次にラドウィグから声が掛かったのは、そろそろ生活費が尽き、来月の家賃の心配をしなければならなくなったころだった。独りになることを恐れるあのひとに、今日は打ち合わせだけだからすぐに帰ってくると告げて額にくちづけると、物乞いと手持無沙汰な失業者たちで溢れる通りを歩き、ラドウィグの事務所へと向かった。
扉をノックし事務所へ足を踏み入れると、ラドウィグはいつもどおり真っ直ぐな姿勢でこちらへ歩んできて、明瞭な発音で挨拶した。握手のあと、どうぞこちらへ、と伸ばされた左腕に、例の赤い腕章が巻かれているのを僕は見逃さなかった。
「今度も前回と同じですか?パリへ行って荷物を引き上げてくれば?」
「いや、今回は別の要件でお呼びしたんです。もっと条件がよくて、やり甲斐のある仕事についてお話ししたくてね」
そう言って、ラドウィグは意味ありげな笑みを浮かべる。
「クライアントの彼から伺ったのですが、ハイデリヒさんはかつてロケットの研究をされていたそうですね。しかもあのヘルマン・オーベルト氏に師事されていたとか」
「はあ……。でももう研究は打ち切りました。資金も需要もなかったので」
「需要ならありますよ。今ならね」
そう言うと、ラドウィグは立ち上がり窓のほうへと歩いて行く。左腕に巻かれた腕章の鍵十字が、窓からすべり込む風でかすかに揺れる。
「国家社会主義ドイツ労働者党はご存知ですね?世間ではナチス、などと呼ぶ輩もいますが」
「ええ。どうやらあなたも党員でいらっしゃるようですが」
「はい。我々は無能な共和国政府からドイツを取り戻すべく尽力しています。まずは賠償金の支払い停止、地代の廃止により経済と雇用を回復させ、市民の生活を守るのが我々の使命です。しかしそれだけではない。我々の最終目標は、ドイツ国家の設立。純粋たるドイツ民族のための国家を打ち立てることです。そのためにも、優秀な人材にはぜひお力添えいただきたい」
「……と、言いますと?」
ラドウィグは振り返り、自信ありげに胸を張る。そこには、腕章と同じ鍵十字のピンが光っている。
「我が党の仲間になり、研究を続ける気はありませんか?ここだけの話ですが、あなたの師であるオーベルト氏も、我々の思想に共鳴し、興味を持たれているのですよ」
「オーベルト先生が……?でも、あなたたちには宇宙に行く機械なんて必要ないでしょう?」
「確かに、我々に必要なのは宇宙進出ではない。世界を圧倒する力です」
「つまり、武力……ということでしょうか?」
「理解が早くて助かります。我が政党は今年秋の選挙で第一党となることを目指しています。それが叶えば、ドイツ領に蔓延る異民族、主にユダヤ人どもを排除し、先の大戦で奪われた領土を取り戻すべく、諸外国に宣戦布告するつもりです」
「また戦争をする、というこですか?」
僕の問いに、ラドウィグは仰々しい頷きを返す。その表情に、戦争を賛美する者独特のぎらつきが見え、生理的な嫌悪感が芽生える。
「先の戦争であんなに人が死んだのに、あなたたちはまた同じことを繰り返すつもりなんですか?敗戦による賠償金のせいで生活もままならなくなって、みんな苦しんでいるのに」
「あれはマルクス主義者とユダヤ人どものせいです。今度は奴らの好きにさせたりしない。言わばこれは、ドイツ民族の威厳を取り戻すための、聖なる戦いです」
ラドウィグが嬉々として語れば語るほど、胸の中に冷めた気持ちが広がっていくことに僕は気付いていた。なによりも頭に浮かぶのは、近ごろすっかり明るくなったあのひとのことだった。この話を受ければ、きっとお金も名誉も手に入る。しかし暴力的なことで有名なあの政党の一員となった先に、あのひととの穏やかな未来が待ち受けているとは思えない。それに……。
「……せっかくですが、お断りします」
よほど自信があったのか、僕の言葉にラドウィグは目を丸くする。射抜くようにこちらを見つめる奥まった瞳にたじろがないよう、膝の上で拳を握りしめ僕は続けた。
「僕は宇宙に行きたいだけです。人を殺す道具を作りたいんじゃない」
「そんな夢みたいなことを……。あなたの先生は、もっと現実に向き合っておられますよ?今の時代、我が国に必要なのは宇宙じゃない。世界を制する力です」
「むしろこのような時代だから、夢を見たいんです。荒んだ現実から目を背けるための夢ではなく、現実に立ち向かうための夢を。だからこそ、馬鹿げていると言われても、僕は自分の夢を汚すつもりはない」
これ以上話しても無駄だと、ソファから立ち上がる。今ここから立ち去ることが、今後収入を得る手立てを失うことだと分かっていたが、それでも僕はあのひとに誇れる自分でいたかった。日々をなげやりに生きていたあのひとが、最近やっと地に足の着いた生活を始めたのだ。ここで僕が生活のために夢を安売りすれば、あのひとに示しがつかない。
失礼します、と言い残し去ろうとすると、ラドウィグは僕を引き留めるべく、わざとらしい咳払いを放った。
振り返ってみても、逆光のせいで男の表情はよく見えなかった。窓の外の光は以前より白さを増し、春の訪れが近いことを示している。それなのにこの街にはまだ、黒ずんだ失意が毒ガスのように充満している。
「我々の政党が第一党となれば、この国は大きな変革期を迎えます。そのとき生き残るのは、善い者じゃない。賢い者です。そして生き残った者のみが、正義の拳を振るうことを許される。そのことをお忘れなく」
そう言い切ると、ラドウィグはもう一度窓のほうを向き、ごきげんよう、と明瞭な声で言い放った。
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