狂騒の街ベルリン。その本来の姿は、日が沈んだあと、ネオンの光に誘われ目を覚ます。真っ当に生きる昼間の人々と入れ替わるようにして、薬物中毒者や売春婦が往来に姿を現せば、そこはもうあらゆる欲望の坩堝るつぼだった。
 眩暈がするほど乱雑な風俗街を、絡みついてくる売春婦たちを振り払うようにして駆けた。まだ夜も更けていないのにすでに酷く酔った人々に身体がぶつかり、なんだお前と文句をつけられても、一切気にも留めなかった。目的は、あの場所。僕が初めてあのひとと出会った、世界の果てのような、あのキャバレー。根拠はなかったが、なんとなくあのひとはあそこに戻ったのだろうという予感があった。だってあのひとにはもう、他に頼れる存在など、この世にはいないだろうから。

 クラブの扉を開いて階段を駆け下り、そのまま開店準備をしている店内へと駆け込んだ。ウェイターたちの制止の声が響くなか、バックヤードへと続く扉を体当たりするようにして開き、暗い廊下を走る。僕の姿を見て、廊下で煙草をふかす男か女かもわからない下着姿のキャストたちが、あらぁ、とからかうような声を上げる。
 控室と思われる扉を次々と開き、ガードマンたちの足音を背後に聞きながら三つ目の扉を開けると、そこにはいつもの赤いガウンを羽織り、鏡に向かって化粧を施す見知ったひとの姿があった。
「エドワードさん!」
 声の限りに名を叫び、部屋に飛び込もうとしたところを、後ろからガードマンに羽交い絞めにされる。屈強な腕をなんとか振り払おうともがいていると、目の前のひとが「離せ!」と声を上げた。
「……呼ばれるまでまだ時間がある。それまでそいつと話をさせてくれ」
 いいだろ、とそのひとが問うと、ガードマンは黙って腕を解く。どうやらこの場所でこのひとの指示は絶対らしい。「オーナーには黙っててくれ」という願いにも頷き、ガードマンは僕たちふたりだけを残し、部屋を去っていく。
「……で、なんの用?オレも準備で忙しいからさ、手短に頼むわ」
「なんの用、って……。どういうつもりですか、あなた?あんな書き置きだけ残して、いきなり出て行って!」
「金も置いてっただろ?今まで相手してくれた分。色も付けといたからさ、大事に使えよ」
「ふざけないでください!どうしてまたこんな店に!?クビになったって言ってたじゃないですか」
「ああ、オーナーがさ、戻ってきてくれって。やっぱりスターのオレがいないと商売にならないって頭下げてきたもんだから、なら戻ろうかなって。貧乏にもうんざりしてたし」
「……嘘、ですよね?」
 僕の問いに、そのひとは答えない。唇を結んだまま顔に粉をはたき、電球に縁どられた鏡を見つめ続ける。
「あのお金、身請け金かなにかですか?あなたはオーナーを介して、誰か裕福な人物に身を売った……そうでしょう?」
 そのひとは化粧をする手を止め、わずかに視線を落とす。その顔に、ぼんやりとした笑みが浮かんでいるのを、僕は見逃さなかった。
「あなたは今夜、ステージに上がるわけじゃない。化粧をして、美しく着飾って、あなたを買った男のもとへ向かう。違いますか?」
「……だったらどうなんだよ?」
 ブラシを握ったまま手を化粧台に置くと、そのひとはこちらを見る。電球の光を反射する瞳に、先ほどまでの余裕ぶったところはない。
「やっぱりお前は頭がいいよ、アルフォンス。さすがだ。でもさ、お前には関係ないことだ。オレが自分で決めたんだから」
「違う!あなたは僕をアメリカに行かせるために、自らを犠牲にした!こんなこと僕は望んでない!」
「じゃあどうする?ふたりで野垂れ死ぬか?あんな額の給料しか稼げない癖に?」
 ぶつけられた皮肉に一瞬言葉を失ったが、負けじと歩み寄り、メイクブラシを握ったままの細い腕を掴む。腕を引き上げられ、そのひとは不快そうな面持ちをこちらへ向ける。
「……どうするつもりだ?」
「あなたを連れてここから逃げる」
「はは、無理だよ!外にはガードマンとオーナー。さらにはもうすぐ、オレを迎えに親衛隊もやってくる。入口はひとつ。こんな地下牢みたいなところからは、逃げようがない」
「親衛隊……?」
 放たれた言葉が引っかかり顔をしかめると、そのひとは挑むような笑みを浮かべた。
「そうだよ。オレを買ったのは、ナチのお偉いさんだ。なんでも前にショーを見て、オレに惚れたんだとよ。第三帝国だなんだの、わけわかんねぇ理想ばっかり聞かせてくるいけ好かない奴だけど、金だけは持ってるから助かったぜ」
「そんな……駄目です。あの政党は危険だ。あんな政党の幹部にあなたを渡すことなんて、できない」
 あまりにも絶望的な事実に、喉が引きつって上手く声が出ない。そんな僕を嘲笑うかのように、そのひとは高い笑い声を上げる。
「臆病者のお前には無理だよ、アルフォンス!相手はあのナチだぜ?六年前のミュンヘンでの一揆をお前も見たろ?あいつらは目的を成し遂げるためならどんな手段でも使う。邪魔なんてしたら、お前ひとり簡単にひねり殺すさ」
「だったら尚更、あなたをここには置いていけない。あなたがあんな奴らの慰み者になるなんて……!」
「オレはいいんだよ!」
 叫ぶと同時に腕を振りほどき、そのひとは僕を睨みつける。ぎらりと激しさを灯した瞳は、しかしすぐにはらりとほどけ、嘲るような笑みを浮かべる。
「言ったろ?オレはもう、どうなったっていいんだって。もともと生きてんのか死んでんのかもよくわからねぇんだって」
「………」
「もうさ、現実なんてまっぴらなんだよ。欲しいものなんて手に入りゃしないし、会いたい奴には二度と会えないし……。だからさ、適当な相手と気持ちいいことして、寂しさを紛らわせて、そのうち適当に死ぬ。もうそれでいいんだ」
「……馬鹿なこと言わないでください」
「馬鹿なことじゃない。オレはさ、アルフォンス、寂しいんだよ。寂しくて寂しくて気が狂いそうで、誰かにそばにいてほしかった。そこにたまたまお前がいて、純情そうでかわいかったし、ちょっと遊んでみたくなっただけだ。お前が家にいる間は好きなだけヤレたからよかったけど、そのうち抱いてくれなくなったし、仕事ばっかで帰ってこなくなったからさ、もういらないかなって。オレはこの寂しさを紛らわせてくれるなら、相手が極右だって殺人鬼だってなんだっていいんだよ」
「嘘だ」
 僕が放った否定の言葉を聞き、そのひとはかすかに目を見開く。初めて見たとき、作りもののようだと思った、美しい瞳。しかし人形のようだと思ったそのひとは、傷ついた心をひた隠しにしようとするまごうことなき人間だった。だからこそ、僕は——……。
「あなたはそんなに愚かでも浅はかでもない。誰よりも賢くて、正義感が強くて……やさしいひとだ。少なくとも、僕の瞳を通せば、あなたはそう見える」
「……馬鹿言うなよ。オレは売女だぜ?知らない男と寝るのが仕事。そんな奴のこと……」
「それは本来のあなたじゃない!あなたがただ、あなた自身を諦めてしまっただけだ!」
 声の限りにそう叫ぶと、目の前の顔から嘲るような笑みが立ち消える。一切の感情を排したその顔は、端正だからこそ余計に虚ろに見える。
「……じゃあさ、お前はオレのなにを知ってんの?」
 低く発せられた声は、今にも立ち消えてしまいそうに、たよりないものだった。
「この三か月くらい一緒に暮らしただけで、オレのことをすべて把握したつもりなのか?オレが何処から来て、どんな罪を犯したかも知らないのに?」
 そう言ってブラシを放り、化粧台へ手を突くと、椅子からゆっくりと立ち上がる。ガウンの下に見える肌を透かした白い下着が、これからその身に起こることを予感させ、痛々しさに胸が穿たれる。その隙を狙ったように、そのひとは飛びかかるようにして僕の胸ぐらを掴んだ。突然の衝撃に不意をつかれ、ふたりして床に倒れ込む。
「教えてやるよ、アルフォンス。オレはな、もともとこの世界の人間じゃないんだ。この世界と並行して存在する別世界、そこでオレは、錬金術師だったんだ」
 僕の上に馬乗りになりながら、そのひとは語り出す。一切光を宿さない淀んだ瞳に、嘲笑だけを浮かべて。
「この手脚はな、錬金術に失敗して失ったんだ。死んだ母さんを蘇らせようなんていう、馬鹿なことをしたから。オレは手脚だけで済んだけど、弟は身体全部を失った。だからそれを取り戻すため、オレたちは長い旅をした。でもさ……無理だったんだ。オレがしくじって死んで、それを蘇らせるために弟が自らを犠牲にした。だけどそんなのあんまりじゃないか。あいつはオレのせいで、すべてを失ったのに……」
 なあ、そうだろ、と言い、シャツをさらに捩じり上げてくる。その顔には狂気が浮かび、呼吸は段々と早まってゆく。
「だからさ、オレはあいつを取り戻そうとしたんだ。この命を使って。それなのに、気付いたらオレはこちらにいた。門の向こう側の、この世界に。それから二年くらい、元の世界に帰ろうと死に物狂いで方法を探したよ。でも無理だった。一度門をくぐってしまえば、あちらに戻る方法なんてない。オレはもう、あいつに……アルには会えない……」
「アル……?」
 つぶやかれた名前が気になり繰り返すと、そのひとは再び狂気めいた笑みを浮かべる。
「ああ、そうだよ。言ってなかったか?この世界とあっちの世界にはな、同じ人間が存在してるんだ。オレと同じ人間もいた。ロンドンで死んだ……いや、オレが殺したけどな。そしてアルフォンス。お前はな、あっちの世界でオレの弟だったんだよ」
 告げられた言葉が耳で反響し、周囲の音を遠ざけていく。扉の外から聞こえていたキャストたちのざわめきも、オーナーと思しき男の怒鳴り声も、引き潮のように遠のいて——ただ頭上からこちらを見下ろすそのひとの、荒い呼吸だけが耳をつく。
「いつか言ったろ?お前はオレが昔好きだった奴に似てるって。ああ、そうだよ。オレはアルを愛してた。実の弟に欲情して、あいつが欲しくて欲しくてたまらなかった。気持ち悪いか?でもさ、オレたちは確かに愛し合ってたんだよ。あいつは鎧の姿をしていたからキスすらもできなかったけど、オレたちの間にあったのは間違いなく愛だった」
 信じられない。もうひとつの世界だなんて、そんな荒唐無稽な話を信じることはできない。けれど同時に、このひとの話はすべての謎に答えをくれるものだった。あの日、空中から僕を見つけたこのひとが驚いて目を見開いた理由。知らないはずの僕の名前をささやいた理由。そして、この僕を選んだ理由——。
「だからお前はさ、弟の代わり。それ以上でもそれ以下でもない。アルに会いたくてたまらないから、同じ顔のお前を利用して自分を慰めてた。ただそれだけのことさ。でももう飽きたし、言うことも聞いてくれないから——お前はいらない」
 そう言って手を離すと、左手を地面に突いて身を支える。床へ落ちる長い髪が顔に影を作り、表情がよく見えない。僕はただの代替品。そう考えれば考えるほど、すべてのことに納得がいき、胸に灯った熱が冷めていく。ああ、そうか。最初からここに、愛なんてものはなかったのだ。そう思考を巡らせていると、ふいにそのひとの顔が近づき——唇へとくちづけられた。
 十秒にも満たない、ささやかなくちづけ。ふわりと鼻をなでた、花のような甘い香り。それはやがて僕のもとから離れ、再び頭上へ戻ってゆく。
「……これははなむけだよ、アルフォンス。お前とはもう二度と会わない。アメリカでもどこでも、行っちまえ」
 じゃあな、と言って床に手を突くと、這うようにして化粧台へと戻り、椅子へとよじ登る。髪を後ろに流してブラシを手に取ると、何事もなかったかのように化粧を再開する。
「……エドワードさん」
「……」
「エドワードさん!」
「おい、ヴィクター!いるんだろ?こいつ連れてって。親衛隊が来る前に」
 そのひとが声を張ると、すぐさま扉が開き、先ほどの屈強な男が現れる。しまったと思ったときにはすでに腕を掴まれ、廊下のほうへと引きずられる。
「エドワードさん!こんな別れ方!僕は、あなたを……!」
「なあアルフォンス。人生はさ、このキャバレーみたいなもんだよ。真剣に生きれば生きるほど、深みにはまっていく。だから頭を空にして、快楽に身を委ねて……いつか楽になれる日まで、夢の中で生きるんだ」
 エドワードさん、ともう一度名前を呼び、力の限りに身をよじると、とてつもない衝撃が左頬を抉った。訳も分からないまま床に倒れ込むと、もう一度衝撃が降ってくる。息もできないほどの痛みに意識が揺れたとき、楽屋の扉が閉まる無情な音が、耳に響いた。



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