再びホテルに迎えに来たガードマンに送ってもらい、やっと下宿に着いたころには、すっかり夜が明けていた。友人が紹介してくれたその下宿は、中央駅からトラムで二十分ほど北へ向かった場所にあり、ホテルからは車で十分とかからなかった。大家のシュナイダー婦人は家賃を百マルク要求したが、僕が五十マルクしか払えないと言うと、それでいいと言ってくれた。どうやら些末なことは気にしない人らしいが、部屋は綺麗にされていたし、僕がシャワーを浴びたころに運んできてくれたお茶も美味しかった。
朝食を終え腹が満たされると、とてつもない疲労を覚えベッドへと倒れ込んだ。埃ひとつないシーツの表面が、昨晩ふれあった白い肌の記憶を呼び戻し、じくりと身体の奥が疼く。
「エド、ワード……」
運命だなんて馬鹿げている。すでに研究を諦めたとはいえ、僕は科学者だ。そんなものを信じるほど非現実的でもないし、ロマンチストでもない。
しかしそれならば、どうして僕はあのひとに、こんなにも心惹かれているのだろう。あのようなキャバレーで働く、僕とは違う世界に住まうひとに。
疲労感に押し潰され、意識がゆっくりと落ちてゆく。せめて昼ごろまでは眠り、その後改めて友人に電話して仕事のことを尋ねよう。そう考えながら、瞼の裏に貼りつく金色を闇へととかすように、意識を閉じた。
寝ても覚めても、という言葉があるとおり、それから一週間、気付けば彼女のことばかり考えていた。夜は妖精のように宙を舞う彼女の夢を見て、昼間は指先に残った彼女の肌の感触を思い出し、胸を焦がした。
友人に電話をかけても仕事の詳細がはっきりしないこともあり、僕は余計に苛立っていた。幸いミュンヘンで働いていたときの貯金がまだ残っているけれど、そんなにはもたないから、早く仕事を始めたい。そんな焦りを感じているとき、大家のシュナイダーさんから「電話ですよ」と声を掛けられた。
「……アルフォンス?」
電話口から聞こえてきた声に、僕の鼓動は憐れなほどに跳ねた。
この間の別れ際、あのひとは確かに、また会えるか、と尋ねてきた。僕は頷き、覚えたての下宿の電話番号を紙に書きつけた。それを渡すと、まるで一輪の花をもらった少女のようにあどけない笑顔を見せてきたものだから、僕はそのひとが数多の男を相手取ってきた娼婦だということを忘れてしまいそうだった。
しかしそれから一週間も連絡がなかったものだから、結局あれはただのリップサービスで、あのひとにとって僕は遊びでしかなかったのだと落胆していたのだ。
「元気か?その、もしよかったらさ、今夜また会えないか?」
がっついているように思われたくなくて、すこし間をおいてから「今夜なら大丈夫です」と落ち着き払った声で返す。そんな自分に内心苦笑していたが、電話の向こうでそのひとがさも嬉しそうに「ほんとか?よかった」と声をほころばせたものだから、思わず僕もはにかんでしまった。
前と同じホテルの、同じ三〇五号室。零時に迎えを寄越すから、その車に乗ってほしい。
その言葉どおりやって来た車に乗りホテルへ向かうと、以前と同じくエレベーターで三階まで上がり、以前と同じ扉を三度ノックした。
扉の隙間から顔を覗かせたそのひとは、今回はラベンダー色のガウンに身を包んでいた。編み下ろした金色の髪と薄紫の取り合わせが高貴な王女のようで、その出で立ちに見惚れていると、そのひとは僕の胸元を半ば無理やり引き寄せ、また唇へとくちづけてきた。
挨拶をする暇もなく服を脱がし合い、僕らはベッドに雪崩れ込んだ。相変わらず肉のついていない身体を組み敷き、わずかに膨らんだ胸の先端を舌で転がす。切なげに鼻を鳴らす様子がかわいくて、歯で強めに引っ掻いてやると、ひゃんっと猫のような声を上げて腰が跳ねる。
「キス……キス、して……アルフォンス」
余程くちづけが好きなのだろう。息も絶え絶えにそう言って、僕の頬へ左手を当ててくる。望みどおりにくちづけてやると、唇の隙間から短い舌を精一杯に伸ばし、こちらの舌に絡めてくる。小さな顔を両手で包み繋がりを深め、今度は僕のほうから口の中を舐め取ってやると、苦しそうな呻きを上げる。
数えきれないほどの男と夜を共にしてきたはずなのに、彼女の反応は処女のように初々しかった。きっと客の欲情を煽るために身に付けた演技なのだろうと思ったが、余裕のない様子があまりにも生々しく、敗北感を覚えながらも無我夢中で白い身体のあらゆる箇所にむしゃぶりついた。
「あっアル……ッ!アル!ひゃぁあっ!」
絶頂に至るとき、彼女は僕をまたそう呼んだ。親密さを感じてくれているのだろうかと思うと嬉しくて、彼女の中に幾度目かの精を放ったあと、覆いかぶさるようにして細い身体を抱きしめた。
「なあ……お前、家族……いるのか?」
汗ばんだ肌を重ね合わせながら息を整えていると、そのひともまた荒い呼吸の合間を縫って、そんなことを尋ねてきた。
「……います。いや、いました。勘当されましたけど」
「どうして?」
「僕が親の言うことを聞かず、夢みたいな研究の道に進んだから」
「研究?お前、研究者なのか?」
「もう違います。でも、以前はロケットの研究をしていました。宇宙にね、行ってみたかったんです」
笑われるだろうかと思ったが、金色の瞳はどこまでも真剣にこちらを見つめていた。詳しく聞きたい、という言葉に促され、僕は語り始めた。小さなころから宇宙に興味があったこと。トランシルヴァニアでロケット開発について勉強している人がいることを知り、教えを乞いたいと思ったこと。しかし息子には法律家の道を歩んでほしかった父親の猛反対を喰らい、それでも諦めきれないと言い返すと、それならお前はもう息子ではないと言われたこと。
「勘当されたのは辛かったけど、研究は楽しかったですよ。毎日仲間たちと、ああでもないこうでもないと議論して、寝る間も惜しんで図面を引いて……。あのころは本当に、いつか宇宙に行けると信じていました」
「……どうして、諦めたんだ?」
僕の首元に顔をうずめながら、そのひとはどこまでも真剣な口調で尋ねてきた。研究の話など女性には退屈なはずなのに、じっと聞き入っている様子で、やはりこのひとは変わっていると内心ひとりごちた。
「簡単な話です。あのインフレのなか、宇宙進出なんていう非現実的なプロジェクトを続ける資金もなければ、サポートしてくれるパトロンも見つけられなかった。トランシルヴァニアのあと、仲間たちとミュンヘンでなんとか研究を続けようとしましたけど、ひとり、またひとりと去って行って、結局誰もいなくなりました」
思い出す。最後のひとりから、もうやめる、と告げられたときの胸に穴が空いたような感覚。僕の他に誰もいなくなった、工場の静まりかえった空気。人生を賭けるのだと豪語していた研究がいとも簡単に破綻していくのを、僕はただ見ていることしかできなかった。希望を胸に抱いた十代の少年だった僕は夢に破れ、生きるためにベルリンへとやって来た。狂乱と退廃が支配する、この場所へ。
「……あなたは、どうなんですか?家族は?」
「いるよ。オレが修道院にいると思ってる。キャバレーで働いてるなんて母さんが聞いたら卒倒するから内緒な」
え、っと目を丸くした僕をしばらくじっと見たあと、そのひとは突然大笑いを始めた。
「冗談だよ!本気で信じるんだもんなあ。ああおかしい」
先ほどは高貴な王女のようだと思ったそのひとが、大口を開けてゲラゲラと大笑いする姿に心が萎えていく。黙っていればうっとりするほど可憐な美人なのに、このひとはどうしてこうなのだろうか。
「家族なんていないよ。天涯孤独ってやつ。母さんは小さいころに死んで、親父は失踪」
「兄弟は?」
「……弟が、いる」
さりげなくそうつぶやくと、そのひとは明後日の方向に顔を向けてしまう。
「弟さん、心配してるんじゃないですか?その……お姉さんが、あんな店で働いてたら……」
「知ったら怒るだろうな。知らせようがないけど」
「手紙だって出せるでしょう?弟さんはどこにいるんですか?」
そのひとは答えない。頑なな態度にじれったさを覚え、こめかみにかかる髪の束を指で掬うと、そのひとはぼんやりとした瞳で僕を見上げる。
「お店、辞めないんですか?この間もオーナーに叩かれたって」
「叩かれるなんてしょっちゅうだよ。鞭で打たれてないだけマシ」
「どうしてあんな店に?あなたはあんな騒がしい場所が好きなひとではないでしょう」
僕がそんな問いを投げかけると、そのひとはどこか困ったように眉根を寄せた。
「……オレもさ、ミュンヘンにいたんだ」
「え、ミュンヘンに……?」
「ああ。二年くらい親父と一緒に住んでたんだけどさ、そのうち親父が帰ってこなくなって……探してはみたけど、手掛かりもなくて。当時はインフレ真っただ中だしさ、金がなくて家賃は払えねえし、こんな手脚じゃできる仕事もなくてさ。住む場所もねぇから路地裏に座り込んでたら、今のオーナーに拾われたんだ」
「……」
「訳わかんなかったぜ、最初は。腹減ってぼーっとしてたら、突然おっさんが目の前に座り込んでじっと見てきて。なんだこいつ、と思ったら、ひょいと担ぎ上げられて家まで連れていかれた。そんで家に着いたら、床に転がされて裸にひん剥かれて、めちゃくちゃに犯されたよ。初めてだったから血は出るしさぁ、痛いのなんのって」
「……酷い」
「でもお陰で生き延びた。あのままだったら確実に野垂れ死んでたからな。そんでしばらくしたら、オーナーに連れられてベルリンに移動して、あの店で働くことになったってわけ」
「嫌じゃ、なかったんですか?あんな格好で人前に出て、娼婦みたいなことをさせられて」
僕がそう尋ねると、そのひとは「嫌なこと訊くなぁ」と、笑う。
「まあ別に、って感じかな。もともと身体を動かすのは得意だったから、演技を覚えるのもそんなに苦労しなかったし。それに、なんかもうどうでもいいっていうか……」
投げやりな言葉を吐きながら、そのひとは僕に視線を向け続ける。そのはずなのに、その瞳はどこか遠くを見つめているように、焦点が合っていない。
「別に、自分がどうなったっていいんだ。願いが叶わないとわかってから、自分が生きてんのか死んでんのかも、よくわからねぇし」
「……願い?」
そのひとは答えなかった。代わりに僕の頬に手を伸ばすと、金色の瞳を細めてほほえみを浮かべる。その顔が今にも泣き出しそうに見えて、心臓がどくりと音を立てる。
「ミュンヘンにいるとき、お前と出会えてたら……」
自分自身へ語りかけるような、ささやき。決して叶わぬ夢物語に想いを馳せながら、たどたどしく指を動かし、頬の感触を確かめてくる。
「違ったんだろうなあ。色々と」
前 / 次