この世界へやって来て、最初に壊れたのは右腕だった。
もともと、ホムンクルスたちとの戦いで破壊されたものを応急処置程度に修復していただけだったから、おかしくなって当然だった。それから間もなくして、同じくもともと不具合が生じていた左脚も駄目になり、オレは右腕と左脚を失った状態に戻ってしまった。親父がなんとか義肢を作ってみせると言ったが、きっともとのように不自由なく歩いたり物を持ったりすることはできないのだろうと思った。
ろくに動けもしない身体でベッドに座り、毎日毎日、ロンドンと呼ばれる街を窓越しに眺めていた。深い霧に覆われ、一日に何度も雨に見舞われる灰色の街。数年前まで続いていたという大きな戦争で瓦礫と化した建物の合間を、飢えて疲れ果てた人々が背中を丸めて歩いている。
門の向こうと酷似していながら、決して同じではない世界。これまですべてを懸けてきた錬金術は使えず、幼馴染が与えてくれたような手脚を作る技術はない。代わりに機械が空を飛び、爆弾を降らせて人々を死に至らしめる。
なにより、あいつがいない。生まれたときから片時も離れず、すべてをわかち合ってきた魂の半身。失うはずはないと——失えるはずはないと思っていた存在が、世界からすっぽりと抜け落ちている。
これはきっと、オレに与えられた地獄なのだ。
敗北によって絶命したオレを、己に宿した数万の命を代価に呼び戻した弟。しかしオレはあいつを失った事実に耐えられず、今度は自分自身を代価に弟を取り戻そうとした。あれだけ悔いていた禁忌を再び犯したオレたちに、運命がやさしくほほえんでくれるはずなど、ない。だから自分がまた手脚を失ったことも、錬金術を使えないことも、これは罰なのだと受け入れられた。
しかし耐えがたいのは、あいつがそばにいないこと。あの声でオレを呼び、あの手でふれてくれないこと。さらにオレには、あいつを無事に取り戻すことができたのかどうかもわからない。もしもすべてが失敗していて、オレだけがこちらの世界へ抜け出してきていたのだとしたら——……。
以前はあれだけ目まぐるしい日々を送っていたのに、そのころは頭に霧がかかったようで、本を読む気すら起こらなかった。毎日ベッドの上に座り、窓の外ばかり眺めているオレに、たまには外へ出かけようと親父は言った。そしてほとんど無理やり抱きかかえるようにしてオレをベッドから引きずり出すと、試作品だという義足を装着し、大きすぎるコートを羽織らせ、買い物へ行くから一緒に来るようにと言った。
久しぶりの地上は蒸気と排気ガスに加え、なにかが腐ったような臭いに満ちており、悪い幻を見ているような気持ちでとぼとぼと親父の後を歩いた。
その義足は試作品だと言うとおり、ほとんどただの棒と変わりない程度のものだったから、オレは左脇に松葉杖を挟み、それを支えに歩かなければならなかった。右腕はまだ完成しておらず、歩くたびに空の袖がひらひらと揺れていたし、アル以外には髪をさわらせたくなかったから、長らく梳いてもいない髪を垂らしたままという酷い恰好だった。
食糧の買い出しを終えたあと、あそこの本屋で本を受け取ってくるから待っているようにと親父に言われ、オレはぼんやりと建物の壁にもたれかかった。あまり距離を歩いていないのに身体は酷く疲弊しており、息も切れていた。以前は体力でも身体能力でも誰かに劣っていると感じたことなどなかったのに、これではまるで自分が自分ではなくなったみたいだと思った。
このままここで、残りの人生を無力に過ごすのだろうか。
そんな考えが頭をかすめたとき、どこかから子供の笑い声が響いた。
誘われるように視線を動かすと、道路の反対側の斜向かいに、食糧の配給を求める列があった。その後方、杖をついた老人の後ろにある小さな頭を見て、オレは目を見張った。
「アル」
金色の髪を短く刈り上げた、十歳くらいの子供。背丈も、体格も、身体の動かし方も見覚えがある。あれは、まさか……。
「アル!アルフォンス!」
考える前に道路へ飛び出し、走ってきた馬車の御者に「馬鹿野郎!」と怒鳴られたが、そんなことは構わなかった。先ほどまでの疲れが吹っ飛び、ともすれば走れるような気すらした。杖と左脚を支えになんとか道路を渡り終え、あともうすこしというところで石畳に杖が引っかかり転んでしまう。そんなオレに気付き、子供が振り返る。あの頬のやわらかさ、あの首のかしげ方、あれはまさか、まさか。
「アル!アルっ!」
杖を捨てて地面を這い進み、飛びつくようにして子供へと抱きついた。あの錬成は失敗しておらず、ちゃんとお前を呼び戻したのだ。もとの世界ではなく、今オレがいるこの世界に。やっと見つけた。会いたくて、会いたくてたまらなかった、お前を。
しかし子供は「ひっ」と恐怖に引きつった声を上げ、オレから離れるために身を振りほどこうとした。
「なによあんた!うちの子から離れてっ!」
隣から放たれた声に続き、衝撃がオレの身体を横になぎ倒す。地面で頭を打ち、痛みで霞む目で見上げると、そこには鬼の形相でオレを睨みつける女性がいた。その腕の中で恐怖に顔を引きつらせている子供。顔はそばかすだらけで、鼻は丸く、涙の滲む細い目は、オレのよく知る蜂蜜色ではなく、湖を映したような緑。ああ、ちがう、この子は——……。
「なんだ、どうしたんだ」
「気の違った女が、あの子供に抱きついたんだよ」
「ああ……最近多いよな。あの大戦で、恋人でも亡くしたんだろう」
「見てみろよ、あの手脚。まだあんなに若い子が、かわいそうに」
オレを睨みつける母親を中心に、周囲の人間が地面に横たわるオレを見世物かなにかのように眺めてくる。興味と憐憫の合わさった視線に晒されながら、どくどくと逸る胸の中で否定を繰り返す。ちがう、ちがう。オレはあいつを失くしてはいない。あいつは死んでなんかいない。オレは正気で……ここは——この地獄は、現実などではない。
「アル……っ!アル、アルフォンスっ!」
きっとオレの心は、すでに限界に達していたのだと思う。それはオレのアルではないとわかっているのに、近しいなにかにふれればこの悪夢が終わるような気がして、無我夢中で手を伸ばした。その頬にふれれば、この視界を覆う偽の景色が魔法のように立ち消えて、そこにあいつが現れる。昔、野山で隠れん坊をしたときのように、見つかっちゃった、とはにかんで。
しかし、母親がオレに向かってなにかを叫び、我が子を自分の後ろへ隠すと同時に、周囲の男たちがオレを押さえつけた。
「エドワード!なにをしている!エドワード!」
聞き馴染みのある声がオレを呼び、群衆を押しのけ俺の身体を背中から掻き抱く。
「落ち着きなさい、エドワード!あの子はアルじゃない!」
「アル!アルがっ!」
親父の腕から抜け出ようとしても、片手だけではどうにもならない。放してほしい。行かせてほしい。オレは今すぐ、この地獄を終わらせたい。
「あんた、この子の父親かい?駄目じゃないか、そんな状態の子をひとりにしておいたら」
「その子がうちの子を攫おうとしたの!突然抱きついて!」
「すみません、ご迷惑を……。最近、弟を失ったもので、そのショックで……」
その言葉にオレは耳を疑い、すぐさま左手で親父の首を掴んだ。
「ふざけるな!アルは死んでなんかいない!オレがちゃんと錬成して……!あいつは!」
「いいんだ、エドワード!わかってる。わかってるさ」
オレの手をいとも簡単に振りほどくと、親父は「行こう」と言い、この身体を荷物のように抱き上げた。怒りと涙で火照った頭を必死に振り、オレはただただ繰り返した。アルは生きてる!生きてるんだ!アル!アルっ!
その日、オレは知った。本当に問題なのは、壊れてしまった手脚じゃない。取り返しがつかないのは、いつの間にか壊れてしまっていた、心のほうだったのだと。
それ以来、親父はオレに外へ出ることを強要しなくなった。オレも自分があんなにも馬鹿げたことをやらかした事実に絶望し、以前にも増してベッドから動く気力を失い、やがて起き上がることすらしなくなった。食欲もなく、固形物を口にしない日が何日も続き、自分はこのまま死んでゆくのだろうか、死んでしまえばいつかあいつに会えるだろうかと考えていた。
死人のように車椅子に乗せられミュンヘンへと移っても、オレは荷解きも手伝わずベッドへと横たわっていた。こちらの街にも死の香りが満ちており、心の灰色は色濃くなってゆくばかりだった。
親父がベッドサイドに置いていった本の中の一冊がなんとなく目に留まったのは、ミュンヘンに移ってから二カ月ほどが経ったころだった。親父は、オレがあれほど好きだった本を読む気力すら失ったことを知りながら、オレが興味を持ちそうな本を黙って積み上げていくという虚しい努力を続けていた。オレの目を引いたのはその中の一冊で、宇宙について語るものだった。今まで考えたこともなかった空の向こうの世界。そこでなにが起こっているか、そして、そこへどうやって辿り着くか。
オレが突然本を読み出したのを見て、親父は同じ分野の本をいくつか調達してきて、またベッドサイドに置いた。オレはそれもすぐに読み、そのころには頭の中でいくつかの仮説を組み立て始めていた。まだわからないことだらけだったが、なにかが掴める気がして、気付けば杖をついて図書館へ通うようになっていた。
興味深い論文を書いていたルーマニア人のロケット研究者に、質問と仮説を添えた手紙を書き送ると、一緒に研究がしたいからトランシルヴァニアまで来るようにと返信があった。そのころには親父が新しい義手と義足を完成させていたから、それを装着し、リハビリもほどほどにミュンヘンを発った。
そして——出会った。あいつに。弟と同じ顔をした、赤の他人である、あいつに。
空気が一気に冷たくなり、あと二か月半ほどで今年も終わるというころになると、周りの奴らが「クリスマスがあるから、研究は十二月半ばで一度キリをつけよう」と勝手に相談を始めたものだから、オレは戸惑った。
「クリスマスってなんだっけ?」
その質問を放った途端、一瞬で周りの空気が凍り付いたのがわかった。
「お前さ……それはさすがに……」
なにか信じ難いことを聞いたとでもいうように仲間たちは苦々しく笑い、そのあと気まずそうに目を逸らした。まただ。あの日、オレが酒に酔ってあちらの世界の話などした日から、こいつらはたまにこんな反応をする。大方、オレがとんでもない嘘吐きだとでも思っているのだろう。
「十二月二十五日。救世主、イエス・キリストがお生まれになった日ですよ」
その中でそいつ——アルフォンスだけが、いつもどおり穏やかな口調で答えを返す。まるでオレの質問が、すこしもおかしくなどなかったと強調するように。
「救世主?宗教の話か?あんたら、科学者なのにそんなもん信じてんのか?」
「お前、イエス様を冒涜するのは……!」
「クリスマスは家族が集う日でもあります!だから僕たちもそれぞれの家へ帰り、家族と過ごします。エドワードさんも、たまにはお父さんの元へ帰ったらどうですか?きっと喜びますよ」
オレに掴みかかろうとした仲間のひとりを制し、アルフォンスは続けた。その偽善的な様子に、ぼんやりとした怒りが湧き上がる。あの日以来、オレをどこか憐れむような目で見るようになった他の奴らとは違い、こいつだけはむしろ前以上にやさしくなった。まるで、自分だけはオレのことを理解しているとでもいうように。
「……オレは帰らない。ここに残って研究を続ける」
「そんな!いけないですよ、クリスマスに独りなんて……。じゃあ僕の家に来ませんか?北のほうなのでちょっと遠いですけど、僕の友達だと言えば、家族も大歓迎で……」
「お前たちの宗教もしきたりも、オレには関係ない。気持ちはありがたいけど、読まなきゃならない本もあるし、旅行なんて時間の無駄だ。オレは残る」
「でも……」
まだなにか言おうとする姿に、オレは拒絶の意を込め背を向けた。この男のことは嫌いではない。嫌いになれるはずもない。しかし、オレを憐れみの対象として扱うなら、オレは自分自身を自己満足の材料としてくれてやるつもりはなかった。
話していたとおり、早い奴は十二月の頭に研究所を去り、残りの奴らも十日を過ぎたあたりから机を片付け始め、「また来年な」と言って去っていった。
その中で唯一、二十日を過ぎても研究所に残り、オレと同じく本を読んだり図面を引いたりしている奴に向け、オレは顔をしかめた。
「おい、アルフォンス。いつまでここにいるつもりだ。家族が待ってるんだろ。さっさと行け」
オレがそう言うと、「列車の切符を取るのが遅くて、まだ出発できないんです」と答えて笑う。なんだか様子がおかしい。そう思ったが、放っておけばそのうちいなくなるだろうと、オレは本に意識を戻した。
十二月二十四日の朝はいつも以上に冷え込んでいて、掛布から顔を出すと途端に息が白く曇った。寒さのせいで結合部が痛み、全身がなんとなくだるかった。本当はもっと横になっていたかったが、このままだと全身がより重くなっていくだけだろうと、意を決して身を引きずり起こした。
あいつはもう行ったのだろうか。クリスマスは二十五日だと言っていたから、さすがに昨夜のうちには去っただろう。そんなことを考えながら義足を装着し、次に義手を付けようとしたが、この寒い中で寝間着の前を開くのが億劫で思いとどまる。——今日はどうせ誰もいないのだ。食事は林檎でも齧っておけばいいし、本を読むだけなら腕はいらない。着替える必要も髪を結ぶ必要もない。
掛布の下に敷いている毛布を引きずり出し、寝間着の上に巻き付けると、ベッドの横に立てかけてある杖を手に取った。今日はさすがにこれが必要だろう。でも、北に面したこの部屋から暖炉のある談話室へと移れば、脚の調子もすこしはよくなるはずだ。そう思い、昨夜遅くまで読んでいた本を左脇に挟むと、杖に体重を掛けて身体を持ち上げた。
談話室の扉を開け、すでに暖炉に火が点っているのを見たオレは、驚きで動きを止めた。
「おはようございます、エドワードさん。フローエ・ヴァイナハテン!はは、すごい恰好ですね」
そして続いた声と、その主がティーポットを持ちながら呑気な笑顔をこちらに向けているのを見た瞬間、頭がカッと熱を帯びた。
「なんでここにいるんだ!お前、まさか……!」
「僕も残ることにしたんです。クリスマスに誰かを独りで過ごさせるなんて、僕の信条に反するので」
「ふざけるな!そんなのオレには関係ないって言ったろ!頼んでもいないのに、勝手なことしてんじゃねえ!」
「ええ、頼まれていない。でもあなたが僕の信条に口を出す権利もないですよね。僕があなたと過ごしたいから好きで残った。それだけです」
ぴしゃりと言い放たれ、有無を言わさぬ笑顔で制される。——きっと成長した今、アルと喧嘩をしたら、こんな風に言い負かされるのだろう。そう思うとオレはなにも言い返せず、そいつからすこし距離を取ってソファに腰かけることしかできなかった。
「家族に今年は帰らないと書いたら、祖母がいつもクリスマスのために家で焼いているシュトーレンとモーンクーヘンを送ってきてくれたんです。食べたことありますか?」
そう言ってそいつは、箱から白砂糖がまぶされた薄いパンのような形をしたものと、木の実がまぶされたケーキを次々と取り出し、二枚の皿へと取り分け始めた。
「オレはいい。家族がお前に送ってきたもんだろ。お前が食べろ」
「友達と食べるように、とくれたんです。だからこれはちゃんとエドワードさんの分です。祖母のためにも食べてください」
また言い負かされた。不満を覚えながらも渋々皿を受け取って膝に乗せ、パンのように見えるほうを口に入れて頬張ると、口の中にドライフルーツとくるみ、そしてブランデーの味がじんわりと広がった。
「……うまい」
「でしょう!祖母の自慢なんです。友達が褒めていたと言ったら喜ぶなぁ、きっと」
心から嬉しそうにそう言って、自らも同じものを口へ含む。まるで子供のように頬張る姿を見ていると、昔おいしそうにケーキを食べていた弟の姿が甦り、胸がチクリと痛みを訴えた。家族の団欒。誰かと同じものを食べ、おいしいという気持ちを共有する食事。そんなもの、最後にしたのはいつだっただろうか。
「……お前のお祖母さんはさ、お前に会いたかったんじゃないのか?お前の親だって」
きっと、こいつの故郷にはあるのだろう。家族が待ち、あたたかな食事が並び、笑顔が溢れる家が。
「はい。でも、春には帰ると書きましたから。それに、祖母以外に会いたい人は特にいないので」
え、と間抜けな声を出したオレに、そいつは強がるような笑みを向けた。
「僕、六人兄弟の末っ子なんですよ。兄たちは皆優秀で、政府の仕事についている者もいます。姉は二人とも、名のある家に嫁ぎました。僕の家柄自体は大したことないんですけど、だからこそ父も母も、兄や姉たちがいい仕事についたり、いいところへ嫁げるようにと必死で……。でも、いくつも成功例ができた今、末っ子の僕はどうでもいいんです。僕は身体も強くなかったので、ほとんど祖母の家に預けられて育ちました。期待されてないんです」
今まで、さぞかし家族に愛されて育ってきたのだろうと勝手に思っていた。それくらいこいつには人を疑うようなところも、ひねくれたところもないように見えた。
「ロケットを作る、なんていう夢みたいな研究を始めることを許されたのも、僕が期待されてないからです。僕が失敗したって、それで野垂れ死んだって、両親も兄たちも気にしない。でも祖母は、がんばってねと言ってくれました。昔、体調がいい日は、祖母とよく星を見たんですよ。流れ星を数えて、いちばん眩しい星へ手を伸ばして」
幼いころの、オレがよく知る弟と同じ姿のこいつが、祖母と手を繋ぎ、夜の丘を歩いているのが見えた気がした。先日風邪が治ったばかりだから、マフラーをぐるぐる巻きにされたこいつは、毛糸から小さな口を持ち上げ、言う。ねえおばあちゃん、お星さまの本を読んだんだよ。ねえおばあちゃん、あのいちばん光っているお星さまには、どうしたら手が届くのかな——?孫が愛おしくて仕方がないという風にほほ笑みながら、祖母は返す。さあねえ、おばあちゃんにはわからないねえ。いつかアルフォンスがお星さまを手に入れたら、おばあちゃんにも見せてねえ——。
「お前は帰るべきだった」
「……言ったでしょう。あなたが決めることじゃない」
不貞腐れるオレを静かに諫めると、お茶をどうぞと言ってカップを差し出してくる。勧められるまま受け取り口を付けると、いつもと同じ、砂糖二つミルクなしの味がする。
「ねえ、エドワードさん。今度はあなたの家族のことを訊いてもいいですか」
続いて自分のカップへ茶を注ぎながら、あくまでもさりげない様子でそいつは言った。
「……訊いたってしょうがないだろ。オレは嘘吐きなんだから」
「嘘かどうかは僕が決めることじゃない。あなたが思う、あなたにとっての真実を訊きたい」
ポットをテーブルへ置くと、真っ直ぐな目でオレを見つめる。澄み切った空のような、青い瞳。それが、その色だけが、ここはオレの望む現実ではないと、思い出させてくる。
「訊いてどうする」
「あなたのことをもっと知りたい。それだけだ」
オレにも、わかっている。あの日、見知らぬ子供をアルと見間違えた日に、周囲から向けられた視線。仲間たちのどこか諦めたような表情。この世界のオレは、頭のおかしい憐れな障害者なのだ。
けれどオレを見つめるその瞳は、オレが話すすべてを受け止めると訴えているような気がして、ためらいながらも口を開いた。
「……弟が、いるんだ。一つ下。お前と同じ歳で、同じ名前。顔も、目の色を除けば、まったく同じ」
「……ええ」
迷いはあった。けれど今ならもう一度、こいつを信じてもいいような気がした。
「オレが育ったのはさ、東方の小さな村。親父はオレたちが小さいころに失踪したから、母さんひとりに育てられた。田舎だったからさ、毎日弟や幼馴染と野を駆け回って、そして親父が残した本を弟と読み漁って……錬金術を身に付けた」
「……」
「オレが十歳、弟が九歳のときに、母さんが病気で死んだ。オレはそれが悲しくて、弟に母さんを元に戻そうと提案した。人体錬成……錬金術最大の禁忌を犯そうと持ち掛けたんだ」
「人体……?えっと……」
「錬金術ってのはさ、物質を理解して分解して再構築する科学技術だ。だから材料となる物質を用意すれば、母さんのことも再構築できると思った。でも……それは大きな間違いだった。オレたちは失敗して、オレは手脚を失い、弟は……身体全体を失った。死んだわけじゃない。でも、人間としての姿形を失ったんだ」
目の前のそいつは、明らかに理解できていないという顔をしていた。けれどオレには、さすがに弟が空の鎧の姿になったと言う勇気はなかった。あちらの世界ですらあり得ないとされていたことだ。そんなことを話せば、きっとまた小説かなにかだと思われる。
「とにかくさ、オレたちは元の身体に戻ることに決めたんだ。そのために、情報を得られるよう国家に仕える国家錬金術師になった。そしてオレたちは、元に戻る方法を求めて三年間共に旅をした。でもさ……結局、オレは失敗したんだ。弟を危険な目に晒した挙句、敵との戦いに敗れて、死んだ。そして弟が……アルが、自らを犠牲にして、オレを錬成した」
話しながら、喉に苦しさがせり上がってきているのを感じていた。死の淵から目を覚まして、アルの姿がないと気付いたときの恐怖が甦り、腹の底が握りつぶされるような感覚に陥る。
「でもオレは、その事実に耐えられなかった。アルを失ったという事実。オレのために、アルが自分を犠牲にしたという事実に。……だから今度はオレが、自らを代価にアルを呼び戻した」
「じゃあ弟さんは、生き返って……」
「わからない」
声が震えるのを、必死に押さえつける。泣きたくない。弱いところは見せたくない。これ以上、頭がおかしいとは思われたくはない。
「わからないんだ。果たしてオレは、無事にアルを取り戻せたのかどうか。自らを代価にしたオレは、その代償でこちらの世界にやってきた。あちらの世界に戻らない限り、アルが生きているかを確かめる術は、ない」
目の前の男は、押し黙ったまま変わらずオレを見つめている。どこまでも真剣に、オレの話すことを心から信じているという面持ちで。
「だからさ、オレは宇宙へ行きたいんだ!錬金術は使えないけど、宇宙からならあちらの世界に帰れるかもしれない。そしたら、オレはまたきっとアルに会って、そして……」
そして——ふれたい。ふれられたい。姉さん、と呼ばれて、もう二度と離れないと互いを抱きしめ合い、全身で、身体の深いところで、あいつの熱を感じたい。
「エドワードさん」
やはり、駄目だった。こらえきれずこぼれた一粒の雫に続き、次から次へと涙が溢れ出してくる。カップをテーブルへ置き、左腕で目を押さえれば、毛布から覗くシャツの袖が、みるみる熱く湿ってゆく。
アル。心の中で呼びかける。アル、お前は今どこにいる。オレを探しているのだろうか。それとも、オレのことなんて、もうすっかり諦めてしまっただろうか。きっと、諦めてしまったほうがいいのだろう。オレはお前を不幸にするばかりの、どうしようもない存在だったのだから。
けれど——ただひとつだけ願いが叶うなら、生きているお前をこの目で見たい。一瞬だけでもいい。そして伝えたい。たとえもう二度と会えはしないとしても、オレはお前を、なによりも深く愛している、と。
「ねえ、エドワードさん。今夜はね、聖夜なんですよ」
オレの涙に動じることもなく、そいつはどこまでも穏やかな声で、言った。
「救世主、イエス・キリストがお生まれになった奇跡の夜。僕もね、家族が熱心なクリスチャンだったというだけで、自分が心から信じているわけではないんですけど……」
そう続けて、どこか自虐的な笑い声を漏らす。その間も、袖で押さえつけたオレの瞳からは熱いものが溢れ出す。
「だからね、エドワードさん。今夜だけ……夢を見たらいけないんでしょうか」
ぐい、と身体を引かれる感覚。それに続いて、物理的な重みを持ったぬくもりが、全身を覆う。
その懐かしいあたたかさが体温なのだと気付いたとき、二本の腕の中に閉じ込められたことを、知った。
「今夜だけ、僕をあなたの弟だと思うことは、できないんでしょうか」
羽織った毛布の上から身体を締め付けられ、呼吸ができない。まるで真空世界へ放り出されたような苦しさが、全身を満たす。
エドワードさん、と同じく酷く苦しそうな声で、男はささやく。背中に当てられていた手がゆっくりとうなじへ移動し、そのまま首筋へとすべってゆく。どく、どく、と、心臓が脈動を強くし酸素を欲しているのに、息が吸えない。圧し掛かる胸板の厚さも、もう子供のものではない香りも、すこしも記憶にないはずなのに、この胸に空いた欠落にぴたりとはまるような——はまってしまうような恐怖に襲われる。
しかし、首筋に添えられていた指が鎖骨へと下り、そこからさらに下へ動こうとしたとき、全身に強い拒絶心が走った。
「っやめろ!アルフォンス!放せ!放せっ!」
左腕で胸を押し身をよじると、先ほどまでの締め付けが嘘だったようにその身体はオレから離れ、ぽすりとソファへ座り込んだ。
荒い呼吸を繰り返しながら、必死に毛布の端を引くと、身を守るような気持ちで身体の前面を覆う。ふれられてはいけない。それ以上ふれられれば、秘密を知られてしまう。オレが本当は女であること。そして本当は、欠落を抱いたこの身体も、その先を期待し始めていたこと。
「……無理だよ、アルフォンス」
胸の先がじんじんと痛んで、苦しくて仕方がない。床へと視線を落とし呼吸を整えていると、また喉の奥からなにかがせり上がって来て、木張りの床に雫が落ちた。ぱたりぱたりと、悲しみが溶け出して、濃い茶色の染みを作ってゆく。
「お前はオレの弟じゃない。それに……オレは夢を見たいんじゃない。夢から覚めたいんだ」
きっと、こんなことを言ってはいけない。こんなことを言えば、きっとこれまでのようには過ごせなくなる。それでも、これを言わなければ、オレは先ほどのぬくもりを、熱を、また望んでしまう。
「きっとさ、この世界はオレの夢なんだ。罪を犯したオレが、見ることを強いられている夢……。だからさ、いつか夢から覚めるのを許されたとき、きっとそこにはアルがいる。本物の、弟のアルが」
罰なのだと思った。最初に会ったとき、その顔を見たとき。どうしようもなく惹かれて、焦がれて、一緒にいれば楽しくて——それが苦しくて仕方がなかった。アルを、最愛の存在を裏切っている気がして、そんな自分が許せなかった。
「お前はオレにとって、夢の一部なんだ。お前をアルの代わりにすることなんて、できない」
だから、許してほしい、と心から願う。誰にかはわからない。今夜救世主が生まれるというなら、そいつでもいい。今こうして目の前のやさしい心を傷つけるオレのことを、どうか——……。
「……それでも、いいです」
しばしの沈黙が落ちたあと、目の前のそいつは、力なくも落ち着いた声で、言った。
「あなたが僕を夢の中の存在だと思うなら、それでもいいです。でも……」
再び伸ばされた指先が、恐る恐るオレの頬へとふれる。促されるまま視線を上げると、そこにあるのは毎晩夢に現れる、誰よりもよく見知った顔。
「それでもどうか……ひとりで泣いたりなんて、しないでください」
そいつが瞳を苦し気に細めて笑って見せたとき——オレはきっと、いつかこの青に絡めとられて窒息してしまうのだろう、と思った。
続く
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