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「自分の生きた証ってなんなんでしょうね」
 どれくらい前のことだっただろうか。身体をあたためようとふたりでお風呂に入ったあと、ベッドに腰かけた愛しいひとのお腹に耳を当てながらそう問うたのは。
「前はね、宇宙に行けるようなロケットを作れたら、自分の人生には価値があったと言えるんじゃないかなって思ってたんです。でも最近は、人生ってそういうものじゃないんじゃないかあなって」
「なんだよ。まだ若いくせに、ジジイみたいに悟ったこと言ってんじゃねえよ」
 愛しいひとは茶化すようにそう返したが、顔は笑っていなかった。きっと、人生を総括しようとするような僕の言葉に不穏なものを感じたのだろう。素直じゃない癖にわかりやすい。これ以上不安にさせるのはかわいそうだとも思ったが、なんだか甘えてしまいたい気分だった僕は、その先の言葉を急いだ。
「人生って、結局誰と出会い、共に時を過ごせるかが重要なんじゃないかな。そう考えると、あなたに出会えた僕の人生は誇るべきものだし、あなたと過ごせた証としてこの子が生まれてくれるなら、それ以上の幸せはないなって思うんです」
 そう言ってまだ平らなままのお腹をなでていると、喉からいくつか咳が出た。愛しいひとはほとんど反射的に僕の手を握りしめる。不安が滲んだその手を握り返し、心配いらないと力を込めても、その顔から翳りは消えない。
「エドワードさん」
 金色の瞳に薄く涙の膜が張っている。膝立ちになって額を合わせても、昔のように照れて顔を背けようとはしない。
「たまにはこの子に、僕のことを話してくれますか?」
 僕の言葉を聞くと、そのひとは消え入りそうな声で「馬鹿」とつぶやき、僕の身体にしがみついた。

 トラムの窓越しに灰色の空を眺めながら、気付けばぼんやりとあの日のことを思い出していた。あの日、僕に縋り付いてきた小さな身体は細かい震えを繰り返していた。今朝ひっきりなしに咳をしていた僕に「今日は仕事を休んでくれ」と懇願するように抱きついてきたあのひとの感触がそのときのものによく似ていたから、なんとなく思い出してしまった。
 無理して仕事を続けているせいで、不安な思いをさせているのは知っている。けれど、もう未来のない僕があのひととあの子にしてあげられることなど、できる限りのお金を残すことくらいしかない。簡単に諦めすぎだと怒られたこともあったが、この身体が段々と使い物にならなくなっているのは、持ち主である僕がいちばんわかっている。それならば、感傷よりも現実を優先すべきだ。あのひとも科学者なのだから合理的に考えればわかるだろうに、感情が追い付かないというのは、それだけ僕のことを想ってくれているからだと驕っていいのだろうか。
 トラムを降りて五分ほど歩き仕事場に着くと、仲間たちが僕に幽霊でも見たような表情を向けた。
「おいアルフォンス!お前なんでここにいる!?」
「体調がよくなったから出てきたんだ。今日は夜に打ち合わせもあるし……」
「そんなのは俺たちでなんとかする!お前が無理することなんてないのに!」
 大丈夫だと繰り返そうとした途端また咳が出て、仲間たちの疑いの表情が強くなる。せめて役に立つことを証明しようと、昨晩仕上げた図面を取り出すべく鞄を漁る。
「……あれ?」
 図面がない。製図台から外してリビングへ持っていったのはハッキリと覚えているけれど、それを鞄に入れた記憶がない。もしかして机の上に忘れてきてしまったのだろうか。なんということだろう。僕はいよいよ使い物にならなくなってきているのだろうか。
「ハイデリヒさん、お電話がありましたよ」
 そのとき、工場の作業員のひとりが、油で汚れた頬を拭いながらこちらへ近づいてきて言った。
「電話?僕にですか?」
「はい。奥様が、忘れた図面を届けに行くから入れ違いにならないように待っていてほしいと」
 奥様、という響きと、あのひとがひとりでここまで来ようとしているという事実のふたつに眩暈を覚え、思わずテーブルに手を付く。妻ではないですと否定することもできない僕に追い打ちをかけるように、仲間たちが「奥様って、エドワードのことか?」「お前らもう結婚してたっけ?」と口々に話しかけてくる。それを振り切るように電話がある事務所へと走り、すぐさま家へ電話を掛けたが、すでに出掛けてしまったようで誰も応答しない。
「ああもう……」
 あのひとのせっかちさと自分のどん臭さにまた立ち眩みを覚え、地面へとしゃがみ込む。あの図面は、咳の音であのひとの睡眠を邪魔しないようにと別室に移ったついでに作業していただけで、今日絶対に必要な物じゃない。きっと眠ったふりをしながら昨晩の作業の様子を見ていたあのひとは、僕が今日の打ち合わせに必要な物を忘れたと勘違いして焦ったのだろう。
 妊娠が発覚して以来、あのひとが独りで外出するのは初めてだ。よっぽどのことはないだろうが、心配するなと言うほうが無理がある。
「おいハイデリヒ、大丈夫か?」
 僕を心配して追いかけてきたロアから声を掛けられ、自分がどれだけ情けない姿で座り込んでいたかを自覚し、急いで立ち上がる。
「エドワードが来るんだろう?久しぶりだな。挨拶していいか?」
「ああ……えっと、そうなんだけど……心配で」
「なんでだ?あいつはもう、義足でも問題なく歩けるようになったんだろ?お前言ってたじゃないか」
「問題はそこじゃないんだ。あのひとは……」
 妊娠している、と言いかけて口を噤む。言っても別に問題があるわけじゃないが、なんとなく憚られて「体調があまりよくないんだ」と誤魔化すと、とりあえず仕事に戻ることを決意した。

 一時間、一時間半、そして二時間が過ぎても、あのひとが姿を現すことはなかった。道にでも迷ったのだろうかと案じながら仕事を続けていると、先ほどの作業員が「ハイデリヒさん、お電話です」とまた声を掛けてきた。
「先ほどとは違う女性の方から」
 妙に棘のある言い方に顔をしかめながら受話器を受け取った。あのひとではないなら一体誰だろうと思い受話器を耳に当てると、「アルフォンス!」と言う女性の声が耳に飛び込んできた。
「……グレイシアさん?」
「大変なの!エドが……。エドが!」


 病院へ辿り着くまでの間、どのように呼吸を保っていたのかは覚えていない。
 潰れそうな肺をなんとかこじ開けて、喉を突き破るような咳を押し出して、必死に地面を蹴った。熱もあったはずなのに、周囲の風景が歪むのがそれのせいなのか、別の理由なのかもわからなかった。
 病院へ着くと、院内を歩いていた看護婦さんに、電話口で聞いた病室を告げ場所を教えてもらう。「走らないでください!」という声を背に階段を駆け上がると、目的の部屋の扉を思い切り開いた。
「エドワードさんっ!」
 白い壁に白いカーテン。その部屋には、たったひとつのベッドしか置かれていなかった。
 そこに横たわる小さな身体。掛布の上に置かれた細い左腕にはギプスが巻かれ、上から覗く顔は目を閉じている。左頬全体を覆うのは白いガーゼ。右の額にも貼られたそれからは、赤黒く変色した肌が覗いている。
「……っ」
——エドが襲われたの。
 電話口のグレイシアさんは、震える声でそう告げた。
——あの子、あなたに図面を届けるって言って出かけて行ったの。そしたらそれから一時間くらいしてヒューズさんがうちにやって来て、あの子が極右の若者たちに襲われたって。あの子、どうやらジプシーの親子を助けようとしたみたいなの。その代わりに殴られて、それから……お腹を強く蹴られたみたいで、ヒューズさんが見つけて止めに入ったときは、もう辺り一面に、血が……。
「アル……フォンス……?」
 名を呼ばれて我に返ると、ベッドの中のそのひとがうっすらと目を開け、僕のほうを見つめていた。瞼が上手く開かないのか、いつもは猫のようにパッチリと開いている目が酷く重たげで、その痛々しさに胸が締まる。
「アル、フォンス……ごめん、オレ……」
 金色の瞳に盛り上がっていく涙は、すぐさまこめかみへとこぼれ落ちてゆく。次から次へと溢れ出すそれは、僕の儚い願いが甘えた幻想に過ぎなかったことを残酷なまでに証明していく。僕は、祈っていたのだ。このひとも、あの子も、きっと守ってくださいと、愛する祖母が信じた神に。でも——……。
「ごめん、アルフォンス……!オレが、馬鹿なせいで……あの子が……!」
 聞きたくない。
 その先を聞いたら、僕は簡単に言えなくなってしまう。あなただけでも無事でよかったと。あなたが生きていてくれるなら、それだけで僕は十分だと。
「こんな……!オレ、なんて馬鹿なこと……!」
 義手を外されているせいで、ギプスの巻かれた左腕でなんとか起き上がろうとするそのひとの姿を見て我に返り、慌ててベッドへと押し返す。その間も、そのひとはとり憑かれたように繰り返す。ごめん、ごめん、ごめんなさい。
 僕まで泣いてはいけない。僕が泣けば、やさしいこのひとの胸により深い罪の意識を植え付けてしまうから。泣いている暇があるなら、あなたは悪くないと、あなたは人を助けたのだからと、そう伝えるべきだ。
 そうわかっているのに、溢れ出す涙を押しとどめることはできず、頬が濡れて肌が引きつっていく。
「ごめん!ごめんなさい、アルフォンス……っ!!」

 子供のころは確かに信じていた神に向け、乞う。
 連れ去らないで。僕の愛しいものを。
 僕はもう、この命ならくれてやると覚悟を決めたじゃないか。愛しいひとを置いて旅立たなければならない僕から、どうしてこれ以上、大切なものを奪おうとする。



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