異邦人の皆さま、ようこそいらっしゃいました!
お会いできて心から嬉しく思います。
外は極寒の冬。そして人生は落胆ばかり。そう思われているでしょう?
ご安心ください!この場所ではそのような問題とかかずりあう必要はございません。
ここではすべてが美しく光り輝いています。人生も、女性たちも、そしてオーケストラが奏でる音楽すらも。
さあ今宵は、浮世のいざこざなど頭の片隅に追いやってしまいましょう。
当キャバレーが、皆さまを一夜の夢にお連れいたします!




Willkommen am Ende der Welt




 僕がその怪しげなクラブに足を踏み入れたのは、まったくもって僕の意に沿わない、言わば事故のようなものだった。仕事を紹介すると言う友人の後をついていった先が、けばけばしいネオンを輝かせるキャバレーが建ち並ぶ一画だったという、ただそれだけのことだ。
「あのなあハイデリヒ、ここはベルリンだぜ?そんなお堅いままでどうすんだよ。たまには生活のことなんか忘れて、羽を伸ばそうぜ」
 話が違うと抗議する僕に向け、元同僚である友人はわざとらしいほどの明るさで言った。以前より随分とやつれた頬に、貼りつけたような笑顔を浮かべて。
 失意と熱狂が共存する、矛盾を孕んだ街、ベルリン。大戦とインフレ、そして数か月前に起こった世界恐慌のせいで誰もが困窮し、失業者と薬物中毒者が往来に溢れる掃き溜めのような場所。生きる術を求める人々はいかがわしい商売へと身をやつし、その結果として花開いた芸術文化が、人々を魅了する。
 ある人はそれを退廃と呼び、またある人は自由と呼んだ。絶望が築いた黄金時代。新しい文化がもたらした騒乱に沸き立つ都会の片隅、暗い路地に佇む扉から階段を下った先に、そのクラブはあった。

 友人とともに入り口近くのテーブルに着くと、店内の中央に設置された円形のステージで下着姿のダンサーたちが身をくねらせ、観客たちが手を叩きながら笑い声を上げている様子が目に入った。毎夜のように乱痴気騒ぎが繰り広げられるこうしたキャバレーは、現実に疲れ果てた人々に夢を提供する狂乱の宮殿だった。視界が曇るほどに混ざり合った煙草の煙と、大音量で奏でられる音楽のなか、ステージに上がるのは裸同然の女や男、そして人とは違う身体的特徴や精神的疾患を持つ〈フリーク〉たち。客たちは野卑な笑い声を上げながら演者たちのパフォーマンスに熱狂し、浴びるように酒を飲む。外の世界に蔓延はびこる陰鬱を、束の間でも心から消し去るために。
「紳士淑女の皆さま、長らくお待たせいたしました!次にお目に掛けますのは、当クラブが誇る逸材、デカダンスの天使、エディスでございます!」
 顔を白塗りにしたホストがそう叫んだ途端、先ほどの馬鹿騒ぎが嘘だったように店内が静まり返った。この店についてなにも知らない僕ですら、次に現れる演者が特別で、ここにいる客のほとんどがそれを目的に集まっていることを悟った。
「ちゃんと見てろよ。これはちょっと、他じゃお目にかかれねえからな」
 僕を騙すようにしてクラブへ連れてきた友人が、にやつきながらそう耳打ちしてきたものだから、思わずため息を吐いた。こういう店はこれまで住んでいたミュンヘンでも無理やり連れられて行ったことがあったが、うるさいだけでなにも楽しくはなかった。その店のスターともてはやされていた女性も、ただ肉付きがいいばかりでその所作の下品さには辟易するばかりだったのをよく覚えている。きっと次に登場するのも、同じような部類の女性だろう。
 早く終わってほしいとテーブルに右肘をついたとき、突然店内の照明が落ち、一筋のスポットライトがステージに射した。それを合図に天井が開き、垂れ幕ほどの大きさを持つ真紅のリボンが二本、滝のように垂れ下がった。
 かすかに広がった観客のどよめきを掻き消さんばかりに、オーケストラがドラムロールを開始し、店内に期待が張りつめる。——随分と仰々しい。冷めた心のままステージを見つめていると、最高潮まで高まったドラムの音を打ち砕くようにしてシンバルが響き、天井からなにかが落ちてきた。

 人形、だと思った。
 スポットライトの中に浮き上がる、白く骨ばった身体。腰に巻き付けられたリボンに支えられ、仰け反る姿勢でだらりと宙にぶら下がり、すこしも動きはしない。
 地面に向けて真っ直ぐに垂れた金色の髪は太い三つ編みに結われ、そこに散らばる白や紫の花も相まって、城の中で大切に育てられた王女の姿を思わせた。しかし凝った髪型に反し、身体には薄いヴェールと面積の狭い下着を纏っているだけで、ほとんど裸と言ってもいい。わずかに胸が膨らんではいるが、どう見ても十代前半の子供だ。
 その身体にはどこか違和感があり、スポットライトの白さに眩暈を覚えながらも、僕は目を凝らした。どうも均衡が取れていない。そう思い至り、その身体に右腕と左脚がないことにやっと気が付いた。欠損した子供の人形。なんて悪趣味だろうと顔をしかめたとき、その〈人形〉は突然目を見開いた。
——遠目からでもわかるほどにまばゆい、金色。星を宿したようにきらめくその瞳を目にした瞬間、僕は呼吸を失った。
 観客たちがどよめくなか、〈人形〉は空中で見事に上半身を持ち上げ、自身の腰に繋がるリボンの上側を掴んだ。そして一気に手を離すと、今度は身を回転させ、リボンを解くように床へ向かって落ちてゆく。——床に打ち付けられる。そう思い息を呑んだが、少女は寸でのところで再びリボンを掴み落下を防ぐと、勢いをつけて隣のリボンへ飛び移った。そのまま片手片脚だけで器用にするすると上ると、今度はそれを束ねて上部で掴み、できあがった輪に右脚をかけ、宙を旋回し始める。
 少女が自らの頭上を滑ってゆくたび、ステージ近くの憐れな客たちは慈悲を乞うように歓声を上げ手を伸ばす。少女はそんな客たちの手が辛うじて届かないところを舞いながら、まるで重力など感じないという様子で、しなやかに脚を伸ばし空中でポーズを決める。その姿は、地上に蠢く愚かな人間たちを意にも介さない無慈悲な女神を思わせ、背中に冷たいものが走る。いや、あれは本当に、生きているのだろうか。人間ではなく、精巧な機械仕掛けの人形なのではないだろうか。そう思えてならないほどその姿には現実味がなく、スポットライトの中を舞う埃ですら、彼女の周りでは妖精の纏う光の粉のように見えた。
 少女は旋回の輪を段々と小さくしてステージ中央へ近づくと、軽々と別のリボンに飛び移り再び輪状に束ね、今度は劇場を縦横に貫く形で空中を揺れ始める。一見ブランコで遊ぶ子供のようにも見えるのに、その幼さと欠損した身体の矛盾が、咽返むせかえるような退廃美を演出する。
 やがて少女の振り子は劇場の端から端までに達するほど大きくなり、僕らが座る後方の席にも届かんばかりになってきた。
「……来るぜ」
 欲望を丸出しにした声で友人がつぶやく。あの子がこっちへ来る。劇場の反対側で少女が身を翻しこちらへ舵を切ったとき、僕もまたごくりと唾を呑み込んだ。空中を滑りながら近づいてくる小さな身体。遠目で見るよりずっと速度のあるそれが僕らの頭上へ到達したとき、僕はできうる限りに目を見開き、その姿を仰ぎ見た。

 それが、僕と彼女の出会いだった。
 ほんの刹那、僕の頭上を舞い、遠ざかってゆくはずの存在。しかし僕が仰け反るようにして宙を見上げたとき、こちらを見下ろす金色の相貌と、視線が交錯した。
 それはまるで、この世のすべてが凍り付いたような、神秘的な瞬間だった。
 一秒にも満たないはずの景色。しかし金星のような瞳が僕の視線を捉え、驚いたように見開かれたのが、確かに見えた。
「……え」
 ふいに動いた彼女の唇。その開き方に心当たりがあると思ったときにはもう、彼女の身体はステージのほうへと引き離されていく。一瞬の邂逅。幻めいた光景に眩暈を覚えていると、ステージのほうからグラスがいくつも割れる音と、客たちのどよめきが響いた。
「なんだ!どうした!?」
 ステージから距離のある客たちが立ち上がると同時に、前方から「エディスが落ちた!」という悲鳴のような声が上がった。
「皆さま、大変失礼いたしました!上手じょうずの手から水が漏る、とでも言いましょうか。どうやら誰にでも失敗はある様子。しかし皆さま、天使が落下する姿など早々お目にかかれませんから、ある意味皆さまは幸運だと言えるのではないでしょうか?」
 ステージに躍り出てきたホストの言葉に、何人かが「ふざけるな!」「金返せ!」と野次をぶつける。ホストが言葉巧みに客をなだめるなか、クラブのガードマンたちが、隠すようにして小さな身体を抱えていく。
「確かに、珍しいもん見たな。彼女が失敗したなんて話、今まで聞いたことないぜ」
 友人は我関せずといった風に、緩慢な手つきで煙草に火を点ける。彼女のことが心配な僕は男たちの行く先へ目をやったが、その姿はすぐに裏口へ続く扉の中へ消えてしまった。

 口直しとでもいうように、そのあとはまた下着姿の女性や男性が性行為を真似たダンスを披露したが、客たちはすっかり白けてしまいどんどん帰っていった。友人はダンスを見て馬鹿にするように笑っていたが、ホストが終いの挨拶をするころには隠しもせずに大あくびをしてみせた。
「俺たちも帰るかぁ」
 店に着いたときは待ち望んでいたはずの言葉に素直に頷けなかったのは、やはりあの少女のことが心配だったからだった。このようないかがわしい場所で働いている見ず知らずの子供のことを気にするだなんて自分でもおかしいと思ったが、先ほど目が合ったときの彼女の表情が頭に貼りついて仕方がなかった。せめて従業員の誰かに彼女が無事かどうかだけでも訊けないだろうか。そんなことを考えていると、「お客さま」と急に背後からと声を掛けられ、振り返るとそこにはひとりのガードマンが立っていた。
「申し訳ないのですが、すこしお時間をいただけないでしょうか?」
「えっと……なんでしょう?僕はなにも……」
 言いがかりをつけられぼったくられるのだろうかと身を強張らせると、ガードマンは「ご迷惑はおかけしません」と言い、僕の耳もとへ顔を寄せ、ささやいた。
「エディスが、お客さまをお連れするように、と」