僕は力強くうなずき、もちろんです、と返した。あなたのためなら、僕はどんな願いでも叶えてみせると、まるで騎士にでもなったようなつもりで。
 するとそのひとは、心の底から安心したようにほほえんで、約束な、とつぶやいた。

 自分の言葉に酔っていた僕は、欠片も気付きはしなかった。それが酷く誤った選択であったことに。その約束が、僕とそのひとふたりを狂わせる、重い枷となることに。

 なあ、アルフォンス、とそのひとは僕を呼ぶ。その声の暗さに嫌な予感を覚えつつ、なんですか、と返すと、そのひとは涙に濡れた瞳を上げる。
「アルフォンス……。ぶってよ、オレのこと」
――やっぱり、とため息を吐きたくなるのを堪え、ぎゅっと唇を結ぶ。そんなことに気付きもせず、そのひとは生身の左手で、そろりと僕の右手の甲をなでてくる。
「ぶって、オレを。思いっきり。好きなだけ、何度ぶっても、いいから……」
 ねえ、と涙にくもった声で甘えながら、そのひとは繰り返す。手を振り払ってやろうかとも思ったが、そんなことをしたらショックでまた取り乱すだろうと思うと、安易に拒絶はできない。一瞬考えた挙句、蛇のようにいやらしく僕の肌を這いまわる手を掴むと、床に膝をついて目線を合わせた。
「あのね、エドワードさん。言ったでしょう?僕はあなたにそんなことしたくない。前にあなたがどうしてもと言うから顔を叩いたとき、あなたの顔は翌日まで腫れあがっていたでしょう?僕はあんなの、もう見たくないんです」
 そう言いながらできる限りやさしく笑いかけても、そのひとはほほえみを返してくれはしない。それどころか、なにかとても酷い裏切りを受けたとでも言うように、絶望で瞳を震わせている。
 エドワードさん、と諭すように名を呼ぶ。それでも納得した様子を見せないものだから、なんとか説き伏せようと頬に右手を当てようとすると、拒絶するように横を向いてしまう。
「……うそつき」
 挙句の果てにそんな子供じみた言葉を漏らしたものだから、僕はいよいよため息をこぼしてしまった。
「ねえ、エドワードさん。僕は……」
「オレの言うこと、なんでも聞くって言ったくせに……。オレの望むことなら、どんなことでもするって、お前……」
 シャツがずり落ち露わになった肩を震わせ、そのひとはぐずぐずと鼻をすする。右腕の義手はつけていないから、そのまま上半身が剥き出しになってしまいそうで、シャツを掴んで肩にひっかけようとすると、握りしめていた左手を乱暴にほどき、僕の存在ごと拒むように、ベッドに突っ伏してしまう。
「……お前はオレのことなんて、愛してないんだ」
「ちがう、エドワードさん。あなたを愛しているから、あなたを傷つけることなんてしたくないんだ」
「そんなの嘘だ!お前はオレのことが嫌いで、だからお前も、もうすぐオレを置いていくんだ!」
 親父みたいに。そう言って、そのひとはとうとう声を上げて泣き始める。その姿は分離不安症の子供そのもので、まるでこちらが酷いことをしているような罪悪感を掻き立ててくる。
「エドワードさん、僕はあなたを置いてなんていきませんよ。あなたのそばにずっといます。あなたが元気になるまで、僕が支えますから、だから……」
「なら聞いてよ。オレの言うこと」
 突然、刃のように鋭い声でそのひとは言った。背中を冷たいものでなでられたような感覚を覚えながら見下ろすと、そのひとは腕の隙間から、金色の瞳をぎらつかせてこちらを見ていた。
「オレのことを愛しているなら、オレの言うことを、聞いて」
 その光を目にした途端、ああ、いけない、と思った。
 この金色の瞳。初めて目にしたとき、夜空に浮かぶ星々のようだと思い強く焦がれた瞳は今、妖しい光を宿して僕の心を操ろうとする。まるでギリシャの神話にいる怪物のようだ。その瞳から発せられる妖術によって僕は石となり、このひとに逆らえなくなってしまう。
 アルフォンス、と念を押すように名を呼ばれ、いよいよ僕の心は諦念に覆いつくされる。ほんのすこしだけ。ほんのすこし言うことを聞いてやれば、きっとこのひとも満足するだろう。
「……顔は、嫌ですよ」
 その言葉を聞いた途端、そのひとは涙に濡れた瞳を輝かせて身を起こし、僕の身体に抱きついてきた。
「いいよ!顔じゃなくていいんだ!お前が嫌なことは、無理強いしたくないんだ」
 ならば暴力自体を勘弁してほしいと言いたいが、嬉しそうに頬を胸へこすりつけてくる様子を見ていると、とてもそんなことは言えない。細く艶やかな金色の髪に覆われた頭をなで、じゃあどこがいいんですか、と問えば、そのひとは頬ずりをやめた。
「……尻」
 え、と声を漏らした僕をゆっくりと見上げ、そのひとは恥じるように赤く染めた頬をほころばせる。
「尻を、ぶって。思いっきり」
「……そんな。そんな変態みたいなこと、僕は……」
「小さいころ、絶対入るなと言われてた親父の書斎に入ろうとして、お仕置きに尻を叩かれたんだ。親父の大きな手で、三回」
 まるで乙女が秘密を打ち明けるように、薔薇色の頬にほほえみを浮かべながら、そのひとはつづける。
「痛くて、怖くて……まだ子供だったからさ、尻の皮が破れるんじゃないかって思って……オレさ、そのまま漏らしたんだ。皮膚がヒリヒリして、でもその痛みのぶんだけ、親父がオレを愛してくてるような気がして……嬉しかった」
 ああやっぱり、このひとは壊れているのだろう。ただ一時的に心の均衡を崩しているだけではなく、もっと根本的なところから、なにかがいかれてしまっている。
「だからさ、あれをもう一度感じたいんだ。ねえアルフォンス……いいだろ?オレのことを想ってるなら、親父みたいに、オレの尻をぶって」

 目の前の光景を見つめながら、自分は一体なにをしているのだろう、と思った。
 目線の先にあるのは、ベッドにうつ伏せになり、腰だけを高く持ち上げたいとしいひとの姿。もともと大きすぎるシャツはずり上げられ、白く小ぶりな尻が、惜しげもなく露わになっている。
 そのひとはベッドに顔を押し付けながら、どことなく熱い息を漏らしている。それが興奮によるものだと分かった途端、獣の本能が反応し、自分の身体さえも熱を帯び始める。ほんとうに、くだらない。こんなことは早く終わらせてしまおうと手を振り上げ、それを艶やかな肌へと軽く叩きつけても、そのひとはなんの反応も示さない。
「……エドワードさん。ほら、これでいいでしょう?気が済んだならとっとと起きて」
「駄目だ」
 先ほどまでとは違う冷たい声に驚いていると、そのひとは顔をずらし、鋭い瞳で僕を見上げた。
「そんなんじゃ全然駄目だ。もっと強く、思いっきり、やって」
「いい加減にしてください!僕にはそういう趣味はないんです。あなたが叩けとしつこく言うからやっただけで、こんなことはやりたくないんです」
「アルはやってくれたのに」
 思いもかけない言葉に絶句していると、髪の合間から覗く瞳が、再びぎらりと光を放つ。
「アルはやってくれたよ。あの大きな手で、肌が弾けて血が出るんじゃないかってくらい、思い切り叩いてくれた。なのにお前は、同じようにやってくれないの?」
 アル、というのはこのひとの弟の名前だ。生き別れになったという、このひとがなによりも大切にしている存在。今でもしょっちゅう夢に見るらしく、夜中にその名を呼びながら泣いている。その姿を可哀想に思いながら、本当は嫉妬心を覚えていることに、このひとが気付いているとは露とも思わなかった。恥ずかしい秘密を暴かれた焦りと、僕の気持ちを利用しようとすることへの怒りで、頭がカッと熱くなる。それならばやってやろうと手を振り上げ、先ほどよりもずっと強く尻を叩くと、そのひとは身体の奥を突かれたときのように、ひゃんっと淫らな声を上げる。
「もっと……。もういっかい、して……」
「エドワードさん、もう……」
「お願い!してよ、もっと!アルよりオレのこと愛してるって言うんなら、もっと!」

 僕はただ、がむしゃらだった。このひとにもとに戻ってほしくて。出会ったころの、聡明で気高いあの姿を取り戻したくて。
 だからこのひとの望むことなら、どんなことでもやってあげたいと思った。さびしいときはそばにいて、抱きしめて、涙が涸れ果てるまでこの胸を貸してみせようと思った。
 なのに僕は今、いとしいひとに暴力を振るっている。それが自分の意思ではないとしても、力任せに、ありったけの怒りを込めて、なめらかな肌を蹂躙している。
 僕が尻に手のひらを打ち付けるたび、そのひとは快楽に濡れた声を上げ、金色の瞳からほろほろと涙をこぼした。まるで愛を交わしているときのように、嬉しそうに口をゆがめ、頬を赤く染めて。
 ふと目をやると、こちらに突き出した状態の恥部が愛液でぐずぐずになっていて、その光景に思わず笑いがこぼれる。なにもかも狂っている。その証拠に、僕のものも同じように張りつめて、今にも弾けそうになっている。僕にこういう趣味はないはずなのに、全身を火照らせ、罰せられ欲情する愛しいひとの倒錯的な姿に、自分もまた、浅ましい欲を燻らせている。我慢できなくなり、己のものを取り出して濡れた恥部へあてがうと、そのひとはヒッと怯えたように声を上げ、腰を前へ引いて逃れようとした。そうはさせまいと細い腰を捕まえ中へと押し入れば、うぐっ、と嘔吐くような声をあげ、光を失った瞳からまた涙をこぼした。
 何度も腰を打ち付け、なんとか最奥まで辿り着くころになると、そのひとはほとんど意識を失っていた。自分で懇願しておいて、自分だけ先に離脱しようとする様子が許せず、結合部の上の尻をもう一度力任せに叩いてやれば、蘇生したようにあんっと甘い声を上げる。それと同時に中が強く締まったものだから、その快感が欲しくて何度も思い切り尻を叩くと、やがてそのひとは、まるで自分が被害者だとでも言うように、ぐずぐずと鼻を鳴らして泣き始めた。
「ごめんなさい……!ごめんなさい、父さん……!もうしません……。もう、しない、から……」
 そのひとは言った。怯えるように、それでいて昂るように、声をひきつらせて。
「許して、父さん……!ごめんなさい!悪い子でごめんなさい!父さんっ!」
 最後にもう一度、悲鳴のように父親を呼ぶと、そのひとはびくびくと身体を痙攣させ、一気に腰を脱力させた。身体が完全にベッドへ落ちる前に抱き留め、上半身ごと持ち上げると、その細い身体をきつく抱きしめながら、僕もまたそのひとの中で果てた。
 そのひとは気をやってしまい、人形のようにだらりと身体を弛緩させていた。結合部からほど近い恥部からは、しょろしょろと力ない液体がシーツへ向けて流れ落ちていて、僕はそのひとが失禁したことを知った。

 翌日、そのひとは尻が痛くて座ることもできないと言い、ベッドに横たわったまま仕事へ行く僕を見送った。だから言ったのにと呆れながらも、結局最後は自分も欲望に身を任せてしまったことを思い出せば、一方的に責めることはできなかった。
 じゃあ行ってきますと頬をなでれば、そのひとはそれに左手を重ね、腫れあがった瞳で僕を見上げた。
「なあ、アルフォンス」
 甘えた声で名をささやくと同時に、金色の瞳にぎらりとした光が走る。それを目にした途端、ああまずいと、心臓が駆け始める。その瞳。宝石めいた瞳が放つ妖術にとらわれ、僕はまた、動けなくなる。
「オレのお願い……また聞いてくれるよな?」
 キャンディみたいな甘い声でそう問うと、そのひとは僕の返事を待つことなく、自らの小指を僕の小指へ絡みつけ、約束な、とほほえんだ。



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