まだひとりで歩けるような状態ではなかったから、家からすこし離れた路地に停めた車まで、小さな身体を抱えていった。後部座席に座らせるとき「どこに行くんだ?」と弱々しい声で尋ねられたが、僕はほほえみで誤魔化した。
 夜になって気温はさらに低下して、このままでは本当に雪になりそうだった。寒さで肺が引きつり、胸の痛みに歯を食いしばりながら仕事場へと車を走らせる。監視に気付かれないよう仕事場からまだ距離のある森へ車を停め、後部座席を振り返る。まだ以前のようではないが、泣きたいだけ泣いたからか、すこし瞳に生気が戻っている気がする。これならきっと大丈夫だ。
「エドワードさん、ごめんなさい。ちょっとトランクの中に入ってほしいんです」
 我ながら突拍子もないことを頼むと、そのひとの表情が一気に強張った。
「は……?トランクなんて狭いところ入れるわけないだろ」
「大丈夫です。あなたは小さいから」
 勢い余って言ってしまった言葉に、そのひとは先ほどまでの憔悴しきった姿が信じられないほどの剣幕でいきり立つ。以前僕が酔っぱらって、帰宅するなりこのひとに抱きついて「エドワードさんかわいい!ちっちゃくて!」と言ってしまったときは局部を蹴り上げられたが、今あれを喰らったら計画がとん挫しかねない。ふざけるなと怒るそのひとを無理やり抱き上げトランクへと押し込むと、その身体は予想どおりすっぽりと収まってしまう。
「おい、なんのつもりだ、アルフォンス!なにをしようとしてる!?」
「ごめんなさい。説明は後です。閉めるから手を引いて。あと叫んだりしないでくださいね」
 まだなにか言おうとしていたが問答無用でトランクを閉めると、急いで運転席へと戻る。喉を突き上げてきた咳を手で受け止めると、手の平が赤く染まる。僕らには時間がない。どれだけ荒唐無稽な計画に思えてもやるしかないのだとアクセルを踏み、別荘の敷地内へと乗り入れる。監視たちに挨拶し、そのまま駐車場に停めるふりをして別荘の裏側へと回り込む。
 計画では別荘の裏口でフランツが僕らを待っているはずだったが、姿が見えない。時計を見るともうすぐ九時といったところで、特に遅れてはいないはずだった。幸い扉の鍵は開いている。急いでトランクを開けると、そのひとは眩しさに目を細める。先ほどのことでまた怒られる前にとその身体を抱き上げると、肋骨に響いたのかくぐもった声を上げる。可哀想だが、今は丁寧に扱ってあげる時間はない。
 長い廊下を足早に歩き、僕たちに与えられている事務所の扉を開けても、仲間たちの姿はない。一体どうしようと戸惑っていると、事務所にドルチェットが駆け込んできた。
「おい、アルフォンス!急げ、もう始まった!」
「始まったって、なにが……?」
「門だよ!あいつら、もう門を開こうとしてる!それにロケットは外に運び出さないって言うんだ!時間がない!」
 ドルチェットの言葉に、腕の中のひとが「門?」と反応し、僕を見る。まずいことになった。本当は父親が自身を犠牲にして門を開こうとしているところをこのひとに見せたくなかったが、躊躇していられない。ドルチェットに続いて急いで事務所を出ると、作業場へと続く裏口を小走りで進む。
「アルフォンス、門ってなんだ!?錬金術が関係してるのか、おい!?」
「エドワードさん、静かにして!お願いだから!」
「でも、アルフォンス……!」
 動揺するそのひとの身をきつく抱きしめると、肋骨の痛みで呻き声が上がる。ごめんなさい、と言いつつも、このまま騒がれないようにと敢えて腕は緩めない。
 裏口から作業場に入ると、以前はなかった上の階が出現しており、ドーム状の建物の天井部分に描かれた魔法陣のようなものが青く発光していた。その下で、建物の形に添うように固定された大きな緑のものが、荒ぶった唸り声のようなものを発する。チューブかなにかだと思ったそれは、よく見ると頭を持っており、その口になにかを咥えている。
「……親父?」
 腕の中のひとが、その〈なにか〉を見てつぶやく。言われてみれば、あの姿には見覚えがある。あれは人間で、あの日言葉を交わした、あちらの世界で僕の父親だという……。
「親父っ!」
 まるで娘の声が聞こえたとでもいうように、その男はこちらを見て力なくほほえんで見せる。腕に抱えたひとがもがき始め、とっさのことに僕はバランスを崩し、倒れるように床へ膝をつく。僕の腕から離れたそのひとは、右手の義手だけを支えに床を這おうとする。
「親父、どうして……!なんで……っ!?」
「エドワードさん、駄目だ!」
 これ以上騒げばトゥーレ協会に気付かれてしまうと、飛び掛かるようにして小さな身体に覆いかぶさる。そのとき上から激しい光が射し、一体なんだと視線を上げる。そこには、口のようなものから力なくぶら下がり、血を垂れ流す男の姿が見えた。
 組み敷いた身体から、つんざくような悲鳴が上がる。このひとに父親が犠牲になる瞬間を見せたくなかった。自分の不甲斐なさに奥歯を噛みしめながらその身体を抱きしめると、今度はすさまじい突風が吹きつける。天井を見ると、先ほどのチューブのような生物とその口に咥えられた男の姿は消え、代わりに突き出した壁のようなものが出現し、激しく発光していた。あれが、〈門〉なのだ。あれを抜ければ、このひとはもとの世界に帰れるのだ。
 先頭のロケットを取り囲むようにして、すでにトゥーレ協会の連中が搭乗の準備を始めている。あれは使えない。周囲を見渡すと、僕たちが余ったパーツで遊び半分に組み立てた一人乗り用のロケットが目に入る。——あれだ。
「おい、ハイデリヒ!?どうすんだ!?」
 小さな身体を抱き上げ、突然走り出した僕を見てロアが叫ぶ。説明している時間はない。愛しいひとに大丈夫だと伝えるように腕の力を強めると、一人乗り用ロケットの隣に設置した足場への階段を駆け上がり、開けたコックピットにほとんど放り入れるようにしてそのひとを乗せる。
「……アル……フォンス?」
 青ざめ、色を失った唇で怯えたように僕の名をつぶやく。すぐに行かせなければならない。今すぐに、トゥーレ協会がロケットを発射させる前にこのひとを飛び立たせて、建物ごと門を破壊し、仲間たちとアメリカへ逃げるのだ。
 しかしそのとき、そのひとの髪に結わえ付けた赤いリボンが目に入った。初めて結わった日から、このひとがいつもつけていてくれたリボン。それをきっかけに、僕らが過ごした日々の記憶が怒涛のように頭へ流れ込んでくる。
「アルフォンス!アルフォンスっ!?いやだ!」
「——……っ!」
 こみ上げてくる想いをぶつけるように、青ざめた唇へとくちづける。
 周りで仲間たちが見ていようがなんだろうが、そんなものはどうでもよかった。あの日、このひとと再会し、初めて身体を合わせた日から、何度もなんども重ね合わせてきた唇。やわらかくて、冷たくて、そしていつもどこか戸惑うように震えていた。
 唇を離すと、そのひとは涙の溜まった金色の瞳で困惑したように僕を見る。何度見ても僕の心を締め付ける、まばゆいふたつの輝き。
「エドワードさん」

 本当はそばにいてほしい。

 僕の命が尽きる最期の瞬間までこの手を握っていてほしい。

 でも、今ここであなたを行かせないと、僕は絶対に後悔するから、だから——……。

「愛しています、あなたを」
 目の前の瞳が、光を照り返すように揺らぐ。その双星を見つめ返しながら、こみ上げてくるものを飲み下し、想いを乗せて手を握る。生身の左手は、不吉なものを予期して、ふるりと震える。
「あなたを愛してる。僕が世界中の誰よりも、絶対にあなたを……愛してる」

 きっと本当は、僕のことなど忘れてしまったほうがいいのだろう。

 僕と過ごした日々も、この世界のことも忘れて、愛する弟とともに、ただ幸せに残りの人生を歩んでゆけばいい。辛かった記憶も、寂しかった日々も、〈夢〉の中のことは、すべて忘れて。

 それでも、もしも我儘が許されるなら。もうすぐ燃え尽きる命が、あなたの胸に最後の呪いねがいを植え付けることを、許してくれるのなら——……。

「忘れないで」

 僕のこと。僕と過ごした、この世界のこと。あなたのことを、どうしようもなく愛した愚かな人間がここにいたことを、どうか。

 震える手を離し、ハッチを閉じる。アルフォンス、アルフォンス、と愛しいひとが僕を呼ぶのを無視して、発射台から飛び下りる。振り返ってはいけない。どれだけ名残惜しくても、振り返れば、僕はあなたを行かせられなくなる。
「おい貴様っ!なにをしている!?」
 突然発せられた声のほうを向くと、トゥーレ協会の幹部であるヘスがこちらへ走ってくる姿が目に入る。その手には拳銃が握られ、今にもロケットへ向けて発砲しようとしている。このままでは、エンジンに穴を開けられてしまう。
 操作盤の発射レバーを押し上げると、必死に階段を駆け上がり、エンジンを守るためロケットの前に立ちふさがる。アルフォンス、と背後から愛しいひとの声がする。ああ、あなたはまだここにいる。我慢できずに振り返ったとき、ズドンと鈍い音が響く。
 衝撃に身体を貫かれ、倒れるままにコックピットの窓へと縋り付く。そこにあった愛しい顔が目に入り、思わず笑みがこぼれる。しかし、どうしてガラスが赤いのだろう。どうしてあなたは、そのように怯えた顔をしているのだろう。
「アルフォンスっ!」
 その声を最後に、僕の視界は濁り、暗黒へと転ずる。ロケットが垂直に立ち上がり、飛び立ってゆく音がする。ああ、もう大丈夫だ。あのひとはもう、夢から覚めるのだ。あのひとはもう、独りではないのだ。

 ロケットから振り落とされた身体が地面に打ち付けられ、もう指一本にすら力が入りそうになかった。
 それでもいい。愛しいひとを、あのひとと過ごした日々を思い返しながら、溢れる涙を押し込めるように、瞼をおろす。

 短い、たった十七年の人生だった。

 けれどあなたと出会えて、あなたを愛して、僕の人生は言い尽くせないほどに——幸せだった。



続く