夕闇に染まる街のなか、どこかやりきれない気持ちを胸で混ぜ合わせながら、家路を急いだ。自分が間違った選択をしていないという自信はあったが、今の世の中、綺麗ごとだけでは食べていけないのも事実だった。もしや自分は、相当貴重なチャンスを棒に振ったのではないか。しかし何度考えても、暴力と人種差別を肯定する政党に身を置くことは、自分の意に反しているように思えた。
 下宿へと戻り部屋の扉を開けると、待ちかねたように小さな身体が縋りついてきた。安堵の滲んだ満面の笑みを向けてくるそのひとを見て、やはり僕の選択は間違っていなかったと胸を撫でおろす。もしもあの話を受けていたら、きっと僕はこの笑顔を真正面から見られなかっただろう。
 今度の仕事はなにかと問うてくるそのひとに対し、僕はラドウィグから打診された話を正直に話した。そのひとはどこまでも真面目な表情で耳を傾け、話が終わると僕の手を握りしめてきた。
「それでいいよ。お前は正しい。いくら楽な道でも、自分の信念に反することならやる意味がない」
「……エドワードさん。僕はあなたを連れて、必ずアメリカに行きます。時間はかかるかもしれない。でも資金を貯めて必ず実現しますから、どうか待っていてください」
 その言葉に、そのひとは頷きを返さなかった。ただどこか困ったような笑みを浮かべ、口を噤んでしまう。
「エドワードさん?」
「なあ、アルフォンス。アメリカにはお前ひとりで行け」
 重い音色で放たれた返答に、僕は言葉を失った。そんな僕に対し、そのひとは意を決した瞳でこちらを見る。
「オレが行かなければそのぶん旅費だってかからないし、そもそも一緒にアメリカに行ったところで、こんな身体じゃオレは仕事にも就けない。お前の荷物になるだけだ」
「そんなこと……。僕が研究で成功して本でも出版できれば、お金なんて……」
「そうなるまでに何年かかるんだよ!夢見てんじゃねえ!」
 そのひとは声を荒げたことに自分自身でハッとし、瞳に翳を落とすと、僕の手に自らの左手を重ねる。そしてしばらく逡巡したあと、痛みを堪えるような歪な笑顔で僕を見上げた。
「お前にはさ、今度こそ夢を叶えてほしいんだよ。どうしても欲しかったものを諦めた、オレの分までさ。綺麗ごとだけ言っていられるようなご時世でもないだろ?だからオレのことなんて……」
「嫌です」
 提示された願いを僕がきっぱりと打ち砕くと、そのひとは呆気にとられたように唇を硬直させる。僕はその隙に手を振りほどき、目の前の身体を思い切り抱きしめた。
「僕の夢の中には、すでにあなたもいます。ロケットを作って宇宙に行けたって、あなたが一緒じゃないと意味がない。僕は絶対にあなたをアメリカに連れて行きます。だからもうすこしだけ時間をください」
 僕がそう言い切ると、そのひとは黙り込み、僕の胸に鼻を擦りつけるようにして顔をうずめた。やがてためらいながらもそろりと僕の背へ腕を回すと、ああ、待ってる、と力ない声でつぶやいた。


 翌日から僕は毎日、職業安定所に通い詰めた。とはいっても、そこには失業者たちが長い列を成し、ほんのわずかな数の仕事にありつこうと犇めいていたから、仕事を得るのは容易ではなかった。それでも諦めるわけにはいかないと、できるだけ列の前方に並べるよう、連日夜明け前に起きて朝の冷たい空気の中を歩いた。
 三週間ほど通ってやっと手に入った仕事は、金物工場で鍋や薬缶を作る仕事だった。ロケット開発で培った機械工学の知識も活かせず、給料も雀の涙な上に日雇いでいつ首を切られるかわからなかったが、文句は言っていられなかった。
 工場は下宿から見て街の反対側にあり、通勤には一時間以上かかるため、そのひとと過ごせる時間は格段に少なくなった。独りになることを恐れるそのひとを置いて毎日出掛けるのは辛かったが、生きていくためだと心を鬼にして、毎朝まだベッドで眠るそのひとの額に行ってきますのくちづけをしてから家を出た。
 しかし、工場での勤務が始まって一カ月ほどが経ちやっと仕事に慣れてきたころ、売り上げが減ったからと言って、僕を含めた多くの従業員が解雇された。日雇いの立場だから文句も言えず、この一カ月で稼いだ額を見ても、翌月の生活が不安になる程度のものだった。
「大丈夫です。また明日から、職業安定所に通いますから。きっとまたなにか仕事が見つかります」
 そう言って笑いかけても、そのひとはもう笑わなかった。じっと考え込んだ様子で、曖昧に頷くだけだった。


 翌日、再び職業安定所へと出向き、なんの成果も得られず帰宅した僕は、扉を開けた瞬間に違和感を覚えた。いつもなら真っ先に抱きついてくるか、少なくともソファで身を起こし、「お帰り」と声を掛けてくるはずのあのひとの姿がない。シャワーでも浴びているのかと思ったが水音もしないし、まさかあんな脚なのにひとりで買い物にでも出たのだろうか。
 そう思いながら部屋を見て回り、クローゼットを開けた瞬間、僕は凍り付いた。——掛けてあったはずの洋服が、ない。生活費を売るためにかなり売ってしまって数は半分以下になってはいたが、それでも三着ほどはあるはずだったよそ行きの服が一着残らずなくなっている。慌てて周囲を見渡すと、ベッドサイドのテーブルの上に、それなりの厚さの封筒が置いてあるのが目に入った。急いで駆け寄りその中を覗くと、そこにはかなりの数の札束とノートを引きちぎったような歪な形のメモが入っており、こう書かれていた。
——世話になった、と。



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