夢をみた
暗天から重苦しい雲が垂れこめ、矢のような雨が降りしきる、物々しい晩だった。
先ほど通り抜けてきた町でも人々が避難する姿は見受けられなかったのに、雨風はすでに嵐と呼ぶのがふさわしい勢いにまで達し、猛然と馬車の窓を叩いている。目を開けるのも厳しいであろう天候の中、それでも馬車は丘を登りつづけている。常時よりずっと速度は遅かったが、このような天候の中でも無理を言って走らせていることを考えたら、文句は言えない。ボクはどうしても、今夜中に目的地へ辿り着かなければならないのだから。
仄暗いランプが照らす車内に在るのは、ボクと、そしてボクが運び入れた大型のスーツケースだけ。風が車体を揺らすたび、向かいに置いたケースが座席から落ちそうになるものだから、そのたびに手を伸ばし、もとの位置へ戻す。本当は足元へ立てて置いてしまったほうが楽だけれど、中身を考えると、どうしても横たえておきたかった。
荒涼とした丘を登りつづけていた馬車は、やがて御者の掛け声とともにゆるやかに停車した。しばらくすると、頭まですっぽりと雨合羽で覆った御者が車体の扉を開き、「着きましたぜ、旦那」と声を掛けてきた。
無理を言った分、通常の倍に近い金額を握らせると、御者はびしょ濡れの顔へ隠しもせずに満面の笑みを浮かべ丘を下っていった。吹き付ける雨の中、自らもまた濡れ鼠になりながら、目の前に聳然と佇む屋敷を見据える。人里離れた丘の上に建てられたこの屋敷は、このような天候の中ではなくても、きっと物憂げに見えることだろう。建築様式からしてもその規模からしても荘厳と呼ぶのがふさわしく、なんらの欠陥も持たない建物であるはずなのに、それはまるで魔窟のような不穏さを纏っていた。
右手にスーツケースの重みを感じながら入口の鉄柵を押し開き、すでにいくつもの水たまりができあがった土道を踏みしめ、玄関口へと向かう。ボクの背丈の二倍はあるであろう扉に埋め込まれたノッカーを二度叩くと、中から誰かの足音がする。
「どなたでしょうか?こんな嵐の夜に」
扉から顔を出した若いメイドに、「アルバート・モリスンです」とできるだけにこやかに告げると、メイドの顔が一気に青ざめる。非礼を詫びながらボクを玄関へ招き入れると、すぐに旦那様を呼んで来るからと、早足で奥へと引っ込んでゆく。
玄関横に置かれた赤いベロアのベンチに腰かけながら、高い天井に施された金の装飾を眺めていると、しばらくして玄関の真正面に位置する吹き抜け階段から、悪趣味な紫のローブに身を包んだ小太りの男が姿を現した。
「モリスン様!まさかこのような嵐の中いらっしゃるなんて!ああ、そんなにびしょ濡れになられて……。ご連絡下されば、町まで迎えを寄越しましたのに」
「メルヴィルさん、突然申し訳ありません。電話を入れようとしたのですが、嵐で電話回線に不具合があったようで繋がらず」
「さようですか。いやぁ、いらっしゃると前もってわかっていれば……。生憎、妻も娘も旅行へ出ておりまして、屋敷には私とあの使用人だけなのです。本来なら盛大にお迎えするべきなのに、いやはや大変申し訳ない……」
先ほどのメイドが運んできたタオルを、「遅いじゃないか!」とひったくると、男は初老の顔へ貼り付けたような笑みを浮かべ、まるで自分の功績であるかのごとくそのタオルを差し出してきた。
「どうぞ、まずはあたたまってください。お荷物もお預かりしましょう」
「ありがたいのですが、結構です。大切なものですので、手元に置いておきたいんです」
棘のない口調になるように気を払いながらそう告げると、主人は一瞬困惑の表情を浮かべながらも笑顔を取り繕う。そんな主人にボクもまたにこやかに笑いながらスーツケースをベンチへ置くと、滴り落ちる水滴を拭った。
どうぞどうぞと案内された二階の客間には、天蓋が付いたキングサイズのベッドが置かれ、暖炉にはすでに火が灯されていた。
「長旅でお疲れでしょう。ご用件はまた明日にでも。なにか召し上がりますでしょう?今用意させますから」
「いえ、道中で食べてきたもので、空腹ではないんです。そうですね。お言葉に甘えて、今日はもう休ませていただこうかと思います」
ボクがそう告げると、主人は「そうでしょうそうでしょう」と繰り返し、「ゆっくりお休みください」と逃げるように部屋を出ていった。
足音が遠ざかり、やっと静寂が訪れたことに安堵の息を吐きながら、床へ横たえたスーツケースへ視線を落とす。まだ水滴がついたままの革のケースは、なにごともないように平然と押し黙っている。主人にはああ言ったけれど、本当は空腹で仕方がない。早く食事を口にしないと、倒れてしまいそうなほどに。
長毛のカーペットへ膝を突くと、留め金をひとつずつ外し、スーツケースを開く。暖炉の火だけが灯る室内では、ケースの蓋の翳が色濃く中身に落ちてしまう。それでもボクには、その中にあるものが未だに眠りつづけていることが、感覚でわかった。
きっとこれを見た者は、精巧な人形が入っていると思うのだろう。
白いクッションの上に横たえられた、小柄な少女。新雪をまぶしたような白い肌と腿まで伸びた金色の髪が暗闇の中でも妖しく光り、小さな顔に埋め込まれた瞼も鼻も唇も、緻密に計算されたように均整が取れている。見る者の心を乱す、実物大の少女人形。フリルとリボンがたっぷりとあしらわれたネグリジェを身に纏い、ケースの中で眠りについている。
しかしそれがただの見せかけでしかないことを、ボクは知っている。
少女とクッションの間へ腕を差し込み、薄い身体を抱き上げる。それはやはり通常の人間とは思えないほど軽く、いとも簡単に持ち上げることができる。それもそのはずだ。この身体には腕も脚もついておらず、胴体だけの姿で存在しているのだから。空洞と化した両袖をなびかせながらベッドへ歩み寄ると、中央へそっと少女を横たえる。瞼はまだ、開かない。道中で起きてしまったら恐ろしい思いをするだろうからと、出てくるときにたっぷりと薬を嗅がせておいた。きっとまだ、金色のまつ毛に縁取られた瞼の奥で、甘い夢を見ているのだろう。
それでもボクももう限界だった。自らもベッドへ上がると、少女の身体へ覆いかぶさり、わずかに開いた唇へくちづける。いつか読んだ童話のように、愛しいひとが目を覚ましてくれるように。
何度か唇を食み、隙間から舌を差し入れて歯列をなぞると、決して動くことのなかった瞼が痙攣し、ゆっくりと押し開かれた。
「……おはよう、姉さん」
まるで願いが通じたようだと喜びに胸を震わせ、現れた金色の瞳に笑いかけると、そのひと――姉さんはぼんやりとした様子でボクを見る。まだ眠いのだろう。今にもまた下ろされてしまいそうな瞼へ、起きてと告げるようにくちづけて、額にかかる髪をよけてやると、姉さんはやっと「アル……?」とボクの名を呼んだ。
「やっと屋敷に着いたんだ。長いこと閉じ込めてごめんね。身体は痛くない?」
まだ状況が読み込めない様子でありながらも、ふるふると首を横に振ると、やっと頬をほころばせて笑顔を向けてくれる。呆けた様子がかわいらしくて、額へ、頬へ、そして唇へくちづけると、姉さんは抵抗することなくそれを受け入れ、ボクの舌の動きに応じてちろちろと力なく舌先をこすりつけてくる。
しばらくその唾液の甘さを味わいつつ、ネグリジェの下の骨ばった腰を手でなぞる。ボクがこの服を着せているとき、仲間のなかでもとびきり意地の悪い奴はとんだ少女趣味だと笑ってきたけれど、人形めいたこのひとにはこういう愛らしい服が似合うとボクは思う。昔の〈ボク〉といたときは少年のふりをしていたということだけれど、とても信じられる話ではないし、こんなにも綺麗なひとがその美しさをひた隠しにしていたのだとしたら、勿体ないことだと思う。
長いくちづけを終え、ふたたび顔をまじまじと見つめても、姉さんはぼうっとするばかりで、なにかを喋ろうともしない。きっとまだ薬が効いているのだろう。けれど、そのほうがこのひとにとってはいいのかもしれない。少なくとも、多少は痛みが緩和されるだろうから。
「あのね、ねえ姉さん。ボクね、とってもお腹が空いたんだ」
そう告げても、薬で思考が混濁しているせいで、そのひとは答えない。その代わり、ボクがなにを求めているのかすこしも理解していない様子で、頬に当てたボクの手へ甘えるように頭の重さを預けてくる。なんと愚かで、かわいいボクの姉さん。愛しさをこめながら金糸のような髪を手で梳いてやり、白い首元へ唇を寄せる。
「もうね、我慢できないの。だから……」
食べていい?
返事を待たず力任せにネグリジェを引き裂くと、現れた右胸へ口を寄せ、やわらかなふくらみに思い切り歯を突き立てた。やっと事態を理解したのか、姉さんは引きつった声を上げ、痛みから逃れようと動き回る。片手で口を覆い、姉さんの声が屋敷に響くのを防ぎながらも、手脚を欠いて芋虫状になった身体へ片腕を巻き付け、決して逃しはしないと自らのほうへと抱き寄せる。
ほのかな橙の灯りに照らされた部屋の中、響くのは暖炉の薪が爆ぜる音と、ボクの咀嚼音。そこに重なる姉さんの荒い呼吸と痛みに引きつる泣き声が、人ならざるボクが持つはずのない劣情を呼び起こす。身体が熱きを帯びてゆくのを感じながら、とろける脂肪の触感を舌に馴染ませ、すっかり硬くなった先端を奥歯でコリコリと噛み砕く。名残惜しさを覚えながらもそれらを飲み込むと、天上の甘さがこっくりと喉を満たした。
「あぁ……おいしい。たまらないよ。姉さんのお乳よりもおいしいものなんて、この世にないんじゃないかなってくらい」
純白のネグリジェを大量の血で汚しながら、姉さんは金色の瞳を苦しそうに歪め、とめどなく涙をこぼす。先ほどまで白くやわらかな小丘のあった胸には、クレーター状の傷がぽかりと口を開いている。赤黒いそこからはどくどくと血があふれだし、破れたネグリジェとシーツが色づいてゆく。本当は左胸も食べてしまいたいけれど、心臓を傷つけてしまってはさすがにまずい。
仕方がないからと、爛熟した果実のごとくてらてらと光る傷口へ指を突き立て肉をほじくり出すと、舌を伸ばして指先についたそれを舐め取る。口に広がるのは最上級の食材ならではのなめらかさで、思わず頬がゆるんでしまう。それを何度か繰り返し、ついに肋骨に突き当たると、諦めて指を引き抜いた。
姉さんはまだ泣いている。痛みをやり過ごそうと胸だけで浅く呼吸し、普段は白い頬を薔薇が咲いたみたいに赤くして、ぽろぽろと涙をこぼしている。その姿はやはり情欲をそそり、もっと、もっと、その身体を味わいたくなる。
暴食のホムンクルス。その天命を受けたボクにとって、食欲と性欲は同じところから来るものなのだろう。ボクにとって姉さんを食すこの行為は、姉さんと愛を交わすことと同義だ。姉さんを食すことでボクの身体の一部にし、姉さんとひとつになる。ボクが姉さんの肉体を取り込み、姉さんの体積が減れば減るほど、ボクらの愛は深まってゆく。傍から見ればただのおぞましい拷問にしか見えないこの行為が、実際にはその対角に位置していることを、ボクは信じている。
だからこそ、まだ足りない。もっと姉さんとひとつになりたい。この渇きを満たすため次はどこをいただこうかと真っ赤に濡れたネグリジェ越しに腰をなでていると、部屋の入口からヒッと声が上がったものだから、ボクは反射的に振り返った。
そこには先ほどのメイドが青ざめた顔で立っていた。胸の前に盆を掲げ、その上にグラスを乗せているが、手が震えているせいで今にもこぼれそうになっている。
「ぁ……あの……旦那様が、ポートワインをお持ちするように、と……それで……」
消え入りそうな声で言うと、メイドはついに盆を取り落とし、それを合図に身を翻す。その身体は部屋を脱しようとしているが、人間がホムンクルスより早く動けるはずがない。ボクはベッドから飛び降りると、駆けながらポケットのナイフを取り出し、メイドの項へ思い切り突き立てた。
獣の断末魔を思わせる鋭い悲鳴を上げ、メイドは床へ倒れ込む。ナイフを抜き、さらに背中を数回めった刺しにすると、その身体は動かなくなり、カーペットへ赤い水たまりが広がり始める。
「あ……アル……。なにを、したんだ……お前……」
寝台の上から姉さんの震える声がする。振り返ると、自分で起き上がることのできないそのひとは、顔だけをこちらへ向けている。その表情は酷く歪んでいるが、それはただ肉体の痛みだけが原因ではないようだった。
「あれ、初めてだっけ?姉さんの前で誰かを始末するの。怖がらなくて大丈夫だよ。こんなのいつものことだから」
「そんな……。お前が……オレの、アルが……こんな風に誰かを、殺す、なんて……」
そこまで言って、姉さんは目を瞑る。声は聞こえないけれど、どうやら涙で言葉を詰まらせたようだ。それは先ほどまでの生理的な涙ではなく、悲しみから生まれた涙のようで、面倒なことになったと思わずため息がこぼれる。
「あのね、姉さん。ボクは……」
「一体何ごとです!?今の悲鳴は!?」
姉さんを諭そうと口を開いたとき、今度は屋敷の主人が現れたものだから、ボクは思わず舌打ちした。主人は床に倒れるメイドの死体と、口の周りを血で汚したボクを見て、間抜けな声を上げながら腰を抜かす。――腹立たしい。食事を邪魔されるのが、この世でいちばん腹立たしいのに、どいつもこいつも邪魔ばかりする。
「……メルヴィルさん。お話は明日、ということでしたけど、予定を変えさせてください」
食事を中断するのは不本意だったが、どうせこのあと済まそうと思っていたことだ。メイドの背中に突き刺さったナイフを引き抜くと、空腹の身体を引きずるようにして、なんとか床から立ち上がる。
「モ、モリスンさま……。一体なにを……?」
「アル……!やめろ……やめてくれっ!」
まだ状況が呑み込めていない頭の鈍い主人とは違い、姉さんは一歩先を読んでそう叫ぶ。かつて姉さんは天才と呼ばれていたそうだし、だからこそボクを作れたのだろうけど、今はその聡さが煩わしくて仕方がない。
寝台の上の血にまみれた姉さんに気付き、主人はまた情けない悲鳴を上げる。その声が癇に障り、黙らせようと腹部を思い切り蹴ると、姉さんが再び「やめろ」と声を震わせたものだから、ボクもまたため息を吐いた。
「あのね、姉さん。こいつが抱えてる財団……とは名ばかりのカルト集団は、不治の病に犯された子供たちを救うなどと言って信者を集めているけれど、実際はボクたちが与えた紅い石を用いた錬金術で、まやかしの治療を行っているだけなんだ。こいつは子供を救いたくて必死な親からペテンで金を巻き上げてる悪人なんだよ」
「それは、あなたが……あなたたちが私に提案してきたことでしょう!?私はただ、それに従って……!」
「本当にそう?先日、あなたのお抱えの錬金術師が石を持って逃亡したという噂を耳にしたけど」
ボクの言葉を聞き、主人は青ざめる。きっとこいつは、ボクの来訪はその一件に関することだと察したのだろう。だから証拠を隠滅する時間を稼ぐために、話し合いは明日にしようなどと無駄なことを言ったのだ。
「その錬金術師はね、先日すでに捕えてきましたよ。そしたらね、そいつは面白い話を聞かせてくれました。紅い石を持ち逃げすることは、あなたの指示だった、と」
「そんなこと!嘘だ!ありえない!」
「あなたは紅い石を錬金術師たちの闇市で売りさばいて、さらに一儲けするつもりだったらしいですね。最初にちゃんと言ったでしょう?あれを外に持ち出されたら困るって。だからあの錬金術師を始末して、今度はあなたのところに来たんです、メルヴィルさん」
できるだけ穏やかにほほえみかけると、逆に男は恐怖に顔を染め、犬のように四つん這いになり逃げようとする。その背中へ飛びかかり、力の限りにナイフを突き立ててやると、主人はぐぇっと踏みつぶされた蛙を思わせる声を出し、力なく床へ突っ伏した。
「……待たせてごめんね、姉さん。食事を再開しよう」
任務を果たし清々しい気持ちで振り返ると、寝台の姉さんは目をぎゅっとつむり、ひくひくと喉を引きつらせて泣いていた。かわいそうになり、歩み寄って頬をなでてあげたにもかかわらず、姉さんは真っ赤に染まった白い顔をボクから背け、「いやだ」とつぶやいた。
「……なにが?なにを言っているの?」
「オレの、アルは……こんな風に人を傷つけたりしない。アルは、誰よりもやさしい子だったんだ。こんな……むごいこと、できるはず……ないのに……」
「だから、あなたは一体なにを言ってるんだ!?」
告げられた言葉が稲妻のごとく脳天を貫く。このひとは正気なのだろうか。自分で種を蒔いておいて、今さらこんなことを言うなんて。その手でボクを作っておいて――今になってボクを否定するなんて。
怒りが心に立ちのぼり、どんどん熱を上げてゆく。ほとんど衝動的に姉さんの顎を掴むと、唾液に濡れた唇へくちづける。貪るようにそれを味わい、舌を間隙へねじ入れると、自らの舌先で姉さんの舌を掬い上げ、そのまま思い切り噛み千切った。
声にならない悲鳴とともに、姉さんは口からこぽこぽと血泡をあふれさせる。その姿は憐れだけれど、自業自得だろう。ボクの聞きたくない言葉を紡ぐ悪い舌なんて、食べられてしまって当然だ。姉さんの姿を見下ろしながら、よく肥えた筋肉の弾力をひとしきり味わい飲み込むと、口周りについた血を指で拭った。
「ねえ、姉さん。普通の人間はね、こんなことされたらとっくに死んじゃうんだ。でも姉さんは生きてる。どうしてだろうね」
痛みで目を血走らせ、ヒクヒクと痙攣する姉さんに問いかける。しかしどうも言葉が届いていないようだから、こちらへ注意を向けさせようと、ピンと張った左胸の先端を指で引っ掻き、そのふくらみを力いっぱい握りしめる。
「……姉さんはね、もう人間じゃないの。紅い石を食べすぎて、簡単には死ねなくなってしまってる。ホムンクルスではないけれど、ボクたちに限りなく近い存在になってるんだ」
姉さんは痛みをやり過ごすのに必死で、やはりボクの言葉を聞いてなどいない。身を起こして全身を眺めてみると、グシャグシャになったネグリジェの裂け目から恥丘が覗いているのが目に入った。第二次性徴期は来ているはずなのに、不思議と産毛すら生えていないそこをなでると、姉さんの身体がわずかに震える。反応があったのが嬉しくて指を差し込んでみると、そこはぬるりと湿っていて、第二関節までもをいとも簡単に飲み込んだ。
「はは、すっごく濡れてる。死んじゃうほど痛いはずなのに、こんなにぐずぐずにしちゃうのも、姉さんがおかしくなってる証拠だよ。それなのに姉さんは、ボクのことだけ否定するの?あなたがボクを作ったのに、ボクを化け物だと突き放すの?」
ねえ、と声を上げながら根元まで指をうずめると、小さな身体が跳ねる。その拍子に胸の真っ赤なクレーターから、また大量の血が滴り落ちる。
「ボクはあなたの弟で、ボクはあなたのアルフォンスだ。あなたがなにを失っても取り戻したかった、あなたに残された最後の家族だ。だから姉さんにはボクを愛する義務がある。ボクを突き放すことなんて、許されない」
もう一本、中指を中に挿し入れると、力任せに奥を掻き混ぜる。ぐじゅぐじゅという水音が咀嚼音を連想させ、食欲を刺激する。運ぶためだったから仕方がないけれど、手脚がないと食べられるところが少なくて困ってしまう。姉さんはそろそろ限界だけれど、ボクはまだお腹が空いている。一体どこならば、致命傷を与えずにいただけるだろうか。
そんなことを考えていると、姉さんが唇をはくはくと動かし、なにかを言おうとしていることに気が付いた。しかし舌を失った口ではひとつの言葉も紡げず、口を動かすたびにタールのごとく濃厚な血を滴らせて、もどかしそうに涙をこぼしている。ボクの顔にもほとんど同じ色のものが埋まっているはずなのに、涙に濡れた姉さんの瞳はいつだって特別美しい。それはまるで果汁をとくとくと煮詰めて作った林檎蜜のようで――とてもおいしそうに、見える。
姉さんの言葉に応えることなく陰部に突っ込んでいた指を引き抜き、そこに絡みつく愛液を舐め取ると、血まみれの身体に圧し掛かって、姉さんの瞳を覗き込んだ。
「ねえ姉さん。姉さんの瞳ってね、きらきらしていて綺麗なんだ。宝石みたいなのに、とろとろとやわらかそうで、とっても、とっても、おいしそう」
どうせ耳には届いていないだろうから、想いを届けるため目の周囲をなぞり、その形を指に教え込む。愛しい、誰よりもいとしい姉さん。今回初めてともに旅をすることを許され、ボクの心は愚かなほどにときめいていた。長旅になる今回の任務の間、このひととずっと離ればなれになることには耐えられなかったし、あのままあの地下室へ繋いでおいて、他のホムンクルスに悪戯でもされたらたまったものじゃない。だからボクらの主人であるあの人に媚びてお願いしてみたら、姉さんを連れて行くことを許された。
どうやらボクと姉さんの父親は、かつてあの人の恋人だったらしい。そのせいであの人はボクによこしまな感情を抱いているようで、ちょっと甘い声を出して気持ちよくなるところにふれてやれば、すぐにボクの願いを聞いてくれる。姉さんを地下で〈飼う〉ことを許されたのも、そのお陰だ。口うるさい仲間は贔屓だなんだと騒ぎ立てるけれど、ボクだって姉さん以外の相手としたくないことを我慢してしているのだから、帳尻はあっている。錬金術師が言う、等価交換といったところだ。
幸い姉さんは小柄だから、前回の食事のあと、紅い石の量を調節して手脚がもとに戻らないようにすれば、予想どおりスーツケースにすっぽりと収まってしまった。その姿を見たときは、胸が躍って仕方がなかった。ボクにあるはずのない姉さんとの旅の記憶。それでも時折見る夢の中で、ボクでありボクではない〈アルフォンス〉は、姉さんと列車で旅をしていた。ボクもその記憶が欲しかった。そうすればあの〈アルフォンス〉にすこしでも近づき、ボクが本物の〈アルフォンス〉になるために必要な要素を、またひとつ増やせる気がした。
姉さんの瞳は、ボクのほしいそんな思い出をすべて記録しているはずだ。〈アルフォンス〉とともに育ち、罪を犯し、旅をした記憶。きっと姉さんにとってはつらい記憶のほうが多いだろうけれど、それでもボクはその痛みすらもほしい。姉さんとあいつが共有した感情のすべてを――この身体の一部にしてしまいたい。
ぬるりと濡れた指を伸ばし涙骨と眼球の間に押し当てると、事態を察した姉さんは、はっと息を詰まらせる。そしてボクが角膜と眼孔の間へ力任せに指を埋めた途端、喉から今日いちばんの絶叫を響かせた。
「ねえさん。だいじょうぶ、落ち着いて」
理性を失った獣さながらに叫ぶ姉さんにそう語りかけても、到底聞こえてはいない。仕方がないから左手で額を押さえつけ、早くすませてやろうとさらに指を奥へ滑らせる。そのまま探っていくと視神経と思われるものがあったものだから、奥へと続く穴へ指の関節を逃がしつつ、眼球をほじくりだそうと下から圧をかける。暴れる姉さんを押しひしぎ、指先へ力を込め梃子のように手首を倒せば、まるでポンッと音を立てるみたいに眼球が孔から外れた。
思いのほかやわらかいそれを潰さないように気を付けながら、人差し指でぐるりと周囲を包み、丁寧に外へ掬い出す。親指を添えて安定させると、すこしだけ強く引っ張って、後方にへばりつく視神経をブチブチと千切ってしまう。そのときにまた、姉さんはわけもわからないまま悲鳴を上げた。
「……姉さんの目、とっても綺麗だ。せっかくもらったけど、食べるのがもったいないくらい」
視神経をぶら下げながら、ぽたぽたと血を滴らせる眼球を闇深い天井へ掲げてみると、暖炉の光を反射するそれは闇夜に浮かぶ月のように見える。その美しさにほうっとため息をつき、角度を変えて色の変化を楽しめば、それだけであるはずのない幼少期の無邪気な気持ちが甦ってくるような気がした。
「ねえ姉さん。この瞳で、どんなものを見てきたの?どんな〈ボク〉を、映してきたの?」
名残惜しさを覚えながらも、姉さんの眼球を舌へ乗せ、ごくりと喉へ流し込む。本当は噛み砕き、硝子体のつるりとした感触を楽しみたかったけれど、記憶を映した姉さんの眼球を壊してしまうのは気が引けた。ただの願掛けだとしても、ボクは姉さんの見た景色、そのままがほしい。
「そうだ。いいことを思い付いたんだ。これから姉さんをいただくたびに、瞳をひとつずつもらうよ。そしてこうやって食べてしまうんだ。そうしたらボクもいつか、姉さんが見てきた記憶を見られるようになるかもしれない」
ねえ、姉さん。そう語りかけたとき、入り口のほうからなにかが這いずるような音がした。振り返ると、先ほど殺したはずの主人が死に損ないの身体を引きずり、入口へ向かおうとしている。本当に、わずらわしい。止めを刺すためベッドから床へ降りようとしたとき、ふとした思い付きが頭をよぎった。
「ねえ、姉さんもお腹が空いているんじゃない?長旅のあとだものね」
姉さんは、ひく、ひく、と弱々しい痙攣を繰り返すばかりで、残った瞳にももう力がない。さすがにこのまま放置しておいたらそのうち死んでしまうだろうから、早く石を食べさせてやらなければならない。でもその前に、ボクはもうすこし姉さんと遊びたい。
姉さんの身体の下へ片腕を差し入れ、血を失って酷く冷えた身体を抱き上げる。そのままその身を抱えて主人のもとまで歩いてゆくと、血まみれの太った尻を思い切り踏みつけた。
「ボクと姉さんの〈食事〉を盗み見てたの?下品な奴」
ぐえぇっと醜い声を出す巨体を蹴飛ばすと、背中に刺さっていたナイフが抜け落ちカーペットを滑る。膝を突いて姉さんを床へ下ろすと、仰向けでひゅうひゅうと断末魔の呼吸を繰り返す主人へ目をやりながら、ナイフを拾い上げた。
「本当はもっといいものを食べさせてあげたいんだけれど、仕方がないよね。脂肪ばかりで不味いかもしれないけど、我慢して」
血濡れたナイフは今にも手から滑り落ちてしまいそうだったから、もう一度強く握り直すと、膨れた腹へ突き立てた。もう人間のものかどうかもわからない奇怪な呻き声を聞きながら腹を縦に切り裂くと、破れた寝間着と肌の間から、つやつやと光る腸が見えた。裂け目へ手を突っ込みそれを引っ張り出すと、ナイフで欠片に細断する。
「ほら姉さん、あーんってして」
ボクの腕に背を支えられ、弱々しい呼吸を繰り返す姉さんの口元へ、男の腸の欠片を近づける。姉さんは反応しない。見えているのかも定かではない。だから唇へ肉を当て、顔がこちらを向くように押し上げると、口の中へそれを無理やりねじ込んだ。
「……食べて」
もうほとんど意識がないはずなのに、姉さんは口内で感じる不快感に抵抗を示す。それでももう抗う力など残っていないから、ボクはそのまま肉を喉の奥まで押し込み、掌で口を覆う。気道を塞がれた苦しさで姉さんはくぐもった呻き声を漏らし、生存本能だけで肉を噛み砕くと、ごくりとそれを飲み込んだ。
「いい子。姉さんも、人間を食べちゃったね。ボクと同じ」
ボクがそう語りかけると、姉さんの残った眼球から一粒の涙が滴り落ちた。それが感情によるものなのか、それとも瞳に溜まっていた涙がこぼれ落ちただけなのかはわからなかった。
「姉さんも同じだよ、ボクと。人間の形をしているだけで、もう人間なんかじゃない。ボクたちふたりとも、とっくの昔に化け物になってしまったんだ」
あるはずのない記憶の間に、泡沫のごとく甦る幸せな光景。どこにでもいる幼い姉弟が、無垢な笑みを交わしながら子供らしくじゃれあうまぼろし。
あれはボクたちであり、ボクたちではないものが過ごした時間。
ボクたちはもう、二度ともとの形には、戻れない。
姉さんに石を食べさせ、手足も含めて身体をもとに戻してあげると、血だらけのネグリジェを肌から剥ぎとり、バスタブで身体を洗ってあげた。もう痛みは消えたはずなのに、神経にはまだその残滓が残っているのか、姉さんは身体を時折びくびくと痙攣させながら、真っ赤に染まった水が排水口へ流れていくのを虚ろな瞳で見つめていた。
幸い主人の娘の部屋に、姉さんの身体に合いそうなドレスが残っていたから、綺麗になった身体に着せてやった。小花が散った桃色の生地にレースやリボンをあしらったそのドレスは、さすがのボクでも失笑してしまうほどの少女趣味だったけれど、いざ着せてみると驚くほど姉さんに似合った。それが嬉しくて、娘のドレッサーに入っていた同じ色のリボンも、姉さんの髪に結いつけてあげた。
ボクも身体を清めると、もとのベッドは血で汚れて使えないからと、もうひとつのゲストルームと思われる部屋でふたり横たわった。本当は任務が終わり次第、セントラルの地下のあの場所へと帰らなければならないけれど、予想よりも早く片付けたのだから一晩くらいゆっくりしたって許されるだろう。まだ精神的なショックが抜けきらないのか、姉さんは始終黙ったままだった。今回は特に痛い思いをたくさんさせてしまったから、怖かったのかもしれない。
「ねえ、姉さん」
返事はない。それでもいいと髪を掻き分け頬をなでる。もとに戻った金色の瞳に光はないけれど、ボクはやはりその色が好きだった。
「ずっと一緒にいようね。なにがあっても、ボクたちはずっと一緒にいよう」
再生した左手に指を絡めながら、そう語りかける。きっと、ずっと。子供じみた願掛けに聞こえるかもしれないけれど、ボクはどこまでも真剣に願っていた。いつまでも姉さんといられることを。姉さんがいつまでも、ボクから逃げずそばにいてくれることを。
ふと思い立って、愛でていた左手を持ち上げると、唇へと運んだ。不思議と花の香が漂うような、細いゆびさき。その中の薬指を口に含むと、ごりっと鈍い音を立てて第二関節から噛み切った。
終わったはずの食事が再開されることを予期していなかった姉さんは、痛みにひっと声を上げて手を引く。ぽつぽつと血が滴り落ちる手を見て青ざめると、どうして、といった表情でボクを見る。
「ごめん、痛かったね」
不安の浮かんだ力ない表情に庇護欲を誘われ、傷口にくちづける。そのままぺろぺろと血を舐め取ると、濃厚な甘さが口内へ広がる。このひとはほんとうに、どこもかしこも、甘くておいしい。
「……人間はさ、永遠の契りを交わすとき、ここに指輪をはめるんでしょう?ボクは人間じゃなくて化け物だから、代わりに姉さんの左手薬指をもらうの。姉さんが、他の誰のものにもならないように。ずっと、ボクのそばにいてくれるように」
ね、と笑いかけると、姉さんの瞳が悲し気に歪む。そして血で真っ赤に染まった手を動かすと、ボクの頭をやわらかな胸に抱え込んだ。
姉さん、と問いかけても、姉さんは返事もしないままボクの後頭部をやさしくなでる。きっと傷口が痛むだろうに、決して止めようとはしない。
「姉さん、どうしたの?」
「……ごめん、アル。さっき、酷いこと言った。ごめん」
今にも泣き出しそうな様子でぎゅっと目をつぶり、姉さんは繰り返す。ごめん、ごめん、と。
「オレはお前の弟で、オレはお前の姉さんだよ。オレはずっと、お前のそばにいる。この命がくつづく限り、オレはお前のものだよ……アル」
悔恨と悲しみ、そしてなにかしらの決意を織り交ぜたような声。それは子守歌みたいにボクの耳へすべり込み、ないはずの魂をぬくもりで包み込む。
いつかどこかでこの身を包んだことがあるような、やさしいにおい。やわい感触から漂うその香りに、守られているような、あたたかな場所へ還ってゆくような錯覚を覚えながら、目を閉じる。
これから見る夢の中で、姉さんと一緒に旅ができればいいなと思う。ふたりで人目を憚ることなく列車に乗って、乗車前に町で買った食事を分け合い、頭を預け合って眠るのだ。誰に邪魔されることもなく、どんな使命を負うこともなく、ただ手をつなぎ、笑い合って。そうすればボクは、本物の〈アルフォンス〉になれる。姉さんが愛してくれる、本物の〈ボク〉に、きっと。
それはとても幸せな想像であるはずなのに、その光景に思いを馳せるだけで泣き出したくなってしまうのがどうしてなのか、ボクにはわからなかった。