二週間後、ミニライブの特典会で再会したそのひとは、まるであの会話が幻であったかのように、普段と変わらない快活な笑みを向けてきた。いつもどおりに僕の研究が順調か尋ね、すごいな、がんばれよ、と声を掛けてくれた。
 しかしそれから数日して、再び夜に電話が鳴った。急いで出ると、「アルフォンス?」とよく知る声が僕の名を呼んだ。以前の約束どおり、彼女は僕の研究のことや、大学院の制度、院試の様子について詳しく聞きたがった。僕は彼女を満足させたくて、彼女の質問になんでも答えた。一般的な年頃の女の子にはつまらない話であるはずなのに、彼女は心から興味深げに感嘆の声を漏らし、時には鋭い質問までしてくるものだから、僕の研究に興味があるというのは本当のようだった。
「アルフォンス。オレ、お前に無理させてるよな。ごめんな」
 何度目かの電話のとき、そのひとは突然そう言った。僕が話しながら眠ってしまい、ゴニョゴニョと訳のわからないことをつぶやいたあとだった。
「へ……?無理って……?」
 驚いて目を覚まし尋ねると、だって、と曇った声が返ってくる。
「お前、毎日遅くまでオレの電話待ってんだろ。オレが気まぐれにかけてくるから」
「そんなこと!」
 否定の言葉を吐いてみたものの、それは図星だった。今日は電話があるのではないかと毎日遅くまで起き、寝落ちてしまうのが日常になっていた。お陰で日中は眠たくて、研究室で仮眠を取るのが日課になっていた。
 気まぐれ、と彼女は言ったが、僕にはそれが気まぐれではないことがわかっていた。芸能人、とくに営業が大切なアイドルは、とにかくあちこちのラジオやTV番組に出演しなければならない。それに加えてグループの冠番組であるラジオや、配信する動画の撮影、打ち合わせやレッスンなどが深夜まで及ぶことも珍しくない。そんな厳しいスケジュールのなか、決まった曜日の決まった時間に電話をかけるだなんて、到底無理な話だ。
「いいんだぞ、疲れてるときは出なくて。オレが勝手にかけてるだけなんだから、眠かったり疲れてたりしたら……」
「嫌です、そんなの!」
 思わず大きな声を上げてしまい、隣の部屋に響かなかっただろうかと咄嗟に口を押さえる。しかし僕は動揺し、わずかに怒りすら覚えていた。憧れのひとから電話がかかってきたのに、それを無視するだなんて――そんなこと、できるはずがない。
「僕だってあなたと話したいんです!あなたと話せるのが嬉しくてたまらなくて、あなたの存在が活力なんです!だから、あなたと話せる機会を逃すだなんて……」
 きっと、勘違いも甚だしい、重いファンだと思われただろう。けれどそれが僕の本心だった。僕はこのひとに、僕の中で彼女の存在がどれだけ大きいのかをわかってほしかった。
 彼女はすこし沈黙したあと、消え入るような声で、そっか、と言った。
「……ありがとな。オレも、お前の話を聞くのが楽しいんだ。お前の研究のことを聞いてると、勝手にお前がオレの夢を叶えてくれるような気がするんだ。憧れてるんだろうな、お前に……」
 そんな馬鹿な、という言葉が喉まで出かかる。その美貌で、輝きで、多くの者を魅了する一番星。誰もが惹かれてやまないこのひとが、僕みたいに冴えない男に憧れているだなんて聞いたら、きっと人々は笑い飛ばすだろう。
「なあ、アルフォンス。いつかオレも乗ってみたいな。お前の作ったロケットに」
 それでも当の本人は、どこまでも真剣に、そんなことをつぶやく。

 その後、彼女が提案した取り決めに、僕は同意した。というよりも、同意させられた。電話をするとしたら、木曜日のみ。零時を過ぎたら、電話はかけない。だからそれまでに電話がなければ、僕は大人しく寝る。これにより彼女と話す機会が減ってしまうのは嫌だったが、僕の健康を気遣う彼女に対して、子供みたいにごねるのは嫌だった。
 ニューシングルのリリースも重なり、もともと頻繁ではなかった電話は、月一回できたらいいほどになったが、その間も僕は彼女の姿を見るため現場に通った。ニューシングルのリリースイベントにできるだけ足を運び、CDを複数枚購入し、特典会で彼女と話した。他のファンたちはチェキを撮ったりもしていたが、そんな暇があるなら僕はできるだけ彼女に研究の進捗を報告したかった。その気持ちを察しているのか、彼女も僕の話に耳を傾け、順調であれば自分のことのように喜び、不調のときは懸命に励ましてくれた。きっと周りのスタッフたちは、自分の話ばかりしに来る変な男と、そんな奴にも健気に耳を傾けるプロのアイドルだと思っていただろう。それでも僕はよかった。周りにどう思われようと、彼女が喜んでくれるのなら、追いかけている夢を共有したかった。

 数か月にわたって全国各地でリリースイベントを行い、再び首都へと戻ってきた彼女のグループは、最後のイベントでライブの告知を行った。スタッフからリーダーに手渡された手紙に書かれていた会場名は、グループがかつて立ったことのない規模のアリーナで、その名が読み上げられた瞬間、グループとファンの双方から大歓声が上がった。
 ずっと大きな会場を目指してきたメンバーたちは、泣き出したり抱き合ったりと様々な方法で喜びを露わにし、しっかり者で知られているリーダーですら涙で声を震わせていた。そんななか、他のメンバーからすこし距離を取るようにして、そのひとは立っていた。まるでその吉報が自分には関わりのないことであるみたいに、他のメンバーたちへ穏やかな眼差しを向け、祝福するようにほほえんでいた。やがて彼女が祝福の輪にいないことに気付いたメンバーのひとりが、彼女に飛びついて抱きしめるまで、そのひとは歓喜で拳を突き上げることも、歓声を上げることもしなかった。

 その次の木曜日、零時前ギリギリに、久しぶりに非通知の番号から電話がかかってきた。胸を高鳴らせ電話に出ると、「まだ起きてたか?」と、待ち望んだ声が耳に滑り込んできた。
 イベント続きだったからだろうか。彼女の声はわずかに掠れていて、いつもより覇気が感じられなかった。疲れているのだろう。リリースイベントに加え、グループのラジオも配信番組も休まず更新が続いているし、ニューシングル告知のためのゲスト出演や、エースの彼女だけが呼ばれるモデルの仕事なども多い。今日は早めに切り上げたほうがいいと、本題であるアリーナライブ決定に祝辞を述べると、彼女は、ああ、と忘れていたかのごとく返事をした。
「あれはさ……オレの功績じゃないよ。ずっとがんばってきたみんなと、そのファンの功績。オレが喜んでいいことじゃない」
 でもありがとな、と明るい声で笑ってみせるのが、さすがアイドルというところだ。本当は、彼女の存在がグループ人気の起爆剤になったことなど誰でも知っているのに、彼女自身はどこまでも謙虚らしい。いや、謙虚というか、わざと周りと自分の間に線を引いているようだ。まるで自分の所属するグループを、自分の居場所だと思ってはいけないというかのように。
「リリイベ、いっぱい来てくれてありがとな。金かかったろ?やんなるよな。金を払わないと、堂々と話もできないなんて」
「いや……当然です。あなたはアイドルですから」
 壁際に積み上がった、何枚もの同じCDを眺めながら思う。このひとは本来、こんな風に言葉を交わしてはいけない存在だ。ルール違反。最初にこのひとがそう言ったとおり、こんなことを続けていてはいけない。もちろん僕は誰かに漏らすつもりはないけれど、なにかあったとき窮地に陥るのは僕ではなくこのひとだ。僕たちがやっているのは、このひとの名誉を失墜させ、このひとを愛する多くのファンから、希望を奪いかねないことだ。それなのに、この電話を待ち望んでしまう僕は酷く利己的で、ファンとしては失格なのだろう。
「……なあ、アルフォンス。なんでオレだったんだ?」
 そんな僕の思考に気付きもせず、そのひとは突然問うた。
「え、それは……どういう……?」
「あの中で、どうしてオレのこと、応援しようって思ったんだ?うちには他に、もっと愛嬌のある子も、やさしい子も、スタイルのいい子もいるのに」
 予想外の質問に、僕は言葉を失った。あのグループ一の人気を誇っておきながらこんなことを問うだなんて、他のメンバーが聞いたら嫌味だと思うだろう。けれどあの日、祝福の輪に入らずただほほえんでいたこのひとの姿を見てしまった僕には、それがどこまでも真剣な問いだとわかっていた。僕がこのひとを好きな理由。挙げればキリがないはずなのに、不思議と答えは決まっていた。
「時間が……止まったんです」
「え……?」
「あなたの姿を初めて見たとき……僕の周りの、時間が止まったんです」
 あの日、通りかかった交差点のスクリーンに映し出された、少女の姿。名前も立場もなにも知らないのに、まるで金縛りにあったみたいに身体が動かなくなった、あの瞬間。
「車の音も、友達の話し声も、ぜんぶ消え去って……まるで真空状態みたいな意識の中で、思ったんです……見つけた、って。僕はずっと、このひとを探していたんだろう、って」
 それが一体、なんだったのかはわからない。ただ本能に引かれるように、そう思った。
「だから僕は……あなたのファンなんです。こんなことを言ったら怒られるかもしれないけど、グループじゃなくて……あなただけを好きなんです」
 あなたを好きだなんて、アイドルとファンの関係であっても、以前は照れてしまって絶対に言えなかっただろう。それをさらりと言葉にできたことで、自分もここ一年半ほどで随分アイドル文化に染まったものだと、思わず嘲笑が漏れた。
「……不思議だな」
 しかし、あまりにもロマンチシズムに満ちた僕の発言を笑いもせず、そのひとはつぶやいた。
「オレもさ……ステージの上から、お前だけはいつも絶対に見つけられるんだ。まるでスポットライトでも当たってるみたいに、お前の顔と、お前の持ってる赤いペンライトだけは、いつも」
 なんでだろうな、と掠れた声でささやいて、くすくすと笑ってみせる。まったく予期せぬ告白に、一拍置いて顔が沸騰したように熱くなる。
「そ、そんな……赤を振ってる人なんて、他にも、たくさん……」
「お前の雰囲気がちょっと妹に似てるからかな?」
 自分の発言に自分で噴き出し、なんてな、と笑う。この間、妹は自分の百倍かわいいなどと言っていなかっただろうか。それがこんなに冴えない男に似ているだなんて、冗談でも質が悪すぎる。
「なあ、アルフォンス。オレさ、この間変な夢……見たんだ」
「夢、ですか……?」
 いつもは立て続けに脈絡のない話を振ってきたりはしないのに、今日は相当疲れているらしい。その証拠に、声がいつもよりふやけていて、どこか幼く聞こえる。
「ああ……。お前がさ、倉庫みたいなところで、ロケットの図面持って……オレに話しかけてくるんだ。まるでオレが同僚かなにかみたいに、難しい言葉いっぱい使って。それなのに、オレもお前の話すことがよくわかって……なんだか一緒に研究してるみたいで……」
 うつらうつらと、声に眠気をまとわせながら、そのひとは喋り続ける。
「おかしいのがさ……お前、やたら古めかしい恰好してて……。白いシャツに、黒いズボンに……サスペンダー、なんかして……」
 でも似合ってたなあと笑う声は、もう夢と現の境目にいる。もう寝てほしいのに、とろとろと融ける甘い声は、舌ったらずの言葉を紡ぐのをやめない。
「なんか……すげぇ安心したんだ。隣にお前が居てくれて。オレ、さびしかったんだ、あのころ……。もとの世界に、帰る方法が……わからなくて……」
「へ?」
 そこまで話して、ついに眠りへ落ちたのか、電話越しにかすかな寝息だけが聞こえてくる。今のはどういうことだろう。意味を訊いてみたかったが、きっと寝ぼけていたのだろうし、疲れ切っている彼女を起こしたくはなくて、おやすみなさい、とだけささやき電話を切った。




/