それから数日後、仕事を早めに切り上げて帰宅すると、愛するひとの姿がなかった。あのひとは研究に諦めを見出してから、家でぼうっとしていることが多く、あまり外にも出ようとしなかったため、一体どこへ行ったのだろうと考えた。心配ではあったが、恋人とはいえ成人女性の行動にいちいち口を出すのもよくないだろうと思い、持ち帰ってきた図面を机に広げて作業を始めた。
 一時間ほどしたとき、玄関扉が軋む音がし、彼女が帰宅したことを知った。安堵を覚えながら自室を出て、おかえりなさいと声を掛けると、そのひとは驚いた様子で僕を見上げた。なんだ、もう帰ってたのかと笑い、胸に抱えた紙袋を強く抱きしめる。その笑顔がいつになく明るい気がして、僕はなんとなく、なにか買ったんですか、と問うた。
「ああ、ちょっとな……手袋を、買ったんだ」
 そう言いながら彼女が取り出したのは、ずいぶんと古ぼけたダークブラウンの革手袋だった。元々はよい品だったのかもしれないが、今はあちこちに皹が入り、擦り切れてしまっているところもあった。それに、サイズを見る限りそれは男性のものであり、女性にしても小さな彼女の手には随分と大きいようだった。
「どうして買ったんですか、その……。手袋がほしいなら、僕がもっとあなたに合う物を……」
 僕の提案に対し、そのひとはすぐさま首を横に振った。そして、これがいいんだ、とささやくと、うっすらと頬を赤らめながら、愛おしそうに手袋の表面をなでた。
 僕にはさっぱり理由がわからなかったが、彼女はその晩、手袋を抱いて眠りについた。小さな物とはいえ、自分と彼女の間に異物があることはなんとなく気に入らなかったけれど、手袋のお陰か、彼女は一度も泣き出すことなく、朝まで安らかに眠っていた。僕が仕事に出るときですら、すやすやと穏やかな寝息を立てているものだから、一抹のさびしさを覚えつつも、せめて今日くらいはゆっくりと眠れるようにと、額にそっとくちづけを落とし、家を出た。

 その夕方、帰宅して玄関扉を開けると、部屋に電気が灯っていなかったものだから、僕は驚いた。あのひとは確かにあまり家から出ないけれど、ベッドから出て着替えるくらいのことはするし、調子のいいときは夕飯を作ってくれることさえある。昨日のように出かけているのだろうか。それとも、まさかまだ眠っているのだろうか。
 そんな思考を巡らせていたとき、僕たちの寝室からかすかに声が聞こえた。鮮明ではなかったけれど、声の高さからして、それは女性のものであるように思えた。やはりあのひとは寝室にいるのだ。まさか体調でも悪いのだろうかと思い急いで部屋に近づくと、中から漏れ出てくる声がより鮮明になった。
 それは、確かに愛しいひとの声だった。かつては少年のような笑い声を上げ、今は愛しているという言葉にオレもだと返してくれる、その声に違いなかった。しかしそれは今、まるで誰か別人のものであるかのように、艶やかな火照りをまとっていた。呼吸は荒くひきつり、その間を縫って泣き縋るような声が上がる。それはどう聞いても、情事に耽る者が発する、しどけなく欲に濡れた声だった。
 背中に冷たいものが走るのを感じ、僕は思わず手で口を覆った。このひとは一体、誰と情事に及んでいるのだ。僕が居ない間に知らない男を連れ込んで、あの美しい身体を任せているというのか。僕がどれだけ懸命に愛しても、決して熱を帯びることがなかった、あの身体を――……。
 真実を知るのが恐ろしいという気持ちはあった。いっそ踵を返し家を出て、なにも知らないことにしてしまおうかとも思った。しかしそうするには、僕はあのひとを愛しすぎていた。僕はどうしても、あのひとを自分のもとへ留めておきたかった。
 だからひと思いにドアノブを掴むと、乱暴に扉を押し開けた。彼女の身体を蹂躙する男を床へと引き倒し、意識を失うまで殴りつけてやると、烈しい怒りを抱きながら。
 しかしそこに居たのは、愛しいひとただひとりだった。彼女は明かりの灯らぬ暗闇のなか、義肢も着けずにシャツ一枚を羽織って寝台に横たわり、ひとつだけ残った手を脚の合間に差し込んで、自らを慰めていた。
 言葉を失い立ちすくむ僕を肩越しに振り仰ぎ、そのひとはこちらを見た。暗闇の中でも不思議と煌めく双眸は、とっぷりと欲に濡れていた。

 僕にもうすこしだけ勇気があれば、または僕がこれほど酷いロマンチストでなければ、きっとすぐさま欲望に身を任せ、目の前の身体を衝動のままに貫いていただろう。
 僕にはそれができなかった。あまりにも異様な光景を前に尻込みしていたし、愛するひととの初めての交わりは甘くやさしいものでありたいという理性的な思考も、捨てきれずにいた。
 そのひとの痴態を茫然と眺め、やがて気付いた。そのひとが自らの秘部へ挿し入れる手に、あの革手袋を嵌めていることに。
「エドワードさん……。あなた、それ……」
 僕がどれだけ愛しても決して熱を灯してくれなかった身体が、今目の前で淫らにとろけている。そうさせたのがこの手袋だというのならば、このひとは僕よりも、この非生物に色情を掻き立てられるというのか。そう思い至った途端、胸の内に火柱のごとく嫉妬がわきあがり、力任せに彼女の手首を掴んだ。
「やっ……!やめろ、アルフォンス!やだ……やだぁっ!」
 しかしその途端、そのひとは錯乱したように声を上げ、烈しく抵抗してみせた。驚きはしたけれど、半ば意地になっていた僕は決して腕を離さず、その手袋を奪い取った。
 再び寝台に倒れすすり泣くそのひとをよそに、僕は手袋を注視した。何処からどう見ても、古く草臥れただけの革手袋。表面はざらざらと粗く、酷く硬い材質からしても、快楽を呼び起こすとは到底思えない中古品。本来なら誰の目に留まることもないであろうほどにみすぼらしいそれは、まるで僕を嘲笑うかのように、指先から愛液を滴らせている。
「どうして……こんなもの……」
 このような無機物に妬みを抱くことすらも、酷い屈辱だと思った。昨晩これを胸に抱いて帰ってきたとき、このひとはいつになく幸せそうな顔でほほえんでいたじゃないか。どうしてあのとき理由を訊かなかった。どうしてあのとき、取り上げてしまわなかった。
「……感触が、似てるんだ」
 まるで僕の思考を読んだかのごとく、そのひとは突然つぶやいた。驚きのまま目をやると、そのひとは寝台に横たわりながら僕を見つめていた。先ほどまでの錯乱が嘘だったかのように、ぼんやりと曇りがかった表情でありながらも、瞳の縁だけは確かにまだ赤く熱を帯びていた。
「その手袋の感触……革の硬さも、ざらつきも……太さも……全部似てるんだ」
「……似てるって……一体なにに?」
 震える声で発した情けない問いに対し、そのひとは言葉を返す代わりに曖昧な笑みを浮かべた。細まったまなじりからこぼれ落ちた涙が、こめかみを伝って金の髪の中へとすべってゆく。
「ねえ、エドワードさん。あなた一体なにを言って……」
「弟だよ」
 告げられた言葉の意味が分からず、え、と返した僕に向け、そのひとは突然とろりと頬をゆるめ、恍惚の笑みを向けてきた。千の男と夜を共にしてきた娼婦を思わせる妖艶な笑みに、背中が薄ら寒くなる。
「弟。オレのいとしい……かわいそうなアル」
 聞き間違えを許さない明瞭な声でそう言うと、幸せな幻に身を浸すがごとく、うっとりと笑みを深めてゆく。
「あいつはさ、感覚がないぶん加減がわからなかったから、強く擦られすぎて血が出たことなんて何度もあった。それでもよかったんだ。それくらい痛いほうが、あいつに……アルに、罪の代償を与えてもらってるような気がして……」
――アル。毎晩毎晩、眠りの中で呼んでいる名前を飴玉みたいに舌へ絡めて、このひとは確かにそう言った。ずっと自分を呼んでくれているのだと思っていたそれは、別の者の存在を指し示し、僕の胸を穿つ。このひとは、僕の腕に抱かれながら、ずっと、弟のことを――……。
「……なあ、アルフォンス。さわってよ」
 穿たれた洞へ向けて放たれたのは、謝罪でも釈明でもなく、暗い欲に溺れた者の無慈悲な懇願だった。
「オレの指じゃさ、長さが足りなくて……奥まで届かないんだ。だからそれでオレの中……めちゃくちゃに掻き混ぜて」
 そう言うと、恥ずかしげもなく開いた脚の間にある割れ目を、自らの指で押し開ける。そこはすでに爛熟した果実のごとく濡れそぼりながら、ひくひくと僕を誘っている。
「うんと痛くして……罰してよ、オレのこと」
 あいつみたいに。耳につく甘い声でささやいて、そのひとはまた涙をこぼし、ねえ、と妖女のように嗤う。

 まるで悪い魔術にかかったような心地で手袋をはめると、彼女の指示どおり、てらてらと淫猥に光る割れ目へと指を挿し入れた。桃色の粘膜を擦りながら侵入し、きついところを抉じ開けるように動かすと、そのひとは躊躇いもなく、ひゃんっと淫らな声を上げた。
「ゃぁ、アル……!アル……っ!もっと……もっと奥に、入れて……!」
 これまでの不感症が嘘だったように身をくねらせながら、愛しいひとはもっともっとと繰り返す。僕を見つめる瞳は涙に火照り、普段は白い頬も赤らんでいる。
 望むままに奥へ奥へと指を進め、さらにもう一本の指も挿し入れる。このように傷んだ革で粘膜を擦られれば、かなりの痛みがあるだろう。それなのに、中を抉れば抉るほど、たまらないというように身をよじる。――痛みに欲情するなど、とんだ異常性癖だ。それだけじゃない、このひとは先ほど、弟にこんなことをさせていたのだと告白した。それが本当ならば――壊れている。人として完全に、常軌を逸している。こんなひとを勝手に処女だと思い込み、男として導いてやらなければと息巻いていた自分の愚かさに、思わず渇いた笑いがこぼれる。恥ずかしい過去を打ち消すように、力任せに指を動かし奥へ奥へと入り込めば、そのひとは瀕死の魚のように寝台でのたうち回る。動きを封じるべく右脚を掴み、それを支えにさらに奥へと指を進めてゆくと、指が行き止まりへと到達した。
「あ、アル……っ!そこ……もっと、さわってぇ……!子宮……オレの……しきゅう、もっと、ごりごり……って……」
 口からだらしなく涎を垂らし、卑猥な懇願を繰り返す。かつて研究所で、天才だと畏れられていたこのひとが、こんなはしたない姿をさらしているところを目にしたら、仲間たちはどう思うだろうか。そう考えると、誰もが知らないこのひとの姿を独占しているのだという事実に胸が昂り、もっと本性を暴きたくなってしまう。それならばと、望み通り突き当りを抉るように刺激してやると、そのひとは、ひゃぁっと高い悲鳴を上げ、秘部から体液を噴き出して、身体を痙攣させた。
「ぁ……アル……、もういっかい……もういっかい、して……」
 どうやら最奥を抉られた痛みで、いとも簡単に達してしまったらしい。想像以上にだらしない姿を目の当たりにし、また嘲笑がこぼれ落ちる。
「もういっかい……奥……おく、さわって……ねぇ」
 もういっかい、もういっかいと、息も絶え絶えに願うひとを見下ろしながら、無心に自らのズボンの前を開き、その間隙かんげきから今にも破裂しそうなほどに張りつめたものを取り出す。しかし絶頂後でわけがわからなくなっているそのひとは、これから起こるであろうことにも気付かず、もういっかい、と繰り返している。それをいいことに、僕は自らの物を割れ目へあてがうと、力任せに押し入った。
 んぐっ、とまるで縊死する直前の者のような声を上げ、そのひとは腰をしならせる。その角ばった腰骨を押さえ付け、自分本位に腰を振りながらどんどん中へ侵入すると、そのひとは指のときとは異なり、あっ、あっ、と息が詰まったみたいな鈍い喘ぎを繰り返す。
 初めて味わう膣は、強張りながらもやわらかく、接合部をとろかさんばかりの熱で締め付けてきた。全身から汗が噴き出し、手にまとわりつく革の感触をわずらわしく思いながらも、いつになく赤く熟れた胸の先を思い切り摘まんで引っ張ってやれば、そのひとは、ひんっ、と泣き声を上げる。今までにない反応に否が応でも欲が昂り、これまでの辛抱を清算するがごとく、両手で頭と胸を力いっぱい押さえつける。
「エド、ワードさん……ねえ……」
 はらはらと涙をこぼす金色の瞳は、僕ではなく虚を見つめている。こっちを向けと命じる代わりに奥を突けば、痛みにヒッと声を上げる。
「エドワードさん、僕だよ……。いまあなたの中にいるのは……僕だ」
 ほら、ねえ、と語りかけながらごりごりと奥を抉れば、そのひとは苦しそうに目を細め、荒い呼吸の合間に、アル、とつぶやく。毎夜毎夜、縋るように呼んでいたその名前。自分を呼んでくれているのだと思っていたそれは、違う男に属している符号だったのだという。このひとがいつも、さも愛おしそうに語ってみせる、弟に。
「アル……!アルぅ……っ!」
「ちがう。そうじゃない」
 否定の意を込めて、手袋を着けた手で軽く頬を張れば、その拍子に肉壁がきゅうと締まる。
「ほら……よく見て、感じて。僕は、あなたの弟じゃない……。あなたを愛し、あなたと永遠の契りを結んだ……アルフォンスだ……ほら、わかるでしょう?」
 ねえ、ねえ、と頬を張りながら、粘膜を擦り合う感覚と、僕のものを咥え込む体内の熱さに、くらくらと眩暈を覚える。眼下のそのひともまた、言葉を発するどころかもう意識があるのかも定かではない様子だった。脳みそが痙攣するほどのすさまじい快感のなか、もう一度頬を張ると、肉壁もまた最後の力を振り絞るように締め付けてきたものだから、僕はついに限界に達し、愛しいひとの体内へ精を注ぎ込んだ。


 翌朝、気絶したように眠るそのひとを置いて仕事へ行き、夕方に帰宅すると、あるべき姿がなかった。以前のようにそのうち帰ってくるだろうかと夕飯を作り待っていたが、二十一時を過ぎても帰宅しないものだから、悪い予感を覚えて探しに行こうと上着を掴んだ。しかしちょうどその瞬間を見計らったように電話が鳴ったものだから、飛びつくようにして受話器へ手を伸ばした。
「エドワードさん!?」
 考える間もなくそう叫んだが、受話器から聞こえてきたのは男性の、しかも顔馴染みの警察官の声だった。彼は言った。彼女を警察署で保護している。随分と憔悴しているから迎えに来るように、と。
 淡々とした口調で語られたところによると、彼があのひとを見つけたとき、彼女は橋の上をひとり歩いていたのだという。いつもとは明らかに異なる様子に違和感を覚え、声を掛けようと歩み出したとき、彼女は自分を見つめている者の存在に気づかぬまま、橋の欄干を越え、川へ身を投げようとした、ということだった。



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