その晩、僕はひとりベッドに横たわり目を閉じた。半信半疑のまま、あの男が言っていたとおりなにかが聞こえてこないだろうかと耳を澄ます。しかし周囲には沈黙が満ちるばかりで、僕を呼ぶ声など聞こえはしない。躊躇いを覚えながらも、今度はこちらから、アルフォンスくん、と呼び掛けてみるが、やはり返事はない。日中の疲れもあり段々と眠気に襲われ、結局そのまま僕は寝入ってしまった。
翌晩も同じく、僕の呼びかけに応える声も、あちらから僕を呼ぶ声もありはしなかった。こんなこと馬鹿げているという気持ちを拭いきれないまま、再び眠気に身を委ね、瞼を閉じる。しかしそのあと、僕は夢を見た。暗闇の中、ぼんやりと霞みがかるように浮かぶひとつの姿。よく見えないが、背丈からしてまだ子供で、赤い服をまとっている。声を掛けようとした途端、その姿は僕に怯えるようにして消えていった。
翌日は仕事でまた打ち合わせがあり、ロアが言っていたエッカルトという人物が仕事場に姿を見せた。確かに凛とした美人で、質問をする際も僕たちにも穏やかに話しかけてくれたが、どこか物々しい雰囲気があり、心から信頼できそうにはない人物だった。エッカルトを始めとしたトゥーレ協会の幹部たちは、十一月八日に打ち上げを行うから、それまでにロケットを完成させるようにと念を押してきた。打ち上げ場所とその目的は極秘とのことだったが、ドイツの力を証明するためにあなたたちの技術が役立つんですよ、と言われ、仲間たちは顔を高揚させていた。その中の、ただひとりを除いて。
「嬉しそうじゃなかったね、さっきは」
打ち合わせのあと、事務所でふたりきりになったのを見計らってロアに声を掛けると、彼は巨体を椅子に沈ませたまま「ああ」と誤魔化すように笑った。
「なんだかなあ。ドイツのためって言ったって、俺たちのロケットはどう使われるんだか、と思ってな。この間も、大砲をもう一本増やせと言われたばかりだしな」
ロアは続きを言おうとして口を噤んだ。大方、僕も彼女の言葉に喜んでいて、その気持ちに水を差すとでも思ったのだろう。
「エドワードの調子はどうだ?お前、普通に毎日仕事に来てるが、あいつはまだ入院してるのか?」
「ああ、退院はできたんだけど、僕がいると余計につらい思いをさせてしまうから、あまり顔を見せないようにしているんだ……」
あのひとは今、グレイシアさんの部屋で暮らしている。退院して家に帰ってきたとき、ベッドに横たえようとしたらまた酷く取り乱してしまったのだ。きっと、同じ部屋で子供の名前や未来について語り合っていたことを思い出してしまったのだろう。
毎日様子を聞きに行く僕に、グレイシアさんは色々と報告してくれる。顔の痣はよくなっているが、相変わらず憔悴していて食事も碌に摂らないこと。寝ているときも涙を流し、僕にずっと謝っていること。求められるならいくらでもそばにいたいが、今のあのひとにとって自分は毒にしかならない気がして、部屋を訪れることはできなかった。
「ねえロア。聞いてほしいことがあるんだ」
話すなら今だと思った。ロアの横の椅子を引くと、そこへ腰を下ろし彼を見た。ロアは「なんだ、改まって」と茶化しながらも、重い瞼から覗く目でしっかりとこちらを捉えている。僕が大切なことを切り出すとわかっているのだろう。やはり、この男は信頼できる。
「僕は……エドワードさんをもといた場所に返してあげたい。その手伝いをしてくれないか」
そして僕は腹を括り、すべてを語った。あのひとの父親であるホーエンハイム博士に会えたこと、あのひとたちの世界のこと、ホーエンハイムの計画のこと、そして——。
「僕の咳、喘息じゃないんだ。嘘ついてごめん。肺癌で……もって一年と言われた。半年以上前に」
ロアは驚きを見せなかった。その代わり、大きな手を自分の口に当て、深い息を吐いた。
「……知ってたよ。お前が病気で、それを隠して無理して働いてることは。多分、他の奴らも気付いてる。でもまさか、半年……とは」
そうか、と言って肩を落とす。隠していたことを責めもせず、ただ落胆の色だけを滲ませる姿に、却って罪悪感を掻き立てられる。
「ごめん……。でも、僕はエドワードさんを独りにしたくない。あのひとが愛する弟さんのものとへ返してあげたいんだ。でも……これを成功させるには、あのロケットが必要になる。僕たちが丹精込めて作ってる、あのロケットが」
「……いいんじゃないか」
あっさりと返って来た答えに驚き顔を上げると、そこには真っ直ぐにこちらを見つめる瞳があった。
「あいつらには話さなきゃならない。反対する奴もいるだろうが、俺が説得してみる。やってみればいい。そのあとのことはどうにでもなれだ」
「でも……どうして、そんな……」
「なんだよ、自分から頼んでおいて」
いつも生真面目なロアは、珍しく悪戯っぽい笑みを見せたあと、前方のどこか遠いところへ目を向けた。
「俺たちのロケットを、戦争に使われたくないんだ」
「……」
「わかってたさ。トゥーレ協会が極右勢力であることも、奴らがなんらかの形でロケットを軍事利用しようとしていることも。それでも今の時代、ロケット工学なんていう夢みたいな研究をするには、パトロン様の言いなりになるしかないと自分に言い聞かせた。でもな……嫌なんだよ。ロケットに武器が付け足されるたび、俺はなにを作ってるんだと、人を殺す道具を作っているのかと、嫌で嫌でたまらなくなる」
なんとなく気付いていた。最初に武器を付けろと言われたとき、ロアは声を上げて異を唱えた。ヘスさんに睨まれてすぐ口を閉じたが、それ以降パトロンが注文を入れるたび、複雑な表情を浮かべていることが多くなっていた。僕だって思っていた。一体あの大砲は、なにを撃つためのものだろうと。
「もう戦争は嫌なんだ。仲間が隣で死ぬのも、誰かを撃つのも」
「え、ロア。君、戦争に?」
「俺をいくつだと思ってんだ。お前みたいに、戦争中はまだガキだったような年齢じゃないぞ。フランスのソンムでな、連合国とそれは派手にやり合ったさ。消耗戦で、人間が簡単に死んでいった。今でも夢に見る」
いつも言葉数が少なく、過去についても語ることもあまりなかったから、思い至ったことがなかった。それとも、戦争が彼を物静かな人間に変えてしまったのだろうか。
「だからな、俺は自分たちのロケットが誰かを殺すためじゃなく、誰かを救うために使われるなら、そのほうがいい。錬金術だとかもうひとつの世界だとか、そんなのは信じられないが……この際どうでもいい。お前が悔いを残さないことが、いちばん大切だ」
やはり、この男には敵わない。無駄なことを話さない代わりに、相手のことを深く考え、最適な答えを差し伸べてくれる。
ありがとう、と言いたいのに、それが酷く薄っぺらい言葉な気がして躊躇っていると、ロアは大きな手で僕の背中を叩く。その力強さは深いやさしさと同義である気がして、こみ上げてくるものを堪えるために唇を噛んだ。
ロアはすぐに皆に話をしてくれたらしく、二日後の夜、僕たちはパトロンの目を盗んでビアホールに集結した。端っこを陣取り、仕事の話をしているように見せるため図面を広げると、ロアが早速話を切り出した。
「この間の話だけどな、こいつら全員、俺と同意見だ。好きにしろ」
再び信じられない言葉に目を丸くしていると、仲間たちは僕の反応に笑い声を上げる。
「おいおい、礼もなしかよ」
「ちがう!そんな……まさかこんなこと、許してくれるなんて思わなくて……。だって、あのひとが別の世界の話をしたとき、みんな笑ってたから……」
「そんなのはいいんだ。お前がやりたくて、その理由がエドワードだからやる、それだけだ」
ドルチェットがそう言って、インフレで三千億マルク近くまで値上がりしたビールを、惜しげもなく煽る。
「オレも戦争に行ったからさ、ロアの気持ちはわかるんだ。それにトゥーレ協会の連中、最初はやさしかったけど、どんどん態度が偉そうになって、ムカついてたしね」
いつもおちゃらけてばかりのビドーがそう言って、片目を瞑る。信じられない思いで固まっていると、いつかトランシルヴァニアで僕が殴りつけたフランツが突然僕に抱きついてきたものだから、僕はヒッと声を上げた。
「アルフォンス、お前……死んじまうのか?」
「おいフランツ!」
ロアの咎める声も聞かず、フランツは僕に抱きついたまま泣き始める。まだビールに口をつけたばかりなのに、もう酔っているのだろうか。
「俺は確かにエドワードに惚れてたがな、それ以上にお前らふたりを見るのが好きだったんだ。お互いを宝物みたいにして思いやってるお前らを見てると、まだこの世は捨てたもんじゃないって思えて……だから……」
うっ、うっ、と、大の男に耳もとで泣かれて困惑したが、同時にフランツのくれた言葉が嬉しくて背中をなでる。ふと目を上げると、周りのみんなもフランツに同意するように頷いていた。
「でも……どうやって門を壊せばいいんだろう」
「ああ、それなら簡単だぜ。ハウスホーファーさんの別荘で、この間見つけたんだ。大量の爆弾」
えっと青ざめる僕をよそに、ビドーは楽し気に話し続ける。
「手榴弾もあったから、あれを拝借して、門とやらに投げつけてやれば大丈夫だろ。それはどこにできるんだ?」
「わからない。詳しいことまで話せなくて……。でもロケットを発射するんだから、中庭かどこかじゃないかな」
「ならロケットをバラして運び出すときが肝だな。なんとか一機だけ先に組み立てちまって、そこにエドワードを乗せられないか……。ロケットの知識は俺たちのが上だ。トゥーレの奴らに残りの運び出しをさせている間に、俺たちで一機目を組み立てて飛ばしちまおう」
「なんならそのあと、ハウスホーファーの別荘自体ふっとばしちまおうぜ。残りのロケットだって、どんな風に悪用されるかわかったもんじゃない。それなら俺たち自身の手で葬ってやったほうが、あいつらも浮かばれるだろう」
「お、いいな!暴力を煽る極右の団体なんて糞くらえだ!大切なものだけ予め持ち出しておけよ。それを持って、俺たちはアメリカに亡命だ!」
「あっちでも同じような研究してる奴らいたよな。いっちょ俺たちの力を貸してやるか!」
引き続きフランツの背中をなでながら、どんどん盛り上がっていく仲間たちを見て、僕は呆気に取られていた。これは夢なのだろうか。どうしてみんな、僕にここまでしてくれるのだろう。
きっと、その思いが表情に出ていたのだろう。ドルチェットは席を立つと、「おいアルフォンス」と頭を押さえつけてくる。
「わかってんのか。お前は俺たちにとって、弟みたいなもんだ。兄貴が弟の我儘を聞いてやらないでどうする」
そのままわしゃわしゃと髪を撫でられ、その様子に皆が笑う。その声に誘われるように瞳から溢れ出してくる熱いものを堪えようとしたが、それはあっけなくテーブルへ落ちてゆく。
「ありがとう、みんな」
ありがとう。そう声を震わせる僕に、「おいおい泣くなよ!」と言って皆がまた笑う。
あのひとが暴力にさらされ、大切な命が喪われた日、僕は神を呪った。
しかし僕には、こうして奪われなかったものもある。十七年という短い人生の中、あのひとと、このかけがえのない仲間に出会えた僕は、幸運だったのだと心から思う。
神さまは、人が一生かかって手に入れる幸せを、この十七年に詰め込んでくれたのかもしれない。
その晩、家に帰った僕は、これまでよりずっと強く〈彼〉の名を呼んだ。準備は整いつつある。最後のピースは君なんだと訴え、やがて疲労と酔いに呑まれて眠りの中へと沈んでいった。
そして——僕は夢の中で目を覚ました。いつもと同じ漆黒の闇。今日も来てはくれないのだろうかとため息をつきそうになったとき、背後でかすかに衣擦れの音がし、急いで振り返った。
そこに立っていたのは、赤いコートをまとったひとりの子供だった。やわらかな金色の髪を後ろでひとつにまとめ、同じく金の瞳で僕を見上げる。その髪型と顔つきから一瞬女の子かと思ったが、よくよく見るとやはり男の子だと思わせるなにかがあった。
「君が……アルフォンス……くん……?」
僕の問いに答える代わりに、金色の大きな瞳は精査するように僕の表面を滑る。鋭く睨み付けているはずなのに、顔つきがやさしいせいで迫力はない。この顔には見覚えがある。女の子のようだと学校で揶揄われ、早く男らしくなってくれないだろうかと鏡を覗いていた幼い僕と、同じ——……。
「あちらの世界の、〈ボク〉ですね」
僕の思考を読んだように、少年は言う。まだ変声期に至っていないその声は、たっぷりと混ぜ合わせたクリームのように、甘い。
「……僕のことを知ってるの?」
「知ってます。夢で見ていたから。あなたのことも、姉さんのことも」
姉さん、という響きに鼓動が脈打つ。この子がそうなのだ。あのひとが眠りの中で何度も呼び、会いたいと泣いていたのは、この子だったのだ。
「アルフォンス、くん。僕は……」
「姉さんを誰よりも愛しているのはボクです」
口を開いた僕へ挑みかかるように、その子は言った。
「ボクがいちばん長く姉さんのそばにいて……姉さんのことをわかっていて……。だからボクのほうがあのひとにふさわしいんだ!ボクが一緒だったら、姉さんをあんな目に遭わせたりしなかったのに!!」
そこまで言い切って、気まずそうに視線を逸らす。きつい言葉を言い慣れていないのか、その瞳には痛みさえ浮かんでいるように見える。
突然のことで驚きはしたが、なにを言いたいのかはわかる。この子は言った。僕たちのことを「夢で見ていた」と。それならば、この子は知っているのだろう。僕たちがどんな風に時を過ごし、愛し合い、今どのような状況にあるのかも。
「……君の言うとおりだ。僕は不甲斐ない。自分でも嫌になるくらいに」
ずっと、話してみたかった。あのひとがあれだけの愛を注ぎ、いつまでも口にする〈アル〉に。
同時に、ずっと会うのを恐れていた。それはきっと、こうなることがわかっていたから。僕がこの子なら、愛しい姉の人生に突然現れ、あのひとを攫っていった男を、決して許しはしないだろう。たとえそれが、もうひとつの世界の自分自身だとしても。
「君のほうがあのひとのことをわかっているというのも、多分本当だ。僕はあのひとの気持ちが、しょっちゅうわからなくなってしまうから。でも……君が誰よりもあのひとを愛しているというのは、違う」
僕の言葉を聞き、その子は顔を上げる。瞳から濁りが消え、怒りの炎が燃え上がる。それにも構わず、僕は続けた。
「僕はあのひとを愛している。君と同じか、それ以上に」
もしもこの子が、「あのひとが誰よりも愛しているのは自分だ」と言っていたなら、僕はなにも言い返すことはできなかった。けれど、あのひとへの想いに関してならば、僕は決して負ける気がしない。
少年は僕を睨み付け、今にも掴みかかってきそうだった。まだ幼いながらもどこか百戦錬磨の雰囲気があるにもかかわらず、僕は恐れを抱くどころか、その子に対してうっすらと親愛の情すら覚え始めていた。この子も愛しているのだ。あのひとのことを、痛々しいほど切実に。
「アルフォンスくん。君の力を借りたい」
本当はもっとこの子のことを知りたかったが、僕には時間がなかった。本題を切り出すと、少年はかすかに身を強張らせた。
「お父さんからの伝言だ。十一月八日に、お父さんがこちら側から門を開ける。あのひとをそちらへ帰すために」
ゴクリ、と喉を鳴らし少年は瞬きもせず僕を見ている。先ほどまで宿っていた敵意は、もうそこにない。
「君にはあちら側からも門を開いてほしいそうだ。お父さんは、門の内側から来た者が必要だと言っていた。なんのことかわかるかい?」
「……わかる、ホムンクルスのことだ。でもどうやって……」
僕の言葉を信じてくれた様子に、内心ホッと息を吐く。きっと、この子もわかってくれているのだ。僕がどれだけ真剣に、あのひとを想っているのか。
「僕はロケット……空を飛ぶ機械で、あのひとをそちらへ飛ばす。僕と仲間の自信作だ。きっと大丈夫」
「でも……あなたはそれでいいの?」
質問の意味がわからず言葉に詰まると、少年は眉を寄せ、きゅっと唇を結ぶ。どこか憐れむような表情を見てやっと言葉の意味を理解した僕は、胸に満ちるあたたかさに思わず笑いだしそうになる。やさしい子なのだ、この子は。やはり僕は、この子ともっと話をしてみたかった。
「知ってるだろう。僕はもう長くない。だからもう、あのひととは一緒にいられないんだ」
そう、だから、僕はあのひとの手を離す。あのひとの幸せを願うから。そしてその先に、君がいてくれるとわかったから。
「あのひとを……お姉さんを、君に返すよ」
幼いころの僕と同じ顔をした少年は、僕がその言葉に込めた想いをすべて受け止めるように、頷いた。
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