彼女が属するグループ初のアリーナ公演は、首都の駅にも広告が貼られるほど大々的に宣伝された。ファンクラブに入っている僕は、会員限定の最速抽選で無事にチケットを入手できたが、中には会員であるにもかかわらず抽選に漏れている人や、一般発売でチケットを入手できず、譲渡の機会を探す人の姿がSNSで多数見受けられた。それほど話題だったものだから、公演日の一か月ほど前にはソールドアウトとなり、メンバーたちが感謝と喜びを伝える動画が特別に投稿された。
 リハーサルが忙しいらしく、あれ以来彼女からの連絡はなかった。僕も大学で開催されるカンファレンスと、そこで行われる教授の発表の手伝いで時間が取れず、小規模のイベントには参加できなかったため、気付けば彼女と最後に言葉を交わしてから三か月ほどが経過していた。
 彼女自身はSNSをしていないので、スタッフがグループのアカウントに写真を投稿するたび、拡大して目的の姿を眺めた。リハーサル中の彼女は、髪を後頭部の高い位置で一つにまとめ、メンバーカラーの赤のTシャツを身に着けながら、カメラに向かって元気よくピースし、悪戯っぽく笑っていた。そこには、あの日漏らしたグループでの疎外感や、アイドルでいることへの葛藤など微塵も写っておらず、ただ全身全霊でアイドルを楽しむひとりの女の子にしか見えなかった。

 コンサート当日は快晴ではなかったが、当初の雨の予想が外れ曇りになったため、物販や入場のために外で並ばなければならない僕たちファンにはありがたかった。
 いつもどおり、彼女の名前が入ったタオルやランダムで封入されている生写真を数パック買うと、開場時間まで近くのカフェで時間を潰した。SNSを見ると、スタッフが更新したであろう動画がポストされており、メンバーたちがじゃれあいながら、コンサートへの意気込みと、ファンに会えることへの喜びを語っていた。彼女はその真ん中におり、メンバーカラーが黄色の子に後ろから抱きつかれ、その手を握り返してはいたが、ほほえむばかりで特に言葉を発してはいなかった。

 その日のライブは、メンバーたちの気迫がすさまじく、過去最高の盛り上がりを見せた。スモークや火花といった演出も会場のボルテージを上げるのに寄与したが、なによりもMCもそこそこに激しい曲を連続で披露する姿に圧倒された。そしてやはり、彼女の輝きは別格だった。どのメンバーもこの日のために必死でレッスンしてきたことが伺えるパフォーマンスを披露していたが、彼女の咆哮するような歌声、ダンスのキレ、表情ひとつひとつの美しさは傑出しており、二階席の前方から俯瞰して見ていると、彼女にだけ常時スポットライトが射しているのではないかという錯覚を抱くほどだった。
 魂が震えていた。初めて動画でその姿を観たときの感動を思い出しながら、僕は思った。やはりこのひとだ。僕を魅了するのは、このひとただひとりだけなのだと。
 そんな僕をステージ上から真っ直ぐに指さすと、そのひとはどうだと言わんばかりに口端を持ち上げたあと、満面の笑みを向けてきた。


「あの……アルフォンス・ハイデリヒさん、ですか?」
 終演後、抜け殻になりながらもなんとか立ち上がり、出口へ向かう階段を上っていると、後ろから声を掛けられた。他のファンとは交流しないから、僕の名前を知っている人などいないはずだ。まさか院の知り合いかと、ギョッとして振り返ると、そこにはひとりの少女が立っていた。
 十代半ばだろうか。小さいけれどやわらかさを感じさせる輪郭が、上品でやさしい印象を与えてくる。肩下まである金色の髪を顔の横でひとつに結わい、すこし垂れ気味のくるりとした瞳で、僕を見上げる。あのひとと同じ、金色の瞳で。
「えっと、はい……。そうですが……」
「すこしだけお時間、いいですか?お話ししたいことがあって」
 金平糖みたいに甘く幼い声で少女は問い、儚げに笑ってみせた。


 周りを気にせずふたりきりで話せる場所がいいと言われたが、明らかに未成年の女の子と個室に入るのは憚られたため、できるだけ人を避けようと敢えて格式の高い喫茶店を選んだ。珈琲が一杯で千円ほどもし、ライブで散財したあとの学生には厳しかったが、相手が誰かわかっているからこそ、いい加減な対応などできるはずがなかった。
「ライブ……よかったですね」
 注文を終えたあと、先に口を開いたのは少女のほうだった。幼い見た目とやわらかな雰囲気からミルクココアでも注文するかと思いきや、ブラックを頼んだのを見て、驚かされた直後のことだった。
「みんな、いつもよりさらに気合いが入ってて。ほら、途中でみんなが客席にサインボールを投げるところあったでしょう?姉さんったら、アリーナのできるだけ遠くのお客さんに届けようとして、あんなに脚を高く上げて……。アイドルなのにってヒヤヒヤしちゃいました」
 一切の苦みを持たない甘くやわらかな声でそう語ると、少女は愛おしそうにくすくす笑う。一目見たときからなんとなく誰かは察していたが、その予感が「姉さん」という言葉で確信に変わり、膝の上で握りしめる手に汗が滲んだ。
「突然呼び止めてごめんなさい。姉さん……えっと、姉のエドワードからあなたのことを聞いて、どうしてもお話ししてみたくて。姉さんからボクのことは聞いていますか?」
 はい、と返した言葉が掠れていて、自分は緊張しているのだと再確認した。あのひとが話していたとおり、妹も相当の美人だ。鋭く冷たい氷を思わせる美貌を持つ姉に対し、妹は森で動物と戯れながら花でも摘んでいそうな雰囲気をまとっている。しかしただふわふわしているだけではなく、時折ちらつくこちらの心を射抜くような眼差しから、この子も相当頭が切れるのだろうと察せずにはいられなかった。
「そうですか、よかったです。姉が、いつもお世話になっています。姉さん、あなたが会いに来てくれるようになったころから、とっても明るくなったんです。前はどこか張りつめた感じがあったけど、今はあなたの研究の話ばっかり。すげえだろ、ってまるで自分の研究みたいに自慢して」
「そう……なんですね」
 あのひとが僕の研究に好意的な印象を持ってくれていることは知っていたけれど、改めて第三者から告げられると恥ずかしさと喜びで叫び出しそうになる。顔が強張りおかしなことになっていないかと案じていると、先ほど注文したブラックが二杯運ばれてきた。
「……姉さんがアイドルになった理由……それも聞きましたか?」
 珈琲へミルクを注ぎ入れながら、ささやくように少女は尋ねる。
「あ、えっと……。はい……。身寄りがなくなって、それでって……」
 どこまで口にしていいかわからず言葉をぼかしていると、僕の返答を聞いた少女はどこか安堵したように、穏やかな笑みを浮かべた。
「そうです。姉さんは身寄りがなくなったボクたちが引き裂かれないよう、そしてボクが引き続き普通の生活を送れるよう、アイドルになったんです」
 淡々とした口調だったが、少女の表情には切なさが滲んでいて、彼女が姉に引け目を感じているのが言葉以上に伝わってきた。
「姉さんはとっても頭がよくて、勉強も好きだったんです。だから本当は、あなたのように研究者の道を歩みたかったと思うんです。でもボクのために、将来を犠牲にしてくれた」
「犠牲……というのは、違うんじゃないでしょうか」
 いたたまれなくなり思わず口を挟んだが、変わらず穏やかな表情を向けられ、今さら僕が何を言ったって彼女の中で答えは出ているのだと理解させられる。
「姉さんは嫌々アイドルをしているわけじゃないです。やると決めたらやる人だから、あそこまで人気にもなりました。綺麗だし、人を惹き付ける魅力があるし、本当は表舞台に立つのが向いてるんでしょうね。でも本人は……将来に対してなんの希望もないみたいんです。いつか姉さんに、アイドルを辞めたらどうするのか訊いたら、笑ってはぐらかすだけで、具体的なことはなにも言ってくれなくて」
 アリーナ公演が発表されたときの、彼女の表情を思い出す。自分のグループのことなのに、まるで他人事のような、蚊帳の外から眺めているような、あの表情。
「でも、あなたのことを知ってから、どこかイキイキとしてきたんです。昔はあんなに好きだった科学の本も、高校を中退してから一切読まなくなっていたのに、また買ってきたりして。楽しいんだと思います。あなたの夢を一緒に追うのが」
 あまりにも真正面から褒められて、また表情の作り方がわからなくなる。あのひとが家で嬉しそうに僕の話をしている。そう聞いただけで、嬉しさといたたまれなさで、今すぐ表通りを駆け抜けたいような気持ちになる。
「ねえ、ハイデリヒさん。姉さんがアイドルを辞めるって言ったら、悲しみますか?」
 舞い上がっているところに投げかけられた思いがけない問いに、え、と声が漏れる。からかわれているのかと思ったが、こちらを見つめる少女の瞳はどこまでも真剣だった。
「え、えっと……。それは……そう、ですね。あのひとから、元気をたくさんもらっているので……」
「そうですよね。そう……姉さんはいま、みんなに希望を届けるアイドルです。文字どおり偶像であって、みんなのものなんです。あのひと自身のものでもない」
 アイドル。明るい笑顔を絶やさず、人々に夢を与える存在。本人たちは生身の若い女の子たちであるはずなのに、傷も痛みも見せることが許されない。彼女たちが望んで入った世界とはいえ、芸能界やそれを支持する僕たちファンがしているのは、彼女たちの青春というかけがえのない時間と若さをコンテンツとして消費することに過ぎない。
「ボクはね、姉さんがひとりの女の子へ戻れたらと思ってしまうんです。勝手かもしれないけど、姉さんには自分自身のために生きてほしいなって。好きな勉強をして、好きな本を読んで……好きな人と過ごして」
 この子にとってあのひとは、アイドルではなくどこまでも姉なのだ。大好きな姉の幸せを願うひとりの妹として、僕に話をしにきたのだ。でも、どうして僕に――……。
「ハイデリヒさん」
 突然改まった声で名前を呼ばれ、思わず姿勢を正す。視線を向ければ、目の前の少女が真っ直ぐに僕を見据えているのが目に入る。あのひとと同じ金色の瞳。形や雰囲気は違っても、あのひとと確かに血を分け合っているのだと思わせてくる、強い意志を宿した瞳。
「姉さんを、あなたに託してはいけないですか」
「へ?」
「姉さんを幸せにしてあげてほしいと、あなたにお願いしたらいけないですか」
 思いがけない問いに、頭の中が真っ白になる。先ほど熱い珈琲を流し込んだはずなのに胃が冷たくて、全身の体温が失われていく。
「それは……どういう……」
「ボク、もうすぐ海外へ行くんです。向こうの大学に合格して、奨学金を出してもらえることになって。あっちで、お医者さんになる勉強をするんです」
「え、お姉さんは……?」
「姉さんは知りません。まだ言ってないんです。言ったら酷く取り乱すでしょうから、今日の公演が終わるまでは黙っていようと決めました」
 そんな、という言葉が思わず漏れる。これまでの話を聞くだけでも、あのひとが妹を溺愛しているのは間違いない。そんな妹が自分を置いて海外へ行ってしまうと知れば、あのひとは尋常ではないショックを受けるだろう。
「酷い妹だって思いますか?でもね、ボクがそばにいる限り、姉さんは自由になれないんです。いつだってボクのことばかり優先して、自分のことは後回しで……。だからボクが姉さんから離れるんです」
「でも……あのひとは悲しむでしょう?大切な妹と離れるなんて」
「ボクたちには必要なことなんです。母さんを失ってから、ボクはずっと姉さんに守られてきました。姉さんもボクを生活の中心に据えてきた。依存してるんです、互いに。そんなとき、あなたが現れて……姉さんの世界に、新しい光が射したんです。そんな姉さんを見て思いました。このひとを解放してあげないと、って」
 落ち着いた口調で話し終えると、カップを持ち上げ珈琲を口に含む。所作のひとつひとつに品があり、深い愛情を受けて育ってきた令嬢のような印象を与えてくる。
「お医者さんになるのは、ボクの夢でもあるんです。母さんと同じ病気に苦しむ人たちを救えたらって思ってきましたし、安定した仕事を得て、今度はボクが姉さんを支えたいんです。姉さんがやりたいことを、なんでもさせてあげたい。ボクだって姉さんを守りたいんです」
「……あのひとは、それを喜びますか?」
「素直には喜ばないでしょうね。そんなの必要ないって怒るでしょう。そのときは、一緒に説得してください」
 ね、とお茶目に笑顔を向けられ、意図せず顔が赤くなる。無自覚に相手を魅了する姉と違い、妹のほうは自分の魅力を利用して相手を翻弄するタイプのようで、ある意味姉より質が悪い。
「でも……なんで、僕なんですか?」
「……」
「僕なんて、まだ学生ですし……そうじゃなくても、あのひとみたいなスターとはとても釣り合わない。地味で凡庸で……あのひとなら、他にもっといい人が……」
「ねえハイデリヒさん。あなたは、覚えてないですか?」
 なにを、と問うた先にあったのは、先ほどまでのやわらかい雰囲気を欠き、射抜くようにこちらを見つめる瞳だった。
「姉さんも覚えてない。でもね、ボクは覚えてるんです。ボクたちのこと、そして、あなたたちのこと……」
「どういう、ことですか……?」
 なにかを決意したように珈琲を飲み下すと、少女は浅く息を吐いた。そしてカップをソーサーへ戻しながら、きらめく金色の瞳を再び僕へ向けた。
「前の人生でもね、ボクたちは出会っていたんです。ボクとあなたに直接の関わりはなかったけれど、姉さんはやっぱりボクの姉さんで……あなたは、姉さんを愛していた。あなたたちは、一緒に暮らしていたんです」
 ドクリ、と胸の中で心臓が跳ねる。この子はなにを言っている。前の人生?そんな非科学的なこと、あり得るわけが――……。
「ボクと姉さんが引き裂かれ、姉さんが辿りついた世界に、あなたがいた。あなたは姉さんと一緒にロケットの研究をし、やがて互いに惹かれ合った。時間はかかったけれど、あなたたちは愛し合うようになったんです。今の、あなたたちみたいに」
 あり得ない。あり得るはずがない。それなのに、意識の奥底でなにかが疼き、理由のわからない懐かしさがこみあげる。工場に満ちる排気ガスとオイルのにおい。古いアパートメントの床が軋む音。絡み合わせた指の感触。
「けれど……あなたたちは一生を共にすることができなかった。あなたは病に侵されて、せめて自分ができることをしようと、姉さんをもとの世界へ帰したんです。自らの命を、犠牲にして」
 早回しで再生される、セピア色の映像を見せられているかのようだった。身に覚えのない記憶が、ここから出してくれと内側からノックするみたいに、ドクドクと脈打っている。違う。これはいつか見た夢かなにかのはずだ。僕の目の前に立つ、古めかしい男装に身を包むあのひと。髪を後頭部の高い位置でひとつに結び、どこかさびしそうな笑顔で僕を呼ぶ。
「姉さんもね、たまに夢に見るみたいなんです。小さなころから、またロケットの夢を見たって、よく話してて。四年ほど前でしょうか。ボクが突然前の人生の記憶を取り戻して、姉さんの夢の意味を理解したのは。そのときからずっと、姉さんがまたあなたと出会うのを、待っていたんです」
「どう、して……?」
 本当は、からかうのはやめてほしいと告げるべきなのに、僕の口からこぼれたのはごく単純な問いだった。それを受けて、目の前の少女は困ったようにほほえむ。
「前の人生では、ボクが姉さんをもらっちゃったから」
 意味のわからない答えに、より混乱が深まっていく。前世だなんて、あり得ない。この子はきっと、僕をからかいに来たんだ。僕を混乱させ、二度と姉に近づかせないつもりなのかもしれない。そう思いたいのに、僕の根源に渦巻くなにかが、一蹴するのを拒んでいる。
 黙り込む僕を見て、少女はまるでそれでいいのだと言うようにうなずいてみせる。そしてカップに添えていた手を膝へ置くと、僕へ向けて深々と頭を下げた。
「姉さんを、幸せにしてあげてください」
 きっと、今度こそ。そう続いた言葉に対し、僕はうなずくことも、首を横に振ることもできなかった。




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