第二章
呼び合う、ふたつの
目を覚ますと、部屋はすでに暗くなり、カーテンの隙間から見える景色も闇の底に沈んでいた。
今は何時だろうか。時計を見ればいいだけなのに、そのために頭を動かすのさえ億劫でぼうっとしていると、突然喉を押し上げるようにして咳が出た。昨夜はこの咳が酷くてあまり眠れなかったから、数時間でも眠れたのはありがたいことだった。けれど身体が楽になった感覚はあまりなく、気怠さも節々の痛みも、ぶら下がるようにしてまだそこにあった。
コンコン、と控えめなノックの音が響き、こちらの返答を待つまでもなく扉が開く。重い頭をすこしだけ持ち上げて視線を向けると、そこには先ほどまで夢で見ていたひとの姿があった。いつもどおりに髪を一つに結んで、華奢な身体を焦げ茶のベストとスラックスに包んでいる。
「アルフォンス、気分はどうだ?」
調子がいいのだろうか。今日は杖をついておらず、代わりにティーポットとカップの乗ったトレーを両手で運んでいる。しかし右手の支えが足りないらしく、若干不安定になっていて危なっかしい。大方、仲間の誰かが代わりに運ぶと言ったのを押し切ってここまで持ってきたのだろう。
「ちょっとは楽になったか?ビドーの奴がさ、街で蜂蜜と檸檬を手に入れてきてくれたもんだから、湯に入れて持ってきたんだ。喉にいいから飲め」
ポットとカップを振動させながらもなんとかベッドまで辿り着くと、サイドテーブルにトレーを置く。本人も安心したのか、かすかにふぅっと息を吐くと、金色の瞳で僕を見る。
「熱はまだあるのか?」
左手を覆う手袋を外し、素手で僕の額へふれる。その指先は冷たく、細い。
「エドワード……さん」
ぼんやりとした心地のまま名前を呼ぶと、そのひとはいつもよりずっとやさしげな顔で、なんだ、と言った。
「いま、何時ですか……?」
「五時前。雪が酷くなりそうだから、みんな今日はもう帰ったよ。お前のこと心配してたけど、オレが面倒見るっつっといた」
まだ熱いな、と言いながら指を引こうとするのを、咄嗟に手首を掴んで引き留める。はっと身を強張らせながら、そのひとは僕を見る。
「もうすこしだけ」
こんなことはよくないとわかっているのに、熱で身体がどうにもならないせいか、子供のような身勝手さが心を支配してゆく。
「もうすこしだけ……ここにいてくれませんか?」
そう懇願する僕に向け、どこか悲しそうな表情を見せたそのひとは、諦めたような声で、いいよ、とつぶやいた。
クリスマス休暇が終わり、新年が明けて仲間たちが戻ってきても、僕たちの間に生じたかすかな揺らぎが立ち消えることはなかった。
あのクリスマスの日、決定的な過ちを犯した僕を、あのひとは完全に遠ざけることはしなかったものの、以前のようにずっとくっついてくるようなこともなくなった。当たり前に言葉は交わすし、行動だって共にする。けれどあと一歩、以前のような距離感に戻れるような気がしたところで、ふっと身を引いてしまう。まるで自分でもどうすればいいのかわからないというように。
それなのに僕が体調を崩したときなどは、誰よりも早く気付いて世話を焼いてくるものだから、僕のほうもあのひとに対する感情にどう始末をつければいいのかわからないままだった。
「なあお前さ、クリスマスのころエドワードとなんかあった?」
ある日、研究仲間のひとりからそう尋ねられ、僕の心臓はかすかに跳ねた。
「別に、なんにも……。どうして?」
「いやさ、お前らなんかよそよそしいし……あいつさ、最近ちょっと変じゃん。前みたいに研究に積極的じゃねえし、それになんかさ、こう……妙に色っぽいっつうか」
その言葉を耳にし、僕はボルトを回す手を止め仲間を見た。
「ほら、あいつってさ、自分では男だって言ってるけど、どうしたってそうは見えねえじゃん。小せえし、その……かわいいしよ。最近よく寂しそうな顔してるしさ、そういうの見るとなんかこうグッとくるわけよ。それで、お前はどうなのかなあって」
前から女好きで知られているその仲間は、野卑な笑みを浮かべて僕に耳打ちした。
「お前があいつに行かねえなら、オレがちょっと確かめてみようかなって」
その言葉を咀嚼する前に、僕の右拳は仲間の頬をとらえていた。僕に殴られるとは露ほども思っていなかった彼は、そのまま地面に倒れ、床に置いてあった工具箱をひっくり返す。それでも頭の熱が消えない僕は、そいつの襟元を掴みあげた。
「アルフォンス……!おい、冗談だ……!」
「ふざけるな!お前が!お前なんかが、あのひとに……っ!」
自分でも訳がわからないままそう叫んだとき、騒ぎを聞きつけた他の仲間が「なにをしてる!」と僕らのほうへ駆け寄ってきた。
「あのひとは男だ!二度とそんなこと……!あのひとは!」
「ハイデリヒ!やめろ!」
もう一度拳を振り上げた僕を、仲間の中でもひときわ身体の大きいロアが羽交い絞めにし、床に転がる仲間から引き剥がした。誤魔化すように笑う仲間の表情が許せなくて、もう一度飛びかかろうとすると、「いい加減にしろ!」とロアに放り投げられた。
「まさかお前が喧嘩するなんてなあ」
騒動の後、頭を冷やせと自室に押し込まれた僕のところへやって来たあのひとは、そう言ってなぜだか酷く嬉しそうに笑った。あのときは僕たちの師に呼ばれていたようで、騒動の詳細は知らないらしい。
「……なんでそんなに嬉しそうなんですか」
「いやぁさ、お前もなかなかに骨があるっつぅか、見直したっつぅか」
そう言いながらも堪えきれない笑いをこぼし、僕の額を確かめてくる。先ほど床に打ち付けたところがじんじんと痛むのに、そのひとは機嫌よさげにそこを覗き込む。
「まあでも、喧嘩はほどほどにしねえとな。お前、この間も風邪ひいたばっかなんだし」
「風邪はもう大丈夫です。それに、いつも過去の喧嘩の武勇伝ばかり話してるあなたにだけは言われたくない」
その返答も気に入ったのか、嬉しそうに笑い声を上げると僕の隣に腰を下ろす。そしてしばらくの間押し黙ったあと、なにかを決意したように口を開いた。
「……オーベルトさんがさ、この研究所は畳むかもって。博士論文が忙しいから、オレたちの面倒は見られないらしい」
まだ誰にも言うなよ、と言い添えて、膝の間で両手を組む。その姿は、いつも以上に小さく見える。
「……そうですか」
彼の言うことに心当たりはあった。僕たちの師はこのところハイデルベルク大学に行かなければならないことが多く、研究所にめっきり顔を出さなくなっていた。どうやら、ロケットの研究など夢物語だという教授が多数派で、論文が受理されるかどうかも怪しいらしい。
「一緒に大学に来ないか、と訊かれたけど断った」
「え……どうしてですか?」
素直な驚きから声を上げると、そのひとは困ったような笑みを僕に向けた。僕にはわからなかった。師がこのひとの才能を欲しがるのは当然だし、師直々に助手に誘われるなんて名誉なことだ。僕だったら、大喜びで承諾するだろう。
しかしそのひとは、まるで酷く苦々しいものを吐き出すように眉根を寄せながら言った。
「……ロケットがオレの答えなのか、わからなくなった」
彼の言っていたことは、それからしばらくして正式に決定事項として告げられた。博士論文が受理されて予算をもらえたら、ドイツのどこかでまた共に研究できるよう計らうからという師の言葉に、僕らは口を閉じるしかなかった。
約一か月後の研究所閉鎖に向けて片づけを始め、僕らが約十カ月を共に過ごした場所には段々と隙間が多くなっていった。身を切られるような寂しさを覚えるのは、これまですべてを費やしてきた研究を中断しなければならないことや、仲間たちと離れなければならないことだけが原因ではなかった。仲間——そう呼ぶには心を占める割合が大きくなり過ぎたあのひとと別れて、自分がこれからどうやって生きていけばいいのかがわからなかった。
ひとり、またひとりと仲間たちが去り、残るは研究所に住まう僕たちだけになった。本当はいつでも立ち去れるのに、未練たらしくぐずぐずと残っている僕と同じく、そのひとも中々旅立つ気配を見せなかった。
そしてついに訪れた最後の晩、夕食のあとに僕の部屋を二回ノックしたそのひとは、外へ星を見に行かないか、と言った。
三月の空気はまだ冷たく、いきなり空気を吸い込むと肺が凍り付いてしまうような厳しさがあった。そのひとは嫌がったが、僕はこの寒さのなか耳を隠さずに外に出るなんて冗談じゃないと言って、祖母が編んでくれた毛糸の帽子のひとつをそのひとに被せた。赤い帽子の下で不貞腐れてはいたが、僕が差し出した杖も大人しく受け取ってくれたものだから、随分と素直になったものだと思うと、胸が締め付けられるような切なさが満ちた。
街から距離のある研究所は星を見るのには格好の場所だったから、こうして外へ出るのは初めてではなかったけれど、ふたりきりで出掛けたことはなかった。あまり身体を冷やすと義肢によくないからと、僕が遠くまで行かないようにしているのに、そのひとは杖を使ってどんどん歩いて行ってしまった。
「見ろよ、アルフォンス!すげぇ星!」
森の入口まで歩くと、そのひとは空を見上げながら言った。その言葉のとおり、頭上では満天の星が折り重なり合いながら瞬いていて、空が白く見えるほどだった。
「これだけ星があると、星座も見つけづらいですね。でもあれがオリオン座だから、あの左上のがベテルギウスかな。あれがシリウス」
「詳しいんだな、お前」
「エドワードさんは宇宙に興味があるのに、星には興味ないんですか?」
僕の質問にハッとすると、もう一度天を見上げる。帽子を被るためにほどいた髪が、肩をすべる。
「どうなんだろうな……。田舎育ちだから散々星は見てきたけど、オレが見てた星がこれと同じなのかどうかは、わからねえや」
最後のほうは、ほとんど独り言のようだった。クリスマス以来、このひとはもうひとつの世界についてあまり話さなくなった。
「あ、アルフォンス!流れ星!」
そう言って一歩踏み出した途端、杖先が石でも突いたのかバランスを崩しよろめいてしまう。慌てて手を伸ばすと、小さな身体は腕の中にすっぽりと収まり、杖だけが音もなく雪の中へ倒れていった。どこか気まずさを含んだ沈黙が、辺りを満たす。
「……ねえエドワードさん。これからどうするんですか?」
後ろからそのひとを支えるような姿勢のまま、僕は問うた。これまでもさりげなく尋ねてきたことだったが、このひとは言葉を濁すばかりで、はっきりとした答えは得られていないままだった。
「……言ったろ。とりあえず親父のいるミュンヘンに帰る」
「そのあとの話です。まだ研究を続けるんですか?」
答えはなかった。雪の生み出した完全な沈黙だけが、耳の中で痛む。
「オーベルト先生が言っていたみたいに、博士論文が受理されたらまたみんなで研究しましょう。僕たちならきっと、アメリカにだって負けないくらいのものを……」
「わからないんだ、本当に」
ごめん、となにに対してかわからない謝罪をこぼして、また口を噤んでしまう。
気付いていた。クリスマスが過ぎたころから、以前はこのひとの瞳に煌々と灯っていた光が弱くなり始めたこと。それはただすこし疲れてしまったとか飽きてしまったとかそういうことではなく、まるで年老いた星が段々と輝きを失っていくのと似ているように見えた。きっとこのひとは、なにかを諦めようとしている。それも、命の源に限りなく近い、生きる希望のようなものを。
「……研究じゃなくてもいいんです。きっと、きっと僕がミュンヘンに行きますから……そしたらまた、一緒に……」
一緒に——。そのあとの言葉を上手く見つけられず押し黙っていると、そのひとは身体を支える僕の腕を握り、やんわりと引き剥がすようにして振り返った。
「……そうだな、きっと……また」
いっしょに。そう言って笑った顔に滲む寂寞の色を見て、悟った。
このひとはもう、二度と僕の人生に現れるつもりはないのだろう。
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