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 ほどよい酩酊状態を覚えながらバーを後にし、宿泊している部屋へと向かいながら、男は音もなく長い息を吐いた。バーで出会った女性は気を紛らわしてはくれたが、共に部屋へ行こうという誘いに、首を縦に振ることができなかった。相手は文句なしの美人だったし、教養もあり話していて楽しかった。しかし今日はどうしても気が乗らなかった。そして男は、その理由を自分で理解していた。
 今回の旅に同行している、子ども。部下であり、同業者であり、自分が後見人として面倒を見ている——少女。数か月前、その子どもから、自分は男ではなく女なのだと告げられたとき、嫌な予感が当たってしまったことに愕然とし、彼女の嘘を咎めることすらできなかった。
 もともと、男だという主張に違和感を覚えていたのは確かだった。十四にもなって声は幼いままだし、身体は酷く小柄で、顔つきにも少年にはないまろやかさがあった。しかしあの子どもが装着している機械の腕と脚、そしてあの子が抱えている精神的な重荷、それらがあの子の発育を妨げていると考えれば、あの幼さにも納得がいった。いや、そうして自分を納得させようとしていた。
 本当は、気付いていたのだ。あの子どもが自らを偽っていることも、自分がその嘘を信じたいがために、真実から目を背けようとしていることも。それは、あの子どもが少女なのだと知った途端、自分が抱くあらゆる感情の意味が変わってしまうことを、恐れていたからだった。
 初めてあの子と出会った日、警戒心の強い仔猫のようにこちらを睨みつける姿を見て、なんて美しい子どもだろう、と思った。それは単に造形が整っているということだけではなく、その瞳に宿る純真さに胸を打たれたのだ。その子ども自身は自らを咎人と呼び、幼い身体に不釣り合いな重々しい機械の手脚を装着してはいたが、それでも決して損なわれないひたむきさがあった。まだ世界を知らない、幼さゆえの無謀さ。絶望的な状況にあっても、決して信じることを諦めない愚直さ。それはすべて、自分がとっくの昔に失ってしまったものだった。
 だからこそ、手を貸してやりたい、と思った。あの子が望みを叶えるために自らが盾となり、あの清らかさが損なわれないよう、道を切り開いてやりたいと思った。いつかあの子が夢に到達し、諦めなくてよかったと、努力や想いは無駄ではなかったと、あの美しい瞳のまま笑えるように。
 しかしあの子が本当は少女なのだと知ったとき、そしてそれを告げる彼女の目に、あまりにも青い情欲が宿っているのを見たとき、いけない、と思った。彼女はどうやら、自分が与えた親心に近い愛情を勘違いし、恋心を抱いてしまったらしい。こんな自分に。血と欲にまみれた、穢れ切った自分に。
 そして悟った。どれだけ大層な肩書きを持っていても、才能にあふれていても、彼女はまだ世間を知らない子どもなのだ。人の愛情を鵜呑みにし、すこしのやさしさで己を差し出そうとするほどには愛情に飢えた、やわすぎる少女。もしも彼女が自分のように邪な者の毒牙にかかり、己に向けられる欲望を愛情と取り違えてしまったら、あのしなやかな身体はすぐに蹂躙され、無垢な魂は引き裂かれてしまうだろうと。
 そう考えた途端、胸に生じたのは、これまでとは真逆の感情だった。こんな子どもを自由にさせておいてはいけない。弟が一緒とはいえ、このような子に自分の目が届かないところへ行かせてはいけない。あの子が間違えないよう、傷つかないよう、自分のもとへ縛りつけて、決してどこにも行けないようにしてしまいたい。たとえそれが彼女の願いを阻むとしても、自分はこの美しい子どもを穢れや痛みから守ってやらなければならないのだから。
 しかしその考えが酷く歪んだものであることに、男は気付いていた。それはただのエゴであり、あの子から生きる希望を奪い去る願望だった。だから男は、少女から距離を置くことにした。少女が以前よりずっと頻繁に、頬を赤く火照らせながら帰ってくるたび、その姿から目を逸らし、露骨に冷たく接するようにした。本当は彼女の腕を力任せに掴み、地下室にでも引きずっていって、どこにも行くなと繋ぎとめてしまいたいと、そんな凶暴な願望を抑え込みながら。
 人の感情の機微に敏感なあの子どもが、それに気付かないわけがなかった。しかし縋るように、愛情を乞うように、どれだけ切実な視線を向けられても、男は背を向けつづけた。早く自分への想いを捨て去るように。結局恋など碌なものではないのだと気付き、夢見がちな子どもの世界へ戻っていってくれるように。

 そんなことを考えながらやっと部屋へと辿りつき、ドアノブへ手を掛けながら、男は隣の部屋の扉を盗み見た。あの子はもう寝たのだろうか。先ほど夕食の席に置いていったとき、あの子はあからさまに傷ついた顔をしていた。そのあとバーの入口からこちらを覗き見ていたことにも気付いていたが、早く追い払いたくてわざと女性の頬へキスなどしてみせた。今ごろ、部屋でひとり泣いているのではないだろうか。
 だとしても、自分がそれに同情を覚える資格などないのはわかっていた。彼女を傷つけたのは自分自身だ。それにどれだけ泣かれようが憎まれようが、自分はあの子を、他でもない自分自身から守ってやらなければならないのだから。
 再び長いため息をつきながら扉へ鍵を挿し入れ、左へ回す。錠が開く音に続いて扉を開くと、中には暗闇が満ちていた。なんとなく明るい光を浴びる気にならず、灯りも付けずに部屋の中央まで歩いてゆくと、そこに置かれたベッドへと横たわった。
 そのとき、ベッドの隣に明らかな人の気配があることに、男は気付いた。
「誰だ!?」
 瞬時に身を起こし、ベッドサイドのランプを灯しながら、男は身構えた。隙を見てポケットに入れた戦闘用の手袋を取り出そうと意識を集中させていると、まるで靄が立ちのぼるように、目の前にひとつの姿が浮かび上がった。
 それは、今の今まで自分が想いを馳せていた、少女の姿だった。すっかり髪をほどき去り、いつもの鋭さを欠くおぼろな眼差しで、自分を見つめる少女だった。その身体はいつもの赤い外套を纏っていたが——その下にはなにも身に着けておらず、暗闇に白肌が月明かりのように浮かび上がっていた。
「……鋼の?」
「たいさ」
 今まで耳にしたことのない甘い声でささやくと、少女は華奢な身体をしならせて、ゆっくりとベッドへ這い上ってきた。闇の中でぬらりと揺れる幻のような肢体を、男は息もできずに見つめていた。
「ねえ大佐……。どうして意地悪するの……?オレのこと、もう嫌いになった……?」
 ねえ、どうして。そうささやきながら、少女は生身の左手で男の手を掴む。男のものと比べると手のひらほどしかない小さな手で重い指先を絡めとると、そのまま自分の頬へと誘う。
「大佐の手……あつい。すごく熱くて、火傷しそう」
 言葉とは裏腹に、はあっと恍惚の吐息を漏らし、目を閉じる。指先に当たる肌は瑞々しく張りつめ、陶器みたいにすべやかだった。
「ねえ、大佐。さわってよ」
 あたかも魔術をかけようとするごとく、いやに粘ついた声で少女は言う。そして今度は男の手を自らの胸へとすべらせ、やんわりと押し付ける。捕らわれた指先は未成熟なやわらかさの中へ沈み込み、男の視界に眩暈を引き起こす。
「ここも、他の場所も、さわって……オレのこと、あっためてよ。オレさ、大佐になら、なにされたって……」
「……なにをしている」
 なんとか意識をかき集め、男は言葉を絞り出す。少女はわずかに顔を強張らせたが、返事をもらえた嬉しさに、ほっと頬をほころばせる。
「大佐、オレ……」
「なにをしているのか、と聞いている。どうして私の部屋にいる。一体なにが目的だ」
「なに言ってんの、大佐。わかるだろ?オレはさ、大佐のこと……」
 ほほえみながらそう言うと、少女は男の手を自らの胸へより強く押し付ける。男は力任せに指を振りほどくと、少女を鋭く睨み付けた。有無を言わせぬ厳しい視線を向けられ、少女の顔から笑みが剥がれ落ちる。やがて、なんで、というささやきと共に、少女は寝台へ力なく手を落とした。
「……なんで?オレのこと、どうしてそんなに嫌うの?どうしてオレのこと、見てくれないの……?」
「お前はなにかを勘違いしているだけだ。分かったら服を着て、ここから……」
「違う!勘違いなんかじゃない!」
 少女は髪を振り乱しながら首を横に振り、ちがう、ちがうと繰り返す。
「オレが子どもだから!?嘘ついてたから!?だからオレのことなんて、もういらなくなった!?それとも……オレの身体がこんなだから?傷だらけで、機械が取り付けられてて……こんな身体の女、好きになる奴なんて……」
 予想もしなかった言葉に男は驚き、思わず少女を見た。赤い外套から覗く身体は、肋骨の位置がわかるほどに痩せており、その上のわずかな膨らみは先端がふっくらと桃色に色づき、肌の白さも相まって、まだ誰にも踏み荒らされたことのない新雪を思わせた。
「嫌わないで……大佐」
 精気を吸い取る魔物に魅入られたような想いで目の前の光景を眺めていると、少女はそんな懇願を投げかけてきた。不安を剥き出しにした、迷子の子どもを思わせる声で。
「嫌わないで……オレのこと……。オレがどれだけ醜くても……愚かでも……オレのこと、見捨てないで……。そのためなら、オレ、どんなことだって……!」
 張りつめた理性が音を立てて崩れ落ちると同時に、男は衝動的に少女を寝台へと押し倒した。反動で完全に露わになった肌へ唇を落とし、首元へ、鎖骨へ、胸へとくちづけ、きつく吸い上げる。唇へふれる肌は、まるで赤子のように生気にあふれていて、背徳感に熱が全身を駆けぬける。
「ひゃぁ……っ!ん……」
 少女のひきつった声が聞こえないよう装い、浮き上がった肋骨へ唇を当てながら脇腹をなでると、少女の身体は魚のごとく激しく跳ねた。そのまま腰から太ももを旋回するようになでさすると、駄々をこねる子どものごとく身動ぎし始めたものだから、動きを封じるために片手で薄い腹を押さえ付け、もう片手で、産毛すら生えていない幼い恥丘を指でなぞった。
「ぁ……やだ……たい、さ……っ!やだぁっ!」
 そのとき、身体の下へ組み敷いた少女が、震える悲鳴を絞り出した。命乞いを思わせるその切実さは、男の心にたちまち理性を呼び戻した。自らの熱を鎮めるため、はぁっと深く息を吐き、男は少女の肌から手を離すと、シーツに横たわる小さな肢体を見下ろした。
「……これでわかっただろう。男を誘惑するということが、どれだけ恐ろしいことなのか」
 喉が酷く乾いていることに気付きながら、できるだけ低い声で男はつぶやいた。いつしか全身にも酷く汗をかいていて、まるで熱でも出たようだった。
「わかったら金輪際、このような真似をするな。大人をからかっていると、いつかきっと、取り返しのつかないことに……」
「……ちがう」
 男の言葉を受け、少女は言葉を絞り出した。男が目をやると、金色の瞳が縋るようにこちらを見つめていた。
「ちがう……恐ろしくなんて、ない……オレは、ぜんぜん……怖くなんて……」
「ならばどうしてお前は泣いている?どうしてそんなにも震えている?」
 男の言葉にはっとして、少女は指先を目もとへ運ぶ。そこが確かに濡れそぼっていることに気付いたようで、絶望を顔に滲ませてゆく。その間も、痩せ細った身体は凍えたように震えつづけ、さらには秘部を守ろうとする本能のせいか、両腿をぎゅっとにじり合わせていた。
「お前はただ、人肌に飢えているだけだ。自分を甘やかし、愛してくれる、そんな存在を求めているだけだ。決して私を愛しているわけじゃない」
「ちがうっ!オレは本当に、大佐のこと……!」
「お前にそんな時間があるのか!?鎧の身体の弟を放って、自分は呑気に色恋に興じるのか!?」
 それは少女が最も言われたくないことのはずだった。現に少女は幻から醒めたかのように目を見張り、顔を歪めて大粒の涙をこぼすと、烈しくしゃくり上げ始めた。
「……私は明日、ひとつ早い列車に乗って司令部へ帰る。お前は予定どおりの時間に列車に乗れ。そうすれば、顔を合わせずに済むだろう」
 しばしの間、少女の嗚咽に耳を傾けたあと、男は言った。少女は返事をしなかった。まるで熱を冷まそうとするかのように金属の腕をまぶたに押しつけ、喉をひくつかせて泣いていた。
「今日のことは忘れなさい。私もこのことは二度と口にしない。これまでもこれからも、私とお前はただの上官と部下だ。それ以上でも、それ以下でもない」
 それはあまりにも残酷な通告だった。少女は憐れな自分を覆い隠そうとするかのごとく赤い外套で自らを覆い、小さな身体をぎゅっと丸めた。
「私は一時間ほど飲み直してくる。その間に、ここから出ていきなさい」
 そう告げて男は立ち上がり、入口へと向かった。扉を開けて部屋を出るまで、背後からは少女の嗚咽が聞こえていた。扉を閉める瞬間、堪えきれずに振り返ると、ベッドの上にうずくまる少女を覆い隠しながらシーツへ広がる赤い外套が、目に入った。




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