花の鎖
あのひとに想いを伝えるとき、縋るような気持ちで贈ったのは、野の花を指に結わいつけただけの、あまりにも粗末な指輪だった。
薄紫のグンデルレーベの花が第二関節の上に来るよう慎重に結びつけながら、金色の瞳に告げた。いつか僕がロケット開発で名を挙げ、経済的にも安定したら、きっと本物の指輪を贈る。だからそれが叶ったとき、どうか僕と結婚してほしい。命が潰えるその日まで、ずっと僕のそばにいてほしい、と。
それを耳にしたあのひとは、綺羅星めいた瞳を驚いたように見開き、しばらく沈黙したあと、そうだな、と悲しげに笑った。
「オレは行けないから……もう、どこにも」
そして指に巻かれた花へと視線を落とし、誰に向けるでもないひとりごとのように、きれいだな、とささやいた。
その指輪は、しばらく彼女の細い指に結い付けられていたけれど、数日経つと変色し、あっけなく千切れてしまった。それは予想していたことだったけれど、やはりどこか切なくて、まるで彼女との約束が潰えてしまったみたいに思えた。
そんな僕の心を見透かしたように、あのひとは言った。仕方ないよ。形あるものは、いつか必ず綻びてしまうのだから。そして、その悲しい運命を弔うかのように、また悲し気に笑いながら、もういちど、仕方ないんだ、とつぶやいた。
あのひとは僕が、人生で初めて心から愛した女性だった。
絹糸のようになびく金色の髪や、煌々と光る星々にも似た瞳といった、人目を惹く容姿だけではない。彼女の才能、堂々とした性格、そして時折見せるさびしげな表情。そのすべてがあまりにも的確に僕の胸を射抜き、僕は痴れ者に成り果ててしまったかのように、彼女の虜となった。
その想いが結実したのは、研究所が解散になり、仲間と共にミュンヘンへと移ったあとだった。僕が送った手紙を頼りに僕の下宿へとやってきた彼女は、父親が失踪したこと、そして何処にも行く宛てがないことを告げた。
憔悴しきった捨て犬のような姿を見て心が浮き立ったと言っても、誰が僕のことを責められるだろう。だって想い人が、僕を頼って来てくれたのだ。彼女が研究仲間の中で、僕だけを特別視していることにはなんとなく気付いていた。その理由は僕が弟に似ているなどという曖昧なものだったから、僕はうっすらと、彼女も僕に想いを寄せてくれているのだろうかと期待していた。
だから、その願いが形を成すように、愛するひとが僕の助けを求めて玄関先に現れたとき、僕は歓喜のあまりその細い身体を掻き抱き、唇へとくちづけた。彼女は一瞬たじろぐようにして僕の胸を押し返したが、すぐに脱力し、諦めにも似た様子で唇を受け入れた
その日から僕らは、同居人となり、恋人となった。僕が毎朝毎晩かける愛していますという言葉に、彼女は困ったようにほほえみながらも、オレも、と返してくれた。どこか居心地悪そうではあったけれど、それはきっと、恋愛に慣れていないからなのだと思った。男性の名前を持ち、男装を好み、言動からも一切の女性らしさを欠いた彼女が、これまで誰かと関係を持ったことがあるとは到底思えなかった。その証拠に、僕のくちづけを受け入れる彼女の唇は、いつも強張り震えていた。
僕は彼女が頑なにまとった呪いを、解いてしまいたいと思った。彼女の心と身体をとろとろと甘やかし、あなたは僕の大切なお姫さまなのだと、だから僕の前では弱さも孤独もさらけ出し、この胸に縋りついて泣いてもいいのだと、わかってほしかった。
だからある晩、僕は彼女にいつもどおりくちづけを与えたあと、その身を寝台へ横たえ、白い首へと唇を寄せた。彼女は緊張のあまりにこくりと喉を鳴らし、不安気な瞳で僕を見上げた。
これからなにが行われるのか察しているだろうに、彼女は抵抗を見せなかった。それを同意と受け取った僕は、歓喜に胸を躍らせながら、彼女のまとう寝衣のボタンをひとつずつ外し、その下に現れたふたつのささやかな膨らみへ愛撫を与えた。
入浴を済ませたばかりの彼女はもう義手をつけていなかったから、金属の結合部もそれを取り巻くケロイド状の肌も露わになっていた。痛々しいその身体に庇護欲を煽られ、傷を癒してあげるような気持ちでくちづけながら、すでに熱を帯びているであろう下穿きの中へ手を差し入れた。
しかしそこは、ほんのすこしも熱を灯してはいなかった。すでに欲望ではち切れそうになっている僕を嘲笑うかのように、しんと冷えたままだった。きっと初めてで緊張しているのだろうと、子供みたいにつるりとした割れ目へそっと指を挿し入れても、そのひとは顔色を変えず、甘い声のひとつすらも漏らしはしなかった。
「……ごめん、濡れない」
身体のやわい箇所にふれながら、なんとか熱を灯そうとする僕に向け、そのひとは今にも消え入りそうな声で、言った。
その晩、僕らは身体を重ねることをしなかった。そのひとは僕の身体を案じ、手で慰めると言ってくれたけれど、それは酷い屈辱であるような気がして、結局僕は浴室で自らを処理した。
きっと、初めてだからなのだろう、と思った。かく言う僕も経験はなかったけれど、男性と女性では性欲に違いもあるだろうし、成人女性にしてはあまりにも小さな身体つきや、毛も生えていない秘所を見る限り、発育不良の傾向もある気がした。あんな風に重い機械の手脚をつけているから、二次性徴に影響があり、そのせいで性的快楽を呼び起こす感覚が鈍っているのかもしれなかった。
だから僕は辛抱を心に誓い、決して無理強いはしないことにした。いつものように唇へくちづけ、彼女の体調がよさそうな日はあの晩のように寝台へ横たえて、指や唇、そして舌で身体の至るところへ愛を注いだ。
しかし彼女の身体が、快楽に火照ってくれることは一度もなかった。彼女は金色の瞳をすこしも動じさせることなく、虚しい努力をつづける僕を見つめていた。
「……気持ちよくない、ですか?」
縋るような気持ちでそう問いかけると、彼女はどこまでも涼やかな表情のまま、眉だけをわずかに下げ、ごめん、とつぶやいた。
そのひとが夜、眠りながら涙を流すようになったのは、僕がそんな試みを始めて、しばらく経ったころからだった。きっと、父親に置いていかれたことが相当ショックだったのだろう。彼女は僕の腕に抱かれているにもかかわらず、酷くさびしそうにすすり泣き、アル、アル、と僕を呼んだ。日中と違う名で呼びかけてくる彼女は、ろくに言葉も話せない幼い子供みたいで、そんな彼女を悪夢から守りたいと、僕は愛情を注ぎ込むような思いでその身を抱きしめた。目を覚ましたそのひとは、涙に濡れた瞳をぼんやりと僕に向け、この身を抱きしめ返すことなく、僕の胸へ頭を預けた。
肉体で繋がることはできないと思い知り、それでもなにか証が欲しい僕は、ある日連れ出した公園で摘んだ野の花を、そのひとの指に巻き付けた。あまりにも稚拙で、人によってはくだらないと吐き捨てるであろう求婚に、そのひとはほほえみを返してくれた。それは幸福の笑みというよりは諦めが滲んだようなさびしい笑みだったけれど、拒絶されなかったことで、僕は安堵した。
しかしその日も宵が更けたころになると、彼女は泣き声を上げ始めた。それはいつものすすり泣きとは違う、烈しい涙だった。僕は花を結んだ指に何度もくちづけて、あなたを愛していると、これからずっと僕があなたのそばに居るからもうさびしがらなくていいのだとささやいた。しかし彼女は泣きやまなかった。襲い来る悲しみを振り払おうとするかのごとく首を振り、空が白み始めるまで、アル、アル、と引きつった声で名を繰り返していた。
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