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 目を閉じれば、そこにはあたたかな世界がゆらゆらとたゆたっていた。
 まるで生まれる前に戻ったような感覚。守られ、ひとつの罪も背負わないまっさらな身体で、そこにいることを許されて。
 ふと誰かにふれられた気がして目を開けると、そこには思ったとおりの姿があった。わかるのだ。指の形、肌の感触、そして皮膚の温度だけで。
「アル」
 名を呼ばれた弟は、春の陽だまりのように顔をほころばせてオレの頬をなでる。その手はもう革でも金属でもなく、生きた人間のぬくもりをまとっている。
——姉さん。
 最後に見たときよりいくらか成長した姿でありながら、子供のころのままのやさしい声でオレを呼び、ゆっくりとこの髪を指で梳く。いつかオレが髪を切ろうとしたとき、お前は言った。——お願い、どうか切らないで。これからもボクがずっと、姉さんの髪を結ってあげるから。
 だからオレは髪を切らず、誰にもさわらせはしなかった。この長い髪がある限り、オレたちが離れる日は訪れないような気がして。
 けれどそれはただの子供じみたまじないのようなもので、結局オレたちはずいぶんと長い間離ればなれになってしまった。再びこの手にふれられる、今日までは。
——姉さん。
 もう一度名を呼んで、この唇にくちづけを落とす。身体を取り戻すと誓ったあの日から夢に見続けてきた感触は、想像よりもずっとやわらかく、胸がきゅうと締め付けられる。何度もなんども食むようにくちづけて、その熱でオレをぐずぐずと溶かしてしまうと、今度はしなやかな指を首から胸へ、そして下腹部へとすべらせてゆく。
 すでに欲望で濡れそぼったそこへ指を差し入れられると、痛みとともに腹の奥が疼き始める。革の手では何度もふれてもらったが、体温を持った指にふれられる心地よさはその比ではなかった。アル、アル、と名を呼べば、オレをあやすように胸の先へとくちづけてくる。ふれ合った皮膚が熱く、まるで肌を焼かれているようだ。苦しみと快楽に喘ぐオレへほほえみかけると、弟は昂った自分のものを掴み、今度はそれをオレの中へと挿し入れた。
 ああ、オレは大人になるのだ。お前と約束したとおり、お前の手で。
 鋭い痛みに全身を貫かれ、はくはくと口を震わせるオレに向け、弟はほほえむ。どこまでも穏やかに、かわいらしく小首をかしげて。それなのにどんどんと身体に押し入ってくる力は容赦がなく、痛みと熱で頭がおかしくなってゆく。たまらず弟に縋り付くと、オレは自分に右腕があること、そしてそれが機械ではなく血肉をまとっていることに気付いた。取り戻したのだ。やっと——オレたちは赦されたのだ。
——姉さん、泣いてるの?
 オレの目尻へくちづけを落とし、律動を繰り返しながらこの身体を抱きしめる。やがてオレの中を探っていた熱がある一点を捉えた。——いつか身体を取り戻したら、ボクが姉さんを、ほんとうの女の子にしてあげる。いつもはオレの我儘ばかり聞く癖に、そう言ってどうしても聞いてくれなかったただひとつの願い。その約束を果たすため、オレは今までずっと、お前だけを待って、そして——……。
——姉さん。
 甘い声で呼ばれるに続き激痛が下腹部を貫き、オレはたまらず声を上げる。そんなオレの頬をなでながら、弟はオレの中をこじあけてゆく。痛いのに、苦しいのに、胸が幸せではちきれそうで、壊れた機械のように弟を呼ぶ。アル、アルフォンス。
——あいしてる、姉さん。
 息を切らしながら、弟はそう言ってオレの額をなでる。オレの中を暴く熱いものが脈打って、これを一生感じていられたら、と思う。
——あいしてる。
 オレも、と言いたいのに、呼吸が詰まってうまく言葉が出ない。オレも、オレもあいしている。お前のことをずっと、誰よりも。だから今日このときをずっと夢に見て、誰の手も取らずに生きてきた。差し伸べられた愛情をつっぱねて、たとえそれが、お前と同じ顔をした、あいつから与えられたものだとしても。
 ふとした違和感を覚え、目の前の顔を見つめると、そこに埋まるふたつの瞳がオレに向けてほほえんだ。やさしげで、母さんによく似た瞳——それはオレがよく知る金色ではなく、抜けるような——青。
「エドワードさん」
 ちがう。そうであるはずがない。たった今オレが奥底で感じているのは、オレが愛しているのは——……。
「ねえ、エドワードさん」
 先ほどよりもずっと明瞭な、深い声。それがオレを呼ぶと同時に、最奥で熱が爆ぜた。律動していた身体が止まり、荒い呼吸が繰り返される。こんなはずじゃないと、圧し掛かる身体を押しやろうと急いで手を伸ばしたとき、そいつはオレの顔を見て、言った。
「愛しています、あなたを」
 その言葉を耳に注ぎ込まれた瞬間心に広がったのは、拒絶ではなく確かな喜びだった。世界が色づいてゆくような感覚を覚えながら、オレは自分が弟を——アルを裏切ってしまったのだと、知った。


 瞼を押し開くと、そこにはすでに見知った天井があり、自分がぐっしょりと汗をかいていることに気付いた。
 どくどくと逸る胸を押さえ呼吸を整えるうち、今見ていたものがただの夢だったのだという事実が脳に染み入ってくる。自分は安堵しているはずなのに、どうしようもない欠落感で腹の底が疼き、恐る恐る下着に手を差し入れると、そこはじとりと濡れていた。
 ミュンヘンに帰ってきてから、こんな夢を毎晩見る。まるで浅ましい欲望にとり憑かれてしまったようで恥ずかしくてならないのに、その理由に心当たりがあるのだから厄介だった。自分はさびしいのだ。弟と離れて、そして、あの男と離れて。

 あいつと別れることを決めたのは、自分自身だ。
 研究所が閉鎖になったことがきっかけではあったが、本当に望めばあいつと一緒に進む道はあった。それがどういう種類の感情なのか、あるいは憐憫なのかもしれなかったが、あいつもオレにある種の親愛の感情は抱いてくれているようだった。だからもしもふたりでいようと決めたならば、師事していた男の誘いを受ける条件にあいつを連れていくこともできたかもしれないし、頼めばあいつの故郷を一緒に訪れることもできたはずだ。それに、もしもオレが女だと明かせば、もっと多くの選択肢があったのかもしれない。これからずっと手を取り合い、一生の伴侶として——。
 そんな思考に差し掛かるたび、自分の中で鋭い否定の声が上がった。まさかお前はアルを裏切るのか。あれだけ愛おしい弟との約束を破るのか。それにお前は、あの男を弟の代わりにしているだけだ。これから一生誰かの代替物にされるだけの運命を、あのやさしい男に課すつもりなのか。
 だから、離れようと思ったのだ。
 自分はもう、弟を十分すぎるほどに傷つけた。こちらの世界の〈アル〉までもを、不幸にすることなどできない。

「エドワード、お前……男のふりはやめたのか?」
 それなのに、オレがトランシルヴァニアから戻り、荷解きをしている姿を見た親父は、突然そんなことを尋ねてきた。
「あ?別にやめてないけど。なんで?」
 もとはと言えば、こいつがオレに男として生きろと命じたのだ。ふり、だなんて随分呑気な言い分だと思ったが、一応負い目はあるのか、親父はどこかおどおどとした様子で言葉を続けた。
「いや……その、なんだ……随分女らしくなったなと思って」
 親父の言葉に面喰らい、オレは言葉を失った。そんなオレに向け、親父は「好きな人でもできたのかな、と思ったんだよ」と誤魔化すように笑った。
 一瞬ぶん殴ってやろうかと左手を握りしめたが、それを振りかざすことはできなかった。拳を握りしめた瞬間、あいつにふれられたときの感覚が指に甦り、力が吸い取られるように失われていった。——エドワードさん、とあの声が脳裏に響いたとき、あいつにはもう会えないのだという絶望が、濁流のように全身を呑み込んだ。
「エドワード……?」
 親父の狼狽えたような声で、自分が涙をこぼしていることに気付いた。これではまるで本当に失恋でもしたみたいだと急いで涙を拭っても、それは次から次へと流れ出て来て、止まってはくれなかった。
 そしてオレは知った。オレはきっとあいつのことを、とっくの昔に愛してしまっていたのだろうということを。

 ミュンヘンに帰って来たはいいが、なにをすればいいのかわからず、ひとまず毎日あらゆる分野の本を読んで過ごしていた。親父は知り合いになった大学教授の頼みでなにかの研究に携わっているらしく、帰ってくる日もあれば来ない日もあるという風だった。その研究について訊いてみたが、どうにも非科学的で胡散臭く、どうして親父がそんなものに興味を持っているのかはよくわからなかった。
 しかしそうして他人の研究を批判できるほど、オレに明確な目標があるわけでもなかった。宇宙という可能性を完全に排除したわけではなかったが、宇宙について知れば知るほど、あちらの世界に繋がっているという可能性が希薄に思えてきた。そこに至るロケットですら、実際に宇宙まで到達するとなると開発にあと何十年かかるだろうか。時間がどれだけかかってもいいと言えるほど、今のオレは強くない。
 アルに会いたい。しかし、必ずまた会えるのだと信じていたころの気持ちは、長く火を灯しすぎた蝋燭のように痩せ細り、オレには未来がまったく見えなくなっていた。

 気まぐれではありながら最低でも三日に一度は家に帰って来ていた親父が、しばらくしてまったく帰ってこなくなった。もともとそれほど仲のいい父子というわけではなかったが、失踪した親父を心配するくらいの情はあるし、あいつがいないと義肢のストックがなくなったときに困るという現実的な問題もあったから、オレは親父を探しに出た。あいつが懇意にしていた大学教授のもとを尋ねようとしたが、その教授も大学に長らく姿を見せていないということで、捜索はあっという間に行き詰まった。酒場なんかも回ってみたが、親父の行方を知る者はいなかった。
 最初はそのうち帰ってくるだろうと思っていたが、一カ月以上が経っても親父は帰ってこなかった。あいつはきっともう戻ってこない。そう理解した途端、昔親父がオレたちや母さんを置いて家を出ていったときの朧気な記憶が、鮮明な実像となって戻ってきた。今はもう親父がオレたちを置いていった理由もわかっているのに、捨てられた、と思ったあのときの悲しみは、まだこの胸のどこかに引っかかっているらしかった。
——置いていかないで。
 子供じみたそんな想いを追いやろうとしても、全身を覆う孤独感がそれを許さなかった。この世界に辿り着いたとき、アルがいない寂しさに気が狂いそうだったが、それでも親父がいてくれたことで、どれだけ救われていたのかを今さら実感せずにはいられなかった。この世界——自分のものではないこの世界で、オレは本当にたったひとりになってしまった。
「……アルフォンス」
 暗い部屋の隅で膝を抱え、その名を口にする。弟のものであるその名が、今は別の存在を指していることには気付いていた。今この世界で、胸に巣食う孤独を埋めてくれるであろう唯一の存在。別れるときに住所を渡されたから、そこを尋ねるか手紙を書けば、きっとまた会えるのだろう。しかし、それは許されない。オレはもう、あいつの前から消えると決めたのだ。
「あい……たい……」
 アルに会いたい。親父に会いたい。アルフォンスに会いたい。
 果てしない孤独が頭を巡り、それはいつしか、誰でもいいからそばにいてほしい、という枯渇感へ変化していった。


 誰もいない暗い部屋にひとりでいると湧き上がってくる、なにかに押し潰されるような感覚が嫌で、その夜は外へ歩きに出た。激しくはないがだらだらとした長雨の降る嫌な晩だったが、傘を使おうとも思わなかった。
 敗戦後のミュンヘンは荒んでおり、インフレのせいで困窮した人々が通りにたむろし、女たちは身体を売っていた。今まであちらの世界を旅して嫌なものはたくさん見てきたはずだったが、この街に蠢くものはその比ではないほど濃密な地獄に見えた。
 二時間ほど歩き回ると、雨が接続部に染み込んだのか、足首がうまく機能しなくなり、ついにはあらぬ方向へ折れ曲がってしまったものだから歩みを止めた。気付けば随分遠くまで来ていて、今の状態ではとても家まで帰りつけそうになかった。雨に濡れた身体も重くて、せめてどこかで休みたいと、普段なら決して寄り付かないような汚い路地裏へ入り、そこへ腰を下ろした。
「なんだ嬢ちゃん。そんなとこでなにしてんだ」
 全身を覆う疲労感に浸っていると、上からそんな声が降ってきた。ぼうっとした頭で仰ぎ見ると、そこにはキャスケット帽を被り無精髭を生やした男が立っていた。嬢ちゃん、という言葉を反芻し、そういえば髪も結んでいなかったなと思い至った。
「駄目だぜ、この辺りはちゃんと持ち場が決まってんだ。商売したいならよそでやんなきゃ」
 そう言いながら、男はオレの前に来て膝をつく。商売?その言葉の意味を理解できないでいると、男は突然オレの顎に指をかけ、上を向かせた。
「へぇ……でもこいつぁ上玉だな。どれ、俺が買ってやるよ。いくらだ?」
 露骨な表現を聞き、オレはやっとその男がオレを売春婦と勘違いしていることに気付いた。四十代くらいに見えるその男は、オレの顔を吟味するように上下左右にすこしずつ動かし、嫌らしく舌なめずりする。ふざけるな、と殴ってやろうと思ったが、どうでもいい、という気持ちが勝り、身体のだるさと呼応する。
「なんだお前、不具か」
 続いて右腕を掴んだ男は、その感触に目を見張った。おかしな方向に折れ曲がっている左足首にも目を留め、眉根を寄せる。
「俺は不具のガキを抱く趣味はねぇけどよ、お前は別だ。ついて来い」
 腕を引いて無理やり立たされ、コートのポケットに紙屑同然の札束をねじこまれる。それをぼうっと眺めていると、後ろから肩を抱き込まれ、そのまま通りへと連れ出された。
 このままついていったらなにが起きるかわかっているはずなのに、それがすべてどうでもいいことのように思えてならなかった。
 だってオレはきっともう、アルのもとへは帰れない。——そう自覚すると、あれだけ頑なに守ろうとしていた約束も、自分の身体もこの命も、まるで意味がないもののように思えた。それなら今、誰でもいいからそばにいてほしい。

 オレは罪びとだ。きっと、この地獄で死ぬのが似合っている。




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