何度も電話で急かした挙句、友人が仕事を斡旋してくれるという人にやっと引き合わせてくれたのは、あのひととの逢瀬から三日後のことだった。ラドウィグという名のその青年は、背筋をまっすぐに伸ばし、明瞭な発音でハキハキと話す男だった。仕事の内容はこうだ。パリへ行って彼の知人からスーツケースを受け取り、それをベルリンのクライアントのもとへ届ける。スーツケースの中身は詮索するなということで、どうにも胡散臭い仕事だったが、他に金を得る手立てのない僕に断る選択肢はなかった。
 片道十時間を超す長旅ではあったが、作業自体は酷く簡単だった。国境でスーツケースの中身を検閲されたらという不安もあったがそれもなく、ベルリンのクライアントも報酬とは別にチップを弾んでくれたから、来月の家賃について心配する必要はなくなった。
 下宿に帰宅した途端、安堵とともに胸にこみあげたのは、渇き切った自己嫌悪だった。自分はどうしてこんな風に落ちぶれてしまったのだろう。本当ならロケットの研究で身を立てて、宇宙へ行く夢に向けて邁進しているはずだったのに、今の自分はただのきな臭い運び屋だ。
 ふと、あのひとの言葉を思い出す。自分が死んでるのか生きてるのかもよくわからないと言ったあのひともまた、なにか大切なものを諦めたようだった。あのひとが語ることをさりげなく拒んだ願い。あの小さな胸に宿っていたのは、一体どんな望みだったのか。
 そんなことを考えていると、扉を数回ノックする音に続き、シュナイダーさんが「ハイデリヒさん、お客さんよ」と声を掛けてきた。友人が新しい仕事を持ってきてくれたのだろうかと思い表に出ると、そこには今の今まで思いを馳せていたひとが立っていた。
「よっ。お前の苗字、ハイデリヒっていうんだ?」
「エドワードさん!?どうしてここが……?」
 相変わらず僕の質問に答えるつもりはないらしく、一本杖をついて「おじゃましまーす」と玄関ホールへ入ってくる。見るからに高そうな真紅のコートと同じ色の帽子の取り合わせは、上流階級のお嬢さんと言った風だったが、どうやら今日は化粧をしていないようで、以前会ったときよりもいくらか子供っぽく見える。その姿をしげしげと眺めていると、膝下まであるブラウンのスカートから黒のタイツに包まれた右脚が伸びていることに気付き、僕は目を見張った。
「エドワードさん、あなた右脚が……」
「ああ、これ?義足だよ。ほとんどただの棒だから、これだけじゃ歩けねえけど。あ、荷物運んでくれるか?悪いな」
 見ると玄関の前には、かなりの大きさのレザートランクが置いてある。戸惑いながらも放置しておくわけにはいかないとそれを持ち上げると、「お前の部屋どこ?」と遠慮もなく問うてくる様子に観念し、部屋へと案内した。
「へぇ、結構広いじゃん。よかった」
「よかった、って……。一体どうしたんですか?どうして僕の家が?」
「ああ、運転手に教えてもらった。あいついい奴でさぁ、今日も送ってくれたんだ。そうじゃなきゃこんな荷物、オレには運べないからな」
「いや、この荷物、なんなんですか?旅行にでも行くんですか?」
「ちがうよ。今日からオレもここに住むの。いいだろ?」
 へ、と間の抜けた声を出す僕を気にもせず、そのひとはソファにぽすりと身を落ち着ける。そして「ああ疲れたぁ」と言うと、頭の帽子を取り、コートの胸元にあしらわれた金のボタンに左手をかけ、片手だけで器用に外していく。
「ここに住む、って……。え、どうして?」
「店、クビになった。オーナーと喧嘩してさ。あいつの家に住んでたからそこも追い出されて、行くとこねえんだ。な、いいだろ?」
「よくないですよ!そんなことできるわけ……!」
「なんで?家賃も払うぜ。金のあるうちは、だけど」
 自分の冗談に自分で笑いながらコートを脱ぐと、その下から首元と袖口にフリルの付いたブラウスが現れる。客からの贈り物なのだろうか。彼女が身に付けているものは、どれもこれも高そうに見えた。
「どうしてクビになったんですか?あなたはあの店のスターでしょう?」
「なんか最近、仕事に身が入らなくてさ。失敗が多くなって。そしたらオーナーに、お前とのことバレちまった。オレは一応あいつの愛人ってことになってたし、金ももらわず他の男と寝たと知って、もうめちゃくちゃに怒られたよ。オレが悪いんだけど、なんか腹立っちまって。もう店なんて辞めるって言ったら、ああ出てけ、お前なんて野垂れ死んじまえ、ってさ」
 あっけないよなあと言いながら、長い金色の髪を肩から背中へと払いのける。右袖が膨らんでいるところを見ると、どうやら義手も装着しているらしいが、ソファの上に置かれた右手は白の手袋に包まれ、ぴくりともしない。
「どうして仕事に身が入らなくなったんです?体調でも悪いんですか?」
「わかんないの?お前」
 相変わらず紛い物めいた金の瞳は、呆れたように僕を見る。どういうことだろうと戸惑っていると、「こっち来て」と言われたものだから、渋々指示に従った。
「知ってる?人間に恋をして、地上に堕とされた天使の話」
「なんですか、それ?」
「天使はさ、人間を監視する役目を神から与えられてるから、人間に恋をしちゃいけないんだよ。でもその禁を破って人間を愛すると、翼をもがれて地に堕とされる」
 そう言いながらそのひとは左手で僕の腕を引く。誘われるままに前のめり、ソファの肘掛けに手を付けば、すぐ目の前の小さな顔が不敵に笑う。
「お前のせいだよ、アルフォンス。オレはお前に恋をしたから、もう他の奴のためには踊れない」
 だから責任取れ、と言って、唇を重ね合わされる。熟れた柘榴のようなやわらかさを味わいながら、大家さんになんと説明しようと、僕は頭を悩ませた。


 大家のシュナイダーさんは、家賃さえちゃんと払うなら別にひとりくらい増えても構わないと言ってくれた。相変わらず細かいことは気にしない様子なので胸をなでおろしたが、「その代わり、夜の騒音には気を付けてちょうだいね」と言われ、その言葉が意味することを理解した僕は顔を赤らめながら頷くことしかできなかった。
 そのひとは上機嫌で荷解きを始め、トランクから高そうな服を次から次へと取り出すと、ワードローブにかけてくれと言ってきた。言われたとおりにすると、今度はシャワーを浴びたいと言って恥ずかしげもなくブラウスの首元のリボンを解き始めたものだから、僕は眩暈を覚えた。
「あの……エドワードさん?」
「なんだ?一緒に入るか?」
「そうじゃなくて、あの、一緒に暮らすならもうすこし慎みを持ってほしいというか……」
「なんで?もうお互いの裸なんて見たじゃん。あんなことしたんだから」
 それはそうだが、夜と昼間とではやはり気持ちが違う。そう言い返したいのだが、このひとにそんな説得が通じるわけもないと諦めの気持ちを覚えていると、そのひとは片手でブラウスとスカートを脱ぎ捨て、シュミーズの右肩をずり下げた。
 そこに現れたのは、金属の接合部を覆うプレートのようなものと、そこから胸を押し上げるように身体に巻かれた太いベルトだった。どうやらこれで義手を接合部に固定しているらしい。その証拠に、そのひとが慣れた手つきでベルトを解くと、プレートと腕が外れソファへと落ちた。
「あなたの、その手脚……。戦争で、ですか?」
 不躾な質問だとは思ったが、この際遠慮はいらないだろうと思い問うと、そのひとは「ああ、これ?」と言いながら自嘲的な笑みを浮かべた。
「ちがうよ。これは自業自得。悪いことしたんだ、オレ」
「……どういうことですか?」
 まさか拷問でもされたのだろうかと肝を冷やしていると、そのひとはそんな僕を意にも介せず、今度は脚を外し始める。
「確かこの国の童話にあったろ?母親の言うことを聞かず狼に唆されて道草して、最後はその狼に食べられちまう女の子の話」
「はぁ……。子供のころに聞いたことありますけど」
「それと一緒。大人の言いつけを聞かず悪いことをしたから、酷い罰を受けた。ぜんぶ自分のせい」
 まったくよくわからなかったが、これ以上訊いても詳細を教えてくれそうにはなかったから、口を噤む。謎の多いひとだ。もしかしたら本当に天使かなにかなのだろうかと考え、馬鹿らしいと自らの思考を否定する。
「物語に詳しいんですね。小説が好きなんですか?」
「いや、色んな男と寝てるとさ、そういう話をしてくる奴が多いんだよ。教養があるのをひけらかしたいみたいでさ。オレ自身は、創作話はさっぱり。科学者だったんだよ、オレも。だから非現実的な話はどうもな」
「科学者?女性なのに?」
「おい、馬鹿にすんなよ。自分で言うのもなんだけど、すげぇ優秀だったんだからな、オレ。難関の国家資格を十二歳で取ってさ、天才なんてもてはやされて」
「難関の国家資格?なんのですか?まさか医師とか……」
「いや、国家錬金術師」
「え、なんて?」
 聞いたことのない名前に戸惑っていると、そのひとはしばらくじっとこちらを見つめたあと、「冗談だよ」と破願した。


 やはり不況のせいか、待てど暮らせど次の仕事の話が来ない。お金はないが時間だけはたっぷりある僕たちは、飽きもせずに昼も夜も部屋で睦み合ってばかりいた。もともと身体の相性はいいように思ったが、回を重ねるごとに互いが悦ぶ箇所に詳しくなり、まるで中毒にでもなったように熱を求め合った。
 そのひとが好むのは、痛みに近い快楽だということもすぐにわかった。金属の接合部の周りの薄くなった皮膚を強く吸ったり、控えめな胸の先端を甘く噛んでやったりすれば、そのひとは身も世もなく喘ぎ声を上げた。
 しかしそのひとがいちばん好むのは、やはりくちづけのようだった。身体を穿たれひんひんと泣き声を上げながらも、夢中でこちらに手を伸ばし、キスして、と乞うてくる。あるとき、どうしてそんなにキスが好きなのかと問うと、生身の人間相手じゃないとできなかったから、という答えが返ってきた。それはどういう意味かとさらに問うても、口を塞ぐように唇を押し付けてくるだけで、明確な答えをくれることはなかった。

 そんな生活を二週間ほど続けて、やっと次の依頼が来た。仕事内容は以前と同じく、パリへ行ってスーツケースを受け取り、ベルリンのクライアントへ届けるというもの。なんとなく後ろ暗くて、あのひとには「仕事でパリへ行く」とだけ告げて、その内容は話さなかった。
 今回も国境での検閲に引っかからず、滞りなく仕事を終えられそうだったが、数日会わないだけで、あのひとのぬめるような肌の感触が恋しくてたまらなくなり、身も心も疼いて仕方がなかったのには、自分でも呆れてしまった。僕は本来、そこまで肉欲が強いほうじゃない。もちろん人並みの欲求はあるけれど、それよりも羞恥や面倒くささが勝ってしまって、自分で適当に処理するのが常だった。それなのに、あのひとと出会ってから、身体が熱くて仕方がない。
 それにしても、あのひとはどうしてこんな僕を選んだのだろう。彼女なら引く手数多だろうし、客の中には僕より見目のいい男も裕福な男も、いくらでもいただろうに。
——似てるんだよ。昔、好きだった奴に、お前。
 初めて部屋に呼ばれた日、あのひとがこぼした言葉を思い出す。あのひとが好きだった男というのは、今どこにいるのだろう。まさか先の大戦で、戦死でもしたのだろうか。そもそもあのひとの出身はドイツなのだろうか。ミュンヘンには二年しか住んでいなかったようだし、なんとなくだが、所作や雰囲気がドイツ人とは違う気もする。
 謎だらけの、美しいひと。いつかあのひとが、身体だけではなく心までもを僕に預けてくれる日は来るのだろうかと、列車の外を流れる田園風景を見ながら考えた。



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