第三章

いつか宙へ還る



「僕の知ってるエドワードさんは、最初からずっと泣き虫ですよ」
 お前に会ってから、すっかり涙もろくなった気がする。
 なんだかふと腹が立ってそう文句をこぼすと、そいつは笑いながら平然とそんな言葉を返してきた。
「泣き虫って……。オレ今までそんな風に言われたこと一度もないんだけど」
「そうなの?でもあなた、僕の前では泣いてばかりだから」
 ほら初めて会ったときも、と言われればこちらもなにも言い返せない。
 あちらの世界にいるときは、気を張りすぎだと言われることはあっても、弱さを指摘されることなどなかったし、そうであってはいけなかった。しかしこうしてこいつの腕に抱きしめられ、直にふれあった肌で体温を感じていると、これまで張りつめていたあらゆるものがとけだしてゆくような気がするものだから、今さらどうでもいいような気もした。
 あの日——初めて肌を合わせたあの日から、オレたちはずっと一緒にいる。同じ場所で生活し、同じものを食べ、同じベッドで眠り、身体を重ねて熱を交換する。無尽蔵に欲をぶつけ合う自分たちの姿を、まるで動物みたいだなと笑えば、人間なんてもともとそんなに大したものじゃないですよと、やさしい顔に似合わないことを言う。
 それなのにオレを抱くときは、まるでこんなにも大切なものはないとでも言わんばかりに愛情を込めて手を這わせてくるものだから、その矛盾がくすぐったくて仕方がなかった。

 親父と住んでいたアパートを引き払う決意をしたのは、この男と一緒に住み始めてから、ちょうど一カ月が過ぎたころだった。そのうち帰ってくるのではという気持ちが捨てきれずしばらくそのままにしていたが、情勢が尋常ではなく悪い今、家賃も馬鹿にならないため引き払うことに決めた。
 こいつは、今一緒に働いているというかつての研究仲間たちに引っ越しを手伝ってもらおうかと言ったが、研究を捨てた身としてはなんとなく会うのが気まずかったし、自分たちの仲を詮索されるのが嫌でオレが難色を示したものだから、結局ふたりで物を移動させた。オレも随分義肢に慣れ、健常者と変わらないほどには動けるようになっていたけれど、とにかく本が多いせいでかなりの重労働だった。それなのにこいつは、その苦労が酷く嬉しいことだとでもいうように、借り切った馬車にどんどん物を放り込むと、あっという間に荷物を移動させてしまった。あまり金がないと言っていたのに無理して馬車を借り切ったのだろうかと不安になり、金の出所を尋ねると、こいつは屈託のない笑顔で言った。
「エドワードさんがあの男からもらったお金を使ったんです。だから心配しないでください」
 初心なように見えて相当図太い。弟と比べるのは止めたはずなのに、あいつも成長すればこうなってしまうのだろうかと考えると、天使のようだった弟の姿が崩れてゆくようで、オレは頭を抱えた。

 そのようにしてこの家に移り住み、大家の女性に挨拶に行ったときは驚いた。グレイシア、という名前を聞いてもしやと思ったが、想像していたとおりの人物が花屋の軒先から顔を覗かせたときは、胸がいっぱいになってしばらく言葉に詰まってしまった。
 気分でも悪いのか、と心配そうに顔を覗き込んでくるその女性に向け、オレは言った。
「知り合いによく似てて……。ものすごくお世話になった人の大切な家族だったから……また会えたみたいで、嬉しくて」
 それを聞くと、その女性は見覚えのあるやさしい笑みを浮かべ、「あなたがそういうのだから、きっととてもいい人なのね」と言ってくれた。
 しかしそうして話しているうち、ふらりと店へとやって来た警察官がその「すごくお世話になった人」本人であったため、今度は涙をこらえるのに必死だった。自分たちのせいで死に至らしめてしまった人が目の前に存在しているという事実に心を掻き乱され、挨拶もなく俯き続けるオレを見て、その警察官は露骨に困惑の表情を浮かべた。
 そんな風に時折、不可解であろう様子を見せるオレに対しても、この男は動じなかった。そのときもただ、当たり前のようにオレをその警察官に紹介し、会話を繋ぎ、そして震えるオレの手を握ってくれていた。
 こいつがオレの話したことを、どう受け止めているのかはわからなかった。クリスマスの晩以来、オレは錬金術の話をしなかったし、向こうも尋ねてはこなかった。ただしお互いの幼少期の思い出や国特有の文化的な話になるとどうしてもずれが生じ、オレが言葉に窮してしまうことも多かった。そんなときでもこの男は、オレに深く説明を求めたり、はたまた憐れむような表情を向けたりすることなく、ただじっとオレの話を受け止めてくれた。

 しかしいつもそんな様子のこの男が、オレの過去について投げかけてきた質問がひとつだけあった。
「エドワードさんは、どうして男の人のふりをしていたの?」
 それはふたりで買い物に行き通り雨に打たれ、濡れた身体をあたためようと暖炉に薪をくべて暖を取っていたときのことだった。ふたりで一枚の毛布にくるまり、オレの身体を背後から抱き締めるようにしていたこいつは、突然そう尋ねてきた。
「ああ……親父がさ、息子が欲しかったとかで、オレにこの名前を付けたんだ。そのあとあいつは家を出てったけど、長男のお前が家を守れってずっと言われてたから、そのせいかな」
「でも、それは子供のときの話でしょう?いつまでもそれを守り続ける必要なんてなかったのに……」
 そう言われてしまえば確かにそうだ。最初は親父に命じられ、次は上官であったあの男に命じられた。弟とふたりきりの言わば孤児みなしごの状態で、軍という特殊な環境で生きていくには、男でいたほうが面倒ごとが少なかった。しかしこの世界に来てからは、親父もいたし軍人でもなかった。それなのにオレは、当たり前に男として生活することを選んでいた。
「まあ実際僕は、あなたが男性のふりをしてくれていて助かりましたけど」
 オレの肩に顎を乗せると、男はボソリとそうつぶやいた。「なんでだよ」と問い返すと、腰に回された腕の締め付けが強くなる。
「あなたが普通に女性として生活していたら、とっくの昔に他の誰かに取られていただろうから」
「はあ?バカ言うなよ。オレみたいなの相手にする物好き、そういねえよ」
 なんとなく照れくさくなってそう誤魔化すと、男は不満そうに息を吐き、オレの耳にむしゃぶりついた。突然与えられた刺激に飛び上がり、意図せずおかしな声を上げてしまったものだから怒って振り返ると、そこにはいやに悲しげな表情でオレを見つめる顔があった。
「ねえエドワードさん……もういいんじゃないですか」
 なにが、と問うと、オレの頬に自分の頬を合わせてくる。もう髭が生えて当然の年齢なのに、その肌は不思議となめらかで、柔らかい。
「もう女性として生きたって、いいんじゃないですか」
 告げられた言葉にはっとする。そうだ、オレが男のふりをしていたのは、弟の——アルのためだった。アルのために強くありたかったし、あいつが身体を取り戻した暁には、ふたりで一緒に大人になろうと誓い合っていた。あいつと再会できる可能性が潰え、約束まで破ってしまった今、この嘘を吐き続ける必要なんて確かにひとつもない。
「……そうだな」
 胸に答えが落ちると同時に、これまでこの身をがんじがらめにしていた鎖がほどけてゆくような気がした。重しでありながら希望でもあったそれを手放し、心がなんの責も負っていなかった子供のころに戻ってゆく。
「きっと、もういいんだ」

 翌日、男はオレに土産を買って帰ってきた。満面の笑みで渡してきた包み紙を開くと、そこには女物の服が入っていて、嫌な予感が的中したことを嘆いた。
「……着ないぞ」
「ええ、どうして!?」
 オレの一言を受け、まるで絶望したような声を上げる。どうもこうもない。そこに入っていたのは、大きな襟にたっぷりとレースがあしらわれたブラウスで、サイズからしてもデザインからしても、どう考えても子供用だった。一緒に入っているスカートのほうはまだマシで、落ち着いたカナリア色にブラウンのチェックが入ったものだったが、生まれてこのかた履いたことのないスカートというものをいきなり履く勇気はない。
「オレにはこんなもの必要ないし、インフレも酷くなる一方なんだから、無駄な金を使うな。返してこい」
 ぴしゃりと言いつけると、男はこの世の終わりのような顔を向けてきた。——弟と同じ顔でそういう表情をされると、正直かなり心に来る。しばらくの間睨みをきかせて向こうが諦めるのを待ったが、一向にそんな気配がないため、結局オレが折れる羽目になった。こいつがこの顔である限り、オレはきっとこいつの要求を突っぱねることはできないのだろう。そう思うと先が思いやられて、長いため息が出た。

 肌着の上からブラウスをまとい、ほとんど左手だけでノロノロとボタンを閉め終えると、今度はスカートに脚を一本ずつ差し入れる。ウエストのボタンをひとつずつ留め、上からベルトを巻き付け服を着終えると、ブラウスの襟もとへ入り込んでしまった髪を外へと流した。
 今の自分は一体、どう見えるのだろう。毎日のように身体を重ねているのだから今さら別室で着替える必要もなかったが、なんとなく恥ずかしくて自室に来てしまい、そのあとすっかり物置と化しているこの部屋には鏡がないことに気が付いた。もしかしたら自分は今、とても滑稽に見えるんじゃないか。そう思うと不安でもあったが、それならそれであいつも諦めるだろうと、一思いにベッドから立ち上がり部屋を出る。
「おい、アルフォンス。これで満足か?笑いたきゃ笑え」
 中途半端な反応をされれば余計に気まずくなるから、さあ笑えと言わんばかりに胸を張った。しかしそいつは澄み切った湖のような目を見開くと、嫌味なほど長い脚で部屋を簡単に横切り、この身を思いきり抱き締めた。
「ああ……エドワードさん……かわいい……っ」
 そう言う声が泣いているようで、勘弁してくれと胸を押す。けれどそいつは、オレを放すどころか、さらに強い力で締め付けてくる。
「アルフォンス、やめ……っ!苦しい、バカッ!」
 このままでは背骨を折られる。そう思って何度も腕を叩くとそいつはやっと馬鹿力をゆるめる。急いで安全な距離まで離れ顔を見上げると、本当に涙ぐんでいるものだから、背中がうすら寒くなった。
「エドワードさん……かわいい、ほんとうに……。お人形さんみたいだ」
「おい。今のもう一回言ったら、舌を噛んで死んでやるからな」
 こちらは半ば本気でそう言っているのに、そいつは悪霊にでもとり憑かれたように再びこちらへ近づいてくる。薄気味悪さに思わず後ずさったが、やはり簡単に腕の中に抱き込まれてしまう。
「……あなたは素敵だ、ほんとうに」
 先ほどまでとは違う、どこか真剣さを帯びた声でそう言われ、思わず言葉に詰まってしまう。恐る恐る背中に腕を回し抱き締め返すと、そいつは「髪も結わっていいですか」と問うてきた。
「……いいよ」
 頭の中にちらついた鎧姿の弟を掻き消し、オレは答えた。

 オレを鏡台の前に座らせると、そいつはオレの髪を手に取り、感触を味わうように手のひらの上をすべらせた。
「ブラシなんていらないくらいだ。絹糸みたいに綺麗だから」
 よくもまあ歯の浮くような台詞を次から次へと言えるものだとこちらが赤面しているうちに、念のためと言って髪を梳かし終えてしまう。そしてポケットへ手を差し入れると、「もうひとつプレゼントがあるんです」と言って、中から赤いリボンを取り出した。ヴィンテージものだろうか。上品な光沢を放つベルベットでできたそれは、随分と古めかしく見える。
「お前さぁ……本当にいい加減にしろよ。今だとそのリボン一本でもとんでもない値段になるんだから」
「これは買ったんじゃありません。祖母のものです」
 思わぬ言葉に「え」と声を出すと、そいつは鏡越しにほほえんだ。
「祖母の宝物だったんです。祖父のくれた初めてのプレゼントだったとかで。祖父の家は貧しかったからこれが精一杯のプレゼントだったらしく、申し訳なさそうに渡してきたみたいだけど、祖母は祖父が亡くなったあともずっと大切にしていました」
「おい、そんな大切なもの、オレに使おうとすんじゃねえよ。勘弁してくれ」
「いいんです。これが祖母の最期の願いだったので」
 最期、という言葉を聞き思わず振り返ると、男はまだその顔に笑みを浮かべていた。まるでなにかを押し殺そうとするかのような、穏やか過ぎる笑みを。
「祖母は亡くなりました。トランシルヴァニアから帰ってすぐです。かなり前から調子が悪かったみたいなのに、研究の邪魔をしたくないと、僕に伝えないよう家族に言っていたみたいです。最も、そうじゃなくてもあの家族がわざわざ僕に連絡をくれたかどうかは怪しいですが……」
「そんな……」
 こいつがクリスマスに家族のもとへ帰らなかったのはオレのせいだ。亡くなったと聞いた今、奪ってしまった機会がどれだけ貴重なものだったのかを実感し、後悔がせり上がる。
「エドワードさん?クリスマスのこと、自分のせいだと思ってるんじゃないでしょうね。言ったでしょう。あれは僕が決めたことだ。後悔もしてません」
 顔に出ていたのだろうか。それとも単に、こいつがオレの思考回路をすっかり把握してしまったのだろうか。思っていたことを言い当てられ、気まずくなって前を向く。
「それにね、最期の数日間はふたりだけでゆっくりと過ごせました。昔みたいに」
 オレの髪を手で掬いあげて、さも愛おしいというように表面をなでる。髪に感覚器官はないはずなのに、心なしかくすぐったさを覚える。
「星をね……なによりも眩しいお星さまを見つけた、と話しました」
 クリスマスの日、こいつが語った幼少期の話を思い出す。——昔、体調がいい日は、祖母とよく星を見たんですよ。流れ星を数えて、いちばん眩しい星へ手を伸ばして……。
「祖母は、よかったね、と言ってくれました。せっかく見つけたそのお星さまを絶対に大切にしなさいと言って……それからこのリボンをくれたんです。昔祖父が自分にしてくれたように、髪に飾ってあげなさいって。おかしいですよね。そのとき僕はまだ、その星を手に入れてもいなかったのに」
 髪をなで続けていた手を止めると、頭頂部へとくちづけてくる。初めての感触に、頭の奥がじんわりと熱くなる。
「会ってみたかった、と……そう言っていました」

 どんな髪型にしようかと問われ、昔はいつも後ろで三つ編みにしていたのだとこぼすと、そいつは張り切ってオレの髪を編み始めた。しかしあまり慣れていないらしく、三つ編みは真っ直ぐ下に降りるのではなく、途中で曲がってオレの右肩にかかるようになってしまった。サイドに編み下ろしたようなそれは、弟がやってくれていたものとはまったく違い、思わず笑いがこぼれた。
「練習しますよ。これから毎日」
 そう言いながら、男は髪の先端にリボンを結びつけてくる。できました、と言われ改めて鏡を見ると、そこには自身でも戸惑うほどに〈女の子〉の姿をした自分がいた。髪に付けたリボンも、襟元を縁取るレースも、自分にはまるで似合わず滑稽なはずなのに、それを見ているとどこか胸が締め付けられるような感覚があった。
 そういえば、幼馴染の彼女が特別な日によくこんなブラウスを着ていた。かわいい女の子を絵に描いたような存在であった彼女は、そういう服を着ると本当にきらきらと輝いて見えて——眩しかった。あまりにも眩しかったから、あまり真っ直ぐ見ないようにしていた。今ならわかる。きっとオレは、羨ましかったのだ。彼女のかわいらしさも、〈女の子〉でいられることも、彼女の魅力をいちばん近くで感じ、彼女のことが大好きだったからこそ、きっと。
「綺麗だ、とても」
 この姿も、かけられた言葉も、幼い自分が気付かぬままに夢見ていたことなのだとわかってしまうと、オレにはもうそれ以上、否定の言葉を吐くことはできなかった。


 その晩夢に現れた弟は、最後に見た十歳の姿のまま、暗闇の中で泣いていた。
 急いで駆け寄ってやりたいのに、オレたちの間には透明な壁があって、どうしても辿り着くことができない。一体どうしたのだ、オレがいるからもう大丈夫だと言って壁を叩くと、弟は涙をこぼしながらオレを見る。
「ねえさんのせいだ」
 今まで弟から投げかけられたことのない鋭い言葉に、全身が凍り付く。
「ねえさんだけ大人になって、ボクは一生このままだ」
 見れば弟の小さな脚は、鉄のようなものに覆われ動けなくなっている。なんとかしてやりたいのに、オレは手を伸ばすこともできない。それはこの壁のせいではなく、弟から責めを受けるべき心当たりが、いくつもあるから。
「うらぎりもの」
 あどけない声で、抜身の剣のような言葉が振るわれた途端、足元の金属が恐ろしい速さで弟の身体を侵食し始めた。膝から腿、腹から胸へとせり上がり、すぐに顔へと到達する。
「ボクを捨てた、うらぎりもの」
 その言葉を落とすと同時に、弟の全身が金属で覆われ尽くす。動かぬ鉄像と化してもなお、その瞳はオレに怨嗟の念を向け続ける。
 身を割るような絶望に崩れ落ち、弟の名を呼ぼうとしても声すら出なかった。涙も出ないのは、きっと自分にその資格すらないからだと思った。
 そうだ。お前の言うとおりだ。オレはお前を裏切って、ひとりだけ幸せを掴もうとしている。
 この壁を言い訳にして、オレはお前を捨てたのだ。

「エドワードさん、大丈夫……?」
 揺り動かされて目を覚ますと、隣で眠る男が心配そうにオレを見つめていた。眠りに落ちる直前まで肌をすり合わせるようにして愛し合っていたから、上掛けから出た裸の肩は痛いほどに冷えているのに、全身にはぐっしょりと汗をかいていた。
「起こしてごめん。でも、酷くうなされていたから、心配で」
「アルフォンス」
 考える間もなく、目の前の身体に左腕だけで縋り付く。胸が相手の肌で押しつぶされて、その中で脈打つ鼓動の速さが強調される。
「……怖い夢を見たの?かわいそうに」
 やさしい腕が、まるで幼子おさなごをあやすように、この身体を引き寄せて頭の後ろをなでてくる。
「ちがうんだ」
 その手つきも体温も酷くやさしいものだから、余計に夢の中の弟の恨めしそうな瞳が甦ってくる。
「ぜんぶ、オレのせいなんだ」
 そう口にしてしまえば、途方のない罪悪感が全身を包む。弟が身体を失った日から身を浸し続けてきたそれは、この喉を締め付けて窒息させるような苦しさをもたらすと同時に、恐ろしいほど肌に馴染んだ。気付けば、ごめん、という言葉が口から漏れ出していた。ごめん、ごめんと口にすれば口にするほど、あらゆる重圧に押し潰されそうになりながらも、弟への負い目だけでなんとか立ち続けていたあのころへ、気持ちが戻ってゆく。
「もう、いいんですよ……エドワードさん」
 それなのにそいつは、まるでオレがなにに謝っているのかを知っているかのように、オレの頭を胸に抱き込む。
「きっともう、忘れてしまっていいんです」
 ぜんぶ。そう告げる声はやさしくて、目の奥がじりりと熱くなる。以前なら、なにも知らない癖に無責任なことを言うなと腹を立てていたはずなのに、今はそのやさしさで胸に残る悲しいものをすべて洗い流してしまいたくなる。
 姉だから、〈長男〉だから、強くあらねばならないと自分に言い聞かせてきた。
 弟の存在を負担に感じていたわけじゃない。あいつだけが自分の生きる理由だったからこそ、それを守りたくて弱さをかなぐり捨てた。
 軍の大人たちも決して悪い奴らではなかったし、オレたちを守ろうとしてくれていることに感謝もしていたが、芯から心を許すことはできなかった。オレはきっと、いざとなれば自分たちをどうとでもしてしまえる力を持った、周りの大人たちが恐ろしかった。その恐れを悟られないため、常に自らを虚勢で鎧い、世界を睨みつけて生きていた。本当は不安で、泣き出したくて仕方がなかったのに、弱さを垣間見せた途端、すべてが一気に崩壊してしまうと思っていた。
 結局、オレたちはふたりきりだったのだ。本当に信じられるのは弟だけで、大切なのも弟だけだった。その弟を失うということは生きる意味を失うことであり、強さを失うことだった。今のオレは空っぽで、ただ死ぬことのできない身体が、無益な呼吸を繰り返しているだけのようなものだ。
 しかしこの男は、オレがどれだけ弱く情けない姿を見せても、そんなオレを包み込み、愛していると言ってくれる。オレの涙をぬぐって、泣きたいときは好きなだけ泣けばいいのだと言ってくれる。
 はじめてだ、きっと。こんな風に、寄りかかっても大丈夫なのだと思える存在は。

 その体温に身を委ねようとしたとき——窓の外から誰かの怒号が響き、続いて硝子が割れる音がした。
 驚いてふたりで身を起こし窓の外を見ると、仄かな外灯の灯りに照らされた道を走り去っていく数人の男の姿が見えた。そいつらが今しがたたむろしていた斜向かいの家を見ると、窓ガラスが砕け道路に散乱している。
「シュルツさんの靴屋だ。あの人はユダヤ人だから……」
 後ろでつぶやかれた言葉を理解するにつれ、怒りの感情が湧き上がる。「あいつら!」と叫んでベッドから飛び出そうとすると、後ろからその身を押さえつけられる。
「落ち着いてください!あなたが行ってなにができるんですか!」
「でも……こんなの間違ってる!」
 今この国で起こっていることは、どれだけ現実から目を背けようとも耳に入ってくる。先の戦争での敗北、とても払いきれない賠償金、そして始まった物価高騰と生活難。そのすべてを特定の人種の責任と結論付け、排斥しようとする。
「間違ってるのはわかってる!でも義肢もつけないで飛び出していって、あなたができることなんてないでしょう!?あの男たちが戻ってきて、あなたにもっと酷いことをするかもしれない!」
 完膚なきまでの正論をぶつけられてしまい、それ以上なにも言えなくなる。確かに片手片脚の状態は疎か、義肢があったとしても、さすがに錬金術なしで複数の男相手に戦える自信はない。巨漢を相手取っても負ける気がしなかったあのころの自分とはもう違うのだ。
「明日の朝、片づけを手伝いましょう。だからエドワードさん、どうか危ないことはしないでください」
 男は懇願するような声でそうつぶやき、この身を決して離さないと言わんばかりに自らのほうへ引き寄せる。
「ここにいて、ずっと。僕を置いて行かないで」
 どうして今にも泣き出しそうな声で、そんなことを言うのだろう。今のオレには、他に行く場所などひとつもないのに。
 けれど、この国では今、なにかとてつもなく大きなことが起ころうとしている。人々の不満や怨恨を糧にすこしずつ根を張り巡らせているそれが巨悪の花を開かせたとき、オレたちはまだこの幸せの中でまどろんでいられるのだろうか。
 それに——オレが過去を忘れても、過去がオレを忘れてくれるとは限らない。
 たとえ元の世界のすべてを忘れ、ここでひとりの女として生きることを決めたとしても、それが許されるかどうかを決めるのは、自分じゃない。

 背中から伝わる体温が、悲しいほどにあたたかい。
 こんなにも幸せなのに、こんなにもさびしくて仕方がないのは、一体どうしてなのだろう。