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 目的地への到着を知らせる汽笛で目を覚まし、随分と長い夢を見ていたことを知った。
 あれはどこだっただろうか。見渡す限り青々と草が生い茂る野原。丘の上にある一軒の家。庭には手作りの質素なブランコがかかり、木々の合間には洗濯物を干すためのロープが張られている。心地よい風に誘われて振り返れば、そこにはオレを見つめる子どもがひとり。あどけない表情で、なにを疑うこともなくオレを呼ぶ。姉さん、ねえさん、ボクね——……。
「アル」
 あれはすべて、オレが失ってしまったものだ。オレがこの手で壊し、二度ともとに戻らない形に変えてしまったものたち。
 あれをすべて取り戻せるなら、どんな痛みにも耐えてみせる。そう思って必死に進んできたはずなのに、オレは今、見知らぬ世界の見知らぬ国で、汽車の座席にひとり座っている。
「アルフォンス」
 その名を口にすると同時に目から涙がこぼれ落ち、数滴の雫が後を追った。涙を流すなんていう惨めなこと、以前は独りのときでも絶対にごめんだと思っていたのに、最近は事あるごとに涙がこぼれてしまってどうしようもない。きっと、弱くなったんだ。あいつと離れて——魂が欠落を知って。
 もう一度汽笛が響き、すでに周りの乗客たちがすっかり下車してしまっていることに気付く。自分も早く降りなければならない。涙を拭い、座席に手を付いて立ち上がろうとしたとき、膝がガクリと抜けるような感覚が走った。
「クソ……」
 あちらの世界のものとは比べ物にならない質素な義足。走ったり歩いたりするどころか、長時間同じ姿勢で座っていただけで不具合が起きる。これもきっと、自分が弱くなった一因だ。手脚を失ったあとも大きな不自由なく過ごしてこられたのは、あちらの世界の高い技術と優秀な幼馴染のお陰だった。それも、失った。今のオレは、歩くことすらままならない、非力な存在だ。
 それでも意地のようなものでなんとか立ち上がり、座席の背を辿りながら、脚を引きずり出口へと向かう。調子が悪いときは杖を使うように、と親父は口を酸っぱくして言っていたが、こんなところでつまずいてしまえば、自分は非力なのだという事実に屈してしまうような気がした。客車を出て外へと続く出口へ向かうと、そこにはかなりの高さの段差が待ち構えていた。きっとこの脚では、もう片方の脚を地面に下ろすまで姿勢を維持することもできないだろう。車掌が来るまで待つか——。いや、これごときで、誰かの手を借りるなんてごめんだ。
 鞄を地面へ放ると、一思いに飛び降りる。先に右脚で着地したがバランスが崩れ、咄嗟に左脚を踏み出したが、すでにおかしくなっているそれが身体を支えてくれるはずはなく、そのまま地面へと突っ伏した。
「……っ」
 前はこんな段差、意識すらしたことなかったのに。惨めさが心に満ち、唇を噛みしめる。どうしてオレはこうなってしまったのだろう。錬金術を究め、すべてを意のままにできると思っていたころが確かにあったのに。いや、きっとその傲慢こそが、この結果を生んだのだ。自分は万能だと信じていた愚かさが、オレからあいつを奪い、そして——……。
「エルリックさん!」
 見知らぬ声に名前を呼ばれ、ぼんやりと目を開ける。まだ夢を見ているのだろうか。この国で、この世界で、親父以外にオレのことを知る者はいないはずなのに。
「大丈夫ですか!?お怪我は!?すみません、僕が車内まで探しに行っていれば……!」
 声の主はそう言ってオレの頭上に膝をつき、この身を支え起こそうとする。薄茶色のジャケットに包まれた身体から胸へと視線をすべらせ、その上にある顔を見たとき——オレの世界は呼吸を止めた。

 これはきっと、オレに与えられた新たな罰なのだろう。
 オレを迎えに来たその人物が、自分もアルフォンスというのだと言ったとき、そしてどこか困惑したような表情のまま、青い瞳を細めて笑って見せたとき、そう思った。
 同じ顔、同じ名前——けれどオレの弟ではない、もうひとりの〈アルフォンス〉。あれだけ長い間焦がれに焦がれた肉体が目の前にあるのに、オレたちは血が繋がっていないどころか、互いのことをよく知りもしない、ただの他人だった。
 そうだとわかっているのに、そいつがただ歩いている姿を目にするだけで喉元がぎゅうと締めつけられ、ともすれば泣きながら縋りつきそうになってしまうものだから、オレはとにかくそいつを避けようとした。それなのに、どうやらあちらはオレに興味を持っているらしく、なにかと話しかけようとしてくるのが厄介だった。
「僕も研究所に住んでるんです。故郷はここから遠いし、車も自分のものは持ってないので」
 町から通うか研究所内に住むかを問われ、間髪入れずに「ここに住む」と言ったオレに対し、そいつははにかみながらそう告げた。他にも研究所で寝泊まりする奴らはいたが、それは研究が長引いて町へ帰るのが面倒なときだけで、常住しているのはオレとそいつだけだった。
 厄介なことになったと思いつつ、とにかく距離を置こうと努めていたのに、そいつはオレの手脚のことをやたら気にして、ことあるごとに手を貸そうとしてきた。たとえ弟に似ていなくても、そんな風に腫れ物にさわるように扱われれば腹が立つ。そんなこともあって、オレはわざと素っ気ない態度を取り、そいつがオレから離れていくように仕向けようとした。早くオレのことを嫌いになればいい。あいつの顔で、あいつと同じ笑い方で、これ以上オレの心を掻き乱す前に、オレのことを憎めばいい。そうすれば姿形が似ているだけで、オレの〈アルフォンス〉ではないのだという証明になる。
 しかし、そいつがオレのせいで怪我を負い、血を流しているのを見たとき、オレの全身を貫いたのは底知れぬ恐怖だった。母さんを蘇らせようとしたあの日のこと、そして死んだオレを蘇らせるために弟が自らを犠牲にしたときのことを思い出し、我を忘れて目の前の身体に縋りついた。失いたくない。もう二度と、自分のせいでアルを失ってしまいたくない。
 オレは悟った。出会ってしまった以上、オレはこの存在から逃れられはしない。相手に惹かれてやまなかったのは結局あちらではなく——自分のほうだったのだと。

「エドワードさんといると、なんだか落ち着くんです」
 それは研究チームがオレの提案のせいでふたつに分かれ、あいつだけがオレのほうへ付くのを決めたときだった。あちらに行ってもいいんだぞ、と言ったオレに対し、そいつはそう言ってはにかんで見せた。
「エドワードさんは僕が弟さんに似てるって言いますけど、僕もなんていうか……歳の近い兄がいたらこんな感じだったのかな、なんて思うんです。波長が合うっていうか」
 なんだか嬉しいな、と言いながら、本棚からオレの指定した本を抜き取っていく。その横顔を見ながら、ぼんやりと考えていた。もし——もしも真実を伝えたら、こいつはどんな反応を示すだろう。オレはこの世界の住人ではなく、お前はあちらの世界で本当にオレの弟だったのだと告げても、こいつならオレのことを信じて受け入れてくれるのではないだろうか。
 しかし結局それはオレの甘ったれた幻想でしかなく、そいつはオレの告白を冗談と受け止め、困ったように笑ってみせた。周りでは他の連中が比にならないほどの大笑いを響かせていたが、そんなことはどうでもよかった。オレはただひとり、そいつに信じてほしかった。オレの話を信じて、真実のオレを受け止めてほしかったのだ。
「……もういい」
 力任せに椅子から立ち上がり立ち去ろうとするオレを、そいつは「エドワードさん!」と呼び止めた。オレは振り返らなかった。酷く腹が立っていたし、今そいつの顔を見れば泣き出してしまいそうだった。
 一直線に部屋へと戻り扉を閉めた途端、全身が脱力するような感覚に襲われ、扉を背に床へとへたり込んだ。ここのところ研究続きで碌に寝ていなかったことや、久しぶりに酒を飲んだことだけが原因ではなく、心の中に渦巻く感情に身体を乗っ取られたようだった。これは怒りだろうか。悲しみだろうか。——ちがう。ここにあるのは、底知れない欠落感だ。
「……アル」
 名前を口にした途端、先ほど押し込めたはずの涙がこぼれ落ちた。アル、アル、と、ここのところ口にしていなかった呼び名を口にすればするほど、胸に空いた穴は大きくなってゆく。どうして、他の誰かを代わりにできるなどと思ったのだろう。オレにとってなによりも大切なのは、心から愛しているのは、お前だけなのに。
 ねえさん、と呼ぶあの声が聞こえた気がして、咄嗟にシャツの胸元を掴む。ねえさん。そうやさしい声で呼びながら、あいつはこの肌にふれてくれた。獣の革を剥いでなめした手は硬く、ヒリヒリとして痛かったけれど、それにふれられるたびに、あいつの魂を感じられる気がした。
「アル」
 身体の熱が上がってゆくのを感じながら、とり憑かれたような思いでベルトをゆるめ、下着の中へ手を差し入れる。久しぶりにふれたそこは予想どおり、欲望を孕んですでに湿りを帯びている。
「……ア……ル」
 意識を集中させ、あの手の感覚を思い出す。割れ目をなぞられ、指を一本中に入れられただけで、脳が痺れるような快感が走ったのだ。弟にそんなことをさせている罪悪感と身体的な気持ちよさに苛まれ、おかしくなった頭でもっとと強請れば、あいつはさらなる快楽と痛みを与えてくれた。あれはきっと、限りになく死に近いなにかだった。あの場所へ辿り着ければ、オレはあいつに会えるのだろうか。
「ごめん、アル……ごめん」
 具体的になにに対して謝ればいいのかも、もうわからない。それでもオレはそう繰り返し、自分の中の柔いところを指で探った。あいつがしてくれたように中をほぐし、割れ目の上にある突起を摘まむと、電気のような快感が全身を駆け抜けた。目がじんじんと熱を持ち、口から唾液が滴り落ちる。それでも、心に空いた穴はふさがるどころか、どんどん広がってゆく。
「……さびしい、アル」
 アルフォンス。先ほどまで別の誰かを指していた名前は、唯一絶対の意味を持って虚空に浮かぶ。アル、さびしいんだ、アル、アルフォンス——。何度繰り返したところであの姿がここに現れてくれることなど、ないのに。
「アル、会いたい……会いたいよ、アル……っ!」
 ふれてほしい。抱きしめてほしい。今すぐお前に会えるなら、残った手脚をもがれてもかまわない。もう一度お前にふれられるなら、命ごと差し出したっていい。
 こんなにも強く願っているのに、過ちを犯し続けてきた者に救いの手が差し伸べられることなど、ありはしない。



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