白い朝陽が目に染み入り、誘われるように瞼を開くと、鋭い痛みに側頭部を貫かれ、思わずうめき声を上げた。ここはどこだろう、ともう一度ゆっくり目を開くと、目の前には倒れたゴミバケツと、そこから漏れた生ゴミを漁る痩せた犬の姿が見えた。
どうやら僕は、路地裏に捨てられたらしい。周囲を見渡すと、路地には他にもゴミが散乱し、僕と同じような体勢で地面に転がる酔っぱらいがいた。
「お兄さん、小銭持ってないかね?」
浮浪者と思われる男が、僕が起きていることに気付き、ふらふらと近づいてくる。このまま寝ていては身ぐるみを剥がされたっておかしくないとなんとか起き上がり、重い身体を引きずりながら歩き出した。
下宿に着くと、扉の音に気付いたシュナイダーさんが顔を出し、僕の姿を見て悲鳴を上げた。そこまで酷い恰好をしているのだろうかとぼんやり考えていると、手当てをするからと部屋に引きずり込まれた。
頬は腫れ上がり頭も酷く痛んだが、腕や脚を動かしてみた限り骨は折れていないようで、とりあえず胸を撫でおろした。どうやらあのボディガードは手加減してくれたらしい。いつかあのひとが、あいつはいい奴、と言っていたことを思い出し、胸がちくりと痛む。
あのひとはいつから、オーナーと連絡を取っていたのだろう。きっと僕が工場へ働きに出ているときにはもう、身請けの話は出ていたのだろう。それに同意したのは、僕が工場の仕事を失ったときだろうか。この不況では仕方がないこととはいえ、自分の不甲斐なさに怒りが湧き上がる。
あの日、一緒にアメリカへ行くのだと言ったとき、泣きそうな声で笑ってみせたあのひとのことを思い出す。聡いあのひとは、きっとこうなることを予想していたのだろう。僕にあのひとを連れていくという約束を果たす力がないことも、僕たちがともに過ごす未来が、訪れはしないことも。
三日ほど部屋で療養し、その間に僕はアメリカへ手紙を書いた。ぜひそちらへ伺いたいという旨の文章をしたため封筒に入れると、やっとまともに出歩けるようになった四日目にポストへ投函し、シュナイダーさんに退去することを伝えた。
アメリカからの返事を待つ間、僕は何度もキャバレーの近くへと足を運んだ。しかしあのひとの姿は見つけられず、落胆を胸に抱きながら夜の街を歩いた。あのひとは今、どうしているのだろう。あの小さくしなやかな身体が、極右の男の玩具にされているのかと思うと、舌を噛み切りたいような後悔に襲われた。しかし、親衛隊に囲まれているというのに、軟弱な僕になにができるだろう。この間だって、本気を出していないガードマンひとりに、簡単にやられてしまったじゃないか。
それに、あのひとは言った。僕はただ、愛する弟の身代わりだったと。もうひとつの世界や錬金術の話は信じられなかったが、あのひとが弟の話をしたときの苦痛に身を焼かれるような表情を見れば、その想いが本物であることは痛いほどにわかった。もしも、あのひとが本当に別世界の人間で、そこで僕があのひとの弟だったとしたら、あのひとはどんな想いで、僕をホテルに呼んだのだろう。どんな想いで、くちづけをねだったのだろう。
——お前にはさ、夢を叶えてほしいんだよ。どうしても欲しかったものを諦めた、オレの分までさ。
あのひとが放った言葉が、ふと甦る。あのひとは、自分のせいで弟がすべてを失ったと言った。もしも今回の決断が弟に対する彼女なりの贖罪なのだとしたら、彼女に想いを遂げさせるため、僕は彼女の決意を受け入れるべきなのだろうか。
アメリカへ出立する一週間前、僕は友人とカフェで別れの昼食を摂った。友人にもアメリカでロケットの研究をしないかと声を掛けたが、すでに熱意を失ってしまったという友は、疲れた顔で「俺はいい」と言った。
「そういえばさ、例のキャバレーの彼女、この間街で見掛けたぜ」
思わぬ言葉に動揺し、コーヒーカップを傾ける手元が狂い、鼻の先をコーヒーに突っ込んでしまった。あまりの熱さに飛び上がると、その拍子にカップを床へ落とし、店内にカップが割れる音が響く。
「あーあ、なにやってんだよ、お前」
呆れるように笑う友人はウェイターに合図し、箒と布巾を持って来させる。周囲の客の憐れむような視線を受けながら、僕はもう一度席に腰かけ直した。
「彼女って、君が僕を連れて行ったキャバレーにいた?」
「そうそう、エディスだっけ?すっかり着飾ってさ、ほら、国家社会主義ドイツ労働者党?あの緑の制服を着た男に連れられて、ホテルに入ってったな」
「どこのホテル?」
「あ?ほら大聖堂の隣のさ、入り口に国旗のかかった高級なやつだよ」
いいよなあ金持ちは、と言ってコーヒーを煽る友人を見ながら、記憶を呼び起こす。そのホテルなら知っている。彼の言うとおり、それはベルリンでも一際高価なホテルだった。
友人と別れの握手を交わしたあと、僕はそのホテルへと足を向けた。西日の当たる白い石造りの壁を道路の反対側から眺めながら、自分は一体なにをしているのだろうと考えたが、立ち去ることはできなかった。一時間、二時間、三時間と経ち、辺りが薄暮に沈んだころ、黒い高級車が入り口に停まった。
運転手が車から降り、後部座席の扉を開けて中の人物へ手を貸す。どうやら相当小柄な人物らしく、車が邪魔になって姿が見えない。しかしそのとき、ホテルの入口から親衛隊の制服を着た四十代ほどの男が姿を現し、階段を降り始めた。
運転手は手を貸していた人物を親衛隊の男に託し、再び運転席へ戻ると、車を発進させる。その陰から現れたのは、先ほどの親衛隊の男に腰を抱かれる、あのひとの姿だった。
久しぶりに目にした愛しいひとの姿に、胸の鼓動が駆け始める。友人が言ったとおり、以前とは比べ物にならないほどきらびやかな白のドレスを身に纏い、肩には毛皮のショールを巻いている。髪型も手が込んでいて、編み込んだものをアップにしているようだった。きっと、使用人か誰かにやってもらったのだろう。
男に支えられ、自らも杖をつきながら、そのひとは階段を上がっていく。細い腰に対して男の手は大きく、そのひとが己のものだと誇示するように自らのほうへ引き寄せている。しきりになにかを話しかけているが、そのひとが男のほうを向く姿は、ふたりが扉の奥へ消えるまでついぞ見受けられなかった。
翌日も大体同じくらいの時間に、僕はホテルへ赴いた。なにをしようというわけでもなかったが、ただそのひとの姿が見たかった。昨晩はあのひとがあのあと、親衛隊の男に身体をいいように弄ばれたのだろうかと思うと一睡もできず、身も頭も重かったが、それでも行かずにはいられなかった。
昨夜と同じく、陽が落ちてしばらく経ったころに、あのひとは高級車でホテルへ運ばれてきた。今日は緑色のドレスに身を纏い、髪は下ろしている。やはり綺麗だと目を細めていると、昨日と同じく親衛隊の男が階段を降りて来て、そのひとを中へと連れて行った。
翌日もまた、僕はホテルへ足を運んだ。それは僕にとって、ベルリンで過ごす最後の夜だった。行ってもどうしようもないと分かっていても、せめて最後にもう一度と、ホテルへ入って行くそのひとの背中を見送った。
前 / 次