なつかしい宇宙



 それは、悲しみという感情にはほとほと似つかわしくない、麗らかな春の日のことだった。寝台で膝を抱いていた彼女は、真珠のような涙を目尻からはらりとこぼすと、夢を見たんだ、とつぶやいた。
 初めて目にした愛するひとの涙に狼狽える僕をよそに、そのひとは徐に小さな頭を持ち上げた。身体にはまだ寝間着を纏い、長い髪も垂らしたままで、涙に濡れた金の瞳で僕を見た。
「夢だよ。……弟の、夢」
 いつもの堂々とした振る舞いからは想像もつかないほど、弱々しくかすれた声で、彼女は言った。
「今日はさ、あいつの誕生日なんだ。だから、かな……。まだ赤ん坊のときのあいつが、夢に出てきて……」
 そこまで話し言葉を詰まらせた彼女は、シャツの袖で眦を拭い、はあ、と吐息を震わせた。
「一歳しか違わないから、オレもまだ赤ん坊みたいなもんで……。だからさ、おかしいかもしれないけど、オレ、覚えてるんだ。あいつが生まれた日のこと。母さんの腕に抱かれた弟を、初めて目にしたときのこと」
 普段はあまり自分の話をしないのに、その日の彼女は饒舌だった。一方で、シャツに覆われた背中はいつもよりずっと頼りなく見え、まるで世界でいちばん深い孤独を背負っているようだった。
「あいつはさ、しわくちゃの瞼をぎゅっと閉じて、嘘みたいに小さな手を握りしめてた。そんな弟を見てるだけで、胸がやけに苦しくなって……オレ、弟にさわったんだ。恐る恐るだったけど、いまにもこぼれ落ちそうな頬を指で押して、それから口元へ指を持って行ったら……あいつ、それに吸い付いたんだ」
 記憶を包み込む淡い繭をそっと開き見るように、彼女は語った。きっとそれは、今日みたいにやさしい春の日のことだったのだろう。厳しい冬が終わり、大地に草花がよみがえるころ、ゆるやかな春風が運んできてくれた幸福。この世に萌え出たばかりの、やわらかな命の記憶。
「オレの指の、ほんの先っちょをさ、まだろくに力もない唇で咥えて、小さな舌が指先に当たって……熱くて……。多分、あのときが初めてだったと思う。なにかのことを、心の底から愛おしい、と思ったのは」
 そこまで話して、彼女は再び声を詰まらせた。しばらくの沈黙につづいたのは、鼻をすする音と、こらえきれずに漏れ出した嗚咽だった。窓からすべり込む風にかき消されてしまうほどかすかだったそれは、段々と大きさを増し、痩せた肩を揺らし始める。そんな様子が可哀想になり、寝台へ腰かけて震える背中をさすると、驚いたことにそのひとは、僕の身体へ左腕を巻き付けてきた。
「……アルに会いたい」
 ささやかれた言葉は、濡れた瞼が押し当てられたシャツ越しに、僕の肌をなでた。
「さびしいんだ、オレ……。生まれたときから、あいつと離れたことなんて、なかったから……あいつがいないと、まるで、魂を引き裂かれたみたいで……」
 こんな風に弱り切った彼女の声を聞くのは、初めてのことだった。いつも堂々と振る舞い、張りのある声で快活に笑うこのひとが見せる憔悴した姿は、僕の心を容赦なく締め付けた。そもそも僕は、人知れずこのひとのことを愛していた。男女の関係には至っていなかったし、想いを告げる勇気も持てないままだったけれど、父親が失踪したあと、助けを求める相手に僕を選んでくれたことは誇らしかったし、僕を信頼して本来の性別を明かしてくれたことも嬉しかった。
 だから僕は、愛するひとになにかしてあげたかった。喉から血を吐くように、アル、アル、と痛切な声で繰り返すこのひとの悲しみが和らぐなら、どんなことでもやりたかった。
「ねえ、エドワードさん」
 名を呼びながら恐る恐る後頭部へふれ、艶のある髪に指を這わすと、骨の浮き上がった背中がふるりと震える。そのまま子供をあやすように頭をなで、背中へ回した腕へ力を込める。
 弟の話は、前から時折聞いていた。僕によく似ているのだというその弟は、今どうしても会えない遠いところにいるのだという。しかしそれは単なる妄想なのではないかと、内心僕は疑っていた。遠いところ、と口にするたびにこのひとが見せる誤魔化すような笑みも、必死に取り繕ったような明るい声も、そうであってほしいという、切実な願いの裏返しのように思えたからだ。
 きっと、弟はもうこの世にいないのだろう。恐らくは、このひとが手脚を失ったとき、その命もまた、潰えてしまったのだろう。このひとがそれを理解した上で、己を慰めるために嘘をついているのか、それとも耐え難い現実から心を守るため、脳が錯覚を起こしているのかはわからなかった。しかし、弟の話をするときのこのひとは、表面上は楽しそうであるにもかかわらず、目を塞ぎたくなるような痛々しさを纏っていた。
 だから今日、初めて弟のことで弱音を吐いてくれたことが、僕には嬉しかった。傷を完全に癒すことはできなくても、僕に縋り慰めを求めてくれるなら、きっとなにかしてあげられるだろうと思った。
「こんな考え、おこがましいのはわかってる。でも……あなたが望むなら、僕はあなたの弟さんの代わりになりますよ」
 腕の中の小さな身体が、はたりと呼吸を止めたのがわかった。先ほどから続いていた静かなすすり泣きが止み、凍えたように背中が震える。
「あなた、前に言ったでしょう?姉さん、って呼んでみてって。あのとき僕は恥ずかしくて、その望みに応えてあげられなかったけど……いま、まだあなたがそれを望むなら、何度だって呼んであげます」
 本当は、恥ずかしかったわけじゃない。愛するひとが僕をひとりの男ではなく、弟の代わりとして見ていることに不満を覚え、臍を曲げただけだ。その気持ちは今でも確かにある。けれどそれ以上に、僕はこのひとの心を永遠に自分のもとへ繋ぎとめるための、確固たる楔が欲しかった。
「……ほんとうに?」
 怒られるかもしれない、と思った。お前などが弟の代わりになれるはずがないと怒鳴られ、拒絶されるのだろうかと思った。しかしそのひとは僕の申し出を聞くと、かすれた声でそうつぶやいて、金色の瞳をこちらへ向けた。
「ほんとうに、お前がアルになってくれるのか?」
 まるで最後の希望へ縋り付くように僕のシャツの胸元を握りしめると、細められた眦から流星みたいな涙を落とす。そんな切々とした表情を見つめ返しながら覚悟を決め、ええ、と返すと、精いっぱいにほほえんで見せた。
「僕はあなたの弟になるよ……姉さん」
 涙の轍を指で拭ってやり、できるだけ音に重みを持たせてそう呼ぶと、そのひとは一瞬目を見開いたあと、ほろりとリボンがほどけるみたいに、やわらかく破願した。
「……もういちど、言って」
 そして、これまで一度も見せたことのないあどけない表情を浮かべながら、僕の胸を握りしめていた指を解き、代わりに頬へとふれてきた。
「姉さん、って呼んで」
 幸福を滲ませながらも鬼気迫った声。それを聞いたとき、僕にはもうこの遊びを止めることは許されないのだと、悟った。

 僕には、なにが正解なのかまるでわからなかった。このひとの弟が一体どのような声でしゃべり、どのような言葉を姉にかけていたのか知る由もない僕には、ただできるだけやさしい声で、姉さん、と繰り返すことしかできなかった。しかし僕がその名を口にするたび、そのひとはまるで催眠にでもかかったように、まだ濡れそぼる瞳を幸福そうに細めてゆき、アル、と僕を呼んだ。
「アル……会いたかった……」
 先ほどまでとは異なる幸福の涙をこぼしながら、感極まった声で繰り返す。会いたかった、さびしかった、アル、オレのアル。
「愛してる。愛してるんだ、お前のことを……ずっと伝えたくて……オレ……」
 感触を確かめるように、僕の頬を、瞼を、鼻や顎をなでると、この身に縋りながら右脚だけで膝立ちになろうとする。不安定な身体を支えようと、慌てて細い腰へ手を回すと、彼女は自らも身体をこちらへ預け――僕の唇へとくちづけた。
 一体なにが起こったのか、すぐには理解できなかった。彼女と唇を重ねることをどれだけ夢見たかわからないのに、幸福や充足感よりも、困惑が強く心を覆った。そんな僕に気付きもしないまま、そのひとは唇を食み直し、何度も何度も角度を変えてくちづけてきた。
「……怖かったんだ、ずっと」
 やがて唇を離すと、身体を支えるために巻き付けた腕で僕をさらに引き寄せ、そのひとは言った。
「失敗してなかったんだ、オレ……。お前をちゃんと、元の身体に戻せてたんだ……。よかった、ほんとうに……お前がこうして、生きていてくれて……」
 想いの残滓は、堰を切ったようにあふれだした涙に呑まれて消えた。先ほどの嗚咽とは比べ物にならない烈しさで、そのひとはただひたすらに泣きじゃくり、いつまでも僕の身体を離さなかった。