翌日もまた目がくらむほどの晴天で、開け放した窓からすべり込んだ風が、そよそよとカーテンを揺らしていた。
その心地よさに心が浮き立ったのか、それとも寝ていることに飽きたのか、少女はしきりに外へ行きたいと言って駄々をこねた。
弟は困った様子で、私に少女の服はどこかと尋ねた。洗濯して乾かした二人分の服を渡してやり、しばらく書斎で本を読んでいると、そのうち姉がはしゃぎながら弟を外へ連れ出す声が聞こえた。
私の書斎からは、家の前に広がる丘がよく見える。ふたりは草原に座り込んで花を集め、弟がそれで花冠を編んでやっているようだった。楽しそうにけらけらと笑う姉の膝の上で、例の鎧の頭部が太陽の光を反射し、鈍い色を放っている。
しばらくして私も外へ出てみると、少女は杖をついて木のほうまで歩いて行き、鳥の巣を嬉しそうに眺めているところだった。丈の長いワンピースから覗く左足もまた機械でできており、棒かなにかと見紛うほどに痩せた右脚との不釣り合いが、軽い眩暈を呼び起こす。わずかな躊躇いを覚えながらも、すこし距離を取って姉の様子を見守る弟の隣に立つと、弟は私のほうを向き会釈した。
「ボクたちの故郷も自然が豊かだったので、あんな風に鳥があちこちに巣を作っていました。姉さんも、それをなんとなく覚えているんだと思います」
どこかさびしそうにそう言うと、金色のまつ毛に縁取られた瞼をわずかに下ろす。そこに宿るのは慈しみだけではなく、なにか仄暗い翳めいたものも混ざっているように思えた。
「……気になりますか?あの鎧」
そんなこちらの心情を察したように、少年はつぶやく。私が答えずにいると、これまでの冷静で穏やかな様子を投げ捨てるように、失笑をもらす。
「あんな忌々しいもの、早く手放してくれればいいんですけど」
冷たくそう言い放ちながら、視線を姉が右腕に抱く鎧の頭部に、注ぐ。
「……あれも、例の〈事故〉に関係しているのかな?」
差し出がましいと思いながらも、好奇心を抑えきれず問うと、少年は相も変わらず冷ややかな声で、「そうですね」と言葉を返した。
「あれ自体が原因ではありませんが、あのひとがあんな風になったのは、あれに関わることが理由です」
「それは、お姉さんの手脚にも関わることで……?」
少年は答えない。そのまま事のあらましを語ってくれるのではないかと期待していた私は、少なからず落胆しながらも、諦めきれずに答えを待ち続ける。私たちが自分の話をしているとは露知らず、木漏れ日に頬を染めた少女が、向こうの木の下から無邪気に弟の名を呼び、手招いている。
「あのひとはもう、覚えていません。なにがあったのかも、どうしてあんな身体になったのかも」
無邪気に手を振る姉を見つめながら、少年はささやく。意図的に論点をずらした言葉が、風に煽られ吹き消えてゆく。
「……でも、お姉さんは幸せそうだ」
沈黙にもどかしさを覚えそう返すと、少年はあからさまな失笑を漏らし、「そうでしょうか?」と問い返してきた。幼い風貌には似つかわしくない、挑むような表情に気圧され、思わずたじろいでしまう。
少女がよく通る声で、アル―ッと再び弟を呼ぶ。そこに宿った焦燥と不安を感じ取ったのか、弟は「すみません、行ってあげないと」と言い残すと、足早に姉のほうへと去っていった。
その晩、姉が寝静まったあと、少年は明日発つと私に告げ、ここ数日世話になったことへの礼を述べた。少女の容態も安定しているようだから申し出を了承し、せっかくだからと話でもとハーブティーを淹れてやると、少年はレモンバームの葉のお茶は久しぶりだと言い、嬉しそうにカップを受け取った。
「本当にお世話になりました。姉さんの調子が悪かったのでお医者さまを探していたんですけど、探しているうちにどんどん人里から遠ざかってしまって」
昼間に見せた鋭さが嘘だったかのように、やわらかな頬にあどけなさだけを滲ませて、少年はほほえむ。姉は昼間に散々外で遊んではしゃいだ疲れからか、とっくの昔にベッドに入って眠っていた。その腕にはやはり、例の鎧の頭部が抱かれている。
「……お姉さんのことだけれど」
医者としての責任感に駆られ思い切って話を切り出すと、少年はどこか予期していた様子でカップを置き、私に視線を向けた。
「恐らくあと二か月ほどで、出産を迎えるだろう。君たちは旅をしているようだけれど、故郷はあるのかい?落ち着いて出産に臨める場所は?」
「ありません」
まるでそれがごく当たり前のことであるかのように、少年は言い切った。私が困惑の声を漏らしても、一切動じる様子はない。
「それは……問題なんじゃないかな。まさか自分で取り上げようだなんて思っているんじゃないだろうね?専門医が立ち会った場合ですら、母体にも胎児にも命の危険が生じる可能性がある。出産はそれほど危険なことなんだ。それを素人が自分たちでやるだなんて……」
「ご安心ください。こう見えて、多少は医学の知識がありますから。それに、外にさえ出てくれればいいんです。未熟児だろうか奇形だろうが、命を持った状態で、外にさえ出てきてくれれば」
なにを、言っているのだろう。あまりにも不可解な発言に言葉を失っていると、少年はふいに私へ向けてほほえんだ。それは一見穏やかでありながら、底知れないなにかを宿した笑みだった。
「昼間、先生はおっしゃいましたね。姉さんが幸せそうに見えるって」
ああ、と返した言葉が掠れてしまい、自分のうちに生じているものが、おぼろな恐怖心であることに気付いた。あたかもそれを見透かしたかのように、少年は金色の瞳で、私を射抜く。
「きっと、そうでしょうね。だって姉さんは、なにも覚えていないんですから。自分が犯した罪のことも、その代償のことも」
罪、代償――。口慣れた様子で吐き出された言葉たちは、甘く幼い声に乗せるにはあまりにも重い響きを持っている。
「……君たちは一体、なにをしたと言うんだい?」
「あなたと同じようなことですよ。あなたがかつて犯した過ちと」
え、と情けなくたじろいだ私を見つめる少年は、すこしも表情を変えない。まったく予期しなかった返答に、いきなり首元にへナイフを突きつけられたかのごとく、全身から体温が引き去ってゆく。動揺するこちらの心さえも透かし見るような金色の瞳は、冷徹なほどの純度を湛えている。
「ボクたちはね、命を軽んじたんです。なにものにも代えがたいほど貴いものを、代価さえ支払えば手に入れられると勘違いしてしまった。それがボクたちの、罪の起源です」
先生だって同じでしょう、と少年は目を細める。笑っているのかどうかもわからないその瞳に囚われ、背中に冷たい汗が浮かび上がる。
「だからその罪を清算するべく、ボクたちはできる限りのことをした。でもね、それもまた間違いだったんですよ。失ったものを別のなにかで埋め合わせようとしても、そこにはまたなにかしらの欠落が生じる。その繰り返しです。一度、決定的になにかを欠いてしまった人間はね、もうなにも大切なものを失わずに、なにかを得ることなんてできないんです」
弟の声が聞こえたのか、ベッドの上の姉が、アル、と弟を呼び寝返りを打つ。少年はすぐさま振り返り、姉がまだ眠っていることを確認すると、安心した様子で息を吐き、再び私へ顔を向ける。
「……姉さんは、いま夢を見ているような状態です。ボクたちが失ったものも、その原因となった〈事故〉のこともすべて忘れて、ふわふわとまどろんでいるんです。だからきっと、姉さんのことを想うなら、このままにしておいてあげたほうがいいんでしょう」
独り言じみた口調でそうつぶやくと、少年はカップを持ち上げ、ハーブティーに口を付ける。
「……でも、それならボクはどうなるんですか。ボクはあのすべてを、決して忘れられないというのに」
勝手ですよね、と自嘲気味にこぼして、再びカップをテーブルへ置く。すっかり冷めてしまったそれからは、もう湯気は立ちのぼっていない。
「あれは……ボクたちの代価です」
やがて、沈黙の底をなでるような声で、少年はつぶやいた。
「欠落を埋め合わせるには、代価を用意しなければならない。けれどボクたちはこれ以上、なにも失うことなんてできない。だから……新たな代価を生み出すしかなかったんです」
そこに宿る意味が、とてつもなく恐ろしいものであることを察しながら、私にはそれを安易に咎めることはできなかった。自分にはその資格などないことを理解していたし、なによりも、少年の纏う人間離れした雰囲気に呑まれ、諫める気などとても起こらなかった。
長い空白のあと、ごちそうさまでした、と言って立ち上がった少年は、カップを自ら洗うべく手に取って、炊事場のほうへ向かおうとした。
「お姉さんの……あのお腹にいる子の父親は、一体……」
それでも意地のようなもので、なんとか最後の問いを投げかけると、少年は足を止めた。そしてこちらを振り返ると、薄闇の中でも妖しく光る金色の目を細めて、ほほえんだ。
その笑みを見た途端、私は問いの答えを理解し、それ以上なにも言葉を紡ぐことはできなくなった。
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