十一月八日に向け、僕たちは必死に作業を続けた。ロケットを組み立てながら、計画どおり大切な設計図や部品もこっそりと持ち出し、ビドーが言っていた爆弾置き場の場所も確認し、当日までに誰がどこに設置するかも決めた。驚いたのは、仲間たちが本当にアメリカに電話で連絡を取っていることだった。どうやら向こうの研究者たちもオーベルト先生の本をきっかけにこちらの技術に興味を持っているらしく、一緒に研究したいと言ってくれているとのことだった。
 僕が最も心配していた仲間たちの未来にも希望が差し、あとは時を待つだけだった。
 十一月八日。僕が愛するあのひとに別れを告げる日は、刻一刻と迫っていた。


 その木曜日は、朝から空が厚い雲に覆われ、今にも雪が降りだしそうな灰色が広がっていた。息をするのもつらいほどの冷気だったが、仕事場は朝から最終確認でごった返しており、あちこちから怒号が飛んでいたため、寒いと文句を言っている暇もなかった。日中はトゥーレ協会の幹部たちに姿を見せ、通常どおり働いていることを印象付けた僕は、仲間との打ち合わせどおり、十七時ごろになって仕事場をこっそりと抜け出し、ビドーの用意してくれた車で家へと帰った
 突然帰ってきた僕を見て、グレイシアさんは驚いた顔を見せた。「仕事が早く終わったから、エドワードさんと過ごしたいと思って」と告げると、悲しそうな笑みを返してくる。やはり、あのひとの容態は芳しくないのだろう。
「でもちょうどよかった。私は人と会う予定があるから出掛けないといけないの。鍵を渡しておくから、好きに出入りしてちょうだい」
 そう言って、グレイシアさんは店の片付けを始める。慌ててそれを手伝いながら、いつもあのひとの面倒見てもらっていることにお礼を言い、迷惑をかけていることを詫びると、「やめて」と怒ったような声でたしなめられる。もうひとり、僕の人生に与えられた幸運は、いつだってどうしようもなくやさしい。
「グレイシアさんって、まるで……」
 そこまで言いかけて、以前「グレイシアさんはお母さんみたいだ」と言ったら、「あなたのお母さんにしては若すぎるんじゃない?」と怒られたことを思い出し、笑いを堪えながら口を噤む。「なに?」と顔を覗き込んで来る緑色の瞳を見ながら、今夜アメリカに逃亡する僕にとって、この人に会うのは最後なのかと考える。迷惑をかけた分、子供とあのひとのために貯めていたお金をすべて残していくつもりだが、きっとこの人はそれに喜ぶことなく、挨拶もできないまま去っていった僕たちとの別れを嘆くのだろう。
 けれど、計画を事前に話せば、グレイシアさんにも危害が及ぶ可能性だってある。生きている限り訪れるどうしようもない悲しみのひとつを胸に落とし込み、出かけていく背中に手を振りながら、「ありがとう」と「さようなら」をつぶやいた。

 そのひとが眠る部屋のカーテンは開けられていたが、日が暮れてしまったせいですでに真っ暗になっていた。明かりを灯すとベッドへと歩み寄り、そこへ横たわるひとの姿を見下ろした。
 薬が効いているのだろうか。よく眠っているその姿に、ホッと安堵を覚える。顔の痣はよくなったようでガーゼは取れていたが、以前よりも痩せてしまった顔が痛々しくて、たまらず頬へ手を当てる。そのまま青ざめた唇へくちづけを落とすと、そのひとはゆっくりと目を開いた。
「……アル、フォンス?」
「起こしてごめんなさい。どうしてもあなたに会わせたい人がいるんだ」
 僕の姿を認めて、瞳に涙が盛り上がってくる。大丈夫だと伝えたくて目の下に何度もくちづけ、ベッドの上に横たわる身をそっと抱き起こす。骨折した肋骨がまだ痛むのか、顔をしかめる姿に焦りながらもなんとか起こすと、身体を圧迫しないようにふんわりと抱き締める。やはり前より痩せてしまって、もともと細かった身体が今は骨だけのようになってしまっている。
「アルフォンス……オレ……」
「仕事が忙しくて来られなかったんだ。ごめんなさい」
 涙で震え始めた背中をなでて、こめかみへくちづけを落とす。本当は会いたかった。毎日、どんなときだって、あなたのことを考えていた。
「ごめん……ごめん、アルフォンス」
「謝らないで。あなたは人を助けたんです。間違ったことなどしていない」
 そう伝えても、そのひとは怯えたような様子でこちらを見る。その金色の瞳を見て、ああやっぱりこのひとはなんて綺麗なのだろうと、胸がいっぱいになる。
「支度をしないと。部屋から服を持ってきます。それから……」
 背中に当てた指にかかる金色の髪。長らく梳いていないからすこし縺れてはいるが、今でもまだ絹糸のような艶やかさを失ってはいない。
「髪を……結ってもいいですか?久しぶりに」
 僕の申し出に困惑しながらも、拒絶はしない。グレイシアさんがベッドの横に大切に置いてくれた、赤いリボン。あの日、地面に倒れていたこのひとの髪に縋り付くようにして引っかかっていたものを、警官のヒューズさんが持ってきてくれたのだ。

 本当は僕が選んで買ってきた服を着てほしかったけれど、ブラウスが子供用だと前に散々文句を言われたから、上にはグレイシアさんにもらった別のブラウスを着せて、下だけ僕の選んだスカートを履いてもらった。
 弱った身体には負担になるかと思ったけれど、義手と義足も装着した。このあと一体なにが起こるかわからないのだから、いざというときこのひとが自分で動けないと問題だ。
 鏡台の前に座らせようと椅子から抱き上げたとき、まだトランシルヴァニアにいたころ、机で眠ってしまったこのひとをよくこうして抱き上げて部屋まで連れて行っていたことを思い出した。あれからまだそれほど時間は経っていないはずなのに、すでに遠い記憶のようで、ふいにくすぐったさを覚える。このひとに手が届かないことがただもどかしくて、悔しくて、それでいてどうしようもなく愛おしい日々だった。あれから僕らはたくさんのものを得て、そして大切なものを失いもした。
 僕が髪にブラシを滑らせている間も、そのひとはぼんやりとうつむいていた。魂を欠いた抜け殻のような姿と、左腕に巻かれたギプスが痛々しく、このひとをこんな風にしてしまった暴漢たちへの憎しみが再び胸にせり上がる。しかし最後の夜に醜い姿は見せたくないと、なんとかそれを飲み下す。
「……最初は僕、全然三つ編みができなくて、エドワードさんに笑われてましたよね。あれからたくさん練習したから、今はもう目をつぶっててもできそうな気がします」
 反応は、ない。ぼうっと虚空を見つめる姿に、心の中で語りかける。大丈夫、もうすこしの辛抱だ。もうすこしであなたは、愛しい弟に会えるのだから。
「髪をアップにしたときは、ずいぶん嫌がってましたよね。こんなの自分には似合わないなんて言って。とっても素敵だったのになあ」
「……」
「左右の高い位置で結ぼうとしたときは、ふざけるなって叩かれましたよね。まったく、エドワードさんはすぐ手が出るんだから」
「……」
「……でもね、色々試したけど、やっぱり僕はこれがいちばん好きなんです」
 物言わぬ相手に語りかけながら、手の中の髪をまとめて後頭部でひとつにくくる。なんの捻りもない、シンプルな髪形。
「初めて会ったときも、トランシルヴァニアにいるときも、あなたはずっとこの髪型だった。だから僕にとって、エドワードさんといえばやっぱりこれなんです。僕が好きになったあなたは、いつもこの姿をしていたから」
 僕の言葉を聞き、小さな肩がわずかに動く。ゆっくりと上げられた瞳はまだ翳りを帯びながらも、鏡越しに僕を見る。その双眸にほほえみを返して、髪をまとめたゴムの上から赤いリボンを結び付ける。
「できました」
 ふいに、金色の瞳からひと雫の涙が落ちる。慌てて椅子の隣に膝をつきその涙を指で拭っても、また次の涙がこぼれ落ちてきてしまう。
「泣かないで」
 頬に手を当てそう語りかけると、涙はか細い嗚咽へと変わってゆく。
「泣かないで、エドワードさん」
 数年前のクリスマスの日、拒絶されてこの腕に留めておけなかった身体を、今度は決して離しはしないと抱き締める。大切なものを失った。けれど僕が焦がれてやまなかったこのひとは、まだここにいてくれる。
「あなたが生きてそばにいてくれるなら、それで僕は十分なんです」
 あの子を喪った日、本当はいちばんに言わなければならなかった言葉をやっと告げる。
 腕の中の愛しいひとは、ギプスの巻かれた左腕をゆっくりと動かし、まるで僕の想いを受け入れるようにこの身体に縋り付く。そして胸に巣食ったすべての悲しみを流し出すようにして、大声で泣いた。



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