三月も後半に入ると日が落ちる時間が段々と遅くなり、氷がすこしずつ溶けだすように寒さも和らいできた。まだ暖炉に火を灯さずに夜を過ごすのは無理だったが、あと一カ月ほどで春が目を覚ますのだと思えば、自然と心が浮き立った。
僕たちはあれから、一度も身体を結び合ってはいなかった。その代わり、毎晩互いの身体をしっかりと抱き締めて眠っている。くちづけはするけれど、それもかつてのように欲にまみれたものではなく、ただ親愛の情を確かめ合うだけのささやかなものだった。そのせいか、近ごろのあのひとは以前よりずっと朗らかで、破滅的な快楽を望んだりもしない。夜の仕事を辞めて、朝に起きて夜に眠る生活を始めたこともあるからか、以前より血色もいいしよく笑う。調子のいい日は、自分から部屋の掃除を始めることだってある。
ただし、ひとりになるのはまだ苦手なようで、僕に仕事が入るたび、不安そうに手を握ってきた。それでも僕が前の仕事で手に入れたお金はもう使い切ってしまったし、あのひとが客から贈られたという宝石類をすこしずつ売ってもずっと安泰なわけではないから、仕事を受けないわけにはいかなかった。その代わり、僕は旅先からこまめに電話をかけた。何度も取次ぎをお願いしたシュナイダーさんは呆れていたが、あのひとは僕の電話を受けるたび、「待ってる」と少女のように初々しい声でささやいてきた。
その日、パリで預かった荷物をクライアントのところへ届けると、また随分と機嫌のいいクライアントにほとんど強制的にウィスキーを飲まされた。酒はまったく飲めないわけじゃないが、それほど強いわけでもなく、二杯ほど飲まされたところで意識がふわふわとしてきたものだから、三杯目をやんわりと断ると、クライアントは明らかに不機嫌な顔を見せた。男のくせにこれだけしか飲めないのか、それでも兵士か、と絡んでくるクライアントに、僕は当時まだ子供だったから戦争には行っていないと言い訳すると、じゃあ今までなにをしていたと詰問された。
「ロケットの研究をしてたんです。宇宙に行けるようなロケットを開発したくて」
その回答にクライアントは大笑いし、真面目そうに見えてお前はとんだイカレ野郎だと蔑んできた。そのように馬鹿にされることには慣れているから、クライアントが笑うことに夢中になっているうちに、またお願いしますとはぐらかして事務所を出た。
余計な時間を喰ってしまったと苛立ちを覚えながらも、酒に酔った状態であのひとに会いたくないから、トラムに乗らず歩いて下宿まで帰った。夕方の冷たい空気に酔いを冷まされ、思考が明瞭になったころには、すでに日が落ちてしまっていた。
「ハイデリヒさん、お手紙ですよ」
玄関ホールに入ると、僕の帰宅の音を聞きつけたシュナイダーさんがそう声を掛けてきた。礼を言って封筒を受け取ると、そこにはミュンヘン時代の大家さんの名前が書かれていた。花屋を営むその女性には、ただの大家と間借り人という関係以上によくしてもらっていたから、ベルリンへ無事に着いたことは手紙で報告したけれど、仕事の内容が胡散臭いせいで気まずさを覚え、それ以降はまったく連絡していなかった。僕の身を案じて手紙を出してくれたのだろうか。そう思いながら封を破ろうとしたとき、奥の部屋の扉が開き、「アルフォンス?」と声を掛けられた。
「ああ、エドワードさん。ただいま。ごめんなさい、遅くなって」
「アルフォンス……っ!」
感慨深げにそう叫ぶと、そのひとはいつものガウンにシュミーズだけといった格好で廊下に飛び出してきた。慌ててその身を隠すように抱きとめると、会いたかった、としきりにささやき、僕の胸に頭をこすり付けてくる。扉の隙間から、シュナイダーさんがなにか言いたげにこちらを見つめていたから、僕はそのひとをほとんど引きずるようにして部屋へと戻った。
部屋に入ってからもそのひとは、さびしかった、としきりにつぶやき、子供のように縋り付いてくるものだから、手紙をやっと開封できたのはそのひとが眠りに落ちたあとだった。ベッドをこっそりと抜け出し、リビングに置かれたテーブルランプの灯りを頼りに封を切ると、そこには書き手の性格を体現したみたいなたおやかな筆跡が現れた。
僕のその後の生活を案じる数文の挨拶のあとに、この手紙の本題が書かれていた。どうやら僕宛てに届いた手紙を転送してくれたらしい。感謝の気持ちを胸に滲ませながら同封されている封筒を取り出すと、差出人の住所欄に「アメリカ合衆国」と書かれていたものだから、僕は息を呑んだ。
まさか、と思い震える指で封を切ると、そこには信じられないことが書かれていた。——あなたが送ってくださった研究成果を拝見した。ぜひ当大学に迎え入れたい。したがって、可能な限り早く、入学の意思の有無をお知らせ願いたい。
何度もなんども読み返し、息苦しさを覚えてから、やっと自分が呼吸を忘れていたことに気が付いた。確かに僕は、アメリカで同じような研究をしている学者がいると知り、手紙と一緒に僕らの研究成果や図面などを送った。あれは最後のひとりから研究を辞めると言われた晩で、僕は悲嘆に暮れ、なけなしの望みを託すようにその手紙を書き殴ったのだ。しかし返事は来なかった。だからきっと、僕らの研究など彼らの研究の足元にも及ばず、失笑に付され捨てられでもしたのだろうと思っていた。
「……アル、フォンス?」
後ろから名前を呼ばれ、驚きで身体が飛び上がった。振り返ると、そのひとが松葉杖をつきながら、眠たげな瞳でこちらを見ている。起こしてしまったのだろう。申し訳なさを覚えながら、なんでもないです、と手紙を隠そうとすると、暗闇の中で金色の目が鋭く細められた。
「手紙……誰からだったんだ?」
ああ、知られていた、と思った。恐らく、シュナイダーさんの言葉を扉越しに聞いていたのだろう。こうなってしまえば、酷く頭の切れるこのひとに隠し事などしても無駄だと、長い息を吐いた。
「……アメリカからです。その……一緒にロケットの研究をしないか、って」
え、と魂の抜けたような声が薄闇の中へ落とされる。顔を見ると、そこには喜びも悲しみもなく、ただぼんやりと穴を穿ったような表情だけが浮かんでいる。
「ミュンヘンにいたときにね、連絡を取ったんですよ。でも無駄だったと思っていたから、僕も驚いて……」
「行くのか?」
言い訳めいた僕の言葉を遮り、そのひとは問う。早口で発せられたその言葉は、糾弾とも興奮とも取れ、僕はわずかにためらった。
「……どうでしょう。もちろん行きたいですけど、大学に行くお金なんてないし、そもそもアメリカへ行く旅費なんて……特に二人分となると……」
「二人分?」
そのひとが驚いたようにそう繰り返したものだから、僕もまた困惑し、そのひとを見た。
「当たり前でしょう?あなたみたいなひと、ここに置いていけるわけないじゃないですか。僕が行くならあなたも一緒ですよ」
もちろんあなたがよければ、ですけど。そう言い添えると、そのひとは大きな瞳をさらに丸くし、それからくしゃりと顔をほころばせた。
「……そうだ。そうだよな」
一体なにが「そうだ」なのかと考えていると、そのひとは杖をついて僕に歩み寄り、倒れ込むようにしてこの身に抱きついてきた。
「エドワードさん……?」
戸惑いながら名を呼ぶと、そのひとは腕の力を強めてくる。そしてまた、そうだよ、とこぼすと、なにがおかしいのか笑い声を上げる。
「お前はほんとうに、やさしい子だったもんな。いつだって、オレのことばかりで……」
そうつぶやいて、そのひとはまた笑う。明るいはずの声が、喜びの発露というよりも泣き声に近く聞こえたものだから、僕は困惑しながらも、ただ小さな身体を抱きしめ返した。
前 / 次