第四章

さいごの呪い



 厚い雲に覆われた空に向けて息を吐くと、頭上の灰色にとけるように白く濁り、肌を刺すようなこの寒さが勘違いではないのだと理解した。
 九月も後半に差し掛かった途端、一気に寒さが増した。それでもトランシルヴァニアのほうが寒かったはずなのに、ミュンヘンの冷気が身に堪えるのは、自分が今この身体でふたりぶんの命を預かっているからなのだろうか。
「エド、あまり外に長く出て身体を冷やしては駄目よ。今日はもういいから、上がって部屋で暖まりなさい」
 大家でもあり雇い主でもあるグレイシアさんは、そう言って後ろからオレの両肩をやさしく握りしめる。
「駄目だよ、グレイシアさん。まだ家賃分働いてないし」
「いいのよ、そんなのは。今はあなたの身体のほうが大切なんだから」
 この人はここのところずっとこんな調子で、オレを気遣ってばかりいる。ただ体調が悪くないかと気にしてくれるだけなら「ありがたい」で済ませられるが、悪阻が酷くとても働けるような状態ではなかったとき、オレとアルフォンスが代わりに家賃を満額払おうとしても、決して受け取ろうとしなかったのには困ってしまった。「子供を産むのはお金がかかるでしょう。育てるのだって大変なんだし、赤ちゃんのために貯めておきなさい」というのが言い分だったが、通常時ならまだしも、この尋常ではない物価高騰で皆が食べるものにすら困っているときにそんなことを言っていれば、文字どおり死活問題になりかねない。
 だから安定期に入って身体を動かせるようになると、以前にも増して仕事に精を出すのだと意気込んでいたが、こっちはそのつもりでもあちらはそれを許さず、結局は善意に縋るような形になってしまっていた。

 病院で妊娠していると告げられたとき、隣にいたのもこの人だった。ただの風邪だと主張するオレを説き伏せ、店を閉めてまで病院に連れて行ってくれたのは、以前妹の妊娠が発覚したときとオレの様子がまるで同じだったからだと後から教えてくれた。
 身体の中に別の命が宿っていると知ったオレは、酷く動揺してどんな言葉も紡げなくなってしまった。そのとき感じていたのは落胆でも喜びでもなく、恐怖だったのだと思う。かつて人体錬成で命を弄び、弟の身体を鉄に変えてしまったオレが、新しい命を宿しているのだという事実に、心の底から恐れを感じていた。罪びとであるオレが命を育むなど、誰かの親になるなど、そんなことが許されるはずはないと。
「アルフォンスとよく話し合うの。わかった?あの子は絶対に、あなたの気持ちを軽んじたりはしないから」
 部屋へ戻り、オレをベッドへと寝かしたあと、グレイシアさんはそう言った。オレの頬へあたたかな手を当てて、「大丈夫だから」とほほえむ姿が母さんと重なって、彼女が帰ったあと、ひとりですこしだけ泣いた。母さん。いつもやさしい笑顔を絶やさず、天使のようだった母さん。オレはあんな風に完璧な母親にはなれない。あんな風に、母さんがいればなにも心配いらないのだと、子供にほほえみかけることなどできない。
 しかし——父親であるあいつが帰宅し、妊娠したのだという事実を知り泣き崩れる姿を見た途端、心に別の感情が芽生えた。
 この命を、失いたくない。
 この命に宿るのは、オレの血だけじゃない。愛しくやさしいこの男の血がここに宿っているのなら、恐ろしいからというだけでそれを潰えさせることなどできない。
 たとえ自分が罪びとだとしても、母さんのようにはなれなくても、今この命を守り育むことができるのはこの世でただひとり、自分だけなのだから。

「エドワードさんは……子供を産みたい?」
 ひとしきり泣きじゃくりやっと落ち着きを見せたあと、そいつはポツリと問うた。まるで答えを恐れるように、オレのほうへ視線を向けることもせず。
 なにを考えているのかは、なんとなくわかった。この命が宿ったのは、間違いなくあの晩だ。こいつが帰宅するなり、押さえつけるようにして無理やりオレを抱いたあの晩。あのときのこいつはまるで人が違ったようで、いつも瞳に宿るやさしさは見る影もなく、本当のところを言うと恐ろしかった。これまでこいつよりもずっと屈強な男たちと何度も戦闘してきたが、そのときには感じたことのない恐怖だった。
 きっと、こいつは悔いているのだ。あんな風にオレを抱いたこと。その結果、合意もなくオレの身体に命を宿してしまったことを。
 もしそうならば、今ここではっきりさせておかなければならない。グレイシアさんの言うとおり、こいつは自分よりオレの気持ちを尊重しようとするからこそ、決してお互い後悔しないように。
「お前はどうなんだよ」
 そう問うても、アルフォンスはなんの反応も見せなかった。先ほどからずっと握っているオレの左手に視線を落とし、唇をにじり合わせていた。
「お前は、産んでほしいんじゃないのか」
 より直接的な言葉を投げかけると、青い瞳がわずかに揺らいだ。しかしなにかを言おうと唇を開き、しばらく考えたあと、また閉じてしまった。
「答えろよ。そんな風に泣きじゃくっておいて、オレが産まないって言ったら『そうですか』と納得するのか?オレの気持ちばかり気にしてないで、自分はどうしたいのか言ってみろよ!」
 怒るつもりも責めるつもりもなかったはずなのに、つい声を荒げてしまった自分の短気さに苛立ちを覚えた。しかしアルフォンスは怒号に背中を押されたように赤らんだ瞳をやっと上げると、オレを見据えた。
「……産んでほしい。そんなの決まってる」
 声が震えていて、また泣き出してしまうのだろうかと思った。しかしそいつはそれを堪えるように、鋭い視線をこちらへ据えながら続けた。
「あなたと僕の間に生じた命を、いらないだなんて思うはずない。でも……あんな風にあなたを痛めつけ、合意もなく妊娠までさせた僕に、軽々しく産んでなんて言えるはずない。あなたが同じことを望んでいるとは限らない……から」
 思ったとおりの答えに、いっそ安堵を覚える。そんな風に思う必要はないと告げるため口を開いたとき、そいつは「それに」と言葉を続けた。
「それに……たとえ子供が生まれても、僕が一緒に育てることはできないから」
「は……?なんでだよ」
 思いがけない言葉に戸惑うオレを瞬きもなく見つめながら、そいつは小さく息を吸った。
「僕の肺は、癌に侵されています。医者からは、もってあと一年の命、と言われました」
 ひとかけらの恐怖も宿さない、どこまでも落ち着いた声で、そいつは言った。
「僕は死ぬんです。そう遠くない未来に」
 告げられた言葉がパズルのピースのように頭の中に散らばったあと、すこしずつ形を成してゆく。
 こいつは今、なんと言った。肺、癌、もってあと一年の命、死——。
「うそだ」
 何度も言葉をさらったあと、紡ぎ出せたのはそれだけだった。そいつはまるでオレの反応を予め知っていたとでも言うように、ただ黙ってオレの手を握る指に力を込めた。
「うそだ、そんなの……。馬鹿なこと言うなよ。オレが咳のこと、聞いたとき……お前、喘息だって……街の空気に慣れたら治るからって、言ったじゃねえか……。癌だなんて、そんな冗談……」
 そこでもし感情的な口調で、冗談じゃないとか、信じてほしいなどと言われたら、オレは取り乱してそいつを怒鳴り付けていたかもしれない。
 しかしそいつはどこまでも真剣な瞳でオレを見つめたまま、口だけを無理やり歪めて笑って見せた。諦めたようなその笑みが言葉以上に真実を語り、これは決して嘘でも冗談でもないのだと告げていた。
「そんな……いやだ」
 気付けばオレは、そいつの胸に縋り付いていた。嫌だ嫌だと繰り返しながら、ベージュのジャケットの下の白いシャツを握りしめ、その奥にある肺を確認しようとするかのように、力任せに引っ張った。そんなオレを抱きしめると、そいつは心の底から苦しそうな声で「エドワードさん」とオレを呼んだ。
「僕はあなたのそばにいられない。でも……だからこそ、その命を消してしまいたくない。僕があなたを愛した証であるその命を……」
 そこまで言って、声を詰まらせる。震える手でオレの後頭部をなでて、命を奮い立たせるように息を吐く。
「勝手なことを言ってるのはわかってる!今のこの国で、女手一つで子供を育てるのがどれだけ大変かも……。でも……僕はもう、長くは生きられないから……あなたを置いていかなければならないから……だから……!」
 言葉は涙に変わり、やがて嗚咽に変わる。すべり落ちた涙が、ぽつりぽつりとオレの髪や頬に降りそそぐ。無重力の中で決して離ればなれになるまいとするかのように、オレたちは互いの身体をしっかりと抱きしめていた。互いの体温を全身で感じ、それが近い未来に叶わぬことになるのだと知って、ただ——。
「置いていきたくない……!」
 しゃくりあげながら、愛しい男が叫ぶ。張り裂けた胸から血を吐き出すように。
「あなたといたいんだ!いつまでも、ずっと……!」
 オレはなにも言えなかった。今ここで、行かないでほしいと、置いていかないでほしいと告げることがどれだけ残酷なことか知っているからこそ、なにも言葉を返すことができなかった。


 翌朝、オレたちはふたり揃ってグレイシアさんのもとを訪れ、昨日の礼と、子供を産むと決めたことを告げた。きっと、オレたちふたりの泣き腫らした酷い顔を見て、それが安易な決断ではないとわかってくれたのだろう。ただ一言、「そう」とだけ言って、オレの身体をふんわりと抱き締めてくれた。
 しかし大変だったのは決断そのものではなく、そのあとの体調の悪化だった。仕事をするどころか立っていることすらままならず、食べ物の匂いを嗅ぐだけで戻してしまうオレを、アルフォンスは自分の体調をそっちのけにして看病した。さらに、この酷いインフレのなかでもなんとかオレに栄養を摂らせようと、自分の食事を減らしてまで果物を買ってきてはオレの口に入れさせようとする姿に、胸が痛んで仕方がなかった。
 喧嘩もした。一度目は、咳がどんどん酷くなっているのにまったく仕事を休もうとしないあいつを心配したら、「稼げるうちにすこしでも稼いでおかないと」と言われたとき。稼げるうちに、というのが、命が尽きるまで、という意味だとわかってしまい、明確な終わりが迫っているのだと考えると、どうしようもなく恐ろしくて仕方がなく、動揺して一方的に怒鳴りつけてしまった。しかしこれから子供を産み育てていくとなると金がいることは事実だったし、あいつがそれだけの覚悟を持ってこの決断をしたことを改めて知り、オレは結局、子供のようにあいつの身体に縋り付くことしかできなかった。
 二度目は、あいつがまったく病院へ行っていないとわかったとき。これは大変な口論になった挙句、オレは怒りに任せてあいつに掴みかかった。しかしあいつはまったく動じることなく、「病院へ行っても手の施しようがないと言われるだけだから、お金と時間の無駄だ」と繰り返した。
 納得のいかないオレは、著名な医師たちに片っ端から手紙を書いたが、返事はこぞって「X線を使って診断を受けている上に、その症状ではもう救いようがない」というものだった。それでも諦めきれず、自分のために往診に来てくれている医者に事情を話し、肺癌に詳しい医者を紹介してくれないかと頼んだ。しかしその医者が「ドイツでも随一の先生だ」と挙げた名前があいつの主治医のものであったことに、意識が暗転していくような絶望を覚えた。
 オレたちの未来には、暗雲ばかりが立ち込めていた。物価高騰は留まるところを知らず、すべてが通常時の一兆倍の値段になっていたし、街の治安は悪化し、あちこちのビアホールで共産主義者と極右勢力が乱闘しただの、ユダヤ人の女性が道端で暴行を受けたなどという、気が塞ぐような話ばかりが耳に入ってきた。
 こんな国で子供を生み育てていくことが、時折酷く愚かしい選択に思えた。決して裕福ではなく、自分たちの食べる物にも困っているのに、オレはろくに働けもせず、あいつは——もうすぐいなくなってしまうのだという。たとえどれだけ生活が苦しくても、ふたりならなんとか乗り越えられると信じていられただろうに、まだ見ぬ我が子とふたりであいつのいない世界に取り残されるのだと考えると、足が竦むような恐怖に襲われることがあった。
 それでも、毎晩仕事から帰ってきたあいつがオレを抱きしめ、それからオレの腹に向けて愛おしそうに「ただいま」と語り掛ける姿を見ていると、そんな不安を口に出すことはできなかった。
 この子はオレだけのものじゃない。あいつが生きた証であり、あいつがオレを愛してくれた証なのだ。そう自分に言い聞かせることで、置いて行かないでほしいと泣き縋りたくなる気持ちを、必死に押しとどめた。

 数週間が経つとすこし身体が楽になり、身体を起こしていられるようになったから、仕事へ復帰した。グレイシアさんはオレの身体を気遣ってばかりだったが、店番をしたり雑貨を袋に詰めたりという座ってでもできる仕事もあったから、積極的にそれらの仕事を引き受けた。
 ホルモンバランスが安定してきたからなのか、それともあいつが生きた証を生むのだと腹を括ったからなのか、心も以前より晴れやかだった。夜にはあいつと、この子は男の子だろうか女の子だろうか、どんな名前をつけようかと話し、ふざけた名前を提案しては笑い合ったりもした。
「僕たちの仕事に興味を持ってくれている人たちがいるんだ。パトロンが付けばお給料も上がるから、今より生活が楽になりますよ!」
 九月も半分が過ぎ、今年初めて街が曇りがかるほどに冷えた晩、仕事から帰ってきたアルフォンスは嬉しそうにそう告げた。夢のような話にオレも驚き、ふたりで抱き合って喜んだ。かつてオレたちがトランシルヴァニアで師事していた男が、ついに博士論文を受理され本を出版してから、世間も宇宙に関心を持ち始めていた。以前は夢物語と笑われていた宇宙進出が、まっとうな研究として認められ始めているようだった。
「そのパトロンってどんな奴らなんだ?」
「詳しくは教えてもらってないんですけど、戦争で負けたこの国をもう一度奮い立たせるために尽力しているんだそうです。僕らのロケットでドイツに希望を与えられるなら、嬉しいな」
 ここのところ随分と痩せてしまい頬がこけてしまっていたが、そう言って笑えばまだほんの少年のようで、この命がもうすぐ潰えようとしているだなんて、信じられない気分だった。

 無事にパトロンが付き、彼らに依頼されたプロジェクトが始まると、アルフォンスの仕事は一気に忙しくなった。仕事場に泊まらなければならないことも多くなり、そういう晩は必ず家に電話がかかって来て、今日は帰れないけれど心配しないでほしい、愛している、と告げられた。いちいちそんな小っ恥ずかしい電話をかけてこなくていいとは言ったが、残された時間が少ないとわかっているからこそ、内心はすこしでも声が聞けることが嬉しかった。


「ごめん、エドワードさん。やっぱり今からすこしだけでも仕事に行ってくるよ」
 十月に入ってすぐ、朝から咳が酷くて半ば無理やり仕事を休ませた日のことだった。結局十五時過ぎになって身支度を整え地階へと降りてきたアルフォンスは、花屋の軒先にいたオレの顔を見るなりそう言った。
「そんな……今日はもうこのまま休めないのか?」
「ゆっくり寝かせてもらって、咳も落ち着いたから大丈夫だよ。今日は夜にパトロンと大切な打ち合わせもあるから、それだけでもどうしても行きたいんだ」
 そう言いながらも、顔は火照っていて熱もあるような気がする。無理やり二階に連れ戻そうと思ったが、今までの付き合いからそいつが相当な頑固者であることを知っているオレは、諦めの意味を込めてため息をついた。
「無理だけはすんなよ。気分が悪くなったら、ちゃんと休んで……」
 言っても無駄だろうと知りながらそう声を掛けると、そいつは「ありがとう!いってきます!」と足早に去っていった。
 それから一時間ほどすると、グレイシアさんが「今日はもう上がって」と声を掛けてきた。まだ働けると主張したが、客足も少ないし、もし必要だったら呼ぶからと言いくるめられてしまい、しぶしぶ厚意を受け取ることにした。最近は階段を上がるときも心なしか身体が重く、そのぶん腹の中の命が育っているのかと思うと辛さより嬉しさが勝ち、そう思えるようになった自分にも安堵した。
 ダイニングの椅子に腰を下ろし、ふう、とため息をついたとき、床になにかが落ちているのが目に入った。覗き込んでみると、それは筒状に丸められた図面だった。恐らく昨晩あいつが遅くまで作業していたものだろう。さっきはかなり急いでいたから、鞄に入れたつもりのものがこぼれ落ちてしまったのだろうか。
「あのバカ」
 そう口にはしてみたが、いつもしっかりしていて世話を焼かせようとしないあいつが、こうして抜けたところを見せるのはなんだかかわいく思えてしまう。遅くまで取り組んでいたということは、今晩の打ち合わせにこの図面が必要なのだろう。家を出たのが一時間ほど前だから、ちょうど仕事場に着いたころだろうか。あいつが忘れ物に気付いてこちらに戻ってくるより、オレが届けたほうが早い。
 工場へ電話すると知らない奴が出たので、自分はアルフォンス・ハイデリヒの身内であり、忘れた図面を届けに行くから入れ違いにならないようあいつに伝えてほしいと告げた。昔の研究仲間に会うとなると女の格好をしていくのは恥ずかしく思えたが、以前のような恰好をするとベルトで腹を締め付けなければならないから、仕方がないとワンピースのままコートだけ羽織って出かけることにした。
「ごめん、グレイシアさん!アルフォンスの奴が忘れ物したから届けてくるよ」
 地階へ降りグレイシアさんにそう声を掛けると、彼女は「あらあ」と声を発した。
「ひとりで大丈夫?アルフォンスに電話して取りに戻ってもらったほうが……」
「今夜の打ち合わせに要るものらしいからさ、早く届けてやりたいんだ。それに、最近調子がいいってこの間先生に言ったら、それなら散歩でもして体力つけろって言われてさ。通りでトラムも拾うし、大丈夫だよ」
「そうなの?ならいいけど……くれぐれも気を付けてね」
 どこか不安げに見送るグレイシアさんに手を振り返し、大通りへ向けて歩き出す。夏の間は夜になっても九時過ぎまでは陽が出ていたのに、十月ともなれば五時くらいには暗くなってしまう。空を見上げると陽はすでに力を失いつつあり、もたもたしていればすぐに暗くなってしまいそうだった。
 二十分ほど歩いたところにある大通りでトラムに乗ろうと、住宅に取り囲まれた広場を抜けた。やはり以前より歩くときのバランスが取りづらく、久しぶりに杖を持ってきてよかったと思った。最初にアルフォンスと会ったときは、新しい義肢を着け始めてからリハビリもろくにしなかったせいで上手く歩けず、その上変な意地を張って散々迷惑をかけたことを思い出す。あのときはまさか、自分があいつの子を宿すことになるだなんて、思いもしなかった。なんとも言えない気持ちでひとり苦笑いを浮かべながら、先の大戦で破壊され廃墟になっている一画に足を踏み入れたオレは、通り過ぎようとした路地に複数の人間の姿を認めた。
「やめてください!娘だけは、どうか!」
「うるせぇな。なんで俺たちが、てめぇらみたいな泥棒の言うこと聞いてやんねえといけねんだよ」
 その一群を目にした途端、そこで行われているのがなになのかを理解し、凍り付いたように足が止まった。
 そこにいたのは比較的若い三人の男たちだった。二人は上着のポケットに手を入れ、猫背のまま野卑な笑顔を浮かべているだけだが、あとの一人は手に刃の大きなナイフを持っている。三人が取り囲んでいるのは、腰を抜かしたように地面へ坐り込む女性と、その腕にしっかりと抱かれた十歳くらいの女の子。二人の肌は浅黒く、身にまとっている民族服からしても、世の中でジプシーと呼ばれている人種であることは間違いなかった。
「私たちはなにも盗ってません!ただ旅をしているだけで……」
「うるせえな。よその国に入り込んでは、好き勝手してるくせによ」
「これでさ、お前と娘の皮、剥いでやるよ。それからお前の仲間への見せしめに、水飲み場にでもぶらさげてやろうか」
 男の一人が吐いた残酷な言葉を聞き、後の二人がこんなにも愉快なことはないといった様子で笑う。しかしそれは冗談ではないらしく、ナイフを握った男の腕がゆっくりと持ち上がる。
 ドクリ、と胸の中で大きく脈打った心臓が、段々と速さを増してゆく。止めなければならない。その思いだけで一歩踏み出そうとしたとき、自分の腹の中に宿る命のことを思い出す。今の自分は、男三人を相手取って勝つことなどできない。下手に首を突っ込んで危険を呼び寄せ、もしもこの子になにかあったら。あいつの生きた証であるこの子を危険に晒すことなど、オレには。
「やだぁっ!ママぁ!」
 子供の悲痛な声で我に返ると、母親である女性が黒い髪を掴まれ、ぶら下げられたような状態で痛みに顔を歪めていた。その隣で、男がナイフを振りかざし、今にも振り下ろそうとしている。
 ああ、こんなこと、オレは——……。
「おい、やめろっ!」
 考えるよりも先にそう叫び、地面に落ちていた瓦礫の破片を掴むと、ナイフを持ち上げる男に向けて投げつける。瓦礫は男の腕に命中し、ナイフが地面に落ちて何度か跳ねる。——やってしまった。全身から冷たい汗が吹き出し、鼓動はいよいよ速まってゆく。突然の攻撃が放たれた場所を探す男たちは、三人同時にオレに目を留める。すでに暗くなり始めた路地に佇む三組の瞳が、ぎらりと邪悪な光を放つ。
「逃げろっ!走れ、走るんだ!」
 男から髪を解放され、地面に這いつくばる女性に向けてそう叫ぶと、自分も男たちに背を向けて走り出す。息が苦しい。もとの世界で戦いに明け暮れていたときは感じたことのない身体の重さに歯を食いしばりながら、もつれそうになる足を必死に踏み出す。その瞬間、背後から迫って来た腕に髪を掴まれ、後ろへぐいと引っ張られる。
 仰け反るようにして倒れゆくなか、翳り始めた灰色の空を見て、思った。

 ああ、オレはまた、まちがえた。