その日から、僕に対するそのひとの態度は一変した。
 以前は目が合いそうになるとよそよそしく逸らしていたのに、今は自ら「アルフォンス!」としょっちゅう声を掛けてくるし、食事のときも僕の隣を陣取ろうとする。僕が買い出しに行くと言うと、ろくに荷物も運べないのについてくると言って聞かないし、なにより困るのは、僕が見ている図面を覗き込むときなんかに、やたら身を寄せてくることだった。
「お前ら最近おかしくないか?ずっと引っ付いてるよな、ガキみたいに」
 研究仲間があきれ顔で指摘してきたときも、そのひとは僕の読んでいる本を覗き込みながら、ほとんど僕の背中に抱きついているような状態だった。
「コイツさ、オレの弟にそっくりなんだよ!名前も一緒。だからなんか放っておけなくてさ!」
 どちらかと言えば僕のほうが世話をしていると言っても過言ではないのに、そのひとはいかにも頼れる兄といった様子でそんなことを言う。ぼんやりと不満を覚える僕とは裏腹に、仲間たちは彼の返答に湧いた。
「すげえな。そんな偶然あるか?名前も一緒って」
「写真ないのか?お前の弟ってことは、アルフォンスをもっとチビにした感じか?」
「弟さん、親父さんとミュンヘンにいるのか?」
 最初こそ得意げな笑みを浮かべていたそのひとは、質問を投げかけられるうちに段々と顔を翳らせ、「写真はない」「ミュンヘンにはいない」と、どこか居心地が悪そうに言葉を返した。
「ちょっと遠いところにいてさ、今は会えないんだ。だから今はコイツが弟の代わり!」
 それ以上の質問を振り切るように、やたら明るい声でそう告げると、僕の頭を思いきり撫で回す。周囲は微笑ましいとでも言うように笑い声を上げたが、僕の胸に生まれたのは優越感と落胆をない交ぜにしたような、簡単には言い表せない感情だった。

 そのひとがやって来てから、僕たちの研究は飛躍的な進展を遂げていた。彼の知識だけではなく、その尋常ではない情熱が僕たちに火を点けたのだ。
 しかし熱が高まれば高まるほど、ひとたび衝突すれば大きな火花を上げる。その一件がまさにそうだった。ロケットの飛距離が伸びず悩んでいた僕たちに、そのひとは「燃料と設計を一から見直すべきだ」と言ってのけたのだ。
 研究を白紙に戻せと言わんばかりの意見には、さすがに誰もが難色を示した。彼の歯に衣着せぬ物言いや、新入りという立場もその勢いに熱を注ぎ、議論は最早喧嘩のようになってしまっていた。
「アルフォンスはどう思うんだ!?」
 一対全員という圧倒的に不利な状況のなか、そのひとは黙りこくっていた僕に問いかけた。絶対に譲らないといった強い意志が灯る金色の瞳。しかし、そこにどこか懇願するような幼さが見えた気がして、僕は口を開いた。
「エドワードさんに賛成です。どうせ行き詰まってるなら、別の可能性を試してみたっていい」
 普段はあまり周囲に逆らわない僕が反対側についたことに、仲間たちは驚きを隠さなかった。対して僕の賛同を得たそのひとは、まるで「わかっていた」とでも言うみたいに瞳を輝かせ、鬼の首を取ったように研究をやり直す利点をまくし立てた。
 どういうわけか僕の意見が決定打になったらしく、最終的に仲間たちは渋々ながらも彼の案に賛同した。しかし代わりに、次のような条件を提示してきた。研究班をふたつに分け、ひとつは現在のやり方でもう一度試してみる。そしてもうひとつが、彼の提示した新たな可能性を探る。どちらに入るかは、本人次第。——それはつまり、新しいことをやりたいなら、お前たちふたりでやれ、ということだった。
 負け戦に近いこの状況は、逆に僕たちを燃え上がらせた。言い出しっぺのそのひとはもちろん、元来負けず嫌いの僕にも、「絶対に成功させてやる」という意地が芽生えたのだ。そして僕にはもうひとつ、誰にも言えない願望があった。そのひとに心酔する僕は、どうしても彼が正しいのだと証明したかった。僕が憧れてやまないそのひとこそ、真の天才であるのだと。
 それから僕たちは、文字どおり寝る間も惜しんで研究に励んだ。必死に文献を漁り、実験を繰り返し、眠気で歪む視界の中で図面を引いた。仲間たちとは一応決裂といったような形になってはいたが、みんな大人である上に、僕らの研究の成果が気になってはいたから、研究器具を借りに行けば快く貸してくれたし、組み立てに人が必要なときは手伝ってくれた。しかしそれ以外の時間、僕らはずっとふたりきりだった。僕はほとんどサポートするような形だったけれど、意見を求められたり、恐る恐る口にした提案を褒められたりすると天にも昇るほどに嬉しかったし、話せば話すほど、そのひととは不思議なくらい馬が合うことがわかった。
「なんかこういうの久しぶりだわ!」
 寝不足で目の下に隈を作りながらも、そう言って楽しそうに笑う姿を見て、思った。早くこのひとの頭の中にあるものを形にしたい。でも同時に——この時間がずっと続いてくれればいい。

 研究の成果を皆の前で披露する日、そのひとも僕も寝不足と緊張から異常なほどに昂っていた。絶対に上手くいくと何度も手を握り合い、柄にもなく願など懸けている僕らの姿に、仲間たちは失笑を禁じえないようだった。
 しかしその結果は目覚ましいものだった。僕らの組み立てたロケットは、これまでの最高記録の三倍の距離を飛んでみせたのだ。
「アルフォンス!やった!やったぞ!」
 そのひとは僕に飛びかかると、そのまま思い切りこの身体を抱きしめた。実験成功の嬉しさと驚きに加え、抱きつかれた戸惑いで硬直していると、同じく興奮した仲間たちが、歓声を上げながら僕らに抱きついてきた。
「すげぇじゃねえか、お前ら!」
「末っ子組がやりやがった!燃料になに使ったんだよ、おい!」
 それぞれ賞賛の言葉を口にしながら、僕らの頭を撫で回し肩や背中を叩いてくる仲間たち。僕はその中心で笑いながら、そのひとの小さな身体を守るように、ずっと抱きしめ返していた。

 その晩は実験の成功を祝して、飲めや歌えやの大宴会になった。
 主役はもちろん僕たちふたりではあったが、真の功労者が彼であることは皆わかっていたから、注意は自然と彼に向いていた。これまで研究ばかりだった彼が酒を飲んでいる姿など見たことがなかったが、その日はさすがに酒を口にし、心なしか頬を赤らめていた。そう言う僕も仲間に半ば無理やり酒を飲まされ、ふわふわとした心地よさのなかで、楽しい気分に浸っていた。
「それにしてもすげえよ、お前は。その歳で大学出たってこともねぇだろ?化学なんてどこで学んだんだよ?」
 いつもは無愛想だが、酒が入ると陽気になる仲間のドルチェットにそう問われると、そのひとは、ああ、と笑った。
「親父が科学者でさ、家に本がいっぱいあったから、それ読んで勉強したんだ」
「いや、本で独学っつっても限度があんだろ。そもそもお前、生まれは?前はロンドンにいたんだっけか?」
「ロンドンはほんの半年。その前はなんていうか……田舎だよ。誰も知らないようなとこ」
「田舎?イギリスの田舎?ハイランドのほうか?」
 酔った誰かがふざけて「連合国めー!」と野次を飛ばすと、そのひとはどこか虚ろな目のまま手に持っていたビールをぐいと煽った。
「……信じるって約束すんなら教えてやるよ。オレの生まれも、どこで知識を手に入れたかも」
 それまで過去のことを尋ねると曖昧に誤魔化しがちだったそのひとが、いきなりそんなことを口にしたものだから、僕は思わず身を乗り出した。周りの皆もそうだった。信じる信じると口々に言い、誰もが彼に視線を向けた。
「オレさ、錬金術師だったんだ。それも並みの錬金術師じゃないぜ。国家に仕える、国家錬金術師だったんだ。しかも最年少のな」
 そのひとはそう言い切ると、どうだ、と言わんばかりの得意気な表情を僕に向けた。
 予想外の答えに、僕は困惑し言葉を失った。冗談、なのだろうか。笑ってあげたほうがいいのだろうかと逡巡していると、それより先に周りからどっと笑い声が上がった。
「錬金術!そう来たか!お前、変な奴だとは思ってたけど、そんな洒落た冗談言えるんだな!」
「冗談なんかじゃない!信じるって言ったろ!?」
「今の時代、世界のどこで錬金術の研究なんかしてるって言うんだよ!それともあれか?大英帝国様が戦争に勝てたのは、錬金術のお陰か?」
「この世界じゃないんだ!オレはもともと、この世界の人間じゃない!」
 そのひとはどこまでも真剣な顔でそう言うと、まくし立てるように自分の過去を話し始めた。
 錬金術が科学技術として発展している世界に生まれたこと。錬金術師の父親が残した本を読み、幼いころから弟とともに錬金術を学んだこと。最年少で国家錬金術師になり、あらゆる願いを叶える賢者の石を探し、何年も弟と旅していたこと。しかし賢者の石を求める集団に邪魔され、そいつらと戦っているうちに、自分はこちらの世界に来てしまったこと。弟は、今でもあちらの世界にいるはずであること……。
「だからオレはロケットを作りたいんだ!宇宙に出れば、オレの世界に戻れるかもしれない!」
 彼の話をまともに聞いている者など、最早ひとりもいなかった。腹を抱えて笑う者がほとんどで、残りは酷く出来の悪い冗談を聞いたときのように苦々しい笑みを浮かべていた。
「アルフォンスは信じてくれるよな!?」
 突然話を向けられ、僕は硬直した。そのひとの瞳はどこまでも真剣に見えたが、周りが「兄ちゃんの言うこと信じてやれよー!」などと囃し立てるものだから、僕も思わず吹き出してしまった。
「エドワードさん、その話、出版社にでも持ち込んだらどうですか?意外と人気が出るかもしれませんよ」
 あくまでも冗談であることを前提にそう言って笑いかける。そのひとが今にも悪戯っぽく笑い、「なんてな、冗談だよ」と言ってくれることを期待して。
 しかし、そのひとは僕の言葉を聞くと、わずかに口を開けたまま動きを止めた。信じていたものに裏切られたような表情を向けられ、背中がさっと冷たくなる。
「……もういい」
 そして彼はそう口にすると、机を叩いて立ち上がり、とぼとぼと脚を引きずりながら部屋を出ていった。
「錬金術と来たかぁ。天才と変人は紙一重って言うけどさ、あいつってまさにそういうタイプだよな」
「……あまりからかってやるなよ」
 呆れたようなドルチェットの言葉を聞きようやく口を開けたのは、僕らの中で実質リーダーとしての役割を果たしているロアだった。身体だけでなく器も大きく、誰に対しても平等に接してくれるため、皆が彼を慕っていた。ロアは先ほどの話を聞き、最初こそ笑ってはいたが、段々と口を閉ざし、どこか暗い顔であのひとのことを見つめていた。
「からかってやるなって……。なんだロア、お前あれを信じたのか?」
「信じるわけないだろ。ただな、あいつの手脚を見たらわからないか?」
「……どういうことだよ?」
 心底困惑した様子のドルチェットを見て、ロアは深いため息をつく。
「……義肢にあまり慣れていない様子を見ると、手脚がないのは生まれつきじゃない。あんな身体になったのは、ここ数年ってとこだろう。恐らくだが……戦争でなにかあったんじゃないか」
 ロアの言葉に、ドルチェットが、あ、と力ない声を漏らす。
「手脚を失うほどのことだ。よっぽど惨い目に遭ったんだろう。見たことあるか?戦場で頭がおかしくなって、戯言ばかり喋ったり、急にわめき出したりする奴らのこと。見た目は普通でも、そういう奴らは心に致命的な傷を負ってしまってるんだ。多くの場合、二度と元には戻れない」
 あの日、駅で出会った医師の言葉が、脳裏に甦る。——多いんですよ、先の大戦のあと。精神的な傷を負い、ひょんなことで錯乱してしまう人がね。
 そうだ。僕はわかっていたはずだ。あのひとがどこか普通ではないこと。あのひとが僕を見る目の中に、底知れないなにかが入り混じっていることを。
「ハイデリヒ、お前もあんまりあいつに深入りするなよ」
 先ほどまでの賑やかさが嘘だったように、誰もが気まずそうに口を噤むなか、ロアは僕に喋りかけた。
「弟に似てる、だなんて言ってるがな、本当のことかどうかはわかりゃしない。正直なところ、その弟がまだ生きてるのかどうかも怪しいもんだ……。すべてがあいつの頭の中で作られた妄想なんだとしたら、それに付き合えば付き合うほど、あいつの症状は重くなる。そしていつか、何らかの綻びが生じたとき、あいつは決定的な傷を負うだろう。そのときに傷つくのはあいつだけじゃない」
 頭の中に、イメージが浮かぶ。まだ幾分か幼いあのひとが、家の中で弟と本を分け合い読んでいる姿が。仲睦まじく身を寄せ合うふたりが甘い笑い声を上げたとき、遠くから笛のように高い異音が響き、なんだろうと顔を上げた瞬間——世界が爆風と衝撃に包まれる。
 窓から外へと放り出されたあのひとは、全身傷だらけのままぼんやりと目を開け、弟の名をつぶやく。その小さな身体に、右腕と左脚はもうついていない。惨たらしく露出した切断面からとめどなく血を流し、それでもなんとか身を起こすと、あのひとは周囲を見渡しもう一度つぶやく。アル、アルフォンス——。周囲に弟の姿は見えない。自分と同じく弾き飛ばされたのではないのだろうか。それなら——。
 目の前にあるのは、倒壊し炎に包まれる、家だったもの。あのひとは血の轍を引きながら、残った腕で残骸に向かって這い寄っていく。手脚をもがれた痛みなどまるで感じていないかのように一心不乱に身体を引きずり、弟の名前を呼び続ける。そして辿り着いた先——燃え盛る家の残骸を見渡したとき、あのひとは息を止める。
 燃え盛る材木の下から覗く小さな頭。かつて淡い金色だったそれにはタールのように黒い血がこびり付き、地面へと流れ出ている。いや、そうではない。近寄れば近寄るほど鮮明になるそれは、ただの血ではなく、かち割れた頭から流れ出る脳漿だ。先ほどまでやわらかく笑っていたその命は、上から倒れてきた柱にいとも簡単に砕かれ、地面へと横たわっている。アル、アル、と、あのひとは力なく呼び続ける。しかし顔を濡らす血の狭間で、自分と同じ金色の瞳が見開かれているのを見た瞬間、その声は、つんざくような悲鳴へと、変わる——……。
「あいつが悪いわけじゃない。俺だってあいつが気の毒だよ。だけどな、気の毒だからって、お前が付き合ってやる必要なんてない」
「でも、それが本当だったとしたら……放っておけない」
「じゃあ一生あいつの面倒を見るのか?いつか妄想に付き合いきれなくなって放り出したら、あいつは余計におかしくなるぞ。あいつに二度も、弟を失わせるな」
 たまらなくなって立ち上がると、部屋中の視線が僕に向いた。憐憫と、困惑。そのふたつの感情が、重しのように身体へと圧し掛かってくる。
「あいつが自分は男だっていうのも、案外……」
 静寂を破り、ドルチェットがつぶやいた言葉を耳にした途端、僕は衝動的に駆け出した。背後から椅子が倒れる音と、僕を呼ぶロアの声が聞こえたが、すこしも振り返ることなく廊下を走る。この先に、あのひとが間借りしている部屋がある。最初に部屋へ案内し、ここがあなたの部屋です、と言ったとき、あのひとがどこかさびしそうに言ったことを思い出す。ひとりで部屋を使うのは初めてだ、と。
 角を曲がり、目的の扉に辿り着くと、ノックしようとして拳を止めた。一体なにを言えばいい。信じなかったことを詫びるのか。僕はあなたを信じます、あなたの味方です、と、そんなことを言ってしまっていいのか。そんなことを言えば、ロアの言ったとおり、きっと——……。
「……ア……ル」
 怒涛のように思考を巡らせていたとき、扉の向こうから漏れ出てきた声で、僕は我に返った。
「ごめん……アル……ごめん……っ」
 ところどころ震える声が、そのひとが泣いていることを告げている。それもいつかの錯乱したような泣き声ではなく、もっと暗く湿った、神に許しを乞うような声で。
「アル……さびしいんだ、アル」
——アルフォンス。生まれたときからその名で呼ばれ続けてきた僕にも、今そこに乗せられた想いが、自分に向いていないことがはっきりとわかった。誰かに属した、同じ響きの名前。あなたが呼んでいるひとは、一体いま——……。
「アル、会いたい……会いたいよ、アル……!」
 今すぐこの扉を開けて、その身を思い切り抱きしめることができれば。
 それは決して難しい行為ではないはずなのに、そこに立ちはだかる扉が酷く重く見えて、どうしても動けない。こんなにも近いのに、あなたの心は酷く遠いところにある。まるで天に浮かぶ星々のように、一生手が届かないまま、あなたは——……。
 そう理解したとき、僕は自分の胸にあるそのひとへの想いが、取り返しのつかないところまで大きくなってしまっていることを自覚し、唇を噛んだ。



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