Unforgettable
昼過ぎから降りはじめた雨は、夕方へ近づくにつれ強さを増し、陽が落ちるころには土砂降りになっていた。連日外に出ていたせいで書類仕事がたまっており、男はこめかみが重くなってゆくのを感じながら、積み重ねられた一枚一枚に目を通していた。
執務室の厚いカーテンの後ろで、窓を叩く雨だれの音が大きくなってゆく。家を徒歩圏内に借りてはいるが、このままだと帰るのも困難になりそうな様子であるため、そろそろ切り上げようと考えていたとき、執務室の扉を叩く音がした。
「入りたまえ」
顔も上げずにそう言うと、手持ちの部下にしては随分幼く、かつぞんざいな口調で、失礼しまーす、という声が聞こえた。目を向けると、そこには予想どおり見慣れた真紅のコートを纏う少年の姿があった。
「大佐だけ?他のみんなは?」
「……雨が酷いから定時で帰した。なんだね、こんな時間に。もう七時近いぞ」
「いや、大佐ならこんな時間でもここに居っかなって」
以前よりもずっと打ち解けてはいるが、それでも変わらず目を合わそうとしないまま、少年はソファへ腰を下ろす。コートの裾からカーペットへ雫が滴り落ち、雨の中を歩いてきたのは明白だった。
「鋼の、一体どうした」
「……アルと、喧嘩した」
思いもかけない言葉を発すると、少年は濡れそぼった髪が貼りつく顔をゆっくりと床へ向けた。
「ここ半年ずっと調べてたことが、結局無駄骨でさ……。そしたらあいつが、鎧姿の自分とは違って、オレは普通に生きていけるんだからそうしたらいいのに、なんて言うから……。馬鹿言うな、って怒ったら、本当のことだって言い返してきて……」
少年の声はいつもの快活な響きを欠いており、そこから後は雨音にかき消されて男の耳に届かないほどだった。これまで決して弱ったところを見せようとしなかった子どもが、あからさまに落ち込んでいる様子に内心どうすればいいかわからず、男はしばらくその姿を見つめていた。
「なあ大佐……。今日、この執務室に泊まっちゃダメ……?」
予想外の頼みに絶句したが、少年は普段のように、冗談だってば、と笑うこともしない。
「頼むよ。今日はちょっとさ、アルのところには戻れない」
頼む、ともう一度繰り返し、少年は両手で顔を覆ってしまう。静けさが戻った部屋に、ぽつ、ぽつ、と雫が落ちる音だけが、響く。
玄関扉の鍵を開け、入るようにと促すと、少年は大人しく家の中へと足を踏み入れた。この子どもが自分の言うことを素直に聞くのは初めてではないだろうかと考えながら灯りを点けると、少年はゆっくりと辺りを見渡した。
「バスルームは右手だ。タオルを出すから、まずはシャワーを浴びて着替えてしまいなさい」
少年はまた大人しくうなずくと、とぼとぼとバスルームへ向かってゆく。一歩ごとに絨毯に垂れる水滴の轍を見つめながら、何故あんなことを言ってしまったのかと、今さらながらに自分を責めたくなる。
——私の家に泊まるか?
そう問うと、少年は跳ねるように顔を上げ、もともと大ぶりな瞳をさらに見開いた。そして消え入りそうな声で、うん、と返すと、惨めな自分自身を嘲るみたいに、力なく笑ってみせた。
胸の内にあったのは、後見人としての責任感や、ずぶ濡れの子どもひとりを暗い執務室に残して帰ることへの罪悪感であるはずだった。しかし、嫌われている自分が誘ったところで、まさか本当に大人しくついてくるとも思っていなかったこともあり、どこかやましい気持ちが胸を支配していた。
「なあ……他に服ない?」
先にリビングのソファに座り、戸惑いを誤魔化すためにロックのウィスキーを煽っていると、シャワーを終えた少年が気まずそうに言いながら部屋へと入ってきた。予想はしていたが、服のサイズが相当合わないらしく、シャツの裾が膝まで届いているし、ズボンに至っては諦めたようで履いてもいない。だらしない格好をするなと叱りたいところだが、叱ったところで代わりを用意できるわけでもないし、ただでさえしょげている子どもを叱るほど冷徹でもない。
「大佐、それなに?なに飲んでんの?」
濡れた髪をタオルで拭き、ソファの端に腰かけながら少年は問うてくる。同じ軍人と言えども、子どもの前で酒はまずかっただろうかと考えていると、少年は平然と「それ、オレにもくれない?」と手を伸ばしてきた。
未成年に酒など飲ませられないとどれだけ言っても、大丈夫だと言って聞かないものだから、氷を多めに入れて一杯作り、クリスタルグラスを手渡してやると、少年はあたかもフルーツジュースでも飲むかのように、中身を一気に飲み干した。
「こら、鋼の!ゆっくり飲め!」
相当刺激が強かったのか、少年は喉元へ手を当てて顔をしかめると、グラスをソファ前のローテーブルへと置いた。
「……喉いてぇ。大佐、なんでこんな消毒液みたいなもん飲んでんの……」
「これはそんな風に一気に飲むものじゃない。今水を持ってきてやるから……」
新しいグラスに水を入れて戻ると、少年は軽い咳を繰り返していた。ソファに腰かけながら水を渡してやると、先ほどのように一気に喉へ流し込む。
「まったく……馬鹿なのかね、君は」
「馬鹿、かあ……」
いつもよりざらついた声でそんな言葉を吐いた少年は、ソファの肘掛けに足を乗せて横たわると、クラクラすると言って機械の腕で目を覆った。
「……なあ大佐」
シャツの裾から、左脚の義足が露わになっている。まだ若々しく張りのある肌がケロイド状に焼け爛れ、その傷へ食らいつくように、仰々しい機械の脚が接合されている。
「みんなオレのこと、天才だなんて言うけど……本当は馬鹿なんだ……オレ」
禁忌を犯し、失った腕と脚。それを補う機械は、本来生きる希望を与えるものであるはずなのに、この小さな身体に繋ぎ合わされたそれらは、酷く重たい枷に見える。
「アルをあんな姿にした上に、あんなことまで言わせて。オレさ……多分もう、なにしたって赦されないんだ……」
オレは罪びとだから。
胸底へ貼りついた想いを削り取るように、かすれた声でささやいて、少年は諦めの息を吐く。その姿は幼い見た目に反して酷くくたびれていて、子どもの姿のまま何百年も生き続けてきた妖魔かなにかのようにすら見えた。
もう数年の付き合いだから、この子どものことはある程度知っている自負があった。とにかく頭が切れるがゆえに、人より多くのものに気付いてしまう子ども。そしてそれを知らなかった振りができるほど、無情にも無責任にもなれない子。世間は少年を天才と呼び、その才能を羨むが、男からしてみれば、少年の才能は祝福であると同時に呪いであるように思えた。何故ならこの子どもは、決してすべてを背負い切れるような、鋼鉄の心を持っているわけではなかったからだ。
「なあ……大佐はさ、なにか罪を犯したこと、ある?」
あたかも男の思考を読んだかのごとく、少年はそうつぶやいた。その声はこれまで聞いたことがないほど弱々しく、男が聞き慣れたものとはまるで違っていた。
「誰かと喧嘩して殴り合ったとか、報告書をちょっと誤魔化したとか、そういうんじゃなくてさ……もっと取り返しのつかない……絶対に赦されないような罪を背負ったこと……あんたはある?」
ねえ、と縋るように発せられるそれは、問いというよりも懇願だった。どうか自分だけを暗い場所へ置いておかないでほしいと、どうかここへ来て、お前だけが汚れているわけじゃないと言って、赦しを与えてほしいという、それは子どもの甘えだった。
普段のこの子なら絶対に晒しはしない幼稚な弱さ。それを目の当たりにし、この子どもがどれだけ危うい状態で日々を生きているのか、改めて理解する。すこしでも均衡が崩れれば、あっけなく崩壊してしまうものを内に抱え、気力だけで前に進もうとする。その姿に、封じ込めたはずの過去の自分が、重なった気がした。
ふいに思い立つと、男はソファから立ち上がって窓際へ向かい、アンティークの飾り台の前で足を止めた。その上に置かれているのは、すでにレコードがセットされた、古めかしい蓄音機だった。側面に備わるハンドルを回しゼンマイを巻くと、回り始めたレコードに針を落とす。
「……なに、この曲?」
しばしの無音のあと、ゆったりと流れ始めた音楽に耳をすませ、少年はつぶやいた。
ほほえみを思わせる穏やかな声で情感たっぷりに歌う、低く深い男性の声。それに続き、ピアノに似た楽器の音と、弦楽器の流れるような旋律が部屋に響き渡る。
「気に入らないか?士官学校時代のルームメイトが好きだった曲でね。昔の恋人を思い出すなどと言って、酒に酔うとこればかり繰り返し歌うものだから、私はよくうんざりしていた」
「へぇ……。あんた、友達なんていたんだ」
先ほどとは打って変わって生意気な言葉を吐くと、少年はアルコールで火照った顔を動かし、視線を向けてきた。
「そいつ、今でも軍にいんの?オレの会ったことある奴?」
「いや……死んだよ。イシュヴァールで」
少年が息を呑むのを感じながら、男は手に持ったグラスへ口を付けると、冷えた飴色の液体を喉へと流し込む。温度を欠いた空気のなか、歌手は笑みを宿した声で歌い続ける。——忘れ得ぬ人、それがあなた。忘れ得ぬ人、近くても、遠くても——……。
「国家錬金術師の試験に落ちたあいつは、一兵卒として戦争に赴いた。私の隊に入り、ずっとそばで戦っていたが、終戦も間近に迫ったころ、戦死した。いや……私を庇おうと、敵と私の間に躍り出たところを、私が焼いた。この手で」
指先に残る、あの感触。反射的に打ち鳴らした指先。目の前で燃え上がる友の身体。
すでに制圧したと思っていた敵のアジトで、自分たちを待ち構え身を潜めていたスナイパーが発した弾丸。大量虐殺を繰り返す国家錬金術師を狙う敵に気付き、男の前に躍り出た兵は、弾丸を腕に受け肩から先を吹っ飛ばされた。肉と血をまき散らしながら、兵は背後の友に向け、叫んだ。今だ、やれ、マスタング——……。
まだ生きていた仲間を焼いたことは、敵を殲滅するために必要な行為だったとして、罪には問われなかった。かつて人間だったこともわからぬほど黒く焦げた息子の死体を受け取った母親も、ただ「戦死した」とだけ告げられた。
「彼だけじゃない。多くの学友や、仲間が死んでいった。敵も……たくさん殺した」
いつまでも、忘れることはない。指先にこびりついた煙のにおい。そこかしこから立ちのぼる、肉が焼けるにおい。
地面に転がる焼け焦げた死体は、どれが味方でどれが敵だったかも、もうわからなかった。ただ指先を打ち鳴らし火花を散らせば、すべての有機物が塵芥と化し、地に還っていった。
自己満足と偽善に満ちた、弔い火。そんなものを灯したところで、ただひとつの魂すら救えないとわかっていても、最初はやらなければ眠ることすらできなかった。右に居たか左に居たか、戦場ではそんな些細な違いだけで、喪われる命と生き残る命が選別されてゆく。そんな命のあっけなさに慣れ切ったころには、弔い火を灯す必要すらなくなり、ただ黙々と指示された場所を焼いていくようになっていた。
「それが……あんたの罪?」
少年の問いに、男は言葉を返さなかった。代わりに終わってしまったレコードにもう一度針を落とせば、同じ曲がもう一度始まる。——忘れ得ぬ人。耳について離れない愛の歌のように。あなたへの想いが、この胸を強く掻きたてる。これまで出会った誰よりも、ずっと——……。
「本来はラブソングだがね、私はこれを聴くと、あの戦争で喪われた命を思い出してしまう。死んでいった者も、この手で殺した者も、みんな」
いつまでも脳裏にこびりついて、決して消えていってはくれない者たち。周囲を満たす爆煙が晴れるにつれ、この目に飛び込んできた黒焦げの死体。親を亡くして泣く子どもたちと、身体の一部を失くして痛みに呻く仲間たち。
「あんたも……赦されたいのか?」
少年の放った問いが、穏やかな音楽にとけこんで、胸へと流れこんでくる。本来傷を抉るはずであるそれは、不思議と痛みを生じさせはしなかった。
「そうだな……。赦されたいよ」
促されるまま、男は口にした。今まで誰にも共有したことのない、共有することも許されないと思っていた、願望を。
「けれど、私を赦す権限を持つ者たちは、もうみんな死んでしまった。だから私は、永遠に赦されはしないのだよ」
男の返答を聞き、少年は痛まし気に目を細めた。まるで鏡に映った自分自身を見るかのように、どこまでも偽りのない眼差しを、初めて男へ向けた。
その金色は、男の中に記憶を呼び起こした。いつか受け取った、少年からの初めての手紙。子どもらしからぬ大人びた筆跡で、少年は書いていた。弟の身体をもとに戻したい。弟の失ったものすべてを取り戻したい。そのためなら自分は、どんなつらいことにも耐えてみせると。自分の失った手脚には一度も言及することなく、ただ弟を、と。
その手紙を読んだとき脳裏に甦ったのは、戦場から戻ったあとの自分の姿だった。爆発音や土埃とは無縁の安穏とした日々を取り戻したにもかかわらず、頭の中は残響に支配されていた。それは自ら放った焔が、敵の基地を吹き飛ばす音。生きたまま焼かれる少年兵の叫び声。命令で指を掛けた銃の発砲音。そして、男を信じ、自らの命を犠牲にした友の声——……。あれらをすべてなかったことにできるなら、なんだって犠牲にしようと思った。しかしなにを捧げたところで、あのなかのひとつとして取り戻すことは叶わない。なによりも圧倒的なその事実が、渇望する赦しの前へ残酷に立ちふさがり、今も変わらずそこにある。
そう、だからこそ、自分はこの少年に惹かれたのだろう。あの日、禁忌に手を染め、手脚を失う大怪我を負った状態で、寝台に横たわっていたこの少年に。きっと、この子どもはまだ取り戻せるだろうと。自分とは違い、この子はまだ、希望を追い求めることができるだろう、と。だからこそ——……。
「私には、君を赦してやることができない」
突然放たれた男の言葉に、少年は目をわずかに見開いた。そこにあるのは、縋りついた大人に払いのけられた幼子を思わせる、無防備な瞳だった。
「私には、その権利がない。君が罪を贖うべき相手は私ではないから。だが私は……君が赦されることを、望んでいる」
なんとずるいのだろうと、男は胸の中で自らを嘲笑した。あまりにも卑劣な大人。自分の出来なかったことを赤の他人、しかも子どもに託そうとするなど、筋違いにもほどがある。しかし、もしもこの子どもが、この苦しい旅路の果てに、すべての罪から解き放たれることができたなら——……。
「だから嫌なんだよ……あんた」
突然、感傷を引き千切るほどに剣のある口調で、少年は言い放った。男が見やると、そこには先ほどまでの弱り切った様子ではなく、怒りのこもった目を向けてくる少年の姿があった。
「あんたがそうやって、勝手に期待、するから……。信じるような目で、オレを見るから……」
シャツ一枚に包まれた少年の小さな身体は、細かな震えを繰り返していた。脆弱な印象を与えてくるその姿に反し、金色の瞳は精一杯の敵意を込めて、こちらを睨み続けている。
「……鋼の」
「あんたさ……いつかオレに聞いたよな?オレが、あんたのなにに怯えてるのかって」
少年の言葉には、心当たりがあった。あれは初めてふたりで食事へ行った日。恐れを隠そうとするかのように、あからさまな敵意を剥き出しにしていたこの子どもへ、何気なくかけた言葉。
「その目だよ。あんたが、オレを見るときの目……。まるでオレが綺麗なものみたいに……眩しいものみたいに、オレを見てくる、その目……!」
震える声で叫び、両拳を瞳へ押し当てる。取り乱したその姿は、歪ながらもなんとか均衡を保っていたなにかが、ついに崩壊を迎えたように見えた。
「そんな目でオレを見るなよ!オレがなにをしたか……オレがどれだけ罪深いか、知ってるくせに……!それなのに……オレのこと……まるで、信じてるみたいに……」
少年は膝を抱えると、膝頭へ瞼を押し付けた。少女のような金色の長い髪がはらりと落ち、横顔すらも覆い隠してしまう。
鋼の、と呼んでも、少年は顔を上げはしなかった。男が手に持っていたグラスをソファ前のローテーブルに置き、少年の隣に腰かけると、かすかな嗚咽が聞こえてきた。この子どもの泣き声を聞くのは、数年前に起こった猟奇殺人事件に、この子が巻き込まれたとき以来だった。
鋼の、ともういちど呼ぼうとして、男は口を噤んだ。代わりに、金色の髪に覆われた少年の頭へ手を乗せると、エドワード、と呼んだ。
少年は答えなかった。代わりに、重心をゆっくり前に動かすと、頭部にふれる手に促されるまま、男の胸へ額を預けた。
部屋にはまだ、蓄音機から流れ出す深く艶やかな歌声が響いていた。遠い過去に置いてきた誰かを、瞼の裏に思い浮かべるように。決して色褪せはしない記憶に、そっとやさしいくちづけを落とすように。——忘れ得ぬ人、それがあなた。忘れ得ぬ人、近くても、遠くても——……。
少年が男の前で涙を見せたのは、それが最後だった。
数年後、男と少年はそれぞれの道を行くべく別れの握手を交わし——そして少年は行方知れずとなった。罪の代価として失った、弟の肉体を取り戻して。
誰もが少年の死を悟り、悲し気に目を伏せるなか、男は不思議と少年の生存を信じていた。それは願望よりも心許ない、ただの予感めいたものであり、誰に語ることもしなかったが、男はその予感を小さなかがり火として、胸の中に秘めていた。
そしてあの日——男は再び、少年と巡り会った。すでに青年と呼ぶにふさわしいほど大人びてはいたが、いたずらっぽく笑う金色の双眸は、子どものときのまま、眩い輝きを宿していた。
ほんの束の間の、邂逅。最後に視線が交わったとき、少年はあの瞳を再びゆるめ、男へ向けてほほえんで見せた。弟を、この世界を頼む、と言うように。そして男に、これまで口にできなかったあらゆる想いを、届けようとするかのように。
そのまなざしを見て、男は悟った。
ああこの子はやっと、赦されたのだろう。自らの手でその身を縛りつけていた罪の鎖から、自分自身を解き放つことを、やっと自分に赦せたのだろう、と。
男にはもう、少年の辿る物語の続きはわからない。ただの偶然から発した出会いで、ほんの数年道を交えたあの子どもの行く先を知る術は、ない。
男は今でも、あの曲を聴いている。時代遅れの蓄音機にセットした黒いレコードへ、針を落として。かつて、自分の犯した数多の罪を呼び起こしたその曲は、今ではひとりの少年の姿を、瞼の裏に映し出す。誰よりも傷だらけで、誰よりも純粋だったあの姿を。苦しみの海の中でもがきながら、それでも決して潰えることのなかったあのきらめきを。矛盾と不義で満たされたこの不完全な世界で、この胸にもう一度焔を灯し、信じる力を与えてくれた、ただひとつの綺麗なもの。
——忘れられない、どうしたって。そして君は、ずっとこうしてこの胸に留まり続けるだろう——……。
レコードは回る。決して赦されるはずのない自分に救いを与えてくれた、ただひとりの姿を、彼と過ごしたあの日々を、描き出しながら。
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