帰宅を知らせるために部屋のベルを押し、鍵を回して扉を開けると、そのひとは「アルフォンス!」と声を上げ子供のように飛びついてきた。どうやら僕が不在の間まったく外に出ていなかったようで、僕を見送ったときと同じ、赤いガウンとシュミーズだけというだらしない恰好だった。
本人は笑顔を取り繕っていたが、泣いていたとしか思えないほど目が腫れているのと、さらには帰宅した僕に執拗に纏わりついてくる姿が、分離不安症の子供を思わせた。父親が失踪したと言っていたし、なにかトラウマがあるのかもしれないと、その身を突き放しはしなかった。
「お土産があるんです」
そう言って包みを渡すと、そのひとは訝し気な顔でそれを受け取った。そして紙袋の中身を覗くと、金色の瞳を輝かせた。
「お前、これどうしたんだよ!?こんな高価なもの!」
「クライアントがくれたんですよ。余ってるからやる、って」
そのひとは子供のような歓声を上げソファに座り、膝に乗せた袋から中身を取り出した。
オレンジ色に熟した、カリフォルニア産のパイナップル。今のご時世、ドイツで手に入れようとすると一体いくらになるだろうか。クライアントは今日やたら機嫌がよく、持って行けと言って紙袋を渡してきた。どう見ても堅気ではないし、闇取引でも上手くいったのかもしれない。
「女性への贈り物なら、宝石とか洋服のほうがいいのかなとも思ったんですけど」
「全然!オレ宝石とか興味ねえんだ。腹に入れられるもんのほうが嬉しい!」
早速食べようぜと言って、満面の笑みでパイナップルを差し出してくる。どうやらカットしろということらしい。片手でやるのは骨が折れるだろうから当然と言えば当然だが、最近すっかりこのひとのペースに巻き込まれてしまっている気がして、自分はこんなにも情けない男だっただろうかと胸にほろ苦さを滲ませた。
「お前がいない間、ベルリンは大騒ぎだったんだぜ。外ですっげえ音がしてさ、シュナイダーさんに訊いたら、軍隊同士が揉めてるみたいだって」
「え、そんなことがあったんですか?」
ああ、と答えながら、膝に置いた硝子の器の中のパイナップルの欠片をフォークで刺し、小さな口へと運ぶ。どうやら甘いものが好きらしく、もぐもぐと頬を動かしながらとろけるように幸せそうな顔をしてみせる。
「物騒ですね。なにが原因だったんでしょう」
「なんでも、フランクフルトで突撃隊のメンバーが赤色戦線の奴に撃たれたらしいぜ。それで突撃隊の奴らが怒っちまったらしい」
「突撃隊っていうと、国家社会主義労働者党ですか。六年ほど前にミュンヘンで大きな蜂起を起こして、大騒ぎになりましたよね。そのあとしばらく活動を禁止されてたみたいですけど、最近また勢力をつけてきましたね」
「客にもちらほらいたなあ、赤い腕章つけてるやつ。気味悪いよな、あの鍵十字のマーク」
「あまり過激なことが起こらないといいんですけどね。最近多いじゃないですか。国民主義って言って、ドイツ人が住まう国を統一して、他民族は排斥しようと主張する人たち」
そう話しながら僕もパイナップルを口へ入れる。よく熟れた金色の身から沁みだす果汁は甘く、全身にのしかかっていた疲労感がとかされていく。
「アルフォンスはさ、そういうのじゃねえの?周りの奴らみたいに、祖国の雪辱を果たすために、命を捧げて戦いたいとか思わないわけ?」
「僕は……大戦のときはまだ子供で戦場にも行っていませんし、そういうのは……」
ドイツが大戦に敗れたとき、失意に暮れる周りの大人たちを見てなにも思わなかったわけじゃない。それでも僕は、国の役に立ちたいという気持ちより、宇宙へ行きたいという自分の夢を優先した。父があれだけ怒ったのも、祖国の大変な状況を顧みず自己中心的な決断をする息子が許せなかったからだろう。それに……。
「僕はね、臆病なんですよ」
僕がそうつぶやくと、そのひとはパイナップルを頬張るのをやめ、こちらへ目を向けた。
「なにか願いがあったとしても、それを得るためになりふり構わず突き進むことができない。ロケットの研究をするんだって言って家を飛び出したときは変われた気がしましたけど、結局すぐ駄目になって、去っていく仲間たちを引き留めることもできなかった。あとひとつ勇気を振り絞れば状況が変わったかもしれないのに、相手に突っぱねられると、自分の意見を押し通すのが怖くて、ためらってしまうんです」
情けないでしょう、と自嘲しても、そのひとは一緒になって笑うことも頷くこともしない。視線を落として何度か咀嚼を繰り返し、口の中のものを飲み込むと、なにかを考え込むように真剣な表情を浮かべ、「オレと逆だな」とつぶやいた。
「オレはさ、欲しいものがあったらためらいもせず突き進んじまうんだ。周りがどれだけ駄目だって言っても、耳を貸さないでさ」
「それが前に言っていた、悪いことをした理由……ですか?」
僕の問いを、そのひとは「ああ、そうだな」と、消え入りそうな声で肯定する。
「なにが、欲しかったんですか?」
「……」
「あなたがそこまでして欲しかったものって、なんだったんですか?」
遠慮がなさすぎると自覚はしていたが、このような関係を持ってしまった以上、僕はどうしてもそのひとのことを知りたかった。またはぐらかされるだろうかと思ったが、そのひとはしばらく逡巡したあと、大きな瞳で僕を捉えた。
「家族だよ」
「え……?」
「失った家族を、もとに戻したかった」
相変わらず曖昧で、要領を得ない。確か、母親は幼いころに亡くなり、父親は数年前に失踪したと言っていた。家族が欠けていってしまったのは確かなようだが、それをどうやったらもとに戻せるというのだろう。そこまで考えて、ふとあることを思い出す。
「あなたの弟さんは……どんなひとですか?」
確か弟がいると言っていたが、亡くなったとは言っていなかったはずだ。そう思い出して問うと、先ほどまできらめいていた瞳が、一気に翳りを帯びた。
「ああ……やさしい子だよ。オレにはもったいないくらい、いい弟」
「……歳は?いくつ離れてるんですか?」
「ひとつ、下。だからお前と一緒」
なんとなくもっと小さいと予想していたので意外に感じつつも、弟と歳が同じこともまた僕に親近感を覚えてくれた理由なのだろうかと思い至る。
「弟さんはどこにいるんですか?」
「遠いところ。もう会えないんだ」
「遠いところって……。最近の船なら、たとえ大陸が違ったって会いに行けるんじゃないですか?」
そのひとはなにも答えない。瞳を翳らせたまま、膝の上の器を眺め続ける。
「なにか僕にできることはないですか?あなたが弟さんに会うために」
「無理だよ。もうなにも方法がない」
「そんな簡単に諦めないでください!片手で手紙を書くのが大変なら僕が代筆しますし、船の切符の手配だって……」
「無理だって言ってんだろ!」
突然声を張り上げると同時に、そのひとは膝に乗せていた器を力任せに床へ叩きつけた。硝子が粉々になり、先ほどまで宝物のように扱っていたパイナップルが無残に床にへばりついても、見向きもしない。
「オレはもう諦めたんだよ!どれだけ道を探っても、あいつのところへ帰れる方法なんてなかった……!だからこんな地獄みたいな世界で、オレは一生……」
はぁはぁと荒い呼吸を繰り返し、苦しさを紛らわせるように喉元へ手を当てる。どうやら刺激しすぎてしまったらしい。あちらに遠慮がないからと油断していたが、やはりこのひとはかなり不安定だ。
「エドワードさん、落ち着いて……」
「なあ、アルフォンス……。お前だって、わかるだろ?どうしても欲しいものに手が届かないときの苦しさ。家族に勘当されてまで追い求めた夢を諦めたお前になら……なあ?」
突然ナイフを突きつけられたように、僕は言葉を失った。こちらを睨みつける瞳には、先ほどの弱々しいものとは違う、燃え上がるような絶望が宿っている。
「お前もオレも同じだよ。みっともなく足掻いて、それでも望みが叶わなくて、死人みたいな顔して生きてる。呼吸はしてても、ただそれだけ。こんなんじゃ死んでるのと変わらない」
「そんなこと……」
「そうか?ならお前のやってる仕事はなんだよ。パリまで行って、お前はなにをやってきた?どうせ人に言えないような仕事だろ?」
痛いところを突かれ、再びなにも言えなくなる。このひとは相当勘がいい。嘘を吐いたところで、どうせすぐに見抜かれてしまうだろう。このひとがキャバレーで働いていたことに少なからず偏見を持っていた自分に対し、ふいに羞恥心が湧き上がる。今の僕には、春をひさいで日銭を稼ぐ人々を非難する資格などない。
「いいんだよ、アルフォンス。わかるさ。責めてるわけじゃない。世の中を回してるのは金なんだから、誰にでも金は必要なんだ。生きていくために。それにさ……」
急に語気をゆるめて、そのひとは弛緩したように笑う。そしてソファから転げ落ちるようにして果汁が広がる床へ膝をつくと、ゆっくりと身を引きずり、こちらへ近づいてくる。
「金だけじゃない。オレたちみたいな欠落者にはさ、慰めだって必要だよ。傷の舐め合いだとしても、それで痛みが紛れるならいいじゃないか。利害の一致ってやつだよ」
底なしの翳りが住まう瞳を細めると、そのひとはズボンの上から僕の局部に指を這わせた。敏感な部分へ予期せず刺激を与えられ、視界に白い星が散る。そのひとはそれを見抜いたように口の端を持ち上げて笑うと、段々と熱を持ち始めたそこへ頬ずりし、鼻の先を擦り付ける。
「エドワードさん……っやめてください……」
「どうして?三日もオレに会えなくて寂しくなかった?オレは寂しかったよ。寂しくて、身体が寒くて、おかしくなりそうだった」
お前は違うの、と問いながら、指はベルトを解きジッパーをわざとゆっくり下ろしていく。前が解放され下着に冷やりと外気が当たると同時に、布地の上から盛り上がったものを舐められて、駆け上がった快楽に腰が跳ねた。
「はは、かわいい」
余裕たっぷりの声でつぶやいて、僕の制止も聞かず下着をずり下ろす。締め付けから解放され外へ飛び出したものをうっとりとした表情で眺めると、ためらいもせずしゃぶりつく。
小さな舌先はちろちろとやわい部分を的確に愛撫し、捻じ込むようにして先端を舐めてくる。やはり、慣れている。オーナーにでも仕込まれたのだろうか。クラクラ揺れる意識の中でそんなことを考えては、暴力的なまでの快楽に理性を振り落とされまいと唇を噛む。
「っはぁ……おまえ、こっちのほうが好きだった?早く言えよ。すっげぇ気持ちよさそうな顔してさ」
そんな風にからかいながら膝立ちになると、左脚がなくバランスが取れないぶん全体重を押し付けるようにして、喉の最奥に届くほどそれを咥え混む。激しく上下されればされるほど、喉の奥に当たるときの刺激も強くなり、みっともない声があふれ出す。隣の部屋に聞こえてしまってはいけないと右手で口をふさげば、そのひとはそんな僕を試すように、さらに強く唇で締め付けてくる。——もう、限界だ。腹の底からせり上がる熱に意識を揺さぶられながらも、口の中に出すわけにはいかないと眼下の頭を引き剥がそうとすると、そのひとは絶対に離すまいと激しく抵抗する。数秒の攻防の果て、結局快楽に負けた僕は、とろけるほどに熱い口内へ精を放った。
ごくり、とわざと大きな音を立ててそれを飲み干すと、そのひとはやっと僕のものから口を離し、はあはあ、と荒い息を吐きながら、白濁と唾液の滴る口角を持ち上げた。
「やめろとか言っといて、すげぇ出るじゃん。やっぱりお前も寂しかったんだろ?なあ、もっとしようよ。オレはお前にならさ、なにされたっていいんだ」
ほら、とささやきながら、白蛇を思わせる身体がこの身に絡みつき、ゆっくりと立ち上がる。手首を掴まれ、シュミーズ越しにピンと張った胸の先端へ強制的に指先を押し付けられると同時に、快楽に火照った吐息が頬をくすぐる。
「ねえ、アルフォンス。なにがしたい?」
やがて指先は足の付け根へと誘われ、そこにある筋をなぞるように動かされる。すでにじとりと湿った下着の触感に、先ほど欲を放ったばかりの箇所がまた熱を帯びてくる。
「なんでもいいよ。オレの頭を押さえつけながら喉がおかしくなるくらいフェラさせたっていいし、首を絞めながらヤッたっていい。オレの片脚を掴んで、部屋中引きずり回したっていいよ。お前の好きなこと、なんでもさせてやるからさ、だから」
慰めてよ、オレのこと。そうささやきながら耳に熱い息を吐きかけられ、再び視界がぐらりと揺れる。快楽に身を任せ、このひとが望むとおりにこの身体を貪り尽したい。そんな原始的な欲求に抗うために奥歯を噛むと、この身に絡みついてくる身体を引き剥がした。
「……しません、もう」
ぎらぎらと淫猥な笑みを浮かべていた顔は、僕の放った言葉を聞き、一気に色を失う。じんじんと疼く瞳でその顔を睨み付けると、長い息を吐いて、僕はなんとか理性を取り戻した。
「僕との行為があなたにとっての罰になるなら……僕はもう二度と、あなたと寝るつもりはない」
「……どうして?」
信じていた大人に裏切られた子供のように純真な傷を瞳に浮かべ、そのひとは問う。赤いガウンから覗く白い脚は、心なしか震えているようにも見える。
「あなたが欲してるのは慰めじゃない。ただの自傷行為だ。そんなものに付き合うほど、僕は悪趣味じゃない」
一瞬で激しい怒りを瞳に燃え上がらせると、そのひとは力任せに僕の胸ぐらを掴んだ。息苦しさはあったが、負けじと目の前の双眸を睨み返すと、しばらくの拮抗状態のあと、そのひとははらりと指を解いた。
「……なんでだよ」
消え入るような声でつぶやきながら頭を振り、僕から急に身を離す。支えを失いバランスを崩して床へと倒れ込むと、肩を揺らして涙をこぼし始める。
「なんでだよ……母さんも、親父も……みんなオレのこと、置いて……。オレは……ひとりで……」
「……エドワードさん」
「オレはただ、元に戻したかっただけなのに……!失くした物を、取り戻したかっただけなのに!どうして、こんな……っ!」
どうして、どうして、と繰り返す声は子供のようで、痛々しさが胸を突く。
このひとはきっと、この街そのものなのだ、と思った。
今のドイツ、特にこのベルリンは、なにかしらの喪失を抱え、絶望や孤独に心を蝕まれた人々の巣窟だ。昨日と今日の境目もはっきりしない曖昧な状態で、誰もが白昼夢の中を生きている。一度目を覚ましてしまうと悲しみに心を呑まれてしまうことを知っているから、どうか目が覚めないようにと、でき得る限りに現実から目を背けて。
「やだ……。そばにいて……。オレの、そばに……」
床にうずくまり、寂しいのだと身を震わせる姿は、この街に巣食う翳を具現化したようだった。目を背けたいほど痛々しいのにそれができないのは、僕もまた同じ色の翳を胸の内に飼っているからだ。
「エドワードさん」
怯えたように震える身体の隣へ膝を突き、その身を抱き起こす。力なくしな垂れかかってくる身体を抱きしめて、旋毛へくちづけを落とす。
「置いていく、なんて言ってません。あなたがあなた自身を傷つける手伝いはできないと言ったんです」
激しくしゃくり上げ続けるそのひとに、僕の言葉が届いているのかどうかは定かではなかった。聞こえていなくてもぬくもりは伝わるだろうと、貧しいほどに痩せた身体を、力いっぱい抱きしめる。
このひとの言うとおり、これはただの傷の舐め合いだ。いくら昔愛した人に似ているといっても、僕はその人そのものじゃない。僕にはその人と同じ言葉をかけてあげることはできないし、同じくちづけもしてやれない。でも——……。
「あなたが望むなら、僕はそばにいます。あなたを傷つけるためじゃなく、あなたの幸せのために。こんな僕だって、あなたのことを抱きしめて、その肌をあたためるくらいはできるから……」
その晩、僕らはただ抱き合って眠った。男と女としてではなく、心に洞を抱えたふたりの人間として。
子供のようにぴたりと身を寄せ合うと、性的な交わりとはまた違った温度が心に灯った。それは互いの身体を貪るときの荒々しいものではなく、まどろみの海をゆっくりとたゆたうような穏やかな心地よさだった。
そのやさしさの中で、僕は夢を見た。まだ幼いそのひとが、同じ金色の髪をした少年と、緑の草原を駆けている夢。けらけらと子供らしい笑い声を上げ、早く早くと背後の少年に呼びかけながら、丘を駆け上がってゆく。やがてその先に見えてくる臙脂色の屋根の家と、庭で洗濯物を干すひとりの女性。
「母さん!」
そこで突然、緞帳が降りたように、夢は終わった。目を覚ました僕の頬は、なぜだか涙に濡れていた。
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