金魚の初恋




 ひらひら尾ひれをなびかせる、真っ赤な金魚。身体に貼りつけた宝石みたいな鱗をきらめかせ、今日もまた鉢の中を泳いでいる。
 なんの変哲もない鉢はかわいそうなほどに窮屈で、いくらその身が小さくとも、全世界には狭すぎた。それでも健気に水中を舞いつづけるのは、自分に目を向けてくれるひとのため。硝子越しに自分を見つめ、餌をまいてくれる唯一の存在のため。
「——……」
 どれだけ口を動かしても、生まれるのは水泡だけで、胸にあふれる想いが相手に届くことはない。それでも金魚は懸命に唇を動かしつづける。どうか自分を見てほしいと。かわいい子だねと褒めてほしいと。それなのに、想い人は今日も熱のない目でちらりとこちらを見るだけで、すぐに背を向けて去っていってしまう。行かないでと、愛してと、瞳にそんな想いを込める暇すら与えてくれずに。
 金魚はただ、泳ぎつづける。いつか病に犯されて、あれだけ美しかった鱗が剥がれ落ち、朽ち果てるまで。そうすれば最期はきっと、あのひとの手で鉢の中から掬い出してもらえる。たとえ体温で肌を焼かれ、そのまま土の中へ埋められたとしても——最期にあなたから熱を与えてもらえるのならば、自分は酷く幸福だろうと。
 そんな淡い夢にまどろみながら、赤い金魚は今日もひらひら尾びれをなびかせ、鉢の中を泳ぎつづける。


 数か月ぶりに上官の部屋を訪れると、壁に沿って置かれた小さな台に、金魚鉢がひとつ乗せられていた。ゆるやかな曲線を帯びる硝子の向こうでは、一匹の真っ赤な金魚が尾びれをひらめかせ、滑るように水中を動き回っていた。
「贔屓にしている店の女の子からもらってね。祭りかなんかで手に入れたらしい」
 これはなにかと問うてもいないのに、少女が金魚を目で追っていることに気付いた上官は気だるげにそう言った。話しかけながらも、その視線は少女ではなく、彼女の持ってきた報告書に向けられていた。
「あんたが世話してんの?ここで?」
「家よりここにいる時間のほうが長いからね。世話と言っても、私は餌をやるだけだ。水替えは部下たちがやってくれている」
 そういえばそろそろ餌の時間だなと言い、上官は椅子を引いて立ち上がった。そして金魚鉢へ歩み寄ると、隣に置いてある小さな瓶の蓋を開け、ひとつまみの粉末を鉢の中へ落とした。
 上官が机へ戻り、再び報告書へ目を落としても、少女はとり憑かれたように金魚を見つめていた。鉢の表面には、窓から注ぐ陽の光が生み出したプリズムが滲み、その向こうで真っ赤な金魚は、水中をゆっくり降りてくる粉末を、丸い口で懸命に吸い込んでいた。男があの長い指先でつまみ、水の中へ落とした餌を。
 その姿に見入る少女の内に生じていたのは、小さく儚い生き物への慈しみではなかった。
 それは、この小さな鉢であの男に死ぬまで飼われつづける命への同情であり、そして同時に、やわく幼い胸を焼き尽くす、猛烈な嫉妬心だった。


 少女が軍に入ると決めたとき、姉を案じる弟はひとつ条件を出した。それは本来の性別ではなく、男として登録を済ませることだった。年頃の娘である姉が、男たちの欲望がうずまく軍部へ入れば、どのような目に遭うだろうかと弟は憂いていたのだ。
 姉はその条件を、特にためらうことなく呑むことにした。息子が欲しかったという身勝手な父親のせいで、もともと名前は男のものだったし、自分でも母や弟を守る長男として生きてきたつもりだった。そのため、女らしさを欠いた言動がすっかり身に付いてしまっていたし、もともと性別というものになんの拘りもなく、これで可愛い弟の心配ごとがひとつ減るならと、喜んで同意した。
 そして少女は弟との約束を守るため、自らの後見人になった男にすら、本来の性別を打ち明けはしなかった。
 その男は二十六歳にして中佐の地位を持つ傑物で、その見た目や所作の華やかさも相まって、彼に好意を持つ女性は軍の内外に多数存在するようだった。現に少女も、廊下で呼び止めてきた女性の軍人に、代わりに手紙を渡してほしいと頼まれたことが何度かあった。煩わしさを感じながらも、少女がその手紙を上官であるその男に渡してやると、男は興味なさげに手紙を眺めたあと、それでも破り捨てずに引き出しにしまっていた。
「返事、ちゃんと書いてやってんの?」
 ある日、いつものように手紙を渡したあと、少女はほんの興味から尋ねた。男はすこしも表情を変えることなく、「そんな時間はないな。相手が美人なら、無視はしないがね。返事を書くより食事にでも誘うほうが手っ取り早い」と答えた。色恋の経験がない少女にとっても、それが酷く軽薄な回答であることはわかり、思わず「あんた最低だな」と言葉を漏らした。
「そうさ。私は最低なんだ」
 男は平然とそう言ってのけ、いつものように手紙を引き出しへと仕舞った。

 少女は男に、自分の性別を告げる必要などないと思っていた。自分が男だろうが女だろうが、この男には関係のないことだし、今から女だと告げて、嘘の情報を登録したことを責められるのも面倒だった。
 そのまま二年ばかりが経ち、少女は十四も半ばになっていた。月経こそ始まっていたが、身体つきは子どものころとさほど変わりなく、たまに会う幼馴染の肉付きのよさと比べると、自分の発育が遅れていることは明らかだった。どれだけ鍛えても筋肉がついてくれないことには辟易していたが、女らしさを欠いているという点で、少女が自らの肉体について思い悩むことはなかった。
 だって——と、少女は思っていた。だって自分には、恋とか愛とか、そんなものにかまけている時間はない。弟の身体を取り戻すために、睡眠を削って研究に励んでも時間が足らないくらいなのだから、誰かと楽しみのための合瀬を重ねる時間など到底ありはしない。それに——こんな自分を愛してくれる者など、何処にもいるはずがない。こんな風に粗暴な言動しかできず、なにより、こんなにも傷だらけで不完全な身体を持つ自分のことなど、決して、誰も——……。


 男が受け持つ司令部が在する東部の街で、毎年開催される収穫祭。その会場でテロを計画している不穏分子がいるという垂れ込みがあり、軍は秘密裏に網を張り巡らせた。ちょうど司令部を訪れていた少女も作戦に加わり、無垢な子供の振りをして怪しい人物に近づき、その甲斐あって無事にテロリストを確保し、事件を未然に防ぐことができた。
 手柄を立てた少女はあからさまに調子づき、上官である男に報酬を要求した。男も今回は少女の活躍を認めざるを得ず、なにが望みかと問うと、少女は祭りの屋台で好きなだけ飲み食いさせろという、いかにも子どもらしい願いを口にした。
 少女は男を財布として使い、思う存分祭りを楽しんだ。小柄な身体に似合わず健啖家である彼女は、次から次へと食べ物を口にし、男を呆れさせた。
 目ぼしいものは一通り食べつくし、食後のデザートとして桃色のコットンキャンディを頬張っていた少女は、周囲を見てあることに気が付いた。夜も更けて子ども連れが帰ったこともあり、辺りに恋人と思われる男女の姿が目立つようになっていたのだ。恋人たちは手をきつく絡ませ合い、楽し気に言葉を交わし、中には人目を憚らず屋台の列で唇を重ねている者たちもいた。屋台の彩り鮮やかな灯りに浮かび上がる仲睦まじい姿を、少女はいつの間にか、とり憑かれたように見つめていた。
「おい、鋼の。危ないぞ」
 そんなとき、頭上から男の声が降ってきた。見上げるより先に力強い腕が少女の背を捕らえ、自らのほうへと引き寄せた。
 少女は男のほうへと倒れ、そのまま彼の片胸へ顔を埋める格好になった。驚きのあまり止めていた息を吐き、新しい空気を吸い込むと、今まで嗅いだことのない、濃い男のにおいが鼻孔を満たした。
「大丈夫か?まったく、イチャつくのは結構だが、周りの迷惑を考えてほしいものだな」
 男の言葉の意味を図りかね視線を送ると、男は眉をひそめながら背後へ目をやっていた。少女も同じく振り返ってみると、そこには周囲に目を向けることもなく、身を寄せ合いながら道の中央を歩いてゆく恋人たちの姿があった。非常識なほどの大声で笑い合っているのを見る限り、ふたりとも相当酔っていて、周りに気が回っていないらしい。男が引き寄せてくれなかったら、よそ見していた自分は、あのふたりにぶつかっていただろう。
「ああ。ほら鋼の、こっちを向きなさい」
 ふいに呼ばれ、それと同時に指で顎を持ち上げられた。誘われるままに見上げると、頭ふたつぶんほど上にある切れ長の黒い瞳が、真っ直ぐに自分を見つめていた。
「頬にキャンディが付いている。じっとしていなさい」
 男はもう片方の手を少女の頬へ運ぶと、指先でその肌へふれた。ほんの一瞬、頬へ貼り付いた綿状のキャンディを拭い取るだけの、わずかな時間。そのはずなのに、頬をこすった指の腹は、火傷しそうなほどに熱かった。
「まったく君は……。まだまだ子どもだな」
 そして、男は笑った。それは、いつものように少女をからかうための笑みではなく、どこか親愛の情を含んだほほえみに見えた。
 その瞳を見て、この男はこんなにもやさしい目をしていただろうかと、少女は思った。


 その晩、宿に帰った少女は、弟に作戦の成功を報告したあと、シャワーを浴びると言って浴室の扉を閉めた。服を脱ぎ去り、後ろでひとつに編んでいた髪を解くと、ゆるく癖がついたままの長髪が胸へと落ちた。
 鏡を見やると、そこに映るのはどう見ても貧相な自分自身の姿だった。胸はわずかにふくらんでいるだけで、肋骨は浮き出し、生身の手脚は棒のようだった。おまけに義手の接続部周りの肌は焼け爛れたように皮膚が薄くなっており、肉へ直接打ち込まれた螺子の存在も相まって、自分自身でも眉をひそめたくなるような有様だった。
「……子ども、か」
 先ほど男に言われた言葉を思い出しながら、頬に残る熱へ指を当ててみる。そこはまだじりじりと疼きを帯びており、まるで本当に火傷でも負ったみたいだった。なにかと過保護な弟に頬を拭われることだってよくあるのに、それとはまったく違う感触で、人間の体温とはあれほど熱いものだっただろうかと考えた。
 その熱を移し替えようとするかのように、少女は同じ指で、自らの左胸をやわく掴んでみた。見た目以上に弾力を持つそれは指をやさしく受け止めはしたが、手のひらに収まった肉は想像以上に冷たく、熱に飢えているように思えた。
 理性が呼び起こす羞恥を意識の端へ追いやりながら、少女は肌のより奥深くへ指を喰い込ませ、桃色に熟れる先端を引っ掻いてみた。そうしているうちに、段々と乳房が疼き始め、胸の底にかつて抱いたことのない切なさが湧き出した。
「……たい、さ」
 決して弟に聞こえることのないよう、吐息混じりにささやいて、少女は先ほど自らに向けられた男の笑みを脳裏に思い浮かべた。深く息を吸えば、鼻孔を満たしたあのにおいすらも甦ってくる気がした。そうしているうちに、今度は別の場所が熱を帯び始め、少女は本能的に両腿をにじり合わせた。
 これまでどれだけ周りが騒ぎ立てても、上司という以上の意味など持たなかった存在。厭味ったらしく、どちらかといえば疎ましく思っていた存在。それなのに今は、あの笑みを自分だけに向けてほしいと——この冷えた肌に熱を灯してほしいと——そんな風に思っている自分がいることに、少女は気付き始めていた。


 それがどういう理屈なのかもわからないまま、少女は自らの思考と身体がちぐはぐになってゆくのを感じていた。気付けばあの男のことを考えていたり、用事もないのに会いたくなったり、そんな自分に戸惑いながらも、身体の疼きと心に渦巻く渇望感が暴走するのを止められなかった。
 以前とは異なり、なにかと理由をつけて頻繁に司令部へ帰ろうとする姉に、弟は疑問を投げかけはしたが、「大佐に極秘の任務を頼まれてて、報告が必要なんだよ」と言えば、いとも簡単に信じてしまった。弟のためではなく自分のための嘘をつくのは初めてのことで、罪悪感がきつく少女の胸を締め付けたが、正直な想いを吐露することは到底できなかった。
 次第に、少女は本当の自分をあの男に知ってほしいと思うようになった。本当は少年ではなく、少女である自分のことを。弟に相談しようかとも思ったが、反対されることが恐ろしくて、ついには助言を求めることができなかった。
「あのさ、大佐……。ふたりだけで話したいことがあんだけど……」
 そして少女は、そう男に声を掛けた。男は少女の深刻な様子を見て、「またなにかやらかしたのか?」と冗談交じりに言いながらも、執務室へと通してくれた。
「えっと、さ……今までずっと黙ってたんだけど……オレ、本当は男じゃなくて、女なんだ……」
 嘘ついてごめん。少女はそう言って、気まずさの余り、机の向こうに腰かける男に向けて力なく笑って見せた。しかし男はすこしも笑わなかった。あからさまに顔を強張らせ、唇をじっと結ぶと、少女を見つめたまま押し黙ってしまった。
 てっきり怒られるか呆れられるだろうと思っていた少女は、予想外の反応に焦り、聞かれてもいない事情を早口で語った。父親に男の名を与えられたこと、長男として育てられてきたこと、弟に性別を隠して軍に入れと言われたこと——。しかし男は、そのいずれにも質問を投げかけたり、苦言を呈したりはしなかった。その代わり、椅子をゆっくりと回転させ少女に背を向けると、そうか、と消え入るような声で言い、それ以上なにも言葉を発しはしなかった。


 その日以来、男の態度は目に見えて変化した。これまでは司令部を訪れるたび、鬱陶しいほどに皮肉を言ってからかってきたにもかかわらず、今はただごく一般的な挨拶をするだけで、少女の目を見ようともしなかった。もちろん周りが怪しまない程度の会話はするし、報告に対して意見を言ったり質問を返したりはしてくるが、必要なこと以外は口にしなくなった。
 その姿を見て、自分は間違えてしまったのだと、少女はすぐに気が付いた。真実を打ち明けたあの日、男が生み出した沈黙に耐えかねて執務室を飛び出し、やりきれない想いを振り切るように宿までの道を走って帰った。あのときにはもう、嫌な予感が胸に渦巻いていた。自分はなにか大切なものを壊してしまったのではないかと。もう決して、取り返しがつかないのではないかと。
 そしてそれは的中した。男はもう、少女に厭味ったらしい笑みを向けてくることも、からかうために頭をなでてくることもなかった。代わりに、会うたびさりげなく目をそらし、あからさまな拒絶を向けてくるようになった。
 少女は自らの愚かさを悔いたが、後悔したところでなにかが変わるわけではなかった。ただ、胸になにかがつっかえたように苦しくて、食事もうまく喉を通らなくなった。以前はあれだけよく食べていた姉の食事量が突然減ったことに対し、弟は大袈裟なほどに焦りを見せ、医者に診てもらったほうがいいとしつこく促したが、少女は首を縦に振らなかった。
 そんなとき、まるで運命が少女を嘲笑うかのように、男とふたり、遠方の司令部へ赴くようにという命が下った。少女は気まずさもあり弟も連れて行きたがったが、地方の司令部を統括する著名な国家錬金術師からの招待であり、宿なども予めあちらで準備されていたため、それが叶わなかった。
 弟と、男の側近であり中尉の位を持つ部下に見送られ、ふたりを乗せた列車は走り出した。左官がふたりということで、さすがに個室が用意されていたが、それが逆にふたりの間のぎこちなさを浮き彫りにした。
「あのさ……あんたがいない間、あの金魚は大丈夫なの?」
 気まずい沈黙に耐えかねた少女がそう問うても、男は窓の外へ視線を向けたままで、少女に一瞥もくれはしなかった。
「部下たちが面倒を見てくれている。問題ない」
 そして感情の乗らない声でそう答えると、再び唇を結んでしまった。
 すでに期待を捨てていたとはいえ、その態度は少女の心を再び抉った。男に知られないよう俯いてから唇を噛み、少女は男が司令室で最近飼い始めた金魚を脳裏に思い浮かべた。
 小さな金魚鉢の中をひたすら泳ぎつづける、赤い金魚。誰かが愛情を向けてくれなければ、簡単に潰えてしまう命。自分はそれよりずっと自由で強いはずなのに、どうしてこんなにも、息が苦しくてかなわないのだろう。

 地方の司令部で要人たちに挨拶を済ませたあと、錬金術について語り合った時間は少女の心にかかる暗雲を一時的に払いのけたが、男と共に宿へ戻り夕食を摂る時間になると、それはふたたび少女の胸を厚く覆った。男は事前に予約されたとおり少女と同じテーブルにつきはしたが、さっさと食事を終えると、バーで酒を飲んでくるからお前は部屋へ戻れと言って、少女を置いていってしまった。
 塞がる喉へ必死に食事を押し込みながらも、結局すべてを食べ切ることはできないまま、少女は席を立った。そして吸い寄せられるようにバーへ足を向けると、入り口からそっと中を覗き込んだ。
 男は言葉どおり、そこにいた。夕食の前にすでに軍服を脱ぎ去り、黒のシャツとスラックスにグレーのジャケットを合わせた格好をしていたから、傍目には軍人ではなく若い実業家かなにかのように見えた。現に、彼の隣でワイングラスを持つ女性は、すこしも警戒することなく男との談笑を楽しんでいた。大胆に背中が空いたブルーグリーンのドレスに身を包み、ブラウンの髪をアップにした女性は、いかにもどこかの令嬢といった身のこなしで、バーの中でも一際輝いて見えたが、その隣に立つ男も一切見劣りしてはいなかった。それどころか、女性のほうが男に惹かれているのは目にも明らかで、男がなにかを口にするたび、大げさなほど笑ったり驚いたりしてみせていた。
 魂を囚われたような心地でその様子を眺めながら、少女は全身が劣等感で満たされてゆくのを感じていた。それはまるで、足先から段々と重く濁った水に浸かってゆくような感覚だった。男の隣にいる女性は背が高く、細身であるのに胸は豊かで、まるで男性の憧れを具現化した存在のように思えた。ドレスも装飾品もセンスがよく、一目で高価とわかるものばかりだったが、それが浮いて見えないのは、女性自身に華と気品が備わっているからだった。
 そのとき、男が女性の発言に笑ってみせ、さりげなく女性の腰へ手を回した。そうして一気に女性との距離を縮めると、秘めごと打ち明けるように耳打ちし——女性の頬へとくちづけた。
 その姿を目にした少女は、恐ろしい怪物から逃れようとする子どものごとく、その場から走り去った。

 駆け込むようにして部屋へと戻った少女は、扉を閉めるなり床にへたり込んだ。自分でも、自分がなににここまでショックを受けているのか理解できなかった。あの男の女遊びが激しいというのはずっと前から知っていることだし、あんな風に気取ったバーで飲みたいなどとも思わない。女性のことにしたって、あのようなドレスや宝石類を身に着けてみたいと思ったことなどない。
 ただ、男が彼女にしていたこと——楽し気に言葉を交わし、女性の話に耳を傾け、愛情を込めて肌へふれること——それらが酷くまぶしく、自分にはもう二度と手に入らないものなのだと思うと、涙が出そうなほどに悲しかった。
 衝動的に、少女は外套へ手を掛けた。乱暴に脱ぎ去ると、今度は上衣の留め金を引き千切るようにして外し、次々と肌を覆うものを取り払った。
 まだ春が訪れる前の空気は肌寒く、一糸纏わぬ身体は外気にふれて粟立っていた。寒さに耐えかね、最初に投げ捨てた外套を羽織ると、すでに乱れた髪を力任せに解き去った。