第五章
証
ボクには、姉さんと過ごした四年間分の記憶がない。
あの日、見知らぬ廃墟で目を覚ましたボクのそばに姉さんはいなかった。ボクを見つけ、地上へと連れ出してくれたロゼという女の人は、ボクを見て涙を流しながら言った。
「エドは本当に、あなたのことを愛していたのね。だから、こんなこと……」
病院へと駆けつけた幼馴染は、ボクの知っている彼女とは違っていて、そのあとボクの病室へとやって来たのも、みんなボクの知らない人ばかりだった。
「あの子が……君の姉君が、自らを犠牲にしてまで望んだ命だ。大切にしたまえ」
ボクと姉さんの後見人を務めていたという眼帯の男は、そう言って早々に去っていった。まるでボクの姿そのものが、悲劇の名残だとでもいうように。
幼馴染のウィンリィが見せてくれた写真の中で、姉さんは長い髪を三つ編みにし、赤いコートをまとい、男の子のような黒い服を着ていた。ボクの知らない姉さん。その顔つきは、ボクが知る姉さんよりもずっと女らしく、その晩ボクはもらった写真を見て、自分でも訳がわからないまま初めて自らを慰めた。
姉さんは綺麗だった。たとえ男の子のような恰好をしていても、身体がそれほど大きくなくても、ボクが知る姉さんとは違い、大人の女のひとのようだった。そう思ったとき、ボクの胸にいつか母さんがつぶやいた言葉が甦ってきた。——エドワード、あなたは一体、どんな人と恋に落ちるのかしら。
姉さんは誰かのことを愛したのだろうか。ボクの消えてしまった記憶の中で、誰かと恋に落ち、愛をささやき、あのしなやかだった身体を預けたりもしたのだろうか。
そう考え、ボクは燃えるような嫉妬に襲われた。この四年間で姉さんと関わったすべての人に、そして、写真の中で鎧の姿をしている、ボク自身にでさえ。
姉さんにまた会いたいと、かつての師匠のもとで修業を始めて一年ほどが経ったころから、おかしな夢を見るようになった。
夢の中でボクは姉さんと一緒に、宇宙へ行く機械を作ろうとしていた。姉さんは昔よりずっと大人びた顔つきで、どこかぎこちなくボクの名を呼んだ。
姉さんは決して、ボクのことを「アル」とは呼んでくれなかった。どれだけ親し気に話しかけてきても、この身体にふれても、他人行儀に「アルフォンス」と呼んできた。
夢の中のボクはそれを不満に感じていたが、ボク自身は嬉しく思っていた。姉さんが話しかける〈アルフォンス〉でありながらボク自身でもあったボクは、姉さんが「アル」という呼称を宝物のように秘めていることに、優越感のようなものを覚えていた。
しかし姉さんは、それからその〈アルフォンス〉の手を取り、身体を委ね、愛を交わすようになった。とろけるような顔で〈アルフォンス〉を呼び、唇を重ね、ボクにも見せたこともない部分にふれることを許した。
夢から覚めるたびボクは、勃ち上がった自分のものを慰めながら涙を流した。そしてつぶやいた。姉さん。どうか、誰のものにもならないで。ボクがあなたを愛しているから。世界中の誰よりも、あなたのことを愛しているから。
師匠の病状が悪化し、もう教えられることはないからと修行の終わりを告げられ、ボクは姉さんを探す旅に出た。姉さんに会ったときに見つけてもらえるようにと、写真の中で姉さんがしていたように髪を結び、赤いコートと黒い服を身にまとった。その姿を見て、師匠はとても悲しい顔をしたけれど、ボクは知らないふりをした。
姉さんとボクはとても有名だったようで、名前を出せばみんな知っていると言った。けれど姉さんの行く先を知っている人はおらず、ボクの旅は雲を掴むように無謀なものにも思えた。
ウィンリィは言った。きっと、もういいのだと。姉さんは自分を見つけてもらうより、ボクが自分の人生を送ることを望むだろうと。
けれどボクは姉さんを諦めきれなかった。姉さんにもう一度会って、その肌にふれ、そして言いたかった。ボクはあなたを愛していると。誰よりも、この世界でいちばん、ボクこそがあなたを愛しているのだと。
そしてある晩、夢に現れたボクそっくりの男は言った。
「アルフォンスくん。君の力を借りたい」
ボクはそれが誰か知っていた。向こうの世界のボク。姉さんと暮らし、姉さんの心を奪い、あの美しい身体を蹂躙した——……。
その男は、姉さんをもとの世界に戻す計画を説明した。それは思いもよらない話だったけれど、父さんが関わっていることと、なによりその男がどこまでも真剣であることが、ボクにその話が真実だと信じさせた。
その男が憎くないと言えば嘘になる。ボクから姉さんを奪い、身体まで蝕んだ男。しかしボクはそれ以上に、姉さんに会いたかった。
「あのひとを……お姉さんを、君に返すよ」
だからボクはその言葉にうなずいた。憎しみはあれど、彼が姉さんを愛する気持ちは、信じることができるように思えたから。
父さんは伝言で、ボクにこちらからも門を開くようにと指示した。けれどボクには具体的な方法がわからず、途方に暮れていた。
そんなボクの事情を知っているかのように、ひとりのホムンクルスが声を掛けてきた。ボクらと因縁があったというそのホムンクルスは、ボクの話を聞き、自分を代価に門を錬成するようにと言った。躊躇うボクに向け、彼は続けた。自分はもう生きていることに疲れたのだと。母親のもとへ帰りたいのだと。
家族に会いたい気持ちは、痛いほどわかる。だからボクは、彼の提案を受け入れた。そして父さんが指示したその日、彼を代価に門を開けた。姉さんが命がけでボクを取り戻してくれたという、あの場所で。
見たこともない機械に乗って戻ってきた姉さんは、ボクが見間違うほどに大人になっていて、女性の服を身にまとい、髪には赤いリボンを巻いていた。
本当は抱きついて泣き出したいのをこらえながら、落下の衝撃で意識を失った身体を引きずり地下都市を出ると、ウィンリィとかつての後見人のマスタングさんへ電話をかけた。——姉さんが戻ってきた、と。
マスタングさんがすぐに手配してくれたセントラルの病院へ運び込まれてからも、姉さんはなかなか目を覚まさなかった。痩せ細り、ギプスを巻かれた腕に点滴を打たれた姉さんはまるで知らないひとのようで、ボクの胸にはただ不安だけが膨れ上がった。もしもこのまま目を覚まさなかったらどうしよう。もし目覚めても、ボクのように記憶を失っていたら——……。
まるで夢から覚めるのを拒むように何日も眠りつづけていた姉さんは、ある晴れた日に目を開いた。
陽射しが心地よく、ベッドの横でうつらうつらとしていたボクは、握りしめた手がかすかに動いたのを感じ、椅子から飛び上がった。姉さんはぼんやりと薄眼を開けて、昔と同じ透き通るような金色の瞳でボクを見た。
「姉さん……?姉さん!?姉さんッ!!」
「アル、どうしたの!?エドが、まさか……!」
花瓶を持ってちょうど病室へ入ってきたウィンリィが、ボクの叫びを聞いて駆け寄ってきた。ついに目を覚ましてくれた。姉さん、誰よりも愛しいボクの姉さん——……。
「アル……フォンス……?」
ほとんど吐息のようだけれど、発せられた声が嬉しくて、目から涙があふれだす。その声が聞きたかった。ボクはずっと、あなたに会いたくてたまらなかった。
「そうだよ、姉さん。ボクだよ、アルフォンスだよ……!」
骨ばった手を取り、ボク自身の頬へと当てる。ボクはここにいるのだと。あなたのアルフォンスは、ここに——……。
「ちがう」
ふと、紡がれた言葉に、え、と声が漏れる。姉さんはボクを見て、苦しそうに顔を歪めると、その瞳から涙をあふれさせる。
「おまえは……アルフォンスじゃ、ない」
姉さんの呼吸は荒くなる。目から次々と涙がこぼれ落ち、こめかみへと滑り落ちてゆく。
「ちがう……!ちがうっ!あいつは……アルフォンスは……ッ!」
「エド……?エド!どうしたの!?」
呆気に取られるボクを押しのけるようにして、ウィンリィが姉さんの頬へ手を当てる。姉さんは呼吸を詰まらせ、ぜいぜいと胸を上下させ、そして繰り返す。ちがう、ちがう、あいつは、もう……。
「アル!看護婦さん呼んで!早くっ!」
ウィンリィの圧に押されうなずくと、這うようにして部屋を出て看護婦の詰め所へと走る。逸る胸の中で、問いを繰り返す。どうして、姉さん、どうして——……。
姉さんはその日、鎮静剤を打って寝かされるまで泣きつづけた。君は外に出ていなさいと病室から追い出されたボクは、病院の廊下で膝を抱え、姉さんの泣き叫ぶ声と荒い呼吸を聞いていた。そして、胸の中で問うた。姉さん、一体どうしてしまったの。ボクがここにいるのに。あなたのアルフォンスは、ここにいるのに。
その晩、宿でボクは夢を見た。あの日ボクに語りかけてきた、もうひとりの〈ボク〉。以前よりずっと不鮮明だったけれど、彼はボクを見て不気味なほど穏やかに笑うと、霧となって消えていった。
目を覚ましたボクは、酷い頭痛を覚え、頭を抱えた。つんざくようなそれとともに次々と脳裏に流れ込んできたのは、覚えのない記憶たちだった。姉さんが手脚を失い、血を流している姿。ベッドに寝かされ、機械鎧の手術を受けている姿。そして、真紅のコートをまとい、旅をしている姿。ああそうだ。ボクたちはああして、旅をしていたんだ。失ったものすべてを、取り戻すために。
そして、思い出した。ボクらが互いの身体を求めた記憶。金属の身体で交わした約束。そして——姉さんがそれを破り、ひとり大人になったのだということも、すべて。
一週間ほど、泣いては鎮静剤で眠らされを繰り返した姉さんは、やっと取り乱して叫ぶのを止めたが、まるで廃人のようにベッドに横たわっていた。ウィンリィと同じく毎日お見舞いに来るマスタングさんは、一転して人形のように無表情になった姉さんを見て顔を曇らせ、言った。きっとこれは、精神的な問題だろう。門を通り抜けたショックかもしれない。脈拍も血圧も安定しているし、これ以上病院へ置いておいても仕方がない。定期的な通院が必要だからしばらくは故郷には帰してやれないが、近くにアパートを借りてあげるから、そこに住むといい。
その言葉に甘えることにしたボクは、仕事のために去らなければいけないウィンリィに大丈夫だと告げて、姉さんとアパートでふたり、暮らし始めた。
最初は話しかけても反応せず、眠ったと思うと叫んで飛び起きていた姉さんも、一カ月ほどが経つとすこしずつ回復を見せ、食事も少量なら摂れるようになった。
「ア、ル……?」
そしてついに、ボクのほうへ視線を向けた。弱々しくも、ボクのよく知る金色の瞳を。
「……そうだよ、姉さん。アルだよ。あなたの弟だよ」
そう言いながら、たまらなくなってベッドの上の姉さんの身体を抱きしめると、姉さんはギプスの取れた左腕で、ボクの背中を撫でた。
「アル……ごめん。ごめん……」
その謝罪が、具体的になにを指しているのかはわからなかった。勝手に自らを犠牲にしたこと。そのせいで別の世界に囚われ、離ればなれになっていたこと。そして、ボクではない、もうひとりの〈アルフォンス〉を愛し、約束を破ったこと。
「ごめん……。赦してくれ、アル……!」
涙を流して赦しを乞う姉さんの身体を、ボクは精一杯に抱き締めた。以前より成長しているのに、頼りなく痩せ細った身体を。そして、震える唇にくちづけた。姉さん。ボクはずっと、こうしたかった。あなたの唇を味わい、そして——。
「姉さん……!姉さんっ!」
その日ボクは姉さんを抱いた。首へくちづけ、胸を暴き、深くあたたかい場所へと欲望を突き立てた。
姉さんはすこしも抵抗しなかった。けれど同時に、幸せそうでもなかった。
肌を重ね合わせることはボクらが旅の間ずっと望んでいたことだったはずなのに、罰に耐えるように左手でボクの背に縋りつき、壊れた人形みたいに繰り返した。ごめん、アル。ごめん、アルフォンス——……。
それからもボクらは何度も身体を重ね、やがて姉さんは泣かなくなった。
代わりにいつでもぼんやりとし、ボクが求めれば決して拒みはせず、身体を預けてくれた。ふれれば肌に熱が灯り、愛していると言えば愛していると返してくれる。あまりにも従順で、昔あれだけ強がってばかりだったのが嘘のようだった。
姉さんが帰ってきて、記憶を取り戻して、肌がふれあって、体温を感じて。姉さんの手脚を除けば、欲しかったものはひとつ残らずここにある。それなのに——……。
「姉さん」
指を結び合いながらくちづけを落とし、口の中で舌を絡ませ合う。ひとしきり感触を味わったあと唇を離すと、そのひとはボクを見てほほえんでくれる。
けれど、その瞳に感情はない。かつては怒ったり笑ったりと忙しかった、ボクの知る姉さんはそこにいない。このひとがこうなったのは、大人になったからじゃない。このひとは——空っぽなのだ。あの日、こちらの世界へ帰って来た日から、ずっと。
「ねえさん」
——ボクを見て。
ボクを、あなたを誰よりも愛する弟を、どうかその瞳の中に。
その願いを打ち砕くように、姉さんは魂を欠いたような瞳を細めて、笑う。
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